2024/01/09 - 2024/01/09
53位(同エリア199件中)
杏仁豆腐さん
谷中七福神巡りの後半は、天王寺から。
天王寺墓地で、牧野富太郎と中村仲蔵の墓を探すのに彷徨いました。
七福神巡りとは関係ありませんが、寛永寺根本中堂に寄り、「将軍守り」をいただきました。
護国院、不忍池辯天堂と巡り、谷中七福神巡りも無事に終了。この日は、1万8千歩ほど歩きました。
今年が良い年でありますように!!
2014年は深川七福神巡り
前半 http://4travel.jp/travelogue/10849167
後半 http://4travel.jp/travelogue/10849210
2015年は日本橋七福神巡り
http://4travel.jp/travelogue/10968967
2016年は山手七福神巡り
前半http://4travel.jp/travelogue/11091848
後半http://4travel.jp/travelogue/11092422
2017年は千寿七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11204484
2018年は東海七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11322500
後半https://4travel.jp/travelogue/11322570
2019年は新宿山ノ手七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11446974
2020年は隅田川七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11585262
後半https://4travel.jp/travelogue/11585709
2021年下谷七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11672917
後半https://4travel.jp/travelogue/11673442
2022年浅草名所七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11734622
後半https://4travel.jp/travelogue/11735039
2023年は小江戸川越七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11802441
後半https://4travel.jp/travelogue/11803259
2024年は谷中七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11878295
後半https://4travel.jp/travelogue/11878851
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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天王寺に来ました。
谷中墓地の一画にあります。天台宗の寺院。
本尊は伝教大師自刻と伝わる毘沙門天立像です。 -
江戸時代には「富くじ」興行があり、目黒の滝泉寺、湯島天神と共に江戸三富と呼ばれて賑わいました。
毘沙門堂には、「毘沙門天」が本尊として祀られています。 -
「元禄大仏」(露座、銅製)は、元禄3年(1690年)鋳造の釈迦牟尼如来坐像です。
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庚申塔
庚申塔は、庚申信仰に基づいて立てられた建造物で、江戸時代以降、盛んに造立された。
庚申信仰とは、六十日に一回めぐってくる庚申の日の夜を寝ずに過ごすことで、長寿延命や無病息災を祈る信仰行事である。地域ごとに庚申講が組織され、庚申の晩に議員が集まって行事が行なわれた。区内には六十一基の庚申塔が現存している。
天王寺には十基の庚申塔が立てられている。うち一基は門前の小祠内に安置されている。これらは寛文三年(一六六三)から正徳五年(一七一五)にかけて造立されたもので、講員の名前が見られる。そこには谷中村講とあることから、地域の住民が組織したものと考えられる。
このように庚申塔は、地域に根ざした人々の信仰を明らかにする貴重な資料であることから、本塔を含む区内の庚申塔が、平成十九年三月に台東区有形民俗文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。 -
山門手前右手に「地蔵堂」があります。
地蔵尊立像と庚申塔(青面金剛像)が祀られています。 -
天王寺墓地には、「日本の植物学の父」といわれれる牧野富太郎の墓があります。案内があります。
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迷いながら、牧野富太郎の墓にたどり着きました。
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墓の正面には「結網学人 牧野富太郎 TOMITARO MAKINO Dr.Sc. APRIL 26.1862-JAN 18.1957」と刻まれています。
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隣には、寿衛子夫人の墓があります。
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福地源一郎(桜痴)墓がありました。
福地源一郎(1841-1906)は、長崎で生まれ、はじめ星泓(せいおう)、のち桜痴と号し、源一郎は通称です。明治時代前半、東京日々新聞(毎日新聞の前身)の主筆として筆をふるい、初めて社説を採用するなど、明治のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍した人物です。 -
梅の花が咲き始めています。
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中村仲蔵の墓です。
なかなか見つからず、あちこち彷徨いました。
三代目中村仲蔵です。 -
荒れた墓所となっていました。
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長安寺に来ました。
臨済宗妙心寺派の禅寺です。 -
寿老人
徳川家康の寄進と伝えられる等身大の寄木彫刻で、左脇に鹿を従えた座像です。 -
功徳林寺の境内には、笠森稲荷堂があります。
笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。 -
谷中 菓匠 あかねね
無添加「おはぎ」専門店です。 -
ピスタチオのおはぎを購入しました。
千葉県産のもち米を秘伝の炊き方で炊きあげており、みじん切りにした「青じそ」を混ぜ込んでいるそうです。
ピスタチオの風味が広がります。新しいおはぎです。 -
寛永寺 根本中堂にちょっと寄り道。
元禄十一年(1698)、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応四年(1868)彰義隊の戦争の際に焼失してしまいました。
現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたものです。 -
寛永寺根本中堂で授与された「将軍守り」
徳川将軍家の家紋である葵の御紋を中央に据えた金属プレート型のお守りです。
表面には「かすがい山」や、寛永寺に眠られている五代将軍綱吉公の墓所の唐門に彫刻されている「松竹梅」と「香雲」が描かれています。 -
裏面には、歴代の将軍の名前を、さらに寛永寺と縁の深い8名の将軍は一目で分かるように記してあります。
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護国院に来ました。
護国院は寛永寺の子院で、寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創、承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)現在の地へ移転したといいます。 -
三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっています
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清水坂(しみずざか)を下ります。
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清水坂
坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。 -
不忍池辯天堂に来ました。
手水舎の天井には谷文晁の「水墨の竜」が描かれています。 -
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで常陸下館城主の水谷勝隆が池中に中之島(弁天堂)を築きました。
弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された弁天堂本尊は慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁財天です。 -
不忍池大黒天堂
谷中七福神とは別に大黒天がお祀りされています。こちらの大黒天は豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説があり、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れ、今日に伝わっています。
不忍池辯天堂で、谷中七福神巡りは終了です。 -
不忍池の畔には駅伝の碑があります。
駅伝発祥の地記念碑ともいわれ、大正6年4月27日~29日に行なわれた日本初の駅伝のゴールだった地を記念して、平成14年に日本陸上競技連盟が建立しました。スタート地点の京都・三条大橋にも同じ形の碑が立っています。
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