2023/12/21 - 2023/12/21
1037位(同エリア1825件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1484冊
- クチコミ1138件
- Q&A回答73件
- 2,686,745アクセス
- フォロワー151人
この旅行記のスケジュール
2023/12/21
この旅行記スケジュールを元に
「クトゥブ・ミナール(Qutub Minar)」の見学を終えた後は再び迎えに来たバスに乗ってデリー市内を移動します。再びカオス状態のインドの風景に無が離せません。日本と同じようなものでも微妙に違うのも面白かったですが、さすがに路上生活をしている人の姿は4トラベルの旅行記にアップさせるのは気が引けます。しばらく車窓の風景を楽しんだ後に到着したのが「フマユーン廟( Humayun's Tomb)」です。ここでもガイドさんがチケット代わりのトークンを買い求めている間は近くで待っていますが、人気の観光地のようで社会科見学の小学生や中学生がものすごい人数で並んでいます。ここでも外国人のダブルプライスになっていて、料金はインド人の型の15倍で設定されています。15倍のメリットは外国人専用入り口からスムーズに入場できるくらいですが、施設の管理や整備など納税していない外国人から徴収するのは考えとしては間違っていないように思えます。近いうちに日本も同じようになってくるのかもしれませんね。「サブツ・バージ(Sabz Burj)」のあるロータリー側の入り口から片道約500メートルを歩いてフマユーン廟に向かいます。途中右側には「イサ・カンズ・トゥーム(Isa Khan's Tomb)」というフマユーン廟が建てられるよりも前のローディー王朝時代のイサ・カーンの霊廟ですがここは素通りです。「アラブ・キ・サラーイ門(Arab Ki Sarai Gateway)」の手前でここが再集合場所に設定されて、集合時間も決められます。ツアー中はこのように説明を受けた後は20分ほど自由時間が設けられることが多く、見たいところを妻と2人で歩けるのが良かったです。延々と参道を歩くとフマユーン廟が見えてきますが、なるほどタージマハルのモデルになっただけのことはあるなと感じます。参道は西から東へ続いているので、まだ廟の西面には太陽の光が当たっていません。さらにとても混んでいるので、ガイドさんの案内で南側に向かいます。こちら側は人もほとんどいなく、記念写真を撮ってもらっても人があまり映りこまないのが良かったです。その後はフリータイムになるのでそれぞれ見学して周ります。ムガル帝国の第2代皇帝フマユーンの廟はインドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評されるほど完成度の高いものでした。スイスの旅から戻って時間も無かったこともあり、ムガル帝国についてほとんど学んでこなかったのが悔やまれました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
PR
-
「クトゥブ・ミナール(Qutub Minar)」の見学を終えた後はバスに乗って次の「フマユーン廟( Humayun's Tomb)」へ移動します。個人出来たらお世話になるであろうオートリキシャ―にも乗ることはありません。50代くらいまでは値段交渉など楽しめましたが、最近は少しおっくうになってきた気もします。
クトゥブ ミナールとその建築物群 史跡・遺跡
-
日本ではトラックの荷台に人が乗ったまま走行することは禁じられていますが、インドでは当たり前のようにたくさんの人が乗っています。通勤列車の屋根の上にも人が乗る国ですから当たり前の光景なのでしょう。
-
幹線道路の脇に畑が作られていました。実ったトウモロコシなど盗まれないかも心配ですが、案山子の着た服よりも汚れた服を着た路上生活者をたくさん見かける国なので、案山子の身の上の方が気がかりです。
-
町中のバス停は1つ1つが大きく、そこで待つ人の数も多いです。それだけ公共交通としてもバスが重要なのだと思います。
-
デリーには「デリー交通社(DTC)」が運行している公共バスがあり、車体のカラーはレッドとグリーンの2種類でレッドの方は料金がやや割高になるが空調が効いているそうです。このオレンジのバスは車掌がプリンターを持っていてチケットを印刷してくれるそうです。一番新しいタイプのようです。
-
ガソリンスタンドの手前にはオートリキシャ―が長い列を作っていることが多いようです。何となくクヌギの木に蜜を吸いに来るカブトムシのように見えてきます。
-
道端に置かれた大きな素焼きの甕にはコップが乗っています。これはミャンマーやタイでもよく見掛けるもので喉が渇いた人への施しです。設置しているのは「マトカ・マン(Matka Man)」という組織で、マトカは伝統的に水を貯蔵して冷たく保つために使用されているインドの土甕のことです。これを設置しているグループは貧しい人々に飲料水を提供するためにマトカを使っています。南デリーに80以上のマトカを備えた15以上のマトカスタンドを設置しています。スタンドにはマトカが空いたときに知らせてくれるように電話番号が書かれた看板と座るためのベンチがあります。マトカは夏の間1日に約2000リットルを必要とするそうです。
-
デリーに着いたのは12月20日でクリスマスまで残りわずかです。路上ではこのような子供用のサンタクロースの衣装が売られています。家族総出のようで、お父さん、お母さん、娘や息子が数十メートル置きに立っていました。帽子にはサンタのお面も付いているのでシュールな風景に見えます。売っていると思ったのは大きな間違いで、ヒンドゥー教徒によるキリスト教の弾圧だったのかもしれません。
-
ベトナムやカンボジアを旅していた20年ほど前はバイクにものすごい量の荷物を積んでいる姿を見掛けましたが、最近旅しても少なくなったように思えます。インドではまだまだバイクによる運搬がポピュラーなようでした。
-
表通りは普通に観光客でも歩けそうですが、そこから車も通れないような路地には足を踏み入れたら二度と戻ってこれないような雰囲気を感じます。
-
自転車用のタイヤを転用したこのタイプの屋台はよく見掛けました。屋根も無いオープンな屋台の中華鍋で何を作るのでしょうか?この日とはこれで家族を養っているのだと思うと複雑な気持ちが湧いてきます。
-
アプリ対応のシェアサイクルでありながら、手作り感のあるスタンドや埃だらけの古い自転車に違和感を感じます。中国でも一時期流行ったシェアサイクルですが、あっという間に廃れてしまい、数十万台の自転車が廃棄されているとニュースで見たことがあります。
-
機能的に考えられたお菓子屋飲み物を売るスタンドも見ていて飽きないものの1つでした。商品は店じまいした後も小屋の中に置かれているのだと思いますが、夏場の駄菓子など衛生上問題ないのか心配になります。
-
自転車タイプのリキシャ―も健在のようでした。ただデリーではあまり見かけませんでした。
-
誰が餌付けしたのかものすごい数の鳩もよく見掛けました。仏教徒だと放生など生き物の命を救うという考えがありますが、ヒンドゥー教でも同じような考えがあるのでしょうか。
-
道の真ん中にオートリキシャ―とバイクが停まっているので事故かと思いました。ところが地面からランニングを着たおじさんが顔を出したので何かの工事か点検だと分かりました。インドのマンホールは分厚く、つるはしで掘り起こしていました。
-
エアコンの無いグリーンのバスも12月であれば観光客でも問題なさそうですが、真夏では乗れたものではないでしょう。
-
バスは「フマユーン廟( Humayun's Tomb)」の入り口に着きました。小さな広場には観光客目当ての物売りが集まっています。わずかな日影に並んでいるのが面白いです。
-
沖縄のサーターアンダギーのような揚げドーナツを売っているおじさんはここまで商売道具と商品を持ってきたのでしょうか?とても1人では運べないと思えます。
-
「フマユーン廟( Humayun's Tomb)」でデリーの観光も終わりです。ほぼ半日観光だけなので、「レッドフォート」や「国立博物館」などにも行くことは出来ません。まだ来たばかりですが、デリーにはもう一度来なければと思います。
-
ガイドさんが入場料を支払う間待っています。チケット売り場も外国人とインド人で別れています。
フマーユーン廟 史跡・遺跡
-
そしてここでもインド人40ルピーに対し、外国人は600ルピーという法外なダブルプライスが存在します。
-
まずはガイドさんの案内で参道を進みます。話はムガル帝国についてからスタートしますが、長年の願いだったインドに来ることが分かっていながらインドの歴史について学ぶ時間が無かったのが悔やまれます。
-
参道の右手には「イサ・カーンズ・トゥーム(Isa Khan's Tomb)」というフマユーン廟が建てられるよりも前のローディー王朝時代のイサ・カーンの霊廟が見えましたがそのまま素通りでした。
-
八角形の形をした霊廟は主に赤い砂岩が用いられ、シェール・シャー・スリーの治世中の1547年から1548年に建てられました。霊廟にはスーリー朝の創始者のシェール・シャー・スリーと2代目のイスラム・シャー・スリーの宮廷の貴族であったイサ・カーン・ニアジの墓があります。
-
参道の正面に「ブー・ハリーマー門(Bu Halima Gateway)」が見えてきました。ブ・ハリマの墓庭はフマユーン廟群の入り口にあるイサ・カー廟に隣接しています。1920年代に囲いの壁の一部が取り壊されてしまったため囲いの性格が損なわれているようです。
-
「ブー・ハリーマー廟(Bu Halima Tomb)」は参道の左手にあります。ここはあまり人気がないのか立ち寄る人の姿はありません。ブー・ハリマはフマユーンのハーレムで重要な位置を占め、バーブル(フマユーンの父)の側近の一員でした。ブ・ハリマの正確な正体は謎のようですが、彼女はフマユーンの乳母であり、ムガル帝国の貴族の女性でもあったと言われています。彼女にちなんで名付けられた庭園を持ち、彼女の墓をフマユーン廟からわずか100メートルのところに置かなければならないという重要な地位に就いていたことは明らかなようです。
-
「ブー・ハリーマー門」も建設時は同じようなデザインで白漆喰で固められていたようです。その名残は門に見ることができます。上部の青いタイルはその当時の中国から取り寄せたものだそうです。
-
傷んではいますが門の内部も修復されているようです。ここにも透かし彫りの 「ジャーリー(Jaali)」が美しいです。
-
少し進んだ参道の右側には「アラブ・キ・サライ門(Arab Ki Sarai Gateway)」がありました。アラブ・サライとは文字通り馬のためのサライ(休憩所)を意味するこの建造物で、1560年から1561年頃にベガ・ベグムによって建てられ、表向きは建設作業に来たアラブ人300人の職人のために建てられました。ちょうど結婚式の前撮りの写真撮影が行われていました。
-
今回立ち寄ったインドの観光地ではどこでもこのような写真撮影が行われていました。東南アジアを旅していても発展しつつある国では同じように結婚式にお金をかけている傾向がありました。早めにインドに投資を始めようと思った出来事でした。
-
参道の正面には「西門」が見えてきました「西門」は「フマユーン廟」の正門で、高さ16メートルで上部に2つの六芒星(チャトリ)があり、建物の両側に12個の小さなアーチを備えた巨大なアーチ型の門を備えた美しい門です。
-
この日はデリー市内の小学校や中学校の社会科見学の日だったようで、たくさんの子供たちが見学に来ていました。皆さんお揃いの制服を着ているのが可愛らしいです。
-
門の一部は博物館になっていますが、時間の無い我々ツアーはそのままアーチを潜って先へ進みます。
-
参道の正面にフマユーンの廟が見えました。真っ白なタージマハルは有名ですが、この時点ではまだ肉眼では見ていないので、この廟を見ただけでインドの建築はすごいなと思いました。地面の赤土と赤い砂岩とでその美しさはさらに強調されているように感じます。
-
参道からの正面が廟の西面になりますが、午前中のこの時間では太陽光線が当たっていなく、さらに見学する人の数も多いので南面に移動します。
-
移動中もガイドさんの説明が続きますがその内容で知っていることはほんのわずかでした。ムガル帝国は南アジアの近世帝国で、約2世紀にわたって西はインダス川流域、北西はアフガニスタン北部、北はカシミール地方、東は現在のアッサムやバングラデシュの高地、南はデカン高原の高地まで広がっていました。
-
王朝名の「ムガル」とはモンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」の短縮した読みであるムグル(Mughul)が、ムガル(Mughal)に転訛したものだそうです。
-
1483年にムガル帝国の創始者となるバーブルは、中央アジアのフェルガナに生まれ、父のウマル・シャイフはミーラーン・シャーの孫でもあるアブー・サイードの子で、ティムール朝の始祖ティムールの曾孫です。よってバーブル自身はティムールの玄孫であり5代目の直系子孫に当たります。母はチンギス・ハーンの次男の家系であるチャガタイ・ウルスの君主ユーヌス・ハーンの王女クトルグ・ニガール・ハーヌムです。ほんの少し前にモンゴルへ行ったばかりだったので、ムガル帝国が身近に思えました。
-
南面は日当たりもよく観光客の姿も少ないのでいい写真が撮ってもらえました。ガイドさんに言われるがままに立ってポーズを取っていますが、ちゃんと水面に映った廟も撮れています。
-
そしてナマステのポーズです。スマホで撮ってもらったので台座の部分も全景が入っています。
-
話しはムガル帝国に戻り、1526年に現在のウズベキスタン出身でティムール朝の王族である戦士バーブルが、近隣のサファヴィー朝やオスマン帝国からの援助を受け、第1次パーニーパットの戦いでデリー・スルターン朝のイブラーヒーム・ローディーを破り、上インドの平原を制圧して建国したと言われています。
-
ムガル帝国の帝国構造はバーブルの孫であるアクバルが支配した1600年までとされることもありますが、帝国構造は最後の皇帝アウラングゼーブが死去した直後の1720年まで続きます。その後の東インド会社がインドを支配していた時代には、オールドデリー周辺に縮小されていましたが、1857年のインド大反乱を機にイギリス領インド帝国によって正式に解体されます。
-
通称フマユーン、ミルザ・ナシル・アッディーン・ムハンマドの墓は1558年に彼の最初の妻であり首席配偶者である皇后ベガ・ベーグムによって彼女の庇護の下でミラク・ミルザ・ギアスと彼の息子であるサイイド・ムハンマドによって設計されました。それはインド亜大陸の最初の庭墓であり、フマユーンが1538年に見つけたプラーナキラ(古い砦)としても知られるディナパナ城塞に近い場所が選ばれました。
-
廟の建設は1565年に始まり1572年に完成しました。費用の150万ルピーはすべて皇后が負担しました。皇后のベガ・ベグムは夫の死を悲しみ、以後はデリーのヤムナー川近くの場所に帝国で最も壮麗な霊廟となる夫の記念碑を建てるという唯一の目的に人生を捧げました。
-
1611年にこの墓を訪れたイギリスの商人ウィリアム・フィンチは、中央の部屋の豪華な内装について豪華な絨毯や慰霊碑の上には純白のシーツで覆われた小さなテントであるシャミアーナがあり、正面にはフマーユーンの剣とターバン、靴とともにクルアーンが置かれていたと述べています。
-
10月に訪れたイスタンブールのトプカプ宮殿では博物館をじっくり見学する時間があり、イスラム教とキリスト教の聖遺物を収めた博物館のことを思い出します。何気なく行ったイスタンブールやウランバートルの旅は今回のインドの旅の前哨であったと感じました。
-
六芒星(ろくぼうせい)はヘキサグラム (hexagram)とも呼ばれ、日本では「籠目」という文様があります。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、魔除けとしてこの図形を用いることがあります。ファサードのあちこちに見られる数多くの幾何学的およびアラベスク模様の大理石や石の象眼細工の装飾であるピエトラ・ドゥラ(Pietra dura)はインド・イスラム建築の重要な遺産とされています。この装飾技法はタージマハルの見学の後に見ることができました。
-
レンガで建てられた基壇は西と南にある高さ16メートルの2つの高い門から入ります。通路の両側に部屋があり上層階にはテラスがあります。瓦礫の石積みと赤い砂岩で造られた墓は白い大理石を外装材として、床材や格子スクリーン(jaalis)、ドアフレーム、庇(chhajja)やメインドームにも使用されています。
-
内部の5つの部屋にはそれぞれ白い大理石の石棺が置かれています。石棺の方向は頭は北に置かれ、顔はメッカに向かって横向きにされているそうです。残念ながらフマユーンの石棺はこのフロアには無く基壇の中の中央部に納められているそうです。
-
フマユーン廟はムガル美術のさきがけとなりましたが、ムガル帝国終焉の舞台にもなってしまいます。19世紀前半にはムガル帝国はすっかり衰退し、その領土のほとんどを失っていました。1857年にイギリス東インド会社のインド人傭兵=セポイ(シパーヒー)が蜂起してイギリスと対立して「セポイの反乱」が起こります。インド民衆がこれに呼応してムガル皇帝バハドゥル・シャー2世を担ぎ上げ、ムガル帝国による再支配を企てます。
-
しかしイギリス軍はこれを武力で鎮圧し、フマユーン廟に隠れていた皇帝を発見して捕縛します。翌1858年に皇帝位は廃位されムガル帝国は滅亡します。代わりに英国国王を掲げるイギリス領インド帝国が誕生すし、これよりインドはイギリスによる植民地時代を迎えます。
-
廟内の照明は消えていますが思ったよりも明るいことに驚きます。開口部はこのような格子スクリーン(jaalis)に覆われていて、その開口面積は50%くらいしかなさそうです。
-
逆光になってうまく写真が撮りにくいので、西側の開口部に移動しました。よくこれだけの大理石の格子が壊れずに残されていると感心します。
-
霊廟という特殊な建築にもかかわらず、シンプルな美しさに魅了されます。
-
テラスの上から歩いてきた西側の参道を見下ろしてみます。廟の四方には小さい水路とスクエアな池が設けられています。手前の四角形の池はさらに廟を囲むように伸びて、その四隅には八角形の池がありました。
-
フマユーンはイスラム教徒だったこともあり当時の科学と芸術の最先端は中東にあったため、廟はペルシアの華麗な庭園文化が導入されました。一方でムガル帝国は他宗教に寛容だったため、インド土着の装飾も多分に取り入れられました。こうしてフマユーン廟は「ムガル美術」と呼ばれる新しい芸術様式を生み出しつつ、着工から約9年後に完成を迎えます。
-
庭園のモデルとなったのが旧約聖書やクルアン(コーラン)にも描かれている「エデンの園」のようです。ゾロアスター教やユダヤ教に古くから伝わるパラダイス伝説で、この楽園には4つの川が流れ「生命の木」と「知恵の木」をはじめとする木々と果実で満ちあふれているといいます。イスラム庭園には4つの水路が設置されていることが多いのは、このエデンの園を模しているためです。
-
このような四方に流れる水路が庭を四分割する庭をチャハールバーグと呼びます。ペルシャ庭園をつくる1番目の要素は水で次の要素は樹木です。ペルシア式庭園においてかなり広い花壇で果樹を植えたり果樹を植える場所は、木の花の色などによって定められます。
-
西側の一番のビューポイントで記念写真を撮りながら参道を戻ります。
-
結婚式の前撮りも終わり、「アラブ・キ・サライ門(Arab Ki Sarai Gateway)」に静けさが戻っていました。
-
参道を歩いていた社会科見学の子供たちも全員廟に入ってしまったようで、「ブー・ハリーマー門(Bu Halima Gateway)」もひと気がありません。再集合場所はこの脇のトイレの前なので早めに用を済ませておきます。
-
全員が揃ったところで出口に向かいますが、「イサ・カーンズ・トゥーム(Isa Khan's Tomb)」には立ち寄らないようなので門のところまで走って外観だけを写真に納めます。
-
霊廟はロディ建築様式で建てられました。ロディ時代の特徴である八角形の廟は1メートルの低い台座の上に建ち、ベランダが中央の部屋を囲んでいます。部屋の周囲は3連のアーチで構成されており、それぞれに1つの屋根(チャッジャ)が乗っています。
-
霊廟は主に灰色の珪岩が用いられ、装飾には赤い砂岩が使用されています。漆喰が荒い石積みを包み、仕上げにはさまざまな色のタイルが使用されています。門室の四角い出入り口はヒンドゥー教の建築様式で建てられています。
-
中央のドームの周りのサイドドームは柱の上に持ち上げられ、インド建築でよく見るパビリオンに似ています。ファサードには石の柱で支えられた3つの同じサイズのアーチがあり、青と緑のタイルがアーチを縁取ります。アーチのスパンドレルのメダリオンにはムーア建築の特徴である青と緑のタイルがはめ込まれ、花のデザインになっています。
-
「イーサー・カーンのモスク(Isa Khan's Mosque)」の前まで走ったら迷子になってしまいそうなので遠目に写真を1枚だけ撮ってグループに戻ります。
-
帰国してからもしばらく4トラベルの旅行記にアップできないだろうと思い、それぞれの案内板は写真に撮っておきます。過去に何お写真だか分からなくなって困ったことは何度もあります。
-
帰りも出口でトークンが必要になります。これを失うと100ルピーの罰金だそうですが、100ルピーがインド人料金だと15倍の1500ルピーなのだろうかと思うと恐ろしくなります。実際はいくらなのかは分かりませんが。
-
インドのコカ・コーラ社はリサイクルの考えを定着させるためにこのような回収BOXを置いていました。上からペットボトルを入れて、携帯電話の番号を入力すると店舗でSNSクーポンがもらえると書かれてあります。そろそろお昼の時間になってきました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2023北インドの旅
-
前の旅行記
トラピックス 魅惑のインド6日間(2)町中のオートリキシャーと牛のカオスに驚きながらクトゥブ・ミナールの美し...
2023/12/21~
デリー
-
次の旅行記
トラピックス 魅惑のインド6日間(4)インド門からラジーズでランチを食べて、小麦とからし菜畑を越えてジャイプ...
2023/12/21~
デリー
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(1)ANA便でデリーを目指し、デリー郊外の高級ホテルのザ・プラツィオ・グル...
2023/12/20~
デリー
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(2)町中のオートリキシャーと牛のカオスに驚きながらクトゥブ・ミナールの美し...
2023/12/21~
デリー
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(3)タージ・マハールのモデルとなった巨大なフマユーン廟を参拝する。
2023/12/21~
デリー
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(4)インド門からラジーズでランチを食べて、小麦とからし菜畑を越えてジャイプ...
2023/12/21~
デリー
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(5)ピンクシティと風の宮殿を通り抜け、巨大なアンベール城を彷徨い歩く。
2023/12/22~
ジャイプール
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(6)ジャンタルマンタルの驚異的な機能に驚き、絨毯を買い求めてアグラを目指す...
2023/12/22~
ジャイプール
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(7)ジャイプールから面白過ぎる高速道路の風景を楽しんで、アグラのジェイピー...
2023/12/22~
アグラ
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(8)アグラ郊外のファテープルシークリーで映画「落下の王国」で爆破されたディ...
2023/12/23~
アグラ
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(9)巨大なアグラ城を彷徨い歩き、幽閉されたシャー・ジャハーンに想いを馳せる...
2023/12/23~
アグラ
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(10)念願のタージ・マハルを訪れるもその観光客の多さに驚き、ホテルのアーユ...
2023/12/23~
アグラ
-
トラピックス 魅惑のインド6日間(11)朝霧の高速をデリーに向かい、念願のミティラー画を買い求めてANA便で...
2023/12/24~
デリー
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
デリー(インド) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2023北インドの旅
0
70