2025/10/25 - 2025/10/25
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kojikojiさん
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「平遥」を出発したバスは1時間ほどで「喬家大院」に着きました。そこは思っていたような屋敷だけのたたずまいではなく、新しく造られた公園や牌楼を備えたアミューズメントパークのような姿でした。これにはちょっとびっくりしたのと、巨大なチケット売り場と入場ゲートにも驚きです。ガイドさんによるとチャン・イーモウ(張芸謀)監督の映画「紅夢(大紅灯篭高高掛)」は中国本国では張芸謀監督の前作「菊豆(チュイトウ)」に続き上映禁止になったはずなのですが時代は変わりました。実際は2006年に放送された喬致庸を主人公とする中国のテレビドラマシリーズ「喬家大院」もここで撮影されたため人気が出たようです。日本でもDVDの発売などは無く、2024年になってようやく発売されたと知りました。なので今回のツアーでもこの映画を知っていてこのツアーに申し込んだという人は皆無でした。ただ1人「最近WOWOWで観て、偶然このツアーに入っていると知ったのよね。」とおっしゃる女性がいらっしゃいました。こちらは30年前にニューヨークに住んでいた弟にDVDを買ってきてもらい、何度もDVDを観直してようやく来ることが出来たのに世の中は理不尽なものです。実際の「喬家大院」は1756年、清朝の乾隆帝の時代に建造された18世紀の建物で、山西省は晋商と呼ばれる豪商が栄えた地域で、金融業などで成功したこうした豪商は大きな邸宅を構える習慣がありました。313室の部屋を備え、「四合院」と呼ばれる中庭を囲んで棟を作る形式の家屋は全部で6つの中庭の連続で、いずれも「一正一偏」(正庭と脇庭)の構成になっています。映画ではそのうちの1つが舞台で、それ以外の場所は屋上以外ほとんど出てきません。息の詰まる様な閉塞感を実際にこの屋敷でも感じることが出来ました。また、この屋敷には北清事変(義和団事件)の際に、日本を含む外国公館が攻撃され、八か国連合軍が北京に向けて進軍することから当時の権力者である西太后が西安を目指し避難するときこの経路を通り「平遥」を訪れます。このときに一行を迎えて接待したのがこの「喬家大院」の主でした。売店などは見当たらなかったのですが、ガイドさんが見つけてきてくれて、ガイドブックや絵葉書を買うことが出来て良かったです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
「平遥」を出たバスは1時間ほど走って「喬家大院」に向かいます。
平遥古城 城・宮殿
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到着した「喬家大院」は想像を超える観光化が進んでいました。ほとんどアミューズメントパークになっています。
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チャン・イーモウ(張芸謀)監督の映画「紅夢(大紅灯篭高高掛)」は中国本国では張芸謀監督の前作「菊豆(チュイトウ)」に続き上映禁止になったはずなのですが時代は変わりました。
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実際は2006年に放送された喬致庸を主人公とする中国のテレビドラマシリーズ「喬家大院」もここで撮影されたため人気が出たようです。団体さんが記念写真を撮る姿は日本では見かけなくなりました。
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「喬家大院(きょうかだいいん)」は晋中市祁県東観鎮喬家堡村に位置する清代の著名な晋商(山西商人)である喬致庸(きょう ちよう)の旧宅であり、現在は「祁県民俗博物館」として公開されています。
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清の乾隆20年の1756年に創建され、その後2度の拡張を経て現在の壮大な規模となりました。敷地は全長約80メートルの石畳の道を軸に、6つの大院落、20の小院落、合計313間の部屋が配置され、上空から見ると「囍」の字形を成す独特の城堡式建築群です。
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周囲を囲う城堡の上には上がれないようなので、かなり離れた距離から写真を撮っておきます。真冬の雪が降る屋根の上のシーンは「紅夢(大紅灯篭高高掛)」の重要なもので、浮気をして妊娠した第3夫人の梅珊が夜明け前に家の使用人によって屋上の小さな小屋の中で殺されてしまいます。それを見た第4夫人の頌蓮(スンリェン)は正気を失うというものです。
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チャン・イーモウ(張芸謀)監督の映画「紅夢(大紅灯篭高高掛)」は日本でも公開されましたが、DVD化されることもなくと気が過ぎていました。30年ほど前にニューヨークに住んでいた弟にDVDを送ってもらい、何度観直したか分かりません。この旅行の前にも2回観たほどです。
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ここに来るまで30年かかりましたが、そんな映画のことを知っている参加者もほとんどいらっしゃいませんでした。1人だけ「今回の旅行前にWOWOW見ていたらチャン・イーモウの映画が3本立てて初めて見て、初めてツアーで行くところだと分かったのよ。」という女性がいらっしゃいました。30年と数週間の差は何なのでしょう。
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城堡には窓もなく、堅牢な城郭の造りですが、入り口に設けられた「影壁(インピ―)」には「福」の文字が掲げられています。本来は外から悪い気が入らないようにするものですが、ここでは実務的に外敵の攻撃から守る防護壁のようです。
喬家大院 建造物
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その裏側は見事な「百寿図影壁」となっています。10段10列の書体の違う「寿」の文字が彫られています。寿の文字の脇には「人の欲に倣って天の理を回復し、道徳を第一にして礼を修めることができる」という聯句が彫られています。これは清代の大臣だった左宗棠によって書かれました。
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左宗棠が陜西・甘粛・寧夏の三省知事に任命された際に喬家の銀行と密接な関係を築きました。軍事費の一部を銀行に預け、送金や財政難に陥った際にも資金を借り入れました。西北が部分的に平定された後、北京に戻ると喬家の当主である喬志勇を訪ねて歓待の手配をしました。その時にこの堡塀が建設中だったために聯句を依頼しました。
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「影壁(インピ―)」に隠された門から邸宅の中に入っていきます。「皇家有故宮、民間看喬家」という言葉があるようで、「皇室には紫禁城があるが、庶民には喬家の住居がある。」と称えられるようです。
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邸宅は2つあるようですが、元々の古い「喬家大院」は下側の大きな方で、上は新しく建設された施設だということです。たくさんの観光客の姿を見ると受け皿となる建物や庭園が無いと捌ききれないのだと思います。
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中国建築の重要な特徴の1つは左右対称を強調し、「接続部」まで対称性を求めていて、極めた平衡やバランス・調和を図ります。豪華絢爛な宮殿から簡素な民家に至るまで、中国建築にはこれらの要素が随所に見られます。
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中華風の建物では通常「偶数の柱」を配置し、「奇数の間口」を組み合わせることで、視覚と数学上の対称性をしっかり強調しています。主な入り口は中央の正面に配置され、最初の入り口からも対称性が見られます。
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邸宅には家族のための塾があり、建物の入口に「芳会」と彫った扁額が掛かっていました。先生を招いて子弟を教育する場所だったようです。
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中国の建築体系は所有者の社会階級によってその重要性、用途、敷地面積、部屋の配置が全く異なります。一般的により大きくより対称的な建物は、地位が高い人々のために建てられていました。1つの建築群の中でもその所有者や地位の高い人々はより正面に向かって建てられた部屋に住んでおり、正面から遠く離れた部屋は使用人や地位の低い人々が使用しました。
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日光が多く当たるエリアはこの家の家長が使い、南向きの後方にある部屋には重要なメンバー(家長の妻や母)が住んでいました。東向きや西向きの建物は通常、家庭内の初級メンバーや、分家、地位の低い親戚が使用します。
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彫刻されたモチーフにも意味があり、葡萄は子孫繁栄で、白菜は財運をもたらす縁起の良い食べ物とされています。これは白菜の中国語の発音が「百財」(たくさんの財産)と同じであることと、葉が重なり合って大きくなる様子が「財産がだんだんと増える」ことを連想させるためです。
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精緻な装飾に目が向いてしまいますが、短い見学時間の中でじっくり見ている間はありません。
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気を付けていないと周りに誰もいなくなってしまうことが何度もありました。
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喬家は道光9年の1829年に包頭の彩神廟街に「伏勝泉」を開業しました。さらに同治3年の1964年には「伏勝渓」も開店します。
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3つの商店では質屋と古着屋、飼料やと穀物屋、金融業の商売から合計19店舗を構え、500人以上の従業員を雇用していました。
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「在中堂」をはじめとする各院落では晋商の生活空間や、北方の農耕、商業、冠婚葬祭などに関する民俗展示が豊富で当時の文化を深く学べます。
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晋商は明代にはすでに全国的に名声を得ており、清代初期には中国北方の貿易と資金を独占するほどに発展しました。19世紀後半には全国の為替業務のほとんどを独占していたと言われています。
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「平遥」の「日昇昌」とこの「喬家大院」は必ず両方訪ねなければならないなと感じ、今回見学できなかった「王家大院」にも行きたくなりました。
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「三大鎮宅之宝」の1つである「犀牛望月鏡」は鉄梨木(たがやさん)で大きなサイが彫られ、その上に大きな鏡が乗っています。
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鏡は太陽であり魔除けでもあり、サイは中国では目出度い動物です。この部屋は2代目の息子の居室です。
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西太後によってもたらされた「九龍灯」はこの後見ることが出来ましたが、室内全体を映し出す「万人球」はどこにあったのか見逃したようです。
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立派な「祠堂」も個人宅ながら設けられています。もっとも600人以上が住んでいれば必要なものかもしれません。
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アメリカへ留学していた子弟の部屋にはこれまでにない装飾が施されていました。
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伝統的な中国の装飾の中に蒸気機関車が走っています。
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「中堂四号院」の一番奥の部屋は博物館になっています。
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喬家は国境防備のために資金を集めました。その資金で清国海軍に戦艦を寄付したようです。清朝は新北洋艦隊の建設にのりだし1888年に正式に成立しました。ドイツから購入した当時の最大級の戦艦の定遠、致遠を中心に、新式巡洋艦、魚雷艇を含む大小50隻の約5万トンから成り、同時代の日本海軍をしのぐものでした。
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その後清朝は軍艦購入を停止し、海軍経費2千万両をもって西太后の還暦を祝う頤和園の造営費にあてました。他方で日本はこの間に機動力にすぐれた10隻の中小新鋭艦を購入し、自力で建造した巡洋艦や鉄甲艦多数を含めて、1894年当時までに55隻、6万トンあまりの大海軍を建設しました。その後長崎事件と呼ばれる清国の水兵が長崎で乱闘を起こし、現在のような反清感情が盛り上がり日清戦争への1つの伏線となります。
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蝋人形の背後には五彩の見事な「平遥推光(すいこう)漆器」に衝立がありました。「平遥」の町の漆器店で高質のものを見ておいて良かったと思います。
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この屋敷には北清事変(義和団事件)の際に、日本を含む外国公館が攻撃され、八か国連合軍が北京に向けて進軍することから当時の権力者である西太后が西安を目指し避難するときこの経路を通り「平遥」を訪れます。
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このときに一行を迎えて接待したのがこの「喬家大院」の主でした。西安を目指すルートの地図の脇には「平遥」の「日昇昌」でも見た「八八宴」の料理の写真が載っています。
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八ヵ国連合軍に北京を攻撃されると、西太后は宮廷ごと西安に逃れました。このとき北京を離れることを拒んだ光緒帝の妃の珍妃を宦官である李蓮英に命じて紫禁城の井戸に投げ込んで殺したと言われています。珍妃の井戸が小さかったことを春に行った際のガイドさんに尋ねてみると現在は上に蓋をしているので開口部が小さくなっているということでした。
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この屋敷に残る「三大鎮宅之宝」と呼ばれる貴重な文物は必見です。国家一級文物の「犀牛望月鏡」、室内全体を映し出す「万人球」、そして西太后から下賜されたと伝わる「九龍灯」は喬家の財力と栄華を物語ります。
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一対の「九龍灯」がガラスケースの中に吊られてありましたが、確かに見事な彫刻でした。
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西太后の背後にある「九龍屏風」も見事でした。部屋一杯に置かれたこの大きな屏風はこの家の一番の宝物だそうで、清時代に皇帝の物を購入しました。花梨材で造られた九曲一双の屏風で、雲間に玉で彫られた龍が一頭ずつ彫られています。
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邸宅は博物館のようですが、迷路のような造りなのでものすごい距離を歩かされることになります。
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「影壁」には磚(せん)の壁の中に鳥や牡丹や蓮などのモチーフが描かれていて、富貴や幸運を願う象徴的な意味合いがあります。
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最初の喬家初代の喬貴発が友人と2人で馬の飼育を始め、後に運送業を手掛け、さらに豆腐店が成功し、為替業を営業するに至り中国各都市に多くの店舗を持つ商業金融資本家になりました。
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日中戦争の時は日本軍が祁県を占領すると、八路軍を支援する為に何度か武器弾薬を送っていましたが、最後に弾薬を送るときに密告されてしまいます。
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日本軍が殺戮に来ると聞いた一族604人は1938年9月に次々と北京や天津、上海や雲南に立ち去り、それ以来戻ることは無かったといいます。文化大革命前には部隊の一個大隊が進駐し、紅衛兵の攻撃を避けることが出来たようです。
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彫刻の多くは道教に由来する仙人の姿が多いように思えました。
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実際の邸宅内はものすごい数の見学者でしたが、誰もいない隙を狙って写真を撮り続けました。
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「喬景義の書斎と応接間と居間」
喬景義は喬致庸の次男で、喬志勇の長男である喬志光の用紙でした。喬志勇が存命であったためか内での権力はありませんでしたが、朝廷から官帽と孔雀の羽を賜り、巡回知事候補二品に任命されました。 -
この功績により君主貴族と親交を深め、北京と山西を頻繁に行き来し、軍資金の預け入れ、振替、送金を独占し、銀行の収益を莫大なものにしました。
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慈善家としても知られ、干ばつや洪水が発生する度に被災者の救済に惜しみない寄付をしました。
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「喬映璜の居室」
喬映璜と従弟の喬映霄はどちらも裕福な馬姉妹と結婚しましたが2人の性格は全く異なっていました。映霄の妻は派手好きの浪費家で、北京で誘拐されて殺害されます。 -
喬映璜の妻は貞淑で献身的な妻であり母親でした。映璜が公務で忙しい間、彼女は2人の娘と一人息子の喬仁の育児に専念しました。2人は伝統的で飾り気のない家具を配し、質素な暮らしを送りました。
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「喬映璜の書斎」
喬映璜は喬静義の次男で、有能で実力者であり、喬家宝村の村長と好調を務めました。家訓を厳格に守り誠実で自制心があり、学校と村政の工費は喬家がほぼ全額負担していました。 -
日本軍が周囲を占領していた当時、彼は自宅に保管してあった銃器と弾薬を全て抗日軍に寄付し、さらにその運搬費に技官500枚を寄付しました。
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30数年前に映画を撮影した時のまま建物は残されています。数々のシーンが思い出されてきますが、ここへは夕暮れ時に来たかったです。それかここだけは昼間でも提灯に明かりを灯してほしいです。映画の原題である「大紅灯篭高高掛」を実感します。
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コン・リー(鞏俐)演じる第4夫人の頌蓮(スンリェン)の部屋ですが、調度品は映画とは違っています。正面に置かれた椅子に座り、主人がやってくる日だけに施される足裏を叩くマッサージに恍惚する場面が思い出されます。実際はそのような習慣は無かったそうです。
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「喬致庸の書斎と応接間と居間」
喬致庸はこの中堂と呼ばれる邸宅の創設者で、喬家最盛期の当主でした。幼くして孤児となり兄に育てられました。勤勉で思慮深い学者であり、抜け目ない知略家でもありました。 -
保守的でありながら頑固ではなく、祖先の教えを厳格に守り、慈悲深く機転が利き、おおkの慈善活動を行い、幅広に人間関係を築きました。
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晩年も静かに瞑想しながら学問を続けて89歳まで行きました。「在中堂」の名は「喬家大院」の主である喬致庸の名が由来になっています。
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ここに来るまで30年かかりましたが、人生の中でやらなければならないことの1つを終えたような気がしました。
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長年の想いに浸っていたら我が家2人だけ迷子になってしまいました。気が付いた方が探しに来てくださって事なきを得ました。
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「福徳祠磚雕」
見事な磚の彫刻は邸宅のいたるところに設けてありました。下の穴の部分はお供えをする場所です。 -
「如意閣」の扁額の下には喬家の家訓が書かれてあるようです。喬家の教えは「天地に有益な者は功徳ある者と呼ばれ、世の教えに有益な者は名誉と呼ばれ、知識を持つ者は富裕、誠実で恥知らずな者は高貴と呼ばれる」と考えていました。
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清中後期の数少ない大商人の1つとして喬家の富や社会的地位、社会的威信は一時的に一般の商人には及ばないほどの高みに達しましたが、喬家の先祖は自分たちの富を名声や富とは見なさず、天地や世の教育に利益をもたらすかどうかを功徳的な名声とみなししていた。 これは深いイデオロギー的理解であり、また古代の正義の商人だけが持つ精神的な高みでもありました。
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「箱馬車」
映画の中で三つ編みの女子大生だった頌蓮(スンリェン)がこの家に向かう際にトランクを持って歩いていると輿入れの馬車が通りがかります。片や幸せの絶頂との対比を強く感じたシーンを思い出します。 -
当時の馬具がそのまま残されています。
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「楊氏の部屋」
喬映霞の最初の妻である楊は太谷出身の著名な学者だった楊慈山の妹でした。学問を重んじる家系の影響を受け、文学に精通し書画を愛好する女性でした。夫婦は邸宅の中で別々に暮らしていましたが夫婦関係は良かったようです。 -
息子を授かりますが出産した後に亡くなり、喬映霞は深い悲しみに暮れ、精神的に衰弱していきます。再婚した劉氏も同じ部屋に住み、息子をもうけました。夫婦は年齢差もあり最終的には離婚して、そのショックで映霞は精神疾患を再発してしまいます。
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「喬映霞の居間」
喬映霞は景義の出身で、叔父の喬景岱に養子として迎えられます。清廉潔白で民主的な思想を抱き、同門会(革命同盟)にも参加しました。先駆者としても知られ男は辮髪を落とし、女性は纏足を止めるように提唱し、家族の教育に加え巧嘉宝に小学校の建設資金を提供し、祁県中学校と太原光化私立女子高等学校の建設にも参加しました。 -
祖父の影響を深く受け、家訓と商習慣を厳格に守り、家業を拡大し繁栄を保ちました。大胆で決断力に飛んでいましたが、アヘンの材料であるケシの栽培の根絶をしようとした際は酢者や負傷者を出し、天津租界へ避難することになります。最終的には精神疾患を患い、何度か治療を受けたものの改善せずに1956年に北京で病死しました。
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集合時間まで日向ぼっこしていたらガイドさんがショップを探してきてくれたので、喬家の歴史や邸宅についての本と絵葉書を買い求めることが出来ました。
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同じツアーの方にシャッターを押していただきました。これだけは誰かの手を借りないと撮れません。
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一段上がってとお願いしたのですが、「大」の字なのか「太」なのか?
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家族の仲間に入れてもらいました。映画のロケ地ということだけでなく清朝末期の普商について多くのことを学びました。
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この後に何かイベントがあるのか太鼓を持った学生さんが長蛇の列を作っていました。これだけの人数だとすごい迫力なのでしょうね。キャスターが小さくて石畳なのでガラガラすごい音がしています。
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ラブブ(拉布布)に見送られて「太原」を目指します。実質3日間の観光でしたが、自分なりに夜遊びも出来て大満足のツアーでした。
太原南駅 駅
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