2025/06/27 - 2025/06/27
19位(同エリア216件中)
Decoさん
この旅行記のスケジュール
2025/06/27
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三井港倶楽部、一階(ロビー、四山の間、宮浦の間)
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ランチ(有明の間)
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三井港倶楽部、二階(ホール、三川の間、勝立の間、大浦の間、万田の間)
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團琢磨像と大浦坑遺址
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この旅行記スケジュールを元に
かつて三井の迎賓館、また三池港に寄港した船舶の高級船員の宿泊施設であった三井港倶楽部(大牟田市)。
現在はフレンチのレストランや結婚式場として使用されています。
6月の晴れた日、四年ぶりに母と訪れランチを楽しみました。
(2025年7月8日公開)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
-
6月27日、四年ぶりに三井港倶楽部へ。
昨年二月に母が退院して、そのお祝いで食事をしたいと思いましたが、骨折の退院後は徐々に行動範囲を広げて行くのが精一杯。次いで母の誕生日を考えましたが、7月で酷暑となり断念。今年は6月に訪れることに。
母もかなりの高齢となっており、もう一度訪れたかったのです。
予約は二日前に入れました。歩行に難がある母には雨天は避けたいし、そのためには直前に天気が安定していることを見定めなければなりません。
既に公式サイトでは満席表示が出ていましたが、電話してみると、一席だけ残っていました。
*四年前の旅行記は「三井港倶楽部にて、春のランチ」
https://4travel.jp/travelogue/11696257二階の見学も by Decoさん三井港倶楽部 グルメ・レストラン
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三井港倶楽部は三池港(世界遺産)の開港(明治48=1908年)と同時に三井の社交場、迎賓館として、また外国高級船員の休憩・宿泊施設として設けられました。
シンガポールにあった英国領事館をモデルとした、ハーフティンバー様式(意図的に木製フレームを外に露出させた様式)で清水組(現在の清水建設)の施工です。
2004年に三井鉱山の経営難により閉鎖されるも、翌年港倶楽部保存会により営業再開(旧三井的倶楽部)。この頃は比較的リーズナブルなランチなどが提供されていたようです。
2017年に三井松島産業へ譲渡され、翌2018年改修工事を経て三井港倶楽部として営業再開。フレンチのレストランとなり、結婚式も行われるようになります。 -
入口で予約した旨連絡を伝え、ロビーへ。写真は内側から見たエントランスです。
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入口横のスペース。クラシカルで華やかな雰囲気です。
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イチオシ
【ロビー】
席の用意が出来るまで、しばしロビーで待ちます。 -
クラシカルな意匠の窓。
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外にはテラスもありますが、残念ながら外装工事中。
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【四山(よつやま)の間】
ロビーの西側、四山の間です。
かつては船員たちの憩いの場、また読み書きの場として使用されました。
現在はVIPルームということで、結納や法要などに使用されているとのこと。
伊藤博文の書も掲示されているということで、写真にうつっている書でしょうか。
四山は三池港の南側、大牟田市(福岡県)と荒尾市(熊本県)の有明海沿い付近に広がる地区です。
~四山坑~
「四山の間」は、おそらく四山坑から名付けられたと思われます。
大正13年(1923)に設けられ、第二次大戦前から戦後の全盛期まで三池炭鉱を支え、昭和40年(1965)に閉坑しました。三池炭鉱、7番目の近代坑です。
四山の緑の小山のを背景に、海沿いに大きな鉄筋コンクリートのワインディング式竪坑櫓が設けられ、炭鉱を紹介する絵葉書にもなりました。
現在はメガソーラーになり、煉瓦造りの門や塀、擁壁などが、わずかに往時の面影を残しています。 -
このときは食事中の方がいらしたので撮影せず。こちらは四年前の写真です。
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【宮浦の間】
ロビー東側側の「宮浦の間」。
この写真には写っていませんが、井上馨(伊藤博文内閣の外務大臣)の書もあるそうです。
私が撮影した写真の下に、説明写真を組み合わせています。
~宮浦坑~
部屋の名称は宮浦坑よりとられているようです。
宮浦坑はその敷地後の一部が、大きな煙突が残る宮浦石炭記念公園になっています。
明治21年(1887)から昭和43年(1968)まで81年に渡り三池炭鉱の主力坑として採炭され、その豊富な石炭をもとに、化学コンビナートが形成されました。
世界遺産である万田坑や宮原坑、あるいは争議や事故の舞台であった三川坑に比して知られてはいない坑ですが、三池炭鉱には極めて重要な坑でした。
大浦坑、七浦坑に続く三池炭鉱3番目の近代坑です。 -
イチオシ
【有明の間】
ランチの用意が整い、有明の間へ。港倶楽部で最も広い部屋です。
かつてはビリヤード台なども置かれ、娯楽の場でもありました。
大宴会を催すために拡張され、そのため元々の柱がホール内に残っています。
~有明坑~
「有明の間」…港倶楽部の各部屋の名称はかつての坑の名前から付けられているようですが、有明坑は大牟田市の北隣の三池郡高田町(現在はみやま市)にあった三池炭鉱最後の坑です。
昭和33年(1958)に日鉄鉱業によって開発が始まりましたが、大量の湧水などで中断、同47年(1972)に三井鉱山が買収して、51年(1976)から採炭が始まり、三池炭鉱の閉山(平成9年=1997)まで稼働し続けました。
三池炭鉱の最後の坑、9番目の坑でした。 -
着席したテーブル。鮮やかなデザインのお皿が目をひきますが、これ飾りのようで、料理の提供前に引かれました。
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メニューです。スタンダードのコースで税別で6050円。四年前はハーフ(メインが魚・肉料理から選択)でしたが、税込で3,000円未満でした。インフレ以前とはいえ破格のお値段でした。恐らく多くの人に港倶楽部を知ってもらおうという目的で設けられていたのではないかと思います。
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ノンアルコールのワインを追加。左がややドライな味わい、右がスウィートな味わいでした。
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まず、アミューズから。
白魚のフリット あおさの香り
季節のロワイヤル
パテドカンパーニュ 日向夏のマルムラード -
続いて冷前菜。
ホワイトアスパラガスとスモークサーモン スナップえんどう豆を添えて
牛乳のクリーム(白)、茗荷のクリーム(緑)が添えられいて、特に茗荷のクリームは香り濃く、スパイシーささえ感じる個性的な美味しさでした。 -
次はスープです。
春牛蒡のポタージュ 胡麻の香り
牛蒡のほのかな香りとカリっとした食感、まろやかな味わいのスープでした。 -
料理とともに、順に三種のパンが順に供されました。紙の下には熱された石が敷いてあり、温かいパンが食べられます。
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魚料理です。
旬の鮮魚のポアレ 藁焼き大根
コキアージュア・ラクレーム。 -
肉料理は博多地鶏が予定されていましたが、食材の都合でブランド豚に変更。
ポテトを使ったクリームソースがまろやかでした。 -
デザートはパンナコッタ、アイスクリーム、レモンケーキ、そして抹茶のケーキ。
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飲み物はエスプレッソを選択。最後に暖かいジャスミンティー。
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スタッフの方に写真を撮っていただきました。
格式のある建物でのフレンチ。やや緊張気味のDecoでしたが、堅苦しい雰囲気もなく、穏やかで楽しい食事ができました。
美味しい料理を提供してくださった厨房の皆さん、温かく丁寧なサービスをしてくださったホールのスタッフの皆さん、ありがとうございました。 -
四年前から、もう一度訪れたかった三井港倶楽部。
この三池炭鉱の歴史の一部を成す、この建物と雰囲気の中でのランチは特別なもの。港倶楽部ならではのものでした。
慎ましやかなDeco宅には、かなり予算的に頑張ったランチではありましたが、それ以上の価値があるひと時でした。
これで食事は終わりますが… -
四年前は美味しい食事と歴史を感じる雰囲気の中で、二階を見学することを忘れていました。
母にはロビーで待ってもらい、階段を上がります。 -
階段上部の意匠が独特です。
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階段途中から一階を見ます。右が入口、左がロビー。
中央通路の先に食事をした有明の間があります。 -
【二階ホール】
二階ホール。結構広くて、宿泊客のロビー的な場所だったのでしょうか。
婚礼の意匠が飾られています。 -
二階には四つの部屋がありますが、三池炭鉱の坑名から名付けられました。
窓からは隣接する三川坑跡が見えるとのこと。 -
窓に向かうと、三川坑跡の建物が見えました。
~三川坑~
三川坑は昭和10年(1935)に開坑。三池炭鉱の最盛期からその終末まで現役で稼働し続けました。三池争議や三川坑炭じん爆発事故が起こった場所でもあります。
三池炭鉱、8番目の坑。
三川坑ができる前は与論島から働きにきた人々の社宅や、一般の民家・商店・神社などもあったようです。後、与論の人々は三池港北側の新港社宅に移ることになります。 -
こちらは以前撮影したものですが、三川坑跡から見た三井港倶楽部です。
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二階には四つの部屋がありますが、階段横の部屋から見学します。
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【三川の間】
宿泊客の談話室として使用されたそうです。
”三川坑”からこの部屋が名付けられたわけですが、三池港がある一帯は三川地区と呼ばれ、また大牟田市と合併する前は三池郡三川町でした。港倶楽部にも三池港にも深い関わりがある名称です。 -
イチオシ
建物の東側、一階の四山の間の上部に位置していて、窓の意匠などからもロビーのような雰囲気が感じられます。
額に飾られているのは伊藤博文の書。明治15年、官営だった三池炭鉱を訪れた際のものです。 -
窓からは庭園が見えます。
-
残りの三部屋へ。
左から勝立の間、大浦の間、万田の間が見えます。 -
勝立(かったち)の間と大浦の間。ともに船員の宿泊に使用されました。
現在は婚礼の衣装部屋などに使用。 -
【勝立の間】
洗面台が付いており、宿泊に使用されていたことがうかがわれます。
~勝立坑~
この部屋は”高取山の南側に位置する勝立坑”から名付けられました。
三池炭鉱は、藩政期の頃から炭鉱内の地下水に悩まされました。勝立坑は大浦坑、七浦坑に続いて三番目の坑として掘削されました(明治18年=1885着工)が、大量の出水や地震のために工事が進まず、團琢磨が欧米を視察、デビーポンプを導入(明治26年=1893)してその二年後に開坑します。
このデビーポンプは続く宮原坑や万田坑(ともに世界遺産)にも導入され、大きな難点であった地下水の問題が解消されました。三池炭鉱に大きな前進をもたらします。
勝立坑は、技術的な転換点をもたらした坑であり、竪坑櫓の基礎部分のみが現存しています。
大正15年(1926)に運転が中止され、昭和3年(1928)に閉坑式が行われましたが、昭和23年(1948)~25年(1950)に再び採炭されました。
*勝立坑の開坑が遅れたために、宮浦坑の工事が始まりこちらが先に開坑しました。そのため、操業開始は三池の近代坑において4番目の坑となります。 -
【大浦の間】
婚礼の衣装が飾られていました。
~大浦坑~
名前のもととなった大浦坑は、三池炭鉱の故郷、高取山の東側(稲荷山)に位置し、安政4年(1857)に三池藩によって開かれました。そして官営化を経て明治11年(1877)、西洋近代技術が投入されて斜坑が建設されます。大正15年閉坑。第二次大戦後(昭和21~31年)に再び採炭されました。
三池炭鉱の近代化の始まりとなった坑の名称が部屋の名称になっています。 -
【万田の間】
最期は万田の間です。
こちらもかつては船員の宿泊に使用されていました。現在は展示室になっています。ご覧いただくとわかるように、昭和天皇の三川坑行幸(昭和24年=1949)の際の調度品や写真が展示されています。
*このとき、昭和天皇は坑道に入られたのですが危険を避けるために模擬坑道を設けて見学されたそうです。 -
~万田坑~
万田の間は、世界遺産の万田坑(荒尾市)から名付けられました。
明治35年(1902)年に出炭を開始し、昭和26年(1951)に採炭は終了。その後も三池炭鉱の地下水の排水のために施設は維持され、閉山(平成9年=1997)でその役目を終えました。三池炭鉱、6番目の坑です。
三池炭鉱は、柳河藩家老小野家と三池藩によって採炭され、明治6年(1873)に官営化、明治22年(1889)に三井に払い下げられました。しかしその後も、同じ世界遺産の宮原坑(明治31年=1898~昭和6年=1931)まではその建設などには政府の意向も影響していたそうです。
それに対して万田坑は三井鉱山が総力を挙げて東洋一の近代的な炭鉱を目指して建設したものです。いわば、三井が、團琢磨が理想とする炭鉱を実現しようとしたものだったと思います。
近代的な設備に鉱員社宅が整備され、福利厚生も整えられました。それは今も万田坑跡を歩くと感じられるのではないでしょうか。
また、それまで三池炭鉱で行われていた囚人労働や、過酷な下請け制度である”納屋制度”も万田坑では行われませんでした。三池集治監からは万田坑への囚人の派遣も打診されましたが、團琢磨が謝絶したそうです。 -
イチオシ
こちらが昭和天皇行幸のおりに用いられた応接セット…ということはお座りになられたのでしょうね。椅子はオーダーメイドとのこと。
この他キャップランプや衣装も展示と説明にありましたが、それらしいものは見当たらず…撮影し損なったのかも知れません。 -
昭和天皇のお写真。戦後人間宣言をされた後ではありますが、当時は笑顔の写真は珍しかったとか。
当時の石炭は貴重な国産のエネルギー。昭和天皇も並々ならぬ期待と関心を持たれていたようです。 -
二階の広間の奥にあったトイレですが、こちらも堂々としたドアで撮影しました。
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しばし、明治の浪漫に酔いしれるDecoでしたが、待ちきれずしびれを切らしたDeco母から声がかかり、現実に引き戻されて一階に降ります。
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階段部分の上部。丸窓は船を想起させるような意匠です。
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二階を見学することで、一階とあわせて三井港倶楽部の歴史と伝統を体感することができたように思います。
港倶楽部でお食事をされる方は、是非二階もご覧いただければと思います。 -
【團琢磨像と大浦坑遺址】
倹約家のDeco母も港倶楽部で食事をして良かったとのことでした。
駐車場付近に團琢磨の銅像と大浦坑遺址があります。 -
かつて大浦坑が閉坑したときに設けられ、團琢磨自らが揮毫した遺址です。
大浦坑跡は現在は市の最終処理場となり、坑口は保存されているものの、扉で閉ざされその面影はありません。
こちらの遺址は貴重なものと思います。 -
團琢磨が残した言葉
”石炭はいつかは無くなるが、港(三池港)を築いておけば、百年の基礎とになる”といった内容です。
團琢磨は三池港だけでなく、化学コンビナートも建設し、それは今も大牟田市の産業において大きな役割を果たしています。実に、先見の明があり、今も大牟田市民は團琢磨の恩恵を受けてると思います。市にとっての大恩人です。
ただ、私は単純に偉人として見ることはできません。それは、三池炭鉱には負の歴史・陰の部分があるからです。特に近代化された初期においては過酷な囚人労働に依存し、また与論島から働きにきた人々への、厳しい労働と低賃金の問題もありました。團琢磨が三池炭鉱に着任したとき、既に囚人労働は始まっていましたが、初代事務長であった以上、その陰の部分に大きく関わっていると言わざるを得ません。
人の命の価値に差をつけ、尚かつ消耗品のように扱っていた囚人労働などがあったことは、第二次大戦下の外国人・捕虜の労働、さらに後の三川坑などの事故とも無関係ではないと、私は考えています。
ただし、最終的に囚人労働を廃止したのは團琢磨。また社会の恥部ともいわれた下請けの「納屋制度」もその依存度を徐々に減らし廃止しています。鉱員の待遇改善に努め福利厚生を整え、炭鉱を技術だけでなくそこで働く人の生活も含めて近代化したのも團琢磨の意志です。
そして何より多くの人々が炭鉱で働き、炭鉱に直接間接に関わることで生活を営んでいたことは、とても尊いことだと思います。
近代三池炭鉱の基礎を作り導いた團琢磨こそが、その光と影を象徴する人物ではないかと、私は感じています。 -
年譜
團琢磨の生涯をふり返ると、一つのことに気づきます。まだ少年と言って良い年頃で米国に留学して大学(初期のマサチューセッツ工科大学)を卒業して帰国していたということ。多感な青少年期を過ごしたアメリカという国を身をもって理解していました。
それ故、第二次大戦前にはなんとか米国との関係を修復しようと動きますが、そのことで暗殺されてしまいます。余談ですが、彼の孫で作曲家の團伊玖磨氏が実業ではなく、音楽の道に進んだのは、祖父の非業の死が影響しているそうです。 -
イチオシ
三井港倶楽部は世界遺産・三池港と共に誕生し、三川坑に隣接しています。それは「三池炭鉱の光と影」と共に存在し続けるということであり、港倶楽部自体もその一部を成している歴史の生き証人です。
四年前から三池炭鉱に興味を持ち、見て、歩いて、調べた後、再びここで時を過ごし、建物に刻まれた歴史を感じると、その光と影に、一際感慨深いものがありました。
帰途の車の中で、母が思い出話をしました。シアトル育ちの日系二世であった母方の祖母は、戦後の一時期、三川の町で英語を教えていたそうです。生徒は子供や学生ではなく、海外航路に乗る船員さんたちでした。祖母も一時とはいえ、三川の町に、三池港に関わりがあったことを聞いて、感傷めいた気持ちになりました。
ご覧いただきありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (8)
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- ma-yuさん 2025/07/12 22:45:23
- 三井港倶楽部
- Decoさん
こんばんは!
旅行に行ってましてコメントが遅くなりました!
三井港倶楽部を拝見しますと昔の三井財閥の反映が伺えますね!
皇族や政財界の方々も来られて社交場、迎賓館なんですね!
各お部屋を拝見しても豪華だけでなくクラシカルで華やかなお部屋が多い。
【宮浦の間】や【有明の間】も素敵ですね!
財政難で閉鎖から港倶楽部保存会で再開されて良かったですね!
再開にあたりご苦労されたと思います。
私はこのような場所でコース料理は緊張します(笑
どれも綺麗な盛り付けで美味しそうです。
このようなゴージャスなレストランなのにコスパはいいのでは?
人気があるのがわかりますよ。
お母様も喜ばれたでしょうね(^^♪
ma-yu
- Decoさん からの返信 2025/07/13 06:44:04
- Re: 三井港倶楽部
- ma-yuさん、おはようございます。
お忙しいところコメントをいただきありがとうございます。
港倶楽部は三池港と共に設けられ、炭鉱が日の出の勢いだったころの、三井鉱山の迎賓館。あの建物で食事ができるのは貴重な体験でした。
有明の間が食事のメイン会場かと思いますが、宮浦の間も落ち着いた雰囲気です。
炭鉱の閉山後、取り壊しの話もあったそうですが、維持されて良かったです。現在はまた三井系の企業が運営していますが、それまで運営に努力された保存会の功績はとても大きいです。
四年前にも一度訪れていますが、今回は結構緊張していたのです。母が無事食事できるか、雰囲気に馴染めるか…。でも行ってみたら、堅苦しい雰囲気はまったくなく、スタッフの皆さんも穏やかでとても良い時間を過ごせました。お値段は以前に比べると…ですが(笑)、フレンチのコースで料理の内容を考えれば十分以上の価値があり、あの建物での食事は他では経験できないものです…だから予約もいっぱいになるんでしょうね(^^ゞ
母は、行く前はもったいないだの、あれこれ言っていましたが、食事したら「やっぱり来て良かった」と言っていました(#^^#)
Deco
-
- むっちゃんさん 2025/07/09 11:42:07
- 三井港倶楽部(^^)
- Decoさん
こんにちは♪
かつて三井の迎賓館、また三池港に寄港した船舶の高級船員の宿泊施設であった三井港倶楽部が大牟田市にあるのですね。
お母様の快気祝いにふさわしい場所ですね。
現在はフレンチレストラン 結婚式場としても利用されているのですね。
風格のあるお部屋での高級フレンチ素敵ですね。
団琢磨氏のお話 興味深く読ませていただきました。
団琢磨氏の孫で作曲家の團伊玖磨氏 私の伯母さんがコーラスで歌っていた時に 指揮をしてくださった事があるのです。
そんな思い出を思い出す機会を ありがとうございましたm(_ _)m
むっちゃん
- Decoさん からの返信 2025/07/09 15:07:29
- Re: 三井港倶楽部(^^)
- むっちゃんさん、こんにちは。
大牟田市は庶民的な町ではありますが、三池炭鉱やコンビナートなどがあって三井の城下町でしたから、東京の文化も流入していて、それが混ざり合ったり分離したり、重なったりでかなり複雑です。
三井港倶楽部の上品な雰囲気もそうした背景があると思います。
母は退院してから一年以上経ちました。本当は退院後すぐに行きたかったのですが、当時はリハビリを進めて少しずつ行動範囲を広げていたところですから、ここまでずれ込んでしまいましたが、このままではずるずる行かないままになりそうだったので、一大決心をして(←かなり大げさ)行ってきました(笑)。
伯母さまが、團伊玖磨氏の指揮で歌われた…素晴らしいお話じゃないですか! 曲は「筑後川」だったかかも。
伊玖磨氏は久留米の石橋家(ブリジストン)と関わりがあった方なので、祖父・琢磨氏の三池炭鉱と併せて福岡県とは縁があった方かと思います。
伯母さまには一生の思い出になったかも知れませんね(#^^#)
Deco
-
- ポテのお散歩さん 2025/07/09 10:28:47
- 三井港倶楽部
- Decoさん こんにちは~。
三井港倶楽部、素敵な洋館ですね♪
直線的な木組みは見る事があるのですが
曲線も随所に見えて、美しい姿ですね~。
内装も、明治期の華やかな雰囲気が垣間見れて素敵☆彡
ロビーに飾ってあるようなドレスを着たご婦人が歩かれていた
鹿鳴館のような光景が見える様です。
近未来的な建物が多くなっても、この時代の洋館は色あせないですね。
有明の間も、席と席の間も広くて贅沢な空間です。
お料理の盛り付けも美しく、涼し気ですね。
デザートも手を抜かないですね~。
コーヒーの後に、温かいジャスミンティーがグラスで!
円卓も、とても大きくて ゆったりしていますね。
予約をすると、お天気が良くなくても行かなくちゃならないのがネックですね。
お天気の日に訪れる事が出来て、良かったですね♪
お母様の和やかなお顔が見える様です(^^)
江戸から明治に時代が変わった頃、海外を見た人と見ていない人の差は
大きいと思います。
世界を見た人は、どんなに驚いた事でしょう。
日本がどんなに遅れていると気付いた事でしょう。
日本を早く世界と肩を並べる国にしたいと思われたでしょうね。
はやる気持ちと、重労働を科して、これで良いのかと自問しながら
葛藤を抱えて過ごした方は多いでしょうね。
当時、炭鉱や製糸業で働く人々が日本を支え
世界と並ぶ日本に押し上げた事は紛れもない事実です。
今の時代も、この方々に支えられています。
お母様のご祖母様も、当時の日本を支えた方のお一人ですね!
素敵な時間を過ごされましたね(*^-^*)
ポテ
- Decoさん からの返信 2025/07/09 14:53:56
- Re: 三井港倶楽部
- ポテさん、こんにちは。
三井港倶楽部は、長らく三池炭鉱や三井関係の迎賓館的建物として使用され皇族方も利用されてきました。私のような建築の素人が見ても素晴らしいです。その経て来た歴史も含めて考えると、他所では得難い建物かと思います。
港倶楽部の駐車場は、建物からちょっとだけ離れていて、晴れなら問題ないけど、今の母の脚では雨が降るとちと厳しいので、ネットでは満席表示だったけど、直前に電話してみました(公式サイトに、席が用意できる場合もあるのでお電話を、と書いてあったのです)。
團琢磨の囚人労働に対する態度は、非常に複雑です。あるときは肯定しつつも、逡巡したように受け取れます。一人の人間としては心優しい人だったそうですし。アメリカでは教養もモラルも愛情もある人々の中で育った團琢磨が、囚人労働にどのような思いを抱いたか。初期の近代三池炭鉱は、囚人労働に依存していましたから、事務長としては否定することはできなかったのかも知れませんが、一人の人間としてはどのように感じていたのか。多分相当な葛藤があったと思うのです。
製糸業では女工哀史がありますが、このような人々の働き(あるいは犠牲)があって、ポテさんがおっしゃるように日本は近代化していきました。大牟田市民のみならず、現在の日本人の生活は大なり小なり、こうした人々のお陰で成り立っている部分もあると思います。
團琢磨はその晩年、米国との関係を修復しようと努力していました。米国との国力の差を痛いほどわかっていたのだと思います。私の母方の祖母も、日本が米国に勝てるわけないと思っていたそうです…。
Deco
-
- フォートラベルユーザーさん 2025/07/08 22:28:39
- 三井港倶楽部。
- こんばんは!Decoさん!
4年ぶり、
また素敵な三井港倶楽部へ、
お母様と、いらして、
フルコースのランチ!!
あこがれます。1品1品、
手がこんでいて、おもてなしも、さすが!
また、建物も、大変歴史があり、
瀟洒ですね。
お二人のお写真も、良い記念に
なりますよね。
出先に付き、短いコメントで、
失礼しました。
ありがとうございました!
コトラ
- Decoさん からの返信 2025/07/09 14:31:53
- Re: 三井港倶楽部。
- マダム、こんにちは。
三井港倶楽部は料理ももちろん美味しいのですが、それだけではなく、歴史を経た建物での雰囲気の中での食事は、港倶楽部ならではのものだと思います。だから、どうしても再訪したかったのです。
おもてなしもすばらしく、重厚で瀟洒ではりありますが、堅苦しさはまったくなく、楽しく過ごせました。おそらくそのあたりも接客のポイントになっているのではと思います。
馬子にも衣装と申しますが、あの建物の中で写ると、Deco母子も”それなり”に写っているような気もします(笑)。スタッフの方も良い構図で撮ってくださいました。
お忙しいところ、コメントをいただきありがとうございました。
Deco
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