函館旅行記(ブログ) 一覧に戻る
久々の函館観光が出来ました。<br /><br />午前中は晴れて居ましたが、午後から吹雪に変わり、五稜郭に着いた頃には雨混じりの雪でした。<br /><br />でも展望台からは、それなりの景色が望めて、五稜郭の歴史も学べました。<br /><br />函館は海沿いの街なので、春や夏はもっと良いのではないかと思いました。<br /><br />旅行記 函館1日目<br />      1泊目  https://4travel.jp/travelogue/1188503<br />      2日目  函館観光 ★此処です<br />      2泊目  湯の川温泉 未だ未完<br />      3日目   未完<br />      3泊目 洞爺湖温泉編 未だ未完<br />      4日目 洞爺湖観光 未完 <br />      4泊目 登別温泉編 https://4travel.jp/travelogue/118867<br />      5日目 新千歳空港から帰宅

♪は~~~るばる来たぜ函館♬ 五稜郭など観光編

150いいね!

2024/02/15 - 2024/02/15

42位(同エリア4305件中)

旅行記グループ 2024年 春旅

0

123

夏子の探検

夏子の探検さん

この旅行記スケジュールを元に

久々の函館観光が出来ました。

午前中は晴れて居ましたが、午後から吹雪に変わり、五稜郭に着いた頃には雨混じりの雪でした。

でも展望台からは、それなりの景色が望めて、五稜郭の歴史も学べました。

函館は海沿いの街なので、春や夏はもっと良いのではないかと思いました。

旅行記 函館1日目
      1泊目  https://4travel.jp/travelogue/1188503
      2日目  函館観光 ★此処です
      2泊目  湯の川温泉 未だ未完
      3日目   未完
      3泊目 洞爺湖温泉編 未だ未完
      4日目 洞爺湖観光 未完 
      4泊目 登別温泉編 https://4travel.jp/travelogue/118867
      5日目 新千歳空港から帰宅

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス JALグループ JR特急 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 泊まった宿の隣が赤煉瓦倉庫・・・

    泊まった宿の隣が赤煉瓦倉庫・・・

    金森赤レンガ倉庫 名所・史跡

  • 金森倉庫の説明

    金森倉庫の説明

  • 季節の良い時期なら是非見たい倉庫夜景ですね

    季節の良い時期なら是非見たい倉庫夜景ですね

  • で・・・倉庫と倉庫の間に在る「金森神社」

    で・・・倉庫と倉庫の間に在る「金森神社」

  • 橋の上に鳥居が有り、川に実は川じゃなく海なんだそうです~運河とも書いていました。浮いてる神社

    橋の上に鳥居が有り、川に実は川じゃなく海なんだそうです~運河とも書いていました。浮いてる神社

  • 絵馬掛所

    絵馬掛所

  • 倉庫が続く

    倉庫が続く

  • 金森倉庫7棟あるそうです。<br />残念ながら、夫は買い物が苦手なため、倉庫内を覗く事も有りませんでした。ちょっと後悔しています。

    金森倉庫7棟あるそうです。
    残念ながら、夫は買い物が苦手なため、倉庫内を覗く事も有りませんでした。ちょっと後悔しています。

  • 雨と雪の中の倉庫

    雨と雪の中の倉庫

  • 倉庫群

    倉庫群

  • 日本最古のコンクリート電柱って・・・

    日本最古のコンクリート電柱って・・・

  • 何処なんだろう?見つからず・・・

    何処なんだろう?見つからず・・・

  • 開港通りを歩く

    開港通りを歩く

  • これかな?

    これかな?

  • 電柱?!?

    電柱?!?

  • 八幡坂を探して・・・<br />調べたら、此処は二十軒坂と言うらしい

    八幡坂を探して・・・
    調べたら、此処は二十軒坂と言うらしい

    函館の坂 名所・史跡

  • この写真から始まりました(私的には既に3回函館に来ているのに、此処の風景を知らなかったので、探す旅でも有りました)

    この写真から始まりました(私的には既に3回函館に来ているのに、此処の風景を知らなかったので、探す旅でも有りました)

  • 東本門寺函館別院

    東本門寺函館別院

    東本願寺函館別院 寺・神社・教会

  • カトリック元町教会の屋根の上の風見鶏

    カトリック元町教会の屋根の上の風見鶏

  • カトリック元町教会

    カトリック元町教会

  • カトリック元町教会入口

    カトリック元町教会入口

    函館元町 港ヶ丘教会 寺・神社・教会

  • 信者なのでお邪魔しました

    信者なのでお邪魔しました

  • 教会内部(本当は撮影禁止)神父さまにお願いして1枚だけ了解頂きました。<br />勿論寄付(いわゆるお布施)もさせて頂きました。

    教会内部(本当は撮影禁止)神父さまにお願いして1枚だけ了解頂きました。
    勿論寄付(いわゆるお布施)もさせて頂きました。

  • ステンドグラスはシンプルです

    ステンドグラスはシンプルです

  • 教会入口の写真

    教会入口の写真

  • ハリストス正教会(此処からは入れず迂回)

    ハリストス正教会(此処からは入れず迂回)

  • ハリストス正教会説明板

    ハリストス正教会説明板

  • さてハリストス正教会に入ります・・・が内部撮影禁止<br /><br />この日礼拝をしていらしたご家族が有り、私的に見るとロシア正教のようなイコンが並んで居たのでした。

    さてハリストス正教会に入ります・・・が内部撮影禁止

    この日礼拝をしていらしたご家族が有り、私的に見るとロシア正教のようなイコンが並んで居たのでした。

  • この辺の地図

    この辺の地図

  • ハリストス正教会(此処は基本¥300掛かるようです)

    ハリストス正教会(此処は基本¥300掛かるようです)

    函館ハリストス正教会 寺・神社・教会

  • ハリストス正教会歴史

    ハリストス正教会歴史

  • ハリストス正教会歴史

    ハリストス正教会歴史

  • 函館元町保存地区

    函館元町保存地区

  • 旧函館公会堂

    旧函館公会堂

  • 旧函館区公会堂

    旧函館区公会堂

    旧函館区公会堂 名所・史跡

  • 大広間

    大広間

  • 資料室

    資料室

  • 資料室室

    資料室室

  • 引き出し式の資料

    引き出し式の資料

  • このレトロな廊下がたまりません☆彡

    このレトロな廊下がたまりません☆彡

  • 旧函館公民館

    旧函館公民館

  • 旧函館区公会堂

    旧函館区公会堂

  • 旧函館区公会堂

    旧函館区公会堂

  • 函館港を望める風景

    函館港を望める風景

  • 此処だ!!!

    此処だ!!!

  • そう、良く写真を撮られている八幡坂でした(^^♪

    そう、良く写真を撮られている八幡坂でした(^^♪

    函館 八幡坂 名所・史跡

  • 映像で流れます

    映像で流れます

  • ピアノが有る大広間(舞台のように成ってます)

    ピアノが有る大広間(舞台のように成ってます)

  • ここでダンスパーティーが出来そう

    ここでダンスパーティーが出来そう

  • レトロな大広間

    レトロな大広間

  • バルコニー

    バルコニー

  • バルコニー

    バルコニー

  • バルコニー手前の柱もお洒落です

    バルコニー手前の柱もお洒落です

  • 寝室

    寝室

  • 客間

    客間

  • 執務室

    執務室

  • 廊下

    廊下

  • お手洗い(此処は保存されてますので使えません)

    お手洗い(此処は保存されてますので使えません)

  • 御後架はお手洗いの事かしら?<br />お湯殿はあまり綺麗で無かったので写真撮りませんでした。

    御後架はお手洗いの事かしら?
    お湯殿はあまり綺麗で無かったので写真撮りませんでした。

  • 元町公園(この日は吹きっさらしで超寒かった)

    元町公園(この日は吹きっさらしで超寒かった)

    函館公園 公園・植物園

  • ここ元町公園にあった案内板

    ここ元町公園にあった案内板

  • 函館湾が見渡せます(それにしても寒い。。。凍りそう。。。)

    函館湾が見渡せます(それにしても寒い。。。凍りそう。。。)

  • 園内にあった可愛い像

    園内にあった可愛い像

  • 太陽と海と僕たちとと言う作品のようです

    太陽と海と僕たちとと言う作品のようです

  • こちらは

    こちらは

  • 旧北海道庁 函館市庁舎

    旧北海道庁 函館市庁舎

  • 旧北海道庁 函館市庁舎の説明

    旧北海道庁 函館市庁舎の説明

  • 函館市旧イギリス領事館 案内

    函館市旧イギリス領事館 案内

  • こんな看板も・・・

    こんな看板も・・・

  • 旧イギリス領事館説明

    旧イギリス領事館説明

    函館市旧イギリス領事館 名所・史跡

  • 旧イギリス領事館

    旧イギリス領事館

  • この辺の地図

    この辺の地図

  • 基坂

    基坂

  • 基坂って?!

    基坂って?!

  • 函館文学館は入って見たかったけど

    函館文学館は入って見たかったけど

  • 定休日でした

    定休日でした

  • 残念です・・・

    残念です・・・

  • 函館波止場

    函館波止場

  • 函館波止場

    函館波止場

  • 函館波止場

    函館波止場

  • 五稜郭タワーに市バスで向かいました

    五稜郭タワーに市バスで向かいました

  • 五稜郭

    五稜郭

    五稜郭タワー 名所・史跡

  • 白く成ってるのはお堀が凍って居るから~昭和初期に此処の氷を削り取り、東京など都心部に売っていたそうです。(五稜郭氷と言う名前で)

    白く成ってるのはお堀が凍って居るから~昭和初期に此処の氷を削り取り、東京など都心部に売っていたそうです。(五稜郭氷と言う名前で)

  • 公式ウエブサイト https://www.goryokaku-tower.co.jp/history/ 参照

    公式ウエブサイト https://www.goryokaku-tower.co.jp/history/ 参照

  • 徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。巨大な蒸気軍艦の威容を背景にしたアメリカ側の開国要求に屈し、アメリカ大統領からの親書を受け取った幕府は、翌安政元年(1854)、食糧・薪水などの欠乏品の補給や遭難民の保護・引き渡しを保障する「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記されていた)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結した。

    徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。巨大な蒸気軍艦の威容を背景にしたアメリカ側の開国要求に屈し、アメリカ大統領からの親書を受け取った幕府は、翌安政元年(1854)、食糧・薪水などの欠乏品の補給や遭難民の保護・引き渡しを保障する「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記されていた)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結した。

  • 開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。

    開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。

  • 当時、箱館には、幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に独自の工夫も加えたのである。

    当時、箱館には、幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に独自の工夫も加えたのである。

  • 安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、「箱館御役所」(通称「箱館奉行所」)として蝦夷地の政治を担う場所となった。現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった。

    安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、「箱館御役所」(通称「箱館奉行所」)として蝦夷地の政治を担う場所となった。現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった。

  • 見本の五稜郭図面が有りました<br /><br />「鎖国政策」とともに維持されてきた徳川幕府の権力は、「開国」を巡る国内対立を発端として翳りをみせ始めた。幕府に対立する西南諸藩の動きを抑えることもままならず、薩摩長州両藩に討幕の密勅が出されたことにより、慶応3年(1867)、徳川慶喜は政権を朝廷に戻し(「大政奉還」)、徳川幕府は崩壊した。<br />箱館御役所(五稜郭)では、明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなった。

    見本の五稜郭図面が有りました

    「鎖国政策」とともに維持されてきた徳川幕府の権力は、「開国」を巡る国内対立を発端として翳りをみせ始めた。幕府に対立する西南諸藩の動きを抑えることもままならず、薩摩長州両藩に討幕の密勅が出されたことにより、慶応3年(1867)、徳川慶喜は政権を朝廷に戻し(「大政奉還」)、徳川幕府は崩壊した。
    箱館御役所(五稜郭)では、明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなった。

  • 箱館での平和の裡に行われた政権移譲とは異なり、明治元年(1868)正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)し、「戊辰戦争」が勃発した。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢は顕かで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠もった彰義隊の潰走(「上野戦争」)などにより、陸軍はほぼ壊滅した。

    箱館での平和の裡に行われた政権移譲とは異なり、明治元年(1868)正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)し、「戊辰戦争」が勃発した。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢は顕かで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠もった彰義隊の潰走(「上野戦争」)などにより、陸軍はほぼ壊滅した。

  • 江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府陸軍の残存諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」を始めとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させ、新政府からの再三の軍艦引き渡し命令にも従わなかった。そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走した。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した「奥羽越列藩同盟」の支援のため仙台の松島湾に来航。しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた土方歳三に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かった。

    江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府陸軍の残存諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」を始めとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させ、新政府からの再三の軍艦引き渡し命令にも従わなかった。そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走した。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した「奥羽越列藩同盟」の支援のため仙台の松島湾に来航。しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた土方歳三に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かった。

  • 明治元年10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避け、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)沖へ投錨、吹雪の中を上陸し、明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)がある五稜郭を目指して南下を始めた。

    明治元年10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避け、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)沖へ投錨、吹雪の中を上陸し、明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)がある五稜郭を目指して南下を始めた。

  • 榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまった。戦闘経験の豊富な旧幕府軍に 対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日、旧幕府軍は無人となった五稜郭を占拠した。ここに五稜郭は旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となる。

    榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまった。戦闘経験の豊富な旧幕府軍に 対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日、旧幕府軍は無人となった五稜郭を占拠した。ここに五稜郭は旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となる。

  • 箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出した。この間、陸軍支援のために 松前へ向かった旗艦「開陽」が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するといった失態もあったものの、旧幕府軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的にせよ駆逐した。

    箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出した。この間、陸軍支援のために 松前へ向かった旗艦「開陽」が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するといった失態もあったものの、旧幕府軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的にせよ駆逐した。

  • 五稜郭物語と称して、五稜郭の歴史など映像と文字化して説明しています<br /><br />幕府軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに、英仏軍艦の艦長に託して、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたが遂に受け入れられることはなかった。一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられた。

    五稜郭物語と称して、五稜郭の歴史など映像と文字化して説明しています

    幕府軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに、英仏軍艦の艦長に託して、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたが遂に受け入れられることはなかった。一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられた。

  • しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没による戦力低下により、旧幕府軍は、明治新政府と対等な勢力である「交戦団体」とは認められなくなり、諸外国は「局外中立」を撤廃した。旧幕府軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのである。新政府軍は、局外中立の撤廃に伴いアメリカから引き渡された軍艦「甲鉄」を旗艦として征討軍を編成、明治2年(1869)3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航した。

    しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没による戦力低下により、旧幕府軍は、明治新政府と対等な勢力である「交戦団体」とは認められなくなり、諸外国は「局外中立」を撤廃した。旧幕府軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのである。新政府軍は、局外中立の撤廃に伴いアメリカから引き渡された軍艦「甲鉄」を旗艦として征討軍を編成、明治2年(1869)3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航した。

  • 蝦夷地への北上途中、宮古湾での旧幕府軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった。圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたが、残る二方面の脱走軍が敗走したため、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退した。

    蝦夷地への北上途中、宮古湾での旧幕府軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった。圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたが、残る二方面の脱走軍が敗走したため、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退した。

  • 5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始した。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。<br /><br />陸軍奉行並として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命した。また、海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が紅蓮の炎に包まれた。

    5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始した。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。

    陸軍奉行並として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命した。また、海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が紅蓮の炎に包まれた。

  • 旧幕府軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、旧幕府軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として降伏を勧告した。<br />

    旧幕府軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、旧幕府軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として降伏を勧告した。

  • <br />箱館の住民にも大きな被害を出す中、新政府軍に味方をする住民組織による旧幕府軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた「千代ヶ岱台場」の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府軍の首脳は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合った。翌18日の早朝、五稜郭内に整列した旧幕府軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結した。徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていった。


    箱館の住民にも大きな被害を出す中、新政府軍に味方をする住民組織による旧幕府軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた「千代ヶ岱台場」の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府軍の首脳は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合った。翌18日の早朝、五稜郭内に整列した旧幕府軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結した。徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていった。

  • 榎本ら旧幕府軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、明治5年(1872)には赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになる。

    榎本ら旧幕府軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、明治5年(1872)には赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになる。

  • 箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったが、二度と行政府として歴史に現れることはなかった。明治4年(1871)には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていた。

    箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったが、二度と行政府として歴史に現れることはなかった。明治4年(1871)には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていた。

  • その一方で人々は五稜郭を積極的に利用していた。五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が軌道に乗り、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時、高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐する、函館の一大産業ともなった時代もあった。

    その一方で人々は五稜郭を積極的に利用していた。五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が軌道に乗り、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時、高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐する、函館の一大産業ともなった時代もあった。

  • また、函館市民の請願を受けて、五稜郭は大正3年(1914)から公園として一般開放され、5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており、現在では、市民による、歴史を題材としたイベントの会場として四季を通じて利用されている。

    また、函館市民の請願を受けて、五稜郭は大正3年(1914)から公園として一般開放され、5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており、現在では、市民による、歴史を題材としたイベントの会場として四季を通じて利用されている。

  • 公園として親しまれていると同時に、五稜郭は、幕末から明治維新にかけての我が国の歴史を理解する上での重要な遺構として、大正11年(1922)に国指定史跡とされ、さらに昭和27年(1952)には、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定された。そして、国宝に準ずる文化財として保存整備事業が進められ、石垣の修理や橋の架け替え、更には五稜郭に関る絵図面や文献資料の調査を経て、昭和60年(1985)から郭内の遺構調査が進められ、この結果に基づいて平成22年(2010)、庁舎全体の建築面積の3分の1とはいいながら、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して御役所(奉行所)庁舎の高い精度での復元をみたのである。

    公園として親しまれていると同時に、五稜郭は、幕末から明治維新にかけての我が国の歴史を理解する上での重要な遺構として、大正11年(1922)に国指定史跡とされ、さらに昭和27年(1952)には、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定された。そして、国宝に準ずる文化財として保存整備事業が進められ、石垣の修理や橋の架け替え、更には五稜郭に関る絵図面や文献資料の調査を経て、昭和60年(1985)から郭内の遺構調査が進められ、この結果に基づいて平成22年(2010)、庁舎全体の建築面積の3分の1とはいいながら、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して御役所(奉行所)庁舎の高い精度での復元をみたのである。

  • 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)1827~1880<br />緒方洪庵塾に入門し、洋楽語術を学ぶ。ペリー艦隊が浦賀に来航した際には佐久間象山の門下にいた。洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍。その後、幕命により弁天台場、五稜郭の設計監督にあたった。

    武田斐三郎(たけだあやさぶろう)1827~1880
    緒方洪庵塾に入門し、洋楽語術を学ぶ。ペリー艦隊が浦賀に来航した際には佐久間象山の門下にいた。洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍。その後、幕命により弁天台場、五稜郭の設計監督にあたった。

  • 榎本武揚(えのもとたけあき)1836~1908<br />オランダ留学を経て幕府の海軍副総裁になる。幕府崩壊後、新政府への軍艦引き渡しを拒否して脱走。箱館に旧幕臣による仮政権を築くが箱館戦争で敗れて降伏。後に明治政府要職に就く。

    榎本武揚(えのもとたけあき)1836~1908
    オランダ留学を経て幕府の海軍副総裁になる。幕府崩壊後、新政府への軍艦引き渡しを拒否して脱走。箱館に旧幕臣による仮政権を築くが箱館戦争で敗れて降伏。後に明治政府要職に就く。

  • 土方歳三(ひじかたとしぞう)1835~1869<br />彼は裕福な農民の出身です。剣術を学び、徳川幕府の紀冊組織の一つである「新選組」の副隊長となり、京都に於いて、反徳川勢力を取締りました。五稜郭の徳川幕府軍では、陸軍の副司令官として戦いを指揮しました。

    土方歳三(ひじかたとしぞう)1835~1869
    彼は裕福な農民の出身です。剣術を学び、徳川幕府の紀冊組織の一つである「新選組」の副隊長となり、京都に於いて、反徳川勢力を取締りました。五稜郭の徳川幕府軍では、陸軍の副司令官として戦いを指揮しました。

  • 榎本武揚や土方歳三らが率いる旧幕府軍が、最後の砦として明治新政府軍と激戦を繰り広げた、戊辰戦争終焉の地。国の特別史跡に指定されている五稜郭跡は、張り出した5つの稜堡(りょうほ)が美しい星型を形作る、わが国初の西洋式城塞です。25.2haという広大な五稜郭全域は公園として整備され、夏には約1,500本もの桜が咲き誇る、北海道でも有数の桜の名所になっています。手漕ぎボートに乗って、お堀から桜を眺めるのもまた一興。夜間にはライトアップされ、幻想的な世界が広がります。

    榎本武揚や土方歳三らが率いる旧幕府軍が、最後の砦として明治新政府軍と激戦を繰り広げた、戊辰戦争終焉の地。国の特別史跡に指定されている五稜郭跡は、張り出した5つの稜堡(りょうほ)が美しい星型を形作る、わが国初の西洋式城塞です。25.2haという広大な五稜郭全域は公園として整備され、夏には約1,500本もの桜が咲き誇る、北海道でも有数の桜の名所になっています。手漕ぎボートに乗って、お堀から桜を眺めるのもまた一興。夜間にはライトアップされ、幻想的な世界が広がります。

  • 桜以外にも、ツツジや藤棚、スイレンなどの花が楽しめ、秋には紅葉、冬は一面の銀世界と、四季折々に美しい景色が堪能できます。<br />これからが最も美しい五稜郭の時期だと思います。<br />

    桜以外にも、ツツジや藤棚、スイレンなどの花が楽しめ、秋には紅葉、冬は一面の銀世界と、四季折々に美しい景色が堪能できます。
    これからが最も美しい五稜郭の時期だと思います。

  • 2010年には、公園中央に江戸幕府の役所であった箱館奉行所が復元。内部は当時の部屋が再現され、奉行所や五稜郭の歴史が資料や映像などで紹介されています。幕末の雰囲気が感じられる、歴史好き必見のスポットです。

    2010年には、公園中央に江戸幕府の役所であった箱館奉行所が復元。内部は当時の部屋が再現され、奉行所や五稜郭の歴史が資料や映像などで紹介されています。幕末の雰囲気が感じられる、歴史好き必見のスポットです。

  • また、戊辰戦争の舞台となった五稜郭にまつわる函館の歴史を堪能できるイベント「箱館五稜郭祭」は、毎年5月に開催されています。

    また、戊辰戦争の舞台となった五稜郭にまつわる函館の歴史を堪能できるイベント「箱館五稜郭祭」は、毎年5月に開催されています。

  • 土方歳三さんのブロンズも展望塔内に飾られています。

    土方歳三さんのブロンズも展望塔内に飾られています。

  • 下りのエレベーターは下の階からしか乗れません

    下りのエレベーターは下の階からしか乗れません

  • 下ると、平面図

    下ると、平面図

  • あれ?!

    あれ?!

  • 真下が見える・・・危うく気付いた夫は気絶しそうでした(笑)

    真下が見える・・・危うく気付いた夫は気絶しそうでした(笑)

  • 1階コーナーにも、カッコいい土方歳三氏のブロンズ

    1階コーナーにも、カッコいい土方歳三氏のブロンズ

  • 土方歳三氏のプロフィール

    土方歳三氏のプロフィール

  • 当時の爆弾

    当時の爆弾

  • モニュメント

    モニュメント

  • 是非訪れて見てください。

    是非訪れて見てください。

  • 函館駅に戻って来ました。<br />此処から、今夜の宿の湯の川温泉に移動です。<br /><br />細かい説明をご覧下さりありがとうございました。

    函館駅に戻って来ました。
    此処から、今夜の宿の湯の川温泉に移動です。

    細かい説明をご覧下さりありがとうございました。

    函館駅

150いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

2024年 春旅

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP