沖縄県営平和祈念公園
公園・植物園
3.98
沖縄県営平和祈念公園 クチコミ・アクセス・周辺情報
糸満・ひめゆり 観光 満足度ランキング 2位
沖縄戦終焉の地となった摩文仁の地にある県営公園。園内に建設された沖縄県平和祈念資料館・敵味方の区別なく沖縄戦で戦死した23万余の犠牲者の名を刻んだ平和の礎・国立戦没者墓苑がある。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
広々とした 沖縄県営平和祈念公園
4.0
- 旅行時期 2023/05
- by Tom Sawyerさん
沖縄バスの南部戦跡バスツアーに参加申込みをして、沖縄県立平和祈念公園に行くことできました。 レンタカーを借りないとなかな... 続きを読むか訪問するのは難しくと思います。 海沿いで広大な敷地です。 巡回バス100円で乗れるので、歩くのがイヤな場合は利用すると良いと思います。 平和の礎・国立戦没者墓苑は。沖縄戦戦没者の方のお名前が日本人外国人にかかわらず、全員載っているとのこと。 検索機能の機械も設置されています。 閉じる
クチコミ・評判 13ページ目
241~260件(全469件中)
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石川県所縁の将兵の御霊を祀っています。【黒百合の塔】
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 10
摩文仁の丘慰霊碑群の頂上手前にある?黒百合の塔?は、石川県ご出身で第二次世界大戦に於ける沖縄戦戦没者901名と南方諸地域戦... 続きを読む没者168名の1,069名を合祀し、昭和37(1962)年11月7日に建立された都道府県別慰霊碑のひとつです。
石川県の霊峰白山に咲く高山植物?黒百合?から命名されたこの黒百合の塔、昭和37(1962)年5月に石川県町村議会議長会一行の沖縄視察同地で県出身者の戦没者慰霊式を挙行したことをきっかけとして戦没者慰霊塔の建設が提起されました。他の都道府県別慰霊塔は建立の声が出てから時間が掛かっているものが多い中で、この黒百合の塔は約半年で完成しています。
短期間で提起から建立までが終わったことも関係するのか、慰霊塔の造りには少し粗っぽいところが見られるように思いました。石川県と書かれた石碑の隣にある?建立の由来?は、手書き感が溢れていました。とはいえ粗っぽい造りゆえ手を抜いているのではなく、むしろ他の慰霊碑にはない特徴を出しており、それが参拝者の目を惹くひとつの理由になっているのかも知れません。
慰霊塔正面には壕がありました。これがどんなものなのかは由来が書かれていないためわかりませんでしたが、やはり慰霊塔の敷地内にあることからなにがしらのゆかりのあるもののようにも思えます。決して広くはない敷地内にあるものの数々にはやはり慰霊の想いを感じました。 閉じる投稿日:2016/06/13
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碑文に終わらない戦争を窺い知ることができます。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 11
摩文仁の丘慰霊碑群の頂上付近にある?樺太の碑?は、樺太ご出身の沖縄戦戦没者2,000余名を祀って昭和62(1987)年7月... 続きを読むに建立されました。
樺太ご出身者は北海道旭川にて設立された第24師団第89連隊やその他部隊に配属されますが、多くは史上稀に見る地上戦が行われた沖縄の地で玉砕されました。都道府県別慰霊塔として北海道の?北霊碑?は米須霊域に建立はされているものの、樺太所縁の戦没者は合祀されるのかどうかという問題もあったようで、結果として摩文仁の丘に?個人の手?によって建立されました。
決して大きくはなく、また際立った特徴もないためそれ程目立つものではありませんが、この樺太の塔建立碑文にはまだ終わらぬ戦争が書かれていました。戦後40年の月日が過ぎようとする中でやっと建立に至った経緯には、どうしても故郷樺太に慰霊塔を建立できなかったことが書かれています。もうひとつの?熾烈な地上戦?に挙げられる戦後の樺太戦に於いて、樺太島自体がソ連に占領されたことに起因します。つまり故郷がなくなってしまったということになります。
戦争により外地に於いて植民地化支配をしたことは日本軍もやったことには間違いありません。そして敗戦を機に解放され、現在では独立国家となっているのが事実です。しかしこれには過程があり、ポツダム宣言の受諾によって無条件降伏を受け入れた日本は、GHQより植民地支配していた外地の領土の政治的・行政的権限の行使の中止を通告されます。結果として日本の植民地となっていたエリアは解放されるものの、その後昭和27(1952)年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で?連合国と日本の戦闘状態の終結?と?国民主権の回復?が決定され、同時に?領土の放棄または信託統治への移管?が宣言される中で、講和条約にサインしなかったソ連には講和条約に定める?領土の放棄?が該当しないという説があります。つまり日本は(南)樺太の?全ての権利、権原及び請求権?を放棄したもののそれに対しソ連が?調印しなかったこと?により、所有権そのものが今なお宙に浮いている状態であるという解釈です。
領土問題について今は語る場所ではないので割愛しますが、本来なら故郷に建立されるべき慰霊塔が諸々の理由によって不可能であり、現在の地に決められたとの経緯には、やはり戦争によって翻弄された戦没者が40余年経った建立された時代にも安住の場所が決まらなかった?時代背景?があるように思えました。碑の造りはともかく、今なお続く戦争の影を伝える貴重な慰霊塔ひとつのように思えました。 閉じる投稿日:2016/06/13
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最初はなぜこんな造りなのかと感じます。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 10
摩文仁の丘を登り切った場所付近にある?安らかに?は、鹿児島県のご出身で沖縄戦で亡くなられた戦没者と富山丸事件での犠牲者を合... 続きを読むわせた2,582名を合祀した都道府県別慰霊塔のひとつで昭和39(1964)年11月21日に建立されました。
塔名である?安らかに?は公募で寄せられた一高校生の当選作を採用し、主碑は鹿児島の古い言葉の?人をもって城となす?から飾り気のない質実剛健な気風を具現し、それに高千穂峰から採取された霊石を埋め込むことによって、永遠に安らかにと祈る気持ちを表しています。
この?安らかに?の碑をぱっと見ると、なぜ割れた石を繋ぐようにしたのか?不思議な感じがします。しかしこれにも抽象化した?願い?が込められており、戦争の惨禍によってお互いがずたずたに切り離されても、故郷を遠く離れて亡くなられた戦没者と後に残った県民の間には断つことのできない絆があることを表現しているとのことでした。
一説にはこの?安らかに?の慰霊塔の建立場所には、鹿児島県ご出身の第32軍司令官牛島満大将の影響だと言う方もおられます。本当かどうかは定かではないものの、立地よりその表現するものをとりたいと思います。斬新なデザインゆえ賛否両論はあるようにも思えますが、なしつぶての理由ではなく、碑文にも書かれているその想いにしばらく碑を見つめながらしばらく考え込んでいた私がいました。 閉じる投稿日:2016/06/13
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山口県ご出身の戦没者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 9
摩文仁の丘中腹部に位置する防長英霊の塔は、山口県のご出身で沖縄戦戦没者1,043名を御霊を祀る目的で昭和41(1966)年... 続きを読む11月6日に建立されました。その後昭和51(1976)年の塔建立10周年を迎えるにあたり、南方諸地域で戦没された23,404名の御霊を合祀し、合わせて24,447名の御霊を祀って現在に至ります。
この防長英霊の塔には、細かな戦地の様子が書かれており、南方諸地域では?本土から補給が途絶え弾薬も尽き悪疫と闘いながら勇戦奮闘されて散華された?と。また沖縄戦では?本土防衛の第一線となり、昭和20年3月25日以降80余日にわたり凄惨苛烈な戦が続けられ、その結果沖縄の大半は焦土と化し、軍人軍属をはじめ一般住民の方々22万名(本県出身者1,043名)が尊い犠牲となられた?との碑文にありました。これは改修されたときに碑文を一部変えられたのだろうとは思います。沖縄戦に於いて沖縄県民の犠牲について記述しているものはないと聞いていたので。
校倉造りを取り入れられたことには、あまり山口県とは結びつかないようにも思えます。しかし塔内にはご遺族の心が託された愛情あふれる郷土の霊石・遺品が納められ、それも含めて一体化している防長英霊の塔には、やはり戦没者をいにしえよりの校倉造りの塔に祀り、そして敬うという気持ちが間違いなく一観光客にも伝わってきました。 閉じる投稿日:2016/06/12
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佐賀県ご出身の戦没者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 9
摩文仁の丘慰霊碑群の中腹に位置するはがくれの塔は、佐賀県ご出身の沖縄戦戦没者914名を含む南方諸地域戦没者28,000余名... 続きを読むを祀る都道府県別慰霊塔のひとつで、昭和40(1965)年10月17日に建立されました。
塔名の?はがくれ?は江戸時代、佐賀鍋島藩の武士の修養書「葉隠」にちなんだものから名付けられています。塔の命名には想いを感じさせますが、塔の作りは地物産の名石を用いているものの至ってシンプルな作りとなっています。
数多くの慰霊塔が立ち並ぶ中で、このシンプルさゆえ記憶に残るものとなっています。凝った作りだけが脳じゃないことを示している・・・そんな風に感じました。 閉じる投稿日:2016/06/12
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長崎県ご出身の戦没者35,000余名を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘慰霊碑群の中央付近に位置する?鎮魂 長崎の碑?は、沖縄戦1,594名を含む第二次世界大戦で戦没された長崎県ご出身... 続きを読むの35,000余名を祀って昭和41(1966)年9月に建立された都道府県慰霊塔のひとつです。
碑石は長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現西海市)雷の浦の蛇紋石を沖縄産の礎石の上に建立されており、遺族から提供を受けた35,000余りの霊石を礎として作られています。
見た感じ少し碑石が浮いているように見えましたがこれには謂れがあり、故郷を離れて戦没された御霊を慰めるように、長崎県の方向、そして故郷への思慕の気持ちを表現していると書かれていました。
参拝者の便宜を図っての造りではないでしょうが、都道府県別慰霊塔の中では歴史あるものの分類に入るものの、アワ石コンクリートを敷き詰めた参道は、ご遺族の高齢化を見越して作られているようにも見えました。ただせっかくならば階段ではなくスロープをつけて頂いた方が余計にバリアフリー化できたように思います。
長崎は沖縄とは違う理由で多くの犠牲者を出したところであり、なかなか戦没者という線引きが難しいことはあるように思います。そのためかなんとなくしっくりとこない気持ちになったことが少し残念に思います。 閉じる投稿日:2016/06/12
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しづたまの碑とは…。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘慰霊碑群の頂上手前に位置するしづたまの碑。この建立由来文を見て改めて沖縄の戦いの熾烈さを思い知りました。人が住ん... 続きを読むでいる地域での史上稀に見る地上戦であった沖縄戦ゆえ、地域に住まわれていた住民の中には戦火により一家全滅の悲劇に見舞われた家族がおられたことは、今までの歩き回りの中でも取り上げられているものもあり、知ってはいたものの、それが留守宅の問題であるとは考えてもいませんでした。つまり戦地となった沖縄や外地にて兵士軍属としての戦没者に加えて留守宅の家族が戦火に見舞われたことにより、後から一家全滅とわかった事実…。その一家全滅した犠牲者の鎮魂を目的として作られたものがこの?しづたまの碑?となります。鎮魂とかいて?しづたま?と呼ぶこの碑は那覇市のくろしお会館敷地内に昭和44(1969)年6月17日に沖縄県遺族連合会の手によって建立されました。しかし建立地が那覇広域都市計画事業壷川土地区画整理事業施行区内に設定されてしまい移転を余儀なくされました。そこでこの摩文仁の丘へと移転し現在に至っています。
しづたまの碑に祀られている一家全滅の悲劇にあった家族は、約380家族1,500名余りとされています。今まで色々な慰霊碑や慰霊塔を見てきました。その多くはやはり家族など身内の働きかけがあって建立に至っているものが多い中で、この?しづたまの碑?の場合は、下手をすると血縁者全てが亡くなられたことも考えられます。しかし親戚同然の付き合いをしていた地域の繋がりの強さは、沖縄の素晴らしいところのひとつであり、そういうところから建立された碑である(あって欲しい)ため、余計にその存在感の大きさに圧倒されます。
慰霊碑の存在感を言うことなど、一部外者である観光客の私が語ることではないと思います。しかしこのしづたまの碑こそ、人の心によって支えられている象徴のようにしか思えなかったことこそ私の?ただひとつの本音?に違いはありません。
閉じる投稿日:2016/06/11
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浦添城跡に民間の手によって建立された慰霊塔に始まります。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 10
愛國知祖之塔は先の大戦に於ける愛知県所縁の南方諸地域戦没者51,000名(うち沖縄戦戦没者2,974名)を合祀した慰霊塔で... 続きを読むす。当初は昭和37(1962)年に沖縄戦の中でも激戦のひとつとして挙げられる前田の戦いが行われた浦添城跡に愛知県沖縄戦遺族会と愛知県沖縄会の方々の手によって建立されました。その後昭和40(1965)年に愛知県が慰霊塔を譲り受け都道府県別慰霊碑として浦添城跡の隣接地に移転し、周辺の環境整備を行います。その後平成元(1989)年8月に浦添城跡が国の史跡指定を受けて発掘調査が行われることになったため、摩文仁の丘の現区画に移設されることとなり、平成6(1994)年11月に旧慰霊塔の移設と新慰霊塔の建立をされました。
摩文仁の丘に建立された慰霊塔としては最も新しいものであり、新しいだけあって足元には大理石が敷き詰められ、慰霊塔の隣には戦没された方々の場所や人数がわかるように地図が供えられ、愛國地祖之塔を訪れた方ならばその戦没者が永遠に眠る遥か南の彼方に繋がる海の景色に触れることができます。
この?愛國地祖之塔?の命名は勿論謂れがあり、当時の愛知県知事が書かれた?この祖ありて今日のわれ等あり この祖に報ゆるは 母國をしていよいよ平和に 益ヽ 繁榮せしむるにあるとの念切なるものがある 県民の總意を血涙をもって書す?という言葉によるものです。どちらかというとすぐにどこのものかがわかる慰霊碑が多い中で、少し変わった感じも受けますが、それは当初から都道府県別慰霊碑が摩文仁や米須等沖縄戦終焉の地に建立されたことに対し、沖縄戦途中の激戦地である浦添を選んだことからもわかります。
現敷地内から見渡す海は確かに?キレイ?の一言に尽きるものの、それだけに徹していない建立の謂れには他のものとは何か違う印象を受けました。
閉じる投稿日:2016/06/10
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一番最後に建立された都道府県別慰霊碑です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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新潟県のご出身で先の大戦に於ける沖縄戦戦没者1,117名と南方諸地域戦没者40,843名の41,960名を祀る都道府県別慰... 続きを読む霊碑のひとつです。建立は昭和50(1975)年12月28日と都道府県別慰霊碑の中では最も遅く建てられました。
新潟県は地方都市ながら長岡空襲など県内でも戦争被害が多かったこともあり、本土復帰前の沖縄に新潟県戦没者慰霊碑を建立しても維持管理が困難だとされ、消極的だったという話が残っています。そのため新潟県護国神社内に昭和43(1968)年3月?平和の礎?を建立し、新潟県所縁の戦没者を祀ることになり、沖縄での慰霊碑建立はないものとされていたようです。しかし昭和47(1972)年5月15日に沖縄県として日本に復帰後は観光客も増え、沖縄での慰霊塔建立に向けて意見が出されます。その中で決まった現新潟の塔の建立、昭和50(1975)年12月に参道と慰霊塔が完成し、翌昭和51(1976)年1月に除幕式が執り行われます。そして昭和51(1976)年12月にはすべての付帯構造物及び造園工事等が終了し竣工式が執り行われて現在に至ります。
最も新しい新潟の塔でしたが、昨年平成27(2015)年建立40年を迎えなにかと施設内の劣化が問題となってきました。県民の戦死地域を記した銅板は読めなくなり、由来文を刻んだ碑もないことから、新潟の塔改築の募金依頼が県内で始まりました。無事改修を終えた新潟の塔には、銅板からチタン板に変わった戦死地域の地図や由来文を刻んだ石碑が建立され、祀られている御霊を慰め参拝客を迎えています。
私にとっては所縁がある場所ではないものの、ブーム的に都道府県別慰霊塔ができたとばかり思っていたことが少し恥ずかしく思えました。真新しい碑を携えた新潟の塔を訪れ、碑との考え方は複雑だったことを改めて感じました。 閉じる投稿日:2016/06/10
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2回の移転を経験している慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 7
秋田県ご出身の戦没者を祀る都道府県別慰霊塔のひとつです。沖縄戦戦没者432名と南方諸地域戦没者12,000名を合祀し、昭和... 続きを読む32(1957)年1月23日に米須霊域の魂魄之塔前に初代の?千秋の塔?が建立されました。その後都道府県別慰霊塔が立ち並ぶ中、昭和37(1962)年1月30日には二代目?千秋の塔?が黎明之塔前に建立されます。そして昭和59(1984)年12月26日に現在の場所に三代目?千秋の塔?が建立され現在に至っています。
二代目には石碑には神奈川県産根府川石、台座には男鹿産寒風石が使用されたとの記述があるものの三代目は?平和の鳩?と?黒御影石?との記述しかありません。この移設には言及されたものがないものの建立場所から推測するには?他の慰霊塔とのバッティング?があったのではないかとも思います。
確かに摩文仁の丘入口から比較的近く、海を眺める場所に建立されている現千秋の塔の立地条件から見ると決して悪い場所ではないとは思うものの、やはり建立時期の遅さを考えると祀られた戦没者の方々も遺族の方々も気が気ではなかったのではないでしょうか。そんな?裏事情?に思いを馳せつつ、秋田藩主佐竹氏由来の?千秋?の名前を付けられた碑に歴史を感じました。 閉じる投稿日:2016/06/10
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埼玉県ご出身の戦没者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 9
摩文仁の丘海側に位置する埼玉の塔は、埼玉県ご出身の沖縄戦戦没者1,040名と南方諸地域戦没者 26,991名を祀る都道府県... 続きを読む別慰霊塔のひとつです。昭和41(1966)年11月25日に建立された慰霊塔ですが、大きく他の慰霊塔と異なるものとして背景に映える7つの鉄像にあると思います。例え戦場で命は絶たれても、その平和を願う精神は植物の世界へとかえり、不断の生命を持つ?草?のように生き続けながら平和な人類社会へと導き、そして想像を呼び掛けている姿勢を抽象化したものだとされています。
白い背景には、文字にならなかった愛する家族への?白紙の遺書?を表現し、台座を取り巻く造園には埼玉を象徴する?勾玉?が形どっています。塔へと向かう参道には県内から持ち込まれた庭石が配置され、故郷遠く離れて亡くなられた戦没者の御霊を、戦没者遺族や県民と永遠に一体化するという意味合いが込められています。
見た目の立派さを競い合っている都道府県別慰霊塔とよく言われるものの、他には見られない?抽象的な芸術性?を込められた埼玉の塔は、他のものとは異なる訴えかけを感じました。 閉じる投稿日:2016/06/10
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大阪府所縁の戦没者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘中腹にある?なにわの塔?は、昭和40(1965)年4月26日に大阪府のご出身の沖縄戦戦没者2,400余名を祀るた... 続きを読むめ建立されました。その後昭和44(1969)年には?なにわの塔?建立5周年を迎えるにあたり南方諸地域戦没者32,600余名を新たに合祀されました。
その第一次の改修にあたり奉安所、休憩所、周囲の石積工事等行われ、その後も建立年数のキリがいい年に改修をされて現在に至っています。
この一次改修の時はまさに大阪万博が翌年に開かれることになっており、これをきっかけに南方諸地域戦没者を合祀しており、碑文にはその流れがわかりやすく書かれています。そして終戦40周年となる昭和60(1985)年には施設内の整備工事と常夜燈の設置、平成4(1997)には外壁の補修と休憩所敷地内のタイル敷き工事、平成6(1999)年には建立30周年にあたり塔本体基礎部分、休憩所、奉安所、正面階段等の大改修工事並びにスロープの設置工事を実施されました。
大阪万博の太陽の塔の作者岡本太郎氏が都道府県別慰霊塔を「品がない」ものと批評されたことがありました。確かにそのように見える慰霊塔も多くあるものの、戦没者遺族の高齢化により参拝が困難になることを見据えて施設内の工事をしていることは、ただ外見だけの改修工事に留まらず、訪れる戦没者遺族のことを考えてされているように思え、好感が持てました。 閉じる投稿日:2016/06/10
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知られていない特攻を行った部隊です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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義烈空挺隊(ぎれつくうていたい)とは、沖縄戦に於いて米軍に占領された北飛行場(読谷)・中飛行場(嘉手納)への強行着陸と破壊... 続きを読むを目的とした精鋭の空挺部隊のことを指します。
戦況の変化によって投入が延ばし延ばしになっていましたが、昭和20(1945)年5月24日に沖縄方面へと向かうことが決まります。終戦間近に陸海軍が行った〝航空特攻〟とは異なり、輸送機に空挺隊員を乗せ到着地に於いて破壊工作を行うというものでした。義烈空挺隊を空輸する第3独立飛行隊は諏訪部忠一大尉以下32名、そして奥山道郎大尉以下義烈空挺隊136名は九七式重爆撃機12機で18:50熊本健軍飛行場を出撃します。1番機(飛行隊4名・攻撃隊9名)・2番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)・3番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)・4番機(飛行隊4名・攻撃隊10名)・5番機(飛行隊2名・攻撃隊10名)・6番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)・7番機(飛行隊4名・攻撃隊10名)・8番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)・9番機(飛行隊4名・攻撃隊10名)・10番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)・11番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)・12番機(飛行隊2名・攻撃隊12名)、それに誘導の飛行第60戦隊の四式重爆(杉森英男大尉)と戦果確認の飛行第110戦隊四式重爆を伴って南下します。中古の寄せ集めであった義烈部隊の四式重爆(九七式重爆改造輸送機Ⅱ型)は5・8・10・11番機が諸々の理由で帰投します。唯一4番機が北飛行場に着陸することに成功しますが、10名の攻撃隊員が着陸した機体から飛び出し、群がる敵兵と銃撃戦を繰り広げながら駐機中の敵航空機33機を破壊損壊、そして米兵20名死傷させてさらに飛行場にあった航空燃料用7万ガロンを炎上させました。しかし7機は被弾撃墜され着陸に成功した部隊兵共々全滅。その対価として北飛行場の機能を停止させた時間は、8時間程のことでした。加えてその後に続くはずであった特攻を含む爆撃は天候不良のため中止となり、結果として飛行場攻撃による混乱に乗じて考えられたこの義号作戦は、義烈空挺隊と第3独立飛行隊、飛行第60戦隊杉森英男大尉以下7名と、帰投し不時着した際に戦死した飛行士1名を含めた119名(諸説あり)の犠牲を出して終わることとなります。
特攻というものは肯定できる戦闘手段である訳はありません。命懸けで敵に体当たりをすることが、どれだけの戦力になるのかは当時の軍上層部でもわかっていたはずです。航空特攻にしても、ジュラルミンという軽金属で作られた戦闘機が鋼鉄の艦船に体当たりをしても、吊るしていた爆弾が飛行機の燃料に引火したとしても、まず飛行機そのものが潰れてしまう…。それに加えて砲撃を掻い潜って体当たりを敢行することなどどれくらいのダメージが与えられるのか…。そしてこの義烈空挺隊にしても中古をかき集めた四式重爆撃機(九七式重爆改造輸送機Ⅱ型)にしても収容能力だけで選ばれているようにも思います。
しかし戦略的な問題はあれど、やはり場当たり的にされたものとは到底思えないこの義烈空挺隊の特攻作戦。戦術論とシリアスな部分があるため余計に話題になり辛いものであるのかも知れません。
今でも読谷村には〝義烈空挺隊玉砕の地〟という木碑が残っていると思います。軍の考えとはまた違う義烈空挺隊隊長奥山道郎大佐がなにを考えてこれに挑んだのか…歴史の史実を感じるためにも訪れて頂きたい場所のように思います。 閉じる投稿日:2016/06/10
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徳島ご出身の戦没者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘慰霊碑群のひとつ徳島の塔は、徳島県ご出身で沖縄戦941名、南方諸地域656名の戦没者を合祀し昭和40(1965)... 続きを読む年12月5日に建立されました。主碑には徳島県名西郡神山町産出の8tもの青石を使用し、碑を建立した時の知事の直筆で「徳島の塔」と刻まれており、主塔の周囲は県下各市町村名の入った飾り石で囲んでいます。
特徴的なものはないものの入口に置かれた公募により決められた詩が刻まれており、?たたかひに散りたる御魂やすかれと ふるさと阿波の青石を立つ?と慰霊塔と祀られた戦没者との関係を明確にされているものからは、建立に至る徳島県民の思いも込められていてわかりやすいものとなっています。 閉じる投稿日:2016/06/09
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慰霊碑の上にプロペラが乗っていて目を引く慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘のかなり上の方に?航空関係戦没者慰霊碑?と書かれた碑があり、そこには?空華之塔入口?と書かれています。日本軍関係... 続きを読むの慰霊碑も多くあるこの沖縄の地でも数少ない?航空関係戦没者?を祀る慰霊碑のひとつが?空華之塔(くうげのとう)?になります。
航空関係戦没者というと特別攻撃隊を最初に思い出すのかも知れませんが、こちらに祀られているのは戦闘機の搭乗員ではなく、広範囲な戦場に於いて航空輸送を担った?丸腰の軍属?になります。
昭和17(1942)年7月に勅命により編成された?南方航空輸送部?は、隊員のほとんどが民間航空関係者が徴用されました。戦争を続けることに航空輸送が不可欠だったことは、どれだけの広範囲が戦場となったかという事実に他なりません。しかし戦闘機には搭乗しなかったパイロットであっても、戦争協力者として連合国の攻撃対象となり、多くが攻撃を受け帰らぬ人となりました。
戦後色々なバックボーンの中慰霊塔がこの激戦地沖縄に建立されていく中で、やはり忘れられたようになってしまった?南方航空輸送部戦没者?ではありましたが、南方航空輸送部生存者有志の方々の手によって昭和63(1988)年 4月 8日にやっと建立となりました。
プロペラが乗っかっている慰霊塔というだけで、軍関係と?毛嫌い?する傾向があるのは今さら言うことでもありません。しかし本当はどうなのでしょうか?勿論由来書きにすべての答えが書いてあるわけではありませんが、十把一からげに思っていた慰霊塔の謂れは実は全く違った…という答えに行き着いたことがしばしばありました。先入観だけで判断するのではなく、実際に訪れてみて自分の感性で感じることは間違いなく必要なことだと私は思います。 閉じる投稿日:2016/06/09
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福岡所縁の沖縄戦戦没者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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岩手の塔隣にある福岡の塔?霊?は、沖縄戦に於ける福岡所縁の戦没者4,015名を祀っている都道府県別慰霊塔のひとつです。昭和... 続きを読む41(1966)年12月10日に建立された都道府県別慰霊塔の中でも比較的新しいもののひとつです。
この福岡の塔?霊?でおや?と思ったことがひとつあります。建立碑文に書かれていたことなのですが、沖縄戦戦没者のみ合祀、その数4,015名という数字のことでした。一般に沖縄戦での将兵戦没者の多さは、沖縄戦を戦った主力部隊の担当師管区によるものが多いと聞いていました。それに名前の挙がらない福岡県で何故だろう…と思ったのですが、なにも陸戦だけには限っていないことというのが理由のようです。つまり特別攻撃隊を含めた航空戦や海戦も含めた沖縄戦に於ける戦没者だということは、一般的に言われている沖縄地上戦での戦没者にプラスされるということになります。
決して特別な形状をした慰霊塔ではないものの、その建立の謂れに刻まれた一文にまだ終わっていない戦争の傷跡を感じました。
閉じる投稿日:2016/06/09
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県の形を表した慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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岐阜県の塔の隣にある岩手の塔は、第二次世界大戦に於ける岩手県所縁の戦没者34,860名を合祀した都道府県別慰霊塔のひとつで... 続きを読むす。戦没者の内訳は沖縄戦653名、南方諸地域20,697名、アリューシャン列島等その他13,510名と書かれていました。
昭和41年10月20日に建立された岩手の塔は、高さ3.7m、幅2m、重さ13tの下閉伊産の硅岩(けいがん)でできており、自然石の武骨な風合いをあえて生かして岩手県の形をモチーフにした意図は、岩手県民の県民性を表現するためだったそうです。
岩手県という土地柄ヘラヘラしている県民性は伺えないことはわかりますが、それを自然由来のもので表現した慰霊碑には、その碑に込めた?真心?が十分に訪問者に伝わっている・・・そんな風に感じました。 閉じる投稿日:2016/06/09
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昭和20(1945)年6月23日黎明の刻。
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- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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沖縄守備第32軍牛島満司令官と長勇参謀長がこの壕で自決され、ここに沖縄戦に於ける日本軍の組織抵抗が終わりました。摩文仁の丘... 続きを読む頂上部にある黎明之塔の下方に位置する第三十二軍司令部終焉之地があり、この場所に於いて午前4時30分頃牛島司令官と長参謀長が自決されました。
摩文仁の丘から沖縄師範健児之塔へと向かう階段の途中にありますが、入口は鍵が掛けられており入ることはできません。過去に調査されたときの写真を見る限りかなり大きな縦穴があるようですが、それほど頑丈な造りでもないのか遺骨収集も進んではいないようです。
ちなみに現在の?沖縄慰霊の日?は、この牛島司令官が自決した6月23日を根拠に定められていますが、一説には6月22日だというものもあり、復帰前の沖縄では6月22日を慰霊の日としていたこともありました。
閉じる投稿日:2016/06/08
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以前は別の場所にありました。
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- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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周辺の慰霊塔とは異なる目的で建立されたダバオ之塔。
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- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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想い出はダバオの丘に
アゴンの響きアポに木魂し
バゴボの踊る収穫(ミノリ)の宴(ウタ)げ
アバカ干す手に熱風通う
... 続きを読む想い出は胸に痛みて
砲火に消えし友の名呼べど
逝きしに人の御霊答えず
夕日は沈むタモガンの流れに・・・(元ダバオ移民小宮山蕃雨作詩,「ダバオに想う」)
昭和47(1972)年3月28日、2ヶ月後に日本への返還を迎える沖縄の摩文仁の丘にてダバオの塔が建立されました。太平洋戦争中に戦いの舞台となったフィリピン南部ミンダナオ島ダバオ。戦没者慰霊碑が立ち並ぶこの摩文仁の丘では、誰もがダバオの塔=ダバオの戦死者を祀ると思うのではないでしょうか。
実はダバオの塔建立者はダバオ会という戦前フィリピン・ダバオに移住し、戦後引揚げてきた元移民の遺族とその関係者約 2,343 名からの寄付によって建立された慰霊碑であると書かれています。これは摩文仁の丘に林立する各都道府県・軍関係官庁の慰霊碑とは異なり、元移民によって建立されたという点で非常に珍しい慰霊碑になります。戦前のアメリカ植民統治下にあったフィリピンには 53,115 人の移民が渡航し、ミンダナオ島ダバオには東南アジア最大の日本人社会が形成されました。しかいダバオ移民は,土地所有の制限や入国者数の制限など一連の排日措置になどに直面しながらも、その反面麻農園を建設するため未開のジャングルを開墾し,麻栽培を基盤とした地元経済の発展に貢献した実績も作り、このまま順調に発展するかのように思われたダバオの日本人社会でしたが、昭和16(1941)年12月8日未明のハワイ真珠湾攻撃の後、フィリピンが日本軍の空爆攻撃の対象となったため、日米開戦直後から米比軍によって収容所に集められるものの、その後日本軍の上陸により解放され,終戦まで日本軍と運命をともにすることになりました。結果として戦時中から引揚げ後までの死亡者を合算すると、ダバオ地区における戦争犠牲者数は約9,200 名にのぼるとされています。
この数字は昭和18(1943) 年 1月の時点でのダバオ在留日本人数 19,089 名の 48.2%にあたり、実に半数近くの移民が戦時中および収容時に命を落としたことになります。戦後引き上げが開始されるも、日本へ送還されたのは約9,100名の引揚組。その多くは日本人同士の純血二世だったとされています。それに対し残留組は日本人の父とフィリピン人の母の混血二世で、父親だけが日本へと送還されたことによるものだったようです。しかし多くを占めていた沖縄出身者は、直接故郷には帰ることができず、一旦本土に一時在留したのちに沖縄へと帰郷されたそうです。
多くの移民が亡くなったダバオの地に本来であれば慰霊碑を建立するのでしょうが、折しも反日感情が渦巻くフィリピンの地で行うことは容易なことではなかったとされています。ならばということでダバオ移民の最も多かった県、そしてフィリピンに最も近い場所である沖縄が候補となり、ダバオの碑の建立に至ったようです。
物理的な理由の他にダバオ移民の犠牲者には特徴的なものがありました。つまり戦争中の犠牲者だけではなく、戦前の開拓事業に纏わる犠牲者も祀っているという事実です。ジャングルを開拓してマニラ麻畑を作るということは、地元部族が所有する土地を違法に開拓し、その地で麻栽培を独占的に行っていたため、凶刀により殺害された者も約600名程はいたのですが、それを合祀するにはやはり反日感情を持たれた理由のひとつであるためフィリピンではできなかった。しかし戦中には日本軍兵士が同じようなことを沖縄でもフィリピンでも行っていた。つまりヴァナキュラー(土地特有の)な記憶が同じようにある場所、それが沖縄だったということが書かれていました。
ダバオから帰還し、その後仲間が集まれた場所こそが?ダバオの塔?の建立式典だと聞いています。なぜスペイン語のその言葉が使われたのかは不明ですが、「アミーゴとの出会い」との記述されている建立式典は、戦後辿った政治的背景は全く異なる本土と沖縄。そのふたつを比較するのではなく、ダバオの思い出を楽しく語る場所と化したそうです。
その後のダバオの塔に触れている文献自体が少ないため、どのような展開になっているのかはわかりません。しかし恨み辛みだけの言い合いではなく「アミーゴとの出会い」といった言葉で表現できる会合ならば、今後建設的な会合を持ちつつ、同じ過ちを繰り返さないように…と四世・五世に繋いでくれるのではないか、そう思えました。 閉じる投稿日:2016/06/08
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