2025/10/23 - 2025/10/25
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しにあの旅人さん
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新宿紀伊國屋書店に行ってきました。
「それがなにか?」とおっしゃるのはごもっとも。
53年ぶりの紀伊国屋なのです。
投稿日:2025/12/19
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
紀伊國屋に最後に行ったのは1973年暮れでした。翌年初めにフランスに旅立ちました。実家は小田急線沿線でしたが、一時帰国や2010年に帰国してからは、新宿は乗り換えだけでした。
-
新宿駅東口に東京都庁舎ができたのは1990年です。1973年までの東口なんて、原っぱじゃなかったかな。駅前の広場に、なにやら小汚いビルが建っていただけのような記憶なのです。
ですから、もっぱら西口を歩き回っていたはずです。
ところが、な~~~ンにも覚えていません。
ホテルが新宿御苑前でしたから、グーグルさんによればホテルの前の道路をまっすぐに行けばいいだけ。
行けども行けども、あの懐かしのレンガ色のビルが出てきません。53年前の新宿って、こんなに切れ目なくビルがならんでいたっけ?
A4ファイルのインデックスのような看板を見つけたときには、ほっとしました。 -
ありました!
改築したと聞いていましたが、ファッサードは同じみたいです。 -
「紀伊國屋書店」も変わっていないみたい。
紀伊国屋は私の新宿の起点なのです。もっともほかはろくに覚えていません。
懐かしのご対面。
「53年ってどのくらい?」By妻。
壬申の乱が672年だから、天皇が天武から聖武まで6人代っている。
「古いたとえだね」
壬申の乱から53年前だと推古天皇だよ。
「さかのぼるな!」 -
一書に曰く、
最近は、本屋さんが減りました。
昔は、駅前には必ず本屋さんがありました。
プラス学校の近くには、文房具屋さんがあって、ここは駄菓子屋さんでもありましたが、新聞、週刊誌とかも置いてあって、ついでみたいに文庫本くらいはあったりしていました。
駅前の本屋さんは、朝夕の通勤、通学時間は、人があふれたものでした。
そういう時代、私たちは、紀伊国屋に入り浸ったのです。
紀伊国屋の社長さんは、当時、田辺茂一という人で、テレビによく出る文化人の一人でした。
文化人が経営する本屋は、文化的だろう。
とでも思ったんでしょうかね。あほなハイティーンby妻は。
よく行って、あのエベレストのようにそびえる本の山を眺め、時には触れて、焦り、満足して、疲れて帰ってきていました。
今思えば、焦る気持ちで、しっかり勉強すればよかったのにね。
文化的環境に身を置いたという満足感が勝ったのか、そのままになって、タイトルだけ読んだ本の数は数え切れず。
By妻 -
紀伊国屋ホールのポスター貼り場。左の階段、こんな感じのしょぼい階段でした。改築したっていうけど、どこを改築したんだろう。
-
やってきました紀伊国屋ホール。
高校2年ですから、1963年ごろです。
ここで大江健三郎の講演会がありました。高校の国語の教師が、この講演会のことを話して、
「昔の高校生なら、授業さぼって行ったもんだ。おとなしく授業を聞いているようじゃ、だめだ」というようなことを話しました。
ふ~ん、そうか、と親友と二人午後の授業をさぼって行きました。
大江の講演会の内容は覚えていません。
臼井吉見 の「大正文学史」を読んだあとで、本の中の若い作家たちに自分たちを重ねて「青春しているんだなあ」と、二人で意気揚々と新宿の街を駅まで歩きました。
その友達はいまはもういません。だいぶ前に亡くなりました。
この話には後日談があります。
わたしたちは教師たちに褒められたそうです。元気があってよろしい、ということらしい。
ところが、同じ教師にそそのかされて、By妻も友達と来ていたのです。
私は知りませんでした。2年からはクラスが違いました。
こっちは怒られたそうです。「授業をさぼって講演会にいくとは何事だ!」
褒めた教師と怒った教師が同じか違うか、詳しいことは知りません。
By妻はいまでもこの件を話すと激怒します。
一書に曰く、
あ~やめて、やめて!
思い出したくもない思い出です。
しかもその時の大江健三郎が、何を話したのか、全然おぼえていない。
「飼育」を読んだばかりだったので、期待して行ったのに。
聞き取れないくらいの声で、ぼそぼそ、ぼそぼそ。
右に積んだ本の山から、一冊づつ左に移して、本の山が左に移ったら、右に移して。左に移して。
何を観にいったんだろうね。
しかも、バカもいい加減にしてほしいのは、それに感激したんですよ!
ハイティーンby妻は。
あー、いやな思いでだ。
消えろー、消えてくれー。
By妻 -
紀伊国屋の地下にやってきました。
かつてこのあたりに「ぼてじゅう」というお好み焼き屋があったのです。
この角のあたりか、 -
もう一軒先か、はっきりしません。
いまはもうないお店を訪ねる旅も変なものです。しかし紀伊国屋とぼてじゅうはセットでして、紀伊国屋に本を買いに来ると必ずぼてじゅうでお好み焼きをたべることになっていたのです。
この時代、大きな本屋はこの紀伊国屋と渋谷の大盛堂書店でした。大盛堂は今のスクランブル交差点ではなくて、もっと駅の北より、国鉄(!)の線路沿いだった記憶があるのですが。
日本橋の丸善は、なんとなく私には敷居が高かったのです。
新宿より電車賃かかるし。
私たちの買う本なんてたかがしれていました。1970年代初めまで文庫本は岩波、角川、新潮だけだと思います。どこの駅前にも小さな本屋はあり、たいていそこで用が足りました。
岩波文庫のダンテの「神曲」がないかと親父に尋ねたら「うちには音楽の本はおいていません」と言われたことがあります。こういうときは大きな本屋にいきます。
「神曲」は覗いてみたら皆目わからん。立ち読み5分でやめ。紀伊国屋だったかな。
私はBy妻とぼてじゅうで食べた記憶があります。
今回二人で、ぼてじゅうに行ってみることにしました。センチメンタルジャーニイです。
ぼてじゅうは今も場所を変えて新宿にあります。
もっともそれが私の知っているぼてじゅうかどうかは、わかりません。同じなのは店名と、お好み焼き屋であることだけ。
一書に曰く、
ぼてじゅうには、二人で行ったでしょ?
って、by夫が、何回も聞くから、
行ってないよ。と答えていました。
だってね。大江の講演会を思い出すからね。
その話はするな。
という気持ちだったんだけど。
わけわかんなくなったby夫、何回も聞いてくる。
あ~しつこい。
で、とうとう言いました。
来ましたよ。あなたと。
高校の時ではなかったけれどね。
私には、紀伊国屋+by夫+文学→大江の講演会
という図式ですからね。
ぼてじゅうで食べたときも、フランス文学とか語ったんじゃないの。
ぼてじゅうに恨みはないです。
By妻 -
グーグルさんをたよりに街を歩きました。歌舞伎町の入り口かな。
昔ここから先は、すこぶる卑猥な街でした。今はだいぶ上品になったらしい。 -
歌舞伎町の奥になにやら見覚えあるものが
-
これがうわさに聞くゴジラヘッドか。
ゴジラって、歯並び悪いね。ちゃんと歯磨きするように。
有楽町の東京ミッドタウンにいらっしゃる、由緒正しい初代ゴジラの頭です。
詳しくは、こちらをどうぞ。
「歌舞伎、「君の名は」、ゴジラ (勝手にフェスティバル4)」
https://4travel.jp/travelogue/11996247#google_vignette
たしかあのあたりに新宿コマ劇場がありました。
当時、野球の早慶戦に勝つと早稲田の学生は、劇場前の噴水で泳いでおりました。 -
現在のぼてじゅう。
新宿サブナードという地下街にあります。
地下街は1973年開業だそうで、私が日本にいるあいだにぎりぎりできていたらしい。 -
ほとんどがテーブル席。
紀伊国屋地下の時はカウンターがメインでした。目の前で威勢のいいお兄さんが焼き上げて、「ナアントか~」と言いながら出してくれました。 -
ここではこんな風に、焼きあがって、鉄鍋に乗って出てきます。
ちょっと記憶と違う。
お好み焼きと、焼きそば盛り合わせ。注文の仕方が悪かったかもしれません。
昔はこういうかっこつけた盛り付けじゃなくて、なにやら混ぜ込んだお好み焼きを、十文字にぶった切って、目の前の鉄板に突き出してくれたような記憶あり。
おいしゅうございました。
一書に曰く、
そのときは、カウンター席で、目の前で焼いてくれました。
私は、叔母の連れ合いが大阪の人で、遊びに行くと、よく作って食べさせてくれました。
ですから、お好み焼きって、家庭料理だと思っていたんです。
外で、お好み焼きを食べたのは、初めてでした。
そういうぼてじゅうは。
探してきたんですよ~。と、言う気にもならない外国人スタッフ。
外国人スタッフは、一生懸命で、応援していますけど、こっちが甘えるようなことはできないよね。仕事の邪魔だもの。
昔の、経験豊かな人に、あっちには関係ない昔話なんかして、
そうそう、そうだった。とか相槌打ってもらって、
最後は、「この辺も変わりましたわ~。」
で終わるのは、今や、夢のまた夢です。
こんなことが、贅沢になるなんて!
By妻 -
メニューに貼ってあった写真。
紀伊国屋地下時代の写真はありません。
ぼてじゅうはいろいと枝分かれしたお店のようです。別の枝のお店なのかもしれません。
53年もたつと、センチメンタルジャアーニイは行き止まりのようです。
おおきな違いがひとつ、ふたつ。
お店の調理場にいた男性も、サービスの女性も外国人でした。流暢な日本語を話しました。
新宿の街は外国人観光客がいっぱい。
53年前の新宿では外国人は稀でした。
ミニスカートのお嬢さんがソフトクリーム食べ歩きをしていました。信号待ちのあいだに、ぺたんと歩道に座りました。ウ▲コ座りというやつ。
お疲れのようで。
これも昔はいなかった。 -
中村屋、1901年開業の老舗です。
カレーを食べてきました。
「また何年ぶりかの中村屋でしょう?」と思われた方もいるかも。
あたり、今度はBy妻67年ぶりです。
明治維新から67年まえというと、
「天皇は何人かわった?」
徳川家斉ですから、将軍は5人代わっております。
一書に曰く、
中村屋は、母との思い出のお店です。
私が小学生の頃の母は、内気で恥ずかしがり屋さんでした。
昔ですから、スパーマーケットなんてなくて、日々の買い物は、個人商店でします。
八百屋さんとかお肉屋さんとは、普通なのですが、母は、魚屋さんが、だめで、
「へい!いらっしゃい!今日は、ナントカがいいよ!」って、「!」だらけの会話に入れずに、買えないんですよ。
あの~とか言ってると、横から、よその人にイワシ頂戴。とか言われて、注文できない。
あの~、あの~。
最後は、魚屋の大将が、他のお客に、ちょっと、待って。奥さん何にするね。って言ってくれて、やっと買えるというわけで。
そういう母が、父と一緒でなくて、外食できるお店が、中村屋でした。
私は、兄と妹の三人兄妹なのですが、このころ、家族で船には乗らないようにしようと、心に決めておりました。
万が一、船が遭難したとき、兄は長男だから、父が助けるだろう。
妹は、まだ幼いし、かわいいから、母が抱いて助けるだろう。
とすると、私は?私はだれが助けてくれるの?
と、思っておりまして。
はいはい。どうせ、私は、船に乗ったら、おぼれて死ぬのよ。
と、ふてくさっていたんですね~。
だからなのでしょうね。
ある日、母が、私一人を連れて行ってくれたのが、中村屋でした。 -
カレーを食べながら母は、ちゃんどらぼーす、そうまこっこう とか話してくれたのですが、ぼーすって何よ。坊主って、海坊主?ってくらいの感じね。
チャンドラー・ボース、相馬黒光のことだとわかったのは、ずっと後のことでした。
By妻
ここででてきたチャンドラー・ボースは、ラス・ビハリ・ボースのまちがいです。インド独立運動のリーダーであることは変わりなく、チャンドラ・ボースを日本に亡命させたのも、こちらのボースだったそうです。
当時は日英同盟がまだ生きていて、中村屋の創業者相馬愛蔵と黒光夫婦が命がけでボースを匿い、娘の俊子と結婚させています。
ボースが初めて本格的インド・カレーを日本に紹介しました。 -
これがその「純インド式カリー・ライス」
鶏肉でした。間違ってもビーフカレーではない。 -
一書に曰く、
店内に飾ってあったラス・ビハリ・ボースと俊子の写真。
中村屋の創業者夫婦の相馬愛蔵、黒光は、たくさんの芸術家の支援をした人達でした。
青木繁の生涯を、多少調べた私たちには、それがどれほど尊いことかと、しみじみ思います。
また、インド独立運動も命がけで、支援したということです。
戦後、ネール首相から贈られた象は、名前がインディラで、ネールさんの娘の名前なんだそうです。
後の首相、インディラ・ガンジーさんですね。
でも、普通、娘の名前を、動物につけるか?
と思ったものですが、インド側に、それだけの思いがあったのですね。 -
母親の黒光と俊子。
今、東京は江戸川区葛西という町は、インド人街になっております。
地下鉄から通りに出ると、二人に一人に割合で、あちらの方のようでした。
インドの人達が、こうやって、日本を好きなもともとは、ここ中村屋の相馬夫妻にあったのですね。
日本で言ったら、坂本龍馬、西郷隆盛といった国民的英雄の妻が、日本人って、すごくない?
かっこいいですよね。
By妻 -
翌日東京の定席寄席、新宿末廣亭に行ってきました。
浅草演芸ホール、上野鈴本に続いて3軒目です。残すは池袋演芸場、いつか行ってみたい。
伊勢丹の隣で、昭和21年(1946年)から今の位置にあるということです。このあたりは何回も歩いたことはあります。ところがなんにも覚えていません。
一書に曰く、
末廣亭って、買い物によく来た伊勢丹そばで、えっ、こんなところにあったの?って場所にあります。
知っていたら、もっと来たのに。
フランスの知り合いが遊びに来て、どこに連れて行けばいいやらって、苦肉の策で行ったのが最初です。
選択は間違いでした。
日本語は、しっかりわかる人でしたがね。
フランスの笑いは、かなりえぐいのですよ。
でも、心にゆとりと教養のある私には楽しかった。
おっほほ
ということで、ぜひ、もう一度来たかったのです。
By妻 -
江戸情緒を強調した特徴のある正面です。
当時の面影を残した、新宿区の地域文化財だそうです。
当時の私は落語など伝統芸能にまったく興味がなかったので、見れども見えず状態だったのです。 -
浅草も上野も寄席に並んで入ったことはありません。開館時間に行ったら、長蛇、でもないけれど、結構並んでいます。
一書に曰く、
始まる前に、まず列ができていました。
お年にゆとりのあるご婦人は、洋の東西を問わず、見知らぬ人との会話をお楽しみになりますね。
直截に言うと、おばあさんて、だれとでも話すのよね。
わたくしも、そういう年になったのか、つい列に並びつつ、前の人に、
並んでいますね。いつから並んでいるのですか。
我ながら、どうでもいいことを聞きます。
聞きながら、見りゃ分かることだし、いつから並んでようとほっとけと、自分で思いますが、しゃべってみたかったのですねえ。私としては。
これから、この楽しい空間を共有しましようねってこと。
お楽しみのイントロですよ。
お相手してくださったおねえさん。
なかなかの美人さんで、こういうお年の女性は、もっと違うコンサートとかに行くのではないかと思いますが、まるで、ご自分の家のように、ご自分の指定席のように、さっさと座っていらっしゃいました。
いいなあ、豊かさってこういうことですね。
By妻 -
一緒に並んだ若い女性によると、市馬が出るかららしい。
木戸銭を払うとき見たら、ほとんどの方が会員券を持っていました。常連さんなのです。
入場したらすぐに前座の口演が始まりました。
開演前10分です。
本当に前座なんだ。 -
上野鈴本などですと、ここで会場紹介の写真が入ります。ところが末廣亭では会場風景も含めて撮影はまったく禁止です。
4トラブログ泣かせです。 -
しゃ~ない、プログラムの写真などでお茶をにごします。
いつもそうじゃないか、という声はさておき。
浅草や上野に比べて、知っているネタが多かった。
林家彦いちの「茗荷宿」
今夜の主任柳亭市馬の「寝床」
「茗荷宿」は聞いたことはありませんが、筋は知っていました。
「寝床」は何度も聞いたことがあります。
それでも面白いんです。
前日の狂言や能もそうですが、古典芸能は何度みても面白い。
今日日の漫才は、たま~~にテレビでしか見ませんが、あれ、二度見ても面白いのかな。
そういえば、漫才の古典的名作というのはききません。
「漫才」はいつのまにか「おわらい」という言葉に代わっていました。
国鉄→JRなど、53年の間に変わったものに追加します。
一書に曰く、
えらそぶって言うわけだけど、一度でも寄席に来たら、テレビのお笑いってつまんなくないですか。
テレビの、そういう番組見てるとき、ふと思うんですよね。
この人ベンツ乗ってるんだよね。
だからなんだ?ベンツがなんだ?って、思ったでしょ。
そうなんだよねえ。どってことないよね。ふんっ
それに、彼、もうじき車変えるでしょ。
パトカーに。
おねえさんに、帰るときに、もう一回会って、握手して別れたかったけど、もう、いなかった。
楽しかった。 -
新宿駅西口だと思います。
古戦場です。
1968年10月、大学紛争真っ最中、新宿擾乱事件の現場でした。
私はテレビで見ていただけ。
数万人の野次馬が集まり、テレビ中継されました。
センチメンタルジャーニというには重すぎる話なので、ここでやめにします。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2025/12/23 07:15:23
- 学生時代♪
- しにあの旅人さん おはようございます。
いつも拝読しておりますが、コメントをなかなか書けなくて申し訳ありません。
尾張名古屋は城でもつ、などと今では耳慣れない言葉ですが、写真の印象は消えても、文章の面白さはいつまでも残ります。しにあさんの旅行記は文でもつ、というところでしょうか。
しにあさんの旅行記の魅力を高めているのは奥様の類まれなるユーモアあふれる文章力ですね。旅行記はby妻さんでもつと言ってもいいんじゃないかな。
お二人が同級生だった、似合いのカップルとして学校でも評判だった、とは有名な話です。お二人が交わした愛の手紙は、抱腹絶倒、学校の文集に出すには問題があると職員会議の議題になったとか、ならないとか。
私も同級生と一緒になりたかった、思い出も、話題も共通、しかも初恋、しにあさんが羨ましいですよ。私なんか、美人だというだけで結婚したわけですから。(これは嘘です。)
紀伊国屋とは関係ない話で失礼しました。学生時代の懐かしい話を楽しませていただきました。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2025/12/24 09:22:20
- Re: 学生時代♪
- 文章で勝負しようというコンタン、読み取っていただいて嬉しいかぎりです。
まずざっと私が書きあげて、印刷してBy妻に渡します。これをBy妻がクソミソにこき下ろして、私が逆らって、いつも離婚寸前になります。
それからいちゃいちゃと仲直りして、出来上がるのが私たちのブログ。
By妻のユーモア(妄想力)は相当なもので、いつも抑えるのに大変です。前日光さんなど、ファンは私より多い。
同級生と結婚すると便利です。一年中同窓会ですから、同窓会の通知を出さないですみます。
話題が途絶えるといつのまにか、共通の友達を俎上に挙げてこきおろしています。
今年もあとわずか、いっぱい楽しませていただきました。来年もよろしくお願いします。
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