2021/01/14 - 2021/01/14
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杏仁豆腐さん
今年の七福神巡りは下谷七福神巡りです。8年目になります。
昔、下谷七福神巡りを行ったことがありました。それから、もう20年以上が経ちます。
とてもコンパクトな七福神巡りで、短時間で巡ることができます。
近くの神社仏閣にも寄り道しながら、歩きました。
2014年は深川七福神巡り
前半 http://4travel.jp/travelogue/10849167
後半 http://4travel.jp/travelogue/10849210
2015年は日本橋七福神巡り
http://4travel.jp/travelogue/10968967
2016年は山手七福神巡り
前半http://4travel.jp/travelogue/11091848
後半http://4travel.jp/travelogue/11092422
2017年は千寿七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11204484
2018年は東海七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11322500
後半https://4travel.jp/travelogue/11322570
2019年は新宿山ノ手七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11446974
2020年は隅田川七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11585262
後半https://4travel.jp/travelogue/11585709
2021年下谷七福神巡り後半
https://4travel.jp/travelogue/11673442
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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三ノ輪駅下車。
ここから下谷七福神巡りスタートです。
天気も良く、歩くにはいい条件です。
三ノ輪・竜泉・下谷・根岸をめぐる総延長約2.9kmです。とてもコンパクトな七福神巡りです。 -
三ノ輪駅から歩いてすぐの寿永寺。
寛永7年(1630年)に得生院寿栄法尼の開基により創建しました。 -
布袋像
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二宮尊徳像
蜜柑を背負っています。 -
池には鯉が泳いでいます。
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寄り道して、千束稲荷神社に来ました。
鳥居は文化10年(1813)の建立で柱には江戸後期の書家亀田鵬斉の書とされる「資生功廣郷里沐調和、化育徳宏閭閻蒙保障」(神の徳により資生産業は栄え、郷里は、静かに調和を保ち、平安無事な日々が保証される)と刻まれています。 -
かつて浅草は千束郷と称されており、南北二社の稲荷社があったそうです。そのうち北にあった下千束稲荷が千束稲荷神社の前身にあたります。浅草寺境内にあった南の上千束稲荷(西宮稲荷とも)は既に廃絶しています。
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樋口一葉文学碑
千束稲荷神社が鎮座する龍泉寺町はかつて樋口一葉が住んでいた土地として知られています。一葉が住んだ期間は僅か一年間でしたが、この地での体験がもとになって名作『たけくらべ』が生まれました。
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正面碑文
『明日ハ鎮守なる千束神社ノ大祭ナリ今歳は珠ににぎはしく山車などをも引出るとて人々さわぐ』 樋口 夏 -
訪れる人もいなく、静かな境内です。
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石灯篭
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龍泉寺に来ました。
江戸初期に創建された古刹です。 -
旧町名由来案内 旧 竜泉寺町
本町名は、竜泉寺にちなんで付けられた。竜泉寺は、慶長から元和の頃(1596~1623)に創建された古刹である。そのため、この付近一帯は竜泉寺村といわれた。延宝七年(1679)の頃、吉原から金杉へ抜ける道筋に町屋が出来、竜泉寺村とは別にそこを竜泉寺町と呼んだ。
明治二年に下谷竜泉町と改称したが、同二十四年、竜泉寺村、千束村おやび三ノ輪村の一部とともに下谷竜泉寺町として誕生した。そして、明治四十四に下谷を略して再び竜泉寺町となった。
明治文壇の女流作家樋口一葉は、明治二十六七月からこの地に住んだ。わずか十箇月だったが、ここの生活があってこそ一葉文学が生まれたといえる。 -
下谷七福神巡りに戻り、飛不動に来ました。
飛不動尊の由来
昔、このお寺の住職さんが、ご本尊とされている不動明王像を携えて、大和国(今の奈良県)の大峰山に修行に行かれました。大峰山に不動様を安置し、修行していたある日、住民たちがお不動様の分身を携え祈っていたところ、不動明王様は一晩で空を飛びここへ戻り、住民にいろいろなご利益を与えてくださったとか。
それを人々が「空を飛んで我々を守ってくださったお不動様」と呼び「飛不動尊」となったそうです。 -
1530年に本山派修験僧の正山上人によって開かれた修験系天台宗の単立寺院です。正山上人は修験道の聖地 和歌山県熊野から奈良県吉野にいたる大峯やまで修行後、諸国を巡歴しました。
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本堂の額の隣には「倶利伽羅剣/くりからけん」が飾られています。
パイロットや客室乗務員などの参詣も多く、小惑星探査機「はやぶさ」の成功祈願、無事帰還というご利益もありました。
映画『はやぶさ 遥かなる帰還』では渡辺謙演じるJAXAのはやぶさプロジェクトマネージャー・山口駿一郎が飛不動尊の護摩が焚かれる中で正座して祈願するシーンもあったそうです。 -
羅鑑像
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恵比寿さん
キク恵比寿と言う名前で慕われているそうです。 -
六地蔵
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寄り道で、長国寺に来ました。
長国寺は日蓮上人を宗祖とするお寺です。江戸時代中頃から「鷲大明神」や「鷲妙見さん」と呼び親しまれてきた「おとりさま」を祀り、開運招幅・商売繁盛のお祭りである「酉の市」を開催してきました。 -
鷲神社の隣にあり、明治の神仏分離まではその別当寺でした。
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長国寺の隣の浅草鷲神社に来ました。
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古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したとされていますが、実際は隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まると言われています。江戸時代中期から酉の市で知られ、足立区花畑の大鷲神社の「おおとり」に対し、鷲神社は「しんとり」と称されました。
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茅の輪
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なでおかめ
鷲神社「なでおかめ」の云われ
おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う -
神楽殿
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樋口一葉玉梓乃碑
年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見聞きするにつけ、その当時の事どもを偲び後世に伝えんと此に明治文壇の閨秀作家樋口一葉の「たけくらべ」の一節、又書簡文を刻して残す。「たけくらべ」は一様が竜泉町に住みし明治26年(1893)7月より明治27年(1894)4月まで10ヶ月間の見聞きした事を書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、市の様子を卓越した文章にて記している。また、樋口一葉玉梓乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。
「塵中につ記」に一葉は明治27年(1894)3月26日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてみし面かけは何方にか残るへき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。
此に樋口一葉歿後百年を前にし、更に平成発酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する。
平成5年(1993)10月吉日 鷲神社 宮司河野英男記 -
樋口一葉文学碑
『たけくらべ』
此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天氣に大鳥神社の賑わひすさまじく、此處をかこつけに檢査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき・・・ -
正岡子規句碑
雑閙や 熊手押あふ 酉の市 -
宝井其角句碑
春をまつ ことのはじめや 酉の市 -
まだまだ寄り道。
吉原弁財天本宮です。 -
関東大震災によって亡くなられた方の慰霊のために造られた観音像。
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関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こりました。この観音さまは溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたものです。
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悲しい出来事がありました。
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花吉原名残碑
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和3年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦3年(1657)の大火を契機に、幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され同明暦3年(1657)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年(1958)「売春防止法」の成立によって廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和35年(1960)地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
昭和41年(1966)の住居標示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。 -
新吉原花園池跡(弁天池跡)(吉原弁財天)
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年(1958)までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年(1923)の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年(1926)に造立されたものである。昭和34年(1959)吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。 -
花吉原名残碑の右に、元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門の碑があります。
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吉原弁財天(元宮)の鳥居です。
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吉原弁財天の本宮です。
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吉原弁財天から歩いてすぐの場所に、吉原神社があります。
明治5年(1872)に新吉原遊郭の四隅に祀られていた四稲荷社と、地主神である玄徳稲荷社を合祀して、吉原神社を創建しました。さらに昭和10年(1935)吉原弁財天を合祀しました。 -
お穴さま
地中の神様で神社の土地をお守りしています。
心を込めてお参りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしています。 -
久保田万太郎句碑
浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑です。
この里に おぼろふたヽび 濃きならむ -
吉原神社を後にし、弁天院に向かいます。
西徳寺の前を通過。 -
第十七代目中村勘三郎墓所とあります。
第十八代目中村勘三郎の墓所でもあります。 -
この辺りには歴史を感じさせる家屋が残っています。
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弁天院に着きました。
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寛永元年(1624年)、水谷伊勢守勝隆が建立した不忍池に弁天堂と姉妹弁天としてこの地に建立されました。
西方の不忍を夕日、東方のこちらは朝日辨財天と称しました。 -
弁天池は大きい池でしたが、関東大震災の後、焼土の処分のために埋められ、小さな池になったそうです。
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聖観世音菩薩
平成元年(1989)建立です。 -
由来記碑
次は、法昌寺に向かいます。
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