2025/10/23 - 2025/10/23
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kojikojiさん
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ツアー2日目の朝は「大同賓館」の「貴賓楼」の朝食からスタートします。午前6時30分にレストランに着くとちょうど開いたところで、出発の早い我々のツアーのメンバーが三々五々にテーブルに座ります。中国の地方のホテルの朝食メニューは地元特産の料理が並ぶので好きなのですが、このホテルも同じでした。そしてなんといっても麺の故郷と呼ばれる山西省なので麺料理を食べなければなりません。麺のカウンターに行くとまだ準備中で5分待ってくれと言われます。しばらくして始まったのが刀削麺の実演で、見事な包丁さばきで麺が大鍋の中に入って行きます。茹で上がった麵に2種類のソースをかけて、好みの味付けにして出来上がります。ここから毎日山西省の麺料理を食べることになります。この日は旧市街の外側を「大同」の西北西の「十里河」沿いに進んだ「雲崗石窟」の観光からスタートです。「十里河」の南側は「金華公炭鉱」という巨大な炭鉱の町で、この鉱山は1956年に開発され、回収可能な埋蔵量は15億トンにも及ぶそうです。一大炭鉱村が形成されていて、衣食住全てが揃った街があるとの説明でした。ただ、ここでトラックに積み込まれた石炭が「雲崗石窟」の近くを通るので、一時期は石像が煤煙で真っ黒になってしまったこともあるそうです。そんな話を聞きながら「雲崗石窟」の駐車場にバスは入ります。思っていたよりも観光地化されていて、エントランスの巨大な建物から園内に入ると仏教復興事業を牽引した北涼の僧の曇曜(どんよう)の像があり、ここから先の施設は全て新たに作られたものだと知ります。セキュリティはかなり厳しく、入場チケットの事前予約とパスポートは持参しないと見学することは出来ません。ゲートをくぐると「佛光大道」と呼ばれる参道があります。その両脇には6本の牙を持った「六牙白象(ろくげはくぞう)」が石窟の中にある角柱を背負った形で並んでいます。「六牙白象」は普賢菩薩の乗り物で、また釈迦の母である摩耶夫人がこの象を夢に見て釈迦を懐妊したとも言われます。その先には池の中に浮かぶ「大雄宝殿」などもありますが全て新しいものです。ガイドさんは2時間の見学時間の中で肝心な石窟の説明をするためにこの辺りは素通りしてくれます。それでも観光ブームの中国なので地元の観光客も多くてなかなか前に進めません。今回のツアーでは第1窟から第20窟までを見学し、その中の5つの窟は「曇曜」が製作にかかわった「曇曜五窟」と呼ばれるものです。この旅行記では第1窟から第10窟までの紹介になりますが、いくつかの有名な窟が保存修復中だったのが残念でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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「大同賓館」の朝食は午前6時30分からでした。早い時間に「雲崗石窟」の見学をしないと込み合うのでホテルの出発も7時30分と早いです。
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昨晩夕食を食べた「貴賓楼」の1回のレストランは我々のツアーのお客しかいませんでした。開店と同時に席を取りました。
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中国のホテルの朝食は料理の名前のプレートがあったりするので名前が分かるのと、意外にその土地の食材や名物料理が並んでいるので好きです。ここでは日本ではお目にかかれないような大きなナツメがありました。大げさかもしれませんが、もう少し大きければ茶道の棗と同じくらいです。
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日本では落花生は1粒か2粒が普通ですが、中国から東南アジアでは3粒の物が多いです。なんか得をした気分になります。蒸した落花生は柔らかくて美味しいです。
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大好きなじゃがいもシャキシャキ炒め、「土豆?」や中国湯葉の腐竹とキュウリの冷製、「肉包子」などをいただきます。
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麺のカウンターはまだ準備中で、おじさんに「まだ?」と尋ねると「あと5分待って。」といわれました。先にお粥などを食べて待つことにします。
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「大同刀削麺」は麺の味を重視しますが、麺にかける各店秘伝のタレこそが刀削麺の命です。牛肉や豚肉のタレ、トマト卵炒めのタレなどさまざまな味があります。
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煮込み団子や煮込み卵、揚げ豆腐などをトッピングし、さらに香菜のみじん切りと本場の山西特産の黒酢を入れて混ぜます。それらはツルツルシコシコの麺とよく合い、絶妙な味となって多くの人を魅了します。
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牛肉や豚肉のタレ、トマト卵炒めのタレをかけて、香菜をたっぷり乗せて自分なりの味付けをします。このたれはこの後各地でもいただくことが出来ました。出来立ての刀削麺は最高に美味しかったです。
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午前7時30分にホテルを出発しました。「雲崗石窟」までは30分ほどの移動です。
ダートン ホテル ホテル
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朝早くから露天の床屋が繁盛しています。固定客が定期的に同じカットをするので鏡などもいらないのでしょうね。何故か車道側に向いているのが面白いです。世界第2位の経済大国になっても、内陸部の地方都市ではこんな生活が残っています。
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人の集まるところには商売をする人が現れるのが常ですね。このリヤカーを牽いてどこから生姜を運んできたのでしょう。
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商売をする場所長年の暗黙の了解で決まっているのだと思います。昔の中国映画を観ているような気分になってきます。
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30分ほどで「雲崗石窟」の駐車場に到着しました。この後2時間以上バスとはお別れなので防寒などの準備をします。
雲岡石窟寺院群 寺院・教会
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時間が早かったので入り口近くの駐車場に停められましたが、それでも何十台もの観光バスが来ていました。習近平の進める中国国内の観光はすでにオーバーツーリズム気味です。
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巨大な入り口の建物があり、まずはトイレに向かいます。この後2時間以上は団体行動で歩くのでトイレに行く時間はありません。
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表に出ると銅像が一体ありました。これは曇曜(どんよう)という南北朝時代の北魏の第3代太武帝の廃仏より復興した仏教教団の中心人物となった僧です。曇曜の業績として一番に挙げられるのは、雲崗に石窟寺院を造営したことです。
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「雲崗石窟」は事前にチケットの購入が必要で、パスポートも持って行かないと入場することは出来ません。もう当日に行ってぱっと入れる観光地は中国は預保喉ローカルな所だけだと思います。外国人の場合はQRコードではなく、右側の専用のレーンからパスポートを読み取ることで入場できました。
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入場ゲートを過ぎると「霊巌寺」へ続く長大な「佛光大道」と呼ばれる参道が現れます。その両脇には6本の牙を持った「六牙白象(ろくげはくぞう)」がこの後見学する石窟の中にある角柱を背負った形で並んでいます。
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「六牙白象」は普賢菩薩の乗り物で、また釈迦の母である摩耶夫人がこの象を夢に見て釈迦を懐妊したとも言われます。
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普賢菩薩は仏教における「四苦八苦」の教えや行いや実践を象徴する菩薩です。知恵を司る文殊菩薩とともに、悟りを求める人々を導く重要な役割を担っています。特に女性の信仰を救済するとも言われて、多くの人々に慕われてきました。石窟には普賢菩薩が祀られていることが、この「六牙白象」からも分かります。
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中国の方はこのようなリボンに願いを書いて納めるのが好きですね。必ずと言っていいほど観光地にはこのような木を見ることが出来ます。
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池の中に浮かぶように「霊巌寺」が見えてきました。ここから橋を渡っていきますが、全て新しく造られたものなので「雲崗石窟」には直接は関係ないようです。
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押し寄せる観光客が石窟に集中しないように設計されているのだと感じます。これらの伽藍は明清時代の旧跡を元に再現されたものです。
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遊覧船もありましたが、寒いので誰も乗る人はいません。
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池の向こうには石窟のある岸壁が見えています。
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ガイドさんの説明によると「雲崗石窟」に割ける時間は2時間ほどで、石窟についても重要な第1窟から20窟までに集中するので特に歴史の無い「霊巌寺」の説明はしませんということです。
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これは願ったり叶ったりで、無駄なことに時間を使いたくはありません。
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「大雄宝殿」も素通りですが、通過する前に正面から写真を撮っておきます。基本的に一方通行なので、再びここへ戻ってくることはありません。
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中国仏教寺院の中心となる建物が「大雄宝殿」でその歴史は古く、官署を寺とした古代の「白馬寺」にまで遡ることができます。唐代以降の伽藍配置において「大雄宝殿」は中核的な位置を占めるようになり、宋代には「伽藍七堂」の1つとして確立されました。堂内には脚を交差した弥勒菩薩像が祀られています。
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伽藍の中央には5層の石塔である「五浮建っていますいます。塔の四面にはそれぞれ12体の仏像が彫刻されているようです。
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伽藍を抜けると再び橋があり、それを渡るとようやく石窟エリアに入るようです。やはり観光客の集中を避けて分散させられているのだと感じます。
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ここまで何も見ないで通過してしまうと後ろ髪をひかれるような気分になります。
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「第1窟」の手前には「比丘尼?媚造像碑文」の複製が置かれていました。1956年に「第20窟」前の崩落岩層から出土したもので、原本は「雲崗博物館」に所蔵されています。
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北魏の時代の503年に彫刻されたものとされており、平城(現在の大同)における尼僧の造像活動を記録したものとなっており、北魏時代の碑文の傑作であり、高い芸術性が評価されています。
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いよいよ「雲崗石窟」の見学に移ります。
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ここからは第1窟から第20窟まで見学を進めていきますが、細い通路は人で溢れています。欧米人の団体の姿も見えますが、そのほとんどは地元中国の国内の団体ツアー客のようです。
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「第1窟」と「第2窟」は塔柱を有した一対の靴となっています。平面的には奥に向かって長い長方形をしています。
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「第1窟:石鼓洞」5世紀後半
塔柱は2層に分けられ、頂部の須弥山には八龍が交差して絡み合っています。北壁の本尊は弥勒菩薩交脚像と脇侍の思惟菩薩像です。東壁の下層には「シューヤマ本生」という物語が描かれています。明清時代「石鼓寒泉」と称され、雲中八景の1つでした。以前に「ボロブドゥール遺跡」へ行った際に仏陀の前世の物語「本生譚」について学んだことが思い出されます。
ボロブドゥール遺跡:https://4travel.jp/travelogue/10796393 -
「第2窟:寒泉洞」5世紀後半
中央に位置する塔柱は3層に分けられています。各層の四隅には透かし彫りの角柱が配置され、回廊の雰囲気を表しています。窟の4面の壁も上下左右の層と段に分けられ、第1窟と関連しているように思われます。北側の壁には3つの壁龕があり、それぞれに仏像1体と菩薩2体が納められています。東側の下層には仏伝図の「矢で鉄鼓を射る」の場面が描かれています。窟の北西の方角から泉が湧き出たことから「寒泉洞」と名付けられました。 -
「古道車轍」
古道に残る車轍(しゃてつ)は、かつての交通の様子や人々の往来を今に伝える貴重な痕跡です。 -
馬車に石窟から掘り出した石の屑を積んでどこかへ運んだのでしょう。
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イタリアのナポリ郊外の「ポンペイ遺跡」へ行ったことがある人ならすぐに連想すると思います。岩の上に残された轍を見ると相当数の馬車が移動したのだと想像できます。
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南北朝時代の北魏において道武帝の治世の天興年間の398年から404年に法果和尚が道武帝(どうぶてい)拓跋珪の命を受けて武周山の下にある自然の岩窟を掘削し、僧侶の座禅や日常生活に浸かったのがこの「第3窟」になります。
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その後約100年を費やしてスリランカや西域から有能な職工を募集し、インドの造形技術やギル社の芸術や中国の芸術が融合して中国仏教石窟文化が形成されていきます。北魏の釈老誌によると西域の宗5人が傾向菜仏像を3体携えて平城(現在の大同)に上京したことやスリランカ層の南ティガ仏像彫刻の名手だったと知ると、以前行ったスリランカの「ポロンナルワ」の「ガル・ヴィハーラの仏像」のことなどが思い出されます。
ポロンナルワ:https://4travel.jp/travelogue/11244673 -
「第3窟:霊岩寺洞」5世紀後半
「雲崗石窟」において最も規模の大きい洞窟で、洞窟の幅は50メートル、高さは28メートルにも及びます。 -
洞内に入ると木製の橋が架かり、堀割のような場所を渡ります。いよいよ石窟の見学が始まったと気分は高揚していきます。
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洞内の岩壁はその作業工程が読み取れることから貴重な遺物と考えられているようです。内部は人で埋め尽くされていて、少しづつ細い通路を進んでいきます。
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暗闇に目が慣れていくと前方右側に阿弥陀如来の姿が見え始めます。
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目の部分の穴は後年になって眼球を埋め込んだ跡ですが、すでに失われてしまっています。また、この像は完成当時は彩色が施されていました。
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その方法は一度彫り上げた仏像に細かく穴を開け、そこに木製の杭を打ち込み、象全体を漆喰のようなもので覆い、そこに彩色を施したようです。その全てが剥落閉まったので細かい穴だけが残されています。
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洞窟を掘り進める際は顔の高さの穴を開け顔の部分から掘り出していくという手順でした。そのために顔の完成度が一番高いように思えます。そこから肩や上半身、そして下半身と掘り進めていくので、下半身とのバランスが少しおかしく見えます。
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ようやく本尊の足元まで進んでくることが出来ました。今回の旅は伯母が亡くなった直後ということもあり、祖父の遺品の数珠を持って来ていたので手を合わせ、両親や祖父母や叔父や伯母に祈りを捧げます。
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洞窟内の仏は中央に阿弥陀如来、脇侍として右に観音菩薩と左に勢至菩薩という「西方三聖」が描かれています。脇侍の如来たちはかなり傷みが激しいですが、逆に塑像としての頭部や手先の部分が残っているのでその造りが良く分かります。
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道武帝に全国の宗教事務を一任された法果和尚は都である平城に仏教伝教の場を作り、武州山北の崖にも洞窟を造り、この「第3窟」が「雲崗石窟」最初の窟となります。
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当初は3組の仏像を彫る予定でしたが、実際はこの三尊だけが完成されました。さらにその完成は天興元年の398年から始まった掘削は正光4年の523年に終わっています。
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完成までに125年かかった理由は493年に漢民族に同化され洛陽遷都した孝武帝が平城帰遷を画策した皇太子に激怒して毒殺したことが理由のようです。皇太子を想う保守派のために慰霊のためにこの三尊像を作り、阿弥陀仏の顔を皇太子に似せるということを考えました。
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右側の外部に面した顔の部分から掘り進めたということが実感できます。現在はその開口部がちょうど明り取りのようになっています。
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「第4窟」5世紀後半から6世紀初頭
塔柱窟には入り口が1つあり、左右に窓が設けられていますが中には入れません。奥にある木造楼閣で覆われた「第5窟」への通路のような状態です。 -
この洞窟は未完成の状態で、内部の塔柱の四面には仏像2体と菩薩2体が彫られているようです。
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かなり風化してしまっているのが残念です。洞内の南壁には正光年間の520年から525年の間に発願したという「亡夫待中造像記」は「雲崗石窟」の現存するもっとも新しい日釘時代の銘文だそうです。
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風雨に晒されなかった像は驚くほど保存状態が良いことにも驚きます。世の諸行無常に重ね感じてしまいます。
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「第5窟:大佛洞」5世紀後半
残念ながら「第5窟」は修復工事中で内部を見学することは出来ませんでした。 -
4層の楼閣木造建築様式や広い洞窟や豪華な造りの石窟になっています。掘削時の社会的背景も並々ならぬもので、歴代増築が行われた突出した石窟となっています。以下「第5窟」の写真は資料からによるものです。
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子の石窟は「第6窟」と同じ490年から498年にかけて造られたもので、孝文帝は馮太后のために仏母塔洞を掘削するとともに父の献文帝のために釈尊仏洞を掘削したのがこの「第5窟」です。
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465年5月に12歳の献文帝が即位しますが即位8カ月足らずで24歳の馮太后が摂政を勤め、大量の漢民族の大臣を登用して政治を担当させます。
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そのために鮮卑人(紀元前3世紀から中国北部や東北部に存在した騎馬遊牧民族)の顕現が弱められ、馮太后の一連の措置は彼らの不満を買います。献文帝は母の希望に添わずに鮮卑人の肩を持ちます。面白くない皇太后は皇帝の重用した人物に因縁を作って処刑します。
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献文帝は母の愛人一家を殺して復讐します。結果は馮太后側に軍配が上がり、献文帝は在位5年で上皇となり孝文帝に皇位を譲ります。戦争を機に政治介入を試みますが、皇太后は23歳の献文帝を毒殺してしまいます。
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母親に殺されるという悲劇もありましたが、馮太后も490年には崩御したことから孝文帝は思うままに執政することが出来ました。
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自分を一代で名君に氏立ててくれた祖母のために武州山にこの仏母塔洞を建立しました。父と祖母は政敵ではありましたが、畢竟親子(ひっきょうおやこ)だったので怨念を鎮める意味もあたようです。
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「第6窟:釈迦佛洞」5世紀後半
人気が高い石窟なのでかなり長い列が出来ていました。現在は写真撮影が自由にできますが、そのうち出来なくなるのではないかと思えます。 -
石窟は楼閣建築のお陰で風雨の影響を受けることもなく非常に状態の良い姿で残されています。
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木造の堂内には壁画が描かれていますが、その横には門神の姿があり、どこからが石窟がスタートしているのか分かりにくい感じがします。
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洞内に入ると真正面に巨大な塔柱がそびえています。よくぞこれほどの物を掘り出したと思います。仏教上では通常は時計回りに物語が続くのですが、見学ルート上右から入って反時計回りに見学するルートとなっていました。
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精巧な彫刻はこの石窟が北魏王朝の最盛期に造られたのであろうことはすぐに感じられます。太和14年の490年から孝文帝の洛陽遷都の495年は北魏の最盛期にあたり、皇帝の政革により経済的にも文化的にも栄えていました。
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490年に祖母である馮太后が崩御した後は孝文帝は祖母のために仏母塔洞を掘削すると決め、これは仏教界からも政界からも広く支持を得たようです。
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馮太后は献文帝の治世時から実権を掌握し垂簾政治を布いていましたが、献文帝を退けて孝文帝を即位させた時に孝文帝はまだ5歳という幼児であり、引き続いて垂簾を布きました。これは太后の死まで続いたようです。
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馮太后は政治的な手腕は一流であり、反乱を治め、班禄制や三長制や均田制などの諸改革を実施し、また中央財政と地方財政を分離するなど、北魏の中央集権化に務めるなど数々の治績を挙げました。
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馮太后は490年に崩御しましたがその時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4カ月の間は政務を取らなかったと言われます。このことから馮太后は孝文帝の実母ではないかと疑う説も出たようです。
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塔柱の高さは15メートルに達し、それぞれが上下2層に分かれています。下層の4面には仏龕(ぶつがん)が彫られ、各龕には三世仏が一体づつ刻まれています。三世仏とは過去・現在・未来の3つの世にわたって衆生を救済する仏の総称です。一般的には過去仏、現世仏、未来仏の三尊で構成されます。
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過去仏は阿弥陀如来、現世仏は釈迦如来、未来仏は弥勒菩薩のことで、釈迦如来の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。
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三世仏については以前に旅したミャンマーの「バガン」でかなり学んだことがあります。その当時は父が亡くなったこともあり、母の書いた般若心経を持って祖父母と父のために「蘇州」の「寒山寺」、「シェムリアップ」の「アンコールワット寺院」、「ジョグジャカルタ」郊外の「ボロブドゥール寺院」、「バガン」の諸寺院、スリランカの寺院へと赴いて納経しました。
バガンの寺院:https://4travel.jp/travelogue/10940884 -
また、この窟には30面以上の「仏伝図」があり、仏陀の誕生から出家、成堂、説法までの重要な場面が詳細に彫刻されています。本来の参拝とは逆に歩いているので仏陀のストーリーも逆になるため、ここでは順番を改め、補足の写真も入れて書き留めておきます。m他、混雑した洞内んおですべての写真が撮れたわけではありません。
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釈迦の父である釈迦族の王にして釈迦の実父で、摩耶夫人は生母に当たります。摩耶夫人が白い象が胎内に入る夢を見て釈迦を宿されたことを知ります。白い象は悟りを開く聖者の誕生を告げる象徴です。
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摩耶夫人が故郷へ帰る途中のルンビニの園で釈迦を右脇から生んだ場面です。
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右脇誕生は母体に苦痛を与えず、清らかで特別な誕生を示唆しています。
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誕生後すぐに七歩歩き、周囲の草花が自動的に咲いたと言われます。天と地を指差し、「天上天下唯我独尊」と発し、自己の尊厳と使命を宣言したと言われます。
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その後摩耶夫人と釈迦は白い象に乗って父の元へと戻ります。キリスト教でも文字を読めない人のために旧約聖書や新約聖書の場面を絵画や彫刻で表しますが、改めて仏教でも同じなのだなと感じます。
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聖水灌浴(九龍灌頂)は誕生された釈迦に天から清らかな水が注ぎかけられた場面です。
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誕生を祝福するために現れた九匹の龍が描かれています。灌頂は王子や聖者の即位の儀式を表し、釈迦の尊さを象徴しています。
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父である浄飯王が釈迦の事をアシタ仙人に占なってもらったところ、「家にあれば徳によって全世界を征服する転輪王となるであろうし、また出家すれば人々を救済する仏陀となるであろう。」と予言されました。そして「シッダールタ」と命名されました。
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誕生して7日目にして母の摩耶夫人が亡くなり、シッダールタは摩耶夫人の末妹の摩訶波闍波提(マハーパジャーパティ)が継母となり育てられることになります。幼いシッダールタは農耕祭で生命の営みや苦しみを目の当たりにし、深く思索にふけるようになります。
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成長したシッダールタは文武に優れた才能を発揮し、 王子として必要なあらゆる教養と武術を習得していきます。
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美しい妃の耶輸陀羅(ヤショーダラー)を迎え、羅睺羅(ラーフラ)をもうけます。釈迦が出家して5年後に生まれた子とされ、釈迦十大弟子の1人に数えられ、正しい修行を為した密行第一と称されます。また十六羅漢の1人でもあります。あまり姿を見掛けることはありませんが、スリランカの「コロンボ」の「ガンガマーラ寺院」で見たことがあります。
ガンガマーラ寺院:https://4travel.jp/travelogue/11253907 -
アシタ仙人の占いを信じた父王が太子の出家を恐れ、宮殿の周囲を豪華絢爛な生活で満たし、世俗の苦しみから遠ざけようと努めます。
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羅睺羅が生まれるとシッダールタは出家したが、その際に浄飯王は出家に反対しました。しかし釈迦がついに出家すると、五比丘を遣わして警護させました。
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シッダールタが宮殿の4つの門から外出して、「生」「老」「病」「死」の4つの苦しみを目の当たりにする場面です。出家の決定的なきっかけとなります。
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東門では老人に出会い、「老」の苦しみを知ります。
南門では病人に出会い、「病」の苦しみを知ります。 -
西門では死人に出会い、「死」の苦しみを知ります。
北門では出家者に出会い、精神的な安らぎの可能性を見出します。 -
宮殿の豪華な生活や家族との別れを選び、出家を決意して馬に乗って城を抜け出す場面です。深夜に妻子に別れを告げ、愛着を断ち切る決意をします。そして自分の髪を切り落とし、世俗との縁を断ち切ります。豪華な衣を脱ぎ捨て、質素な修行者の姿になります。ようやく第6窟までの見学が終わりました。
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