2020/01/06 - 2020/01/06
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杏仁豆腐さん
今年の七福神巡りは隅田川七福神巡りです。7年目になります。
向島界隈の名所、旧跡も寄りました。
2014年は深川七福神巡り
前半 http://4travel.jp/travelogue/10849167
後半 http://4travel.jp/travelogue/10849210
2015年は日本橋七福神巡り
http://4travel.jp/travelogue/10968967
2016年は山手七福神巡り
前半http://4travel.jp/travelogue/11091848
後半http://4travel.jp/travelogue/11092422
2017年は千寿七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11204484
2018年は東海七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11322500
後半https://4travel.jp/travelogue/11322570
2019年は新宿山ノ手七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11446974
2020年隅田川七福神巡り後半
https://4travel.jp/travelogue/11585709
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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東武スカイツリーライン堀切駅で下車。
歩道橋の上から撮った堀切駅。 -
隅田川七福神の旗が目印です。これを辿れば巡れます。
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スペーシアが通過します。
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線路沿いに歩きます。
天気も良く、気分よく七福神巡りできます。 -
多聞寺に着きました。
かつては、大鏡山明王院隅田寺(だいきょうざんみょうおういんぐうでんじ)と称し、不動明王を本尊としていましたが、天正年間(1573~1591年)に住職鑁海上人(ばんかいしょうにん)が夢のお告げにより毘沙門天を本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられています。 -
古くは隅田堤の外の隅田川神社に近い、多聞寺屋敷という所にありましたが、天正年間(1573~92年)に現在地に移されました。
この寺は慶長11年(1606年)に建立され、本尊の毘沙門天像は、弘法大師の作と伝えられます。
むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の川原の中で草木が生い繁るとても寂しいところでした。 大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。
また、「牛松」と呼ばれる大人が5人で抱えるほどの松の大木がありました。 この松の根本には大きな穴があり、妖怪狸が住みつき人々をたぶらかしていたのです。
そこで、多聞寺の中興である鑁海(ばんかい)和尚と村人たちは、人も寄り付くことが出来ないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。 まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池を埋めてしまいました。 すると、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、悪戯はひどくなるばかりです。
ある晩のことでした、和尚の夢の中に、天まで届くような大入道が現れて、
「おい、ここはわしのものじゃさっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」
と、脅かすのでした。
和尚はびっくりして、一心にご本尊の毘沙門天を拝みました。
やがて、毘沙門天に仕える禅膩師(ぜんにし)童子が空から舞い降りて、妖怪狸に話しました。
「おまえの悪行は、いつかおまえを滅ぼすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。 これを見た和尚と村人たちは、狸がかわいそうになりました。 そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。 この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。
むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の川原の中で草木が生い繁るとても寂しいところでした。 大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。
また、「牛松」と呼ばれる大人が5人で抱えるほどの松の大木がありました。 この松の根本には大きな穴があり、妖怪狸が住みつき人々をたぶらかしていたのです。
そこで、多聞寺の中興である鑁海(ばんかい)和尚と村人たちは、人も寄り付くことが出来ないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。 まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池を埋めてしまいました。 すると、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、悪戯はひどくなるばかりです。
ある晩のことでした、和尚の夢の中に、天まで届くような大入道が現れて、
「おい、ここはわしのものじゃさっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」
と、脅かすのでした。
和尚はびっくりして、一心にご本尊の毘沙門天を拝みました。
やがて、毘沙門天に仕える禅膩師(ぜんにし)童子が空から舞い降りて、妖怪狸に話しました。
「おまえの悪行は、いつかおまえを滅ぼすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。 これを見た和尚と村人たちは、狸がかわいそうになりました。 そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。 この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。 -
多聞寺の山門は江戸時代中期に造られた区内最古の建造物です。
切妻造の四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根を持ちます。
全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も見られます。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は十八世紀を下らない建造を感じさせます。
慶安二年(1649)に建立された山門ですが、その後焼失しました。過去帳には「享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裡、焼失四棟也、表門は不焼」とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年には再建されていたことになります。
墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多聞寺山門が現存することは、貴重であり、周囲の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物と言えます。(平成17年3月 墨田区教育委員会) -
六地蔵坐像
この六地蔵像は総高150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目の石は方形、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持ち物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。
欠損や修復の跡が見られますが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます
隅田村地蔵講中の数年にわたる作業行為を知り得る貴重な資料といえます。
六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(1713)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています(平成4年3月 墨田区) -
狸塚
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狸塚のいわれ
むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の川原の中で草木が生い繁るとても寂しいところでした。 大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。
また、「牛松」と呼ばれる大人が5人で抱えるほどの松の大木がありました。この松の根本には大きな穴があり、妖怪狸が住みつき人々をたぶらかしていたのです。
そこで、多聞寺の中興である鑁海(ばんかい)和尚と村人たちは、人も寄り付くことが出来ないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池を埋めてしまいました。すると、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、悪戯はひどくなるばかりです。
ある晩のことでした、和尚の夢の中に、天まで届くような大入道が現れて、「おい、ここはわしのものじゃさっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」と、脅かすのでした。和尚はびっくりして、一心にご本尊の毘沙門天を拝みました。
やがて、毘沙門天に仕える禅膩師(ぜんにし)童子が空から舞い降りて、妖怪狸に話しました。
「おまえの悪行は、いつかおまえを滅ぼすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。 これを見た和尚と村人たちは、狸がかわいそうになりました。 そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。 この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。 -
浅草国際劇場の鉄骨があります。
東京大空襲の爆撃で折れ曲がった浅草国際劇場の鉄骨です。 -
戦災の証言者。
地中から発掘された空襲で焼かれたの木です。 -
映画人ノ墓碑です。
故・坂齋小一郎(共同映画株式会社創立者)の遺族ハツ夫人が提供した資金により、日本映画の民主的発展のためにつくした映画の仲間の生涯を顕彰・追悼する墓碑。
平成四年(1992)に建立されました。 -
平和観音像です。
昭和五十九年(1984)、弘法大師のご入定千百五十年遠忌を記念して、檀信徒の報恩謝徳の証しとして建立されました。。 -
阿弥陀如来石像。
寛文四年(1664年)造立。
子育て地蔵。 -
弘法大師像
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石仏が並んでいます。
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多門寺を出て、墨堤通りに。
旧鐘紡工場跡。 -
鐘ヶ淵駅から近い圓徳寺に来ました。
曹洞宗寺院です。朱の山門で有名です。 -
阿弥陀如来庚申塔(寛文12年(1672))
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墨堤通りを渡り、隅田川沿いにある木母寺(もくぼじ)に来ました。
平安時代中期の977年忠円阿闍梨の創建と伝えられ、能「隅田川」の梅若山王権現の舞台であることから梅若寺と古称します。 -
梅若念仏堂の堂内
このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。
天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
当寺に今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。 -
身代わり地蔵尊
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三遊塚です。
三遊亭円朝が明治22年に、先師(初代)三遊亭円生を追福する為、建立したもので、題字は山岡鉄舟、銘文が高橋泥舟です。 -
天下之糸平の石碑。巨大です。
明治時代のはじめの頃に貿易業で財を成した、田中平八の石碑です。
親交のあった、伊藤博文の書です。 -
墨堤通りに戻りました。
榎本武揚像があります。
榎本武揚は幕末から明治にかけて活躍し、晩年は向島で過ごしました。本銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六などの発起により、府会議員本山義成らが中心となって建立されたもので、彫刻家藤田文蔵の秀作です。 -
正福寺に来ました。
慶長七年(1602年)に開基されました。安政大地震(安政二年十一月)により壊滅しましたが、名主坂田三七郎の邸宅寄進により再建され、現在に至ります。 -
大師堂
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弘法大師
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阿弥陀如来
萬治4年(1661年)銘 -
正福寺板碑
板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士達が供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります(登録は二基)
宝治二年(1248)銘の板碑は高さ116センチ、幅46センチ、厚さ10センチで区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当時に移されたといわれます。なお、区内には約30基の板碑があります(平成14年3月 墨田区教育委員会) -
板碑
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首塚地蔵
首から上の病気にご利益があると言われています。 -
天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、「首塚」といったと伝えられています。
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下茂稲荷
昔、下総通りと上総通りの分かれ道にあったので、下茂稲荷神社といわれています。村の人たちは、火ぶせ稲荷呼んでいたようです。 -
この辺りは古い家屋も数多く残っています。
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白髭公園
都営団地の前にあります。 -
白髭公園の前には岐雲園跡(きうんえんあと)の解説板があります。
読みづらくなっています。
岐雲園は、広さ約500坪(1650㎡)、河水を引いた汐入りの池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(ただなり)が、自分の所有する画巻の筆者、明の魯岐雲にちなんで名付けました。
忠震は、目付・外国奉行として幕末の外交に尽くした人で、海外事情に精通して早くから開国政策を唱え、各国との交渉に多くの業績を挙げましたが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にして職を免ぜられました。憂憤の彼は、ここ岐雲園で退隠生活を送り、再び世に出ることもなく、風雅な生活を楽しみました。忠震の号である「鷗所」は隅田川に翔ぶ都鳥にちなんでつけたといい、文久元年(1861)44年の生涯を閉じました。近くの白鬚神社には彼の顕彰碑「岩瀬鷗所君之墓碑」が永井介堂の碑文で建てられています。この介堂は、永井尚志といい忠震とともに幕政、外交に力を尽くした人で、晩年を岐雲園で送り、この地で没しています。
幸田露伴の長兄、成常も岐雲園に住み、露伴自身が居住した時期もあります。また、北千島開拓で有名な海軍大尉郡司成忠は露伴の次兄で、千島に出発の前夜である明治26年3月19日の夜、別離の宴を催したのもここでした。
平成15年3月
墨田区教育委員会 -
長寿庭園から見たスカイツリー。
スカイツリーがかなり近くに見えます。 -
法泉寺に来ました。
法泉寺は、葛西三郎清重が両親供養のために建立、吉祥寺2世大州安充が真言宗から曹洞宗に改めて開山したといいます。 -
葛飾北斎の寺島法泉寺詣
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銅造地蔵菩薩立像
享保二年(1717年)
像高160cm。円光背を掲げ右手に宝珠、左手に錫杖、背面に起年銘・願主・施主作者、衣全体に結衆者(屋号/職業)や戒名が陰刻されています。
江戸期に寄進者を得て病気平癒の為に造立された地蔵菩薩として同時代の旺盛な庶民信仰が伺えます。延命地蔵として建立されたと伝えられています。 -
尚左堂俊満の碑
文政四年(1821年)
俊満は宝暦七年(1757年)江戸の生まれ、北尾重政門下。左利きで色を控え「紅嫌い」と称された洒落な浮世絵師です。
多彩な才能で戯作号は南陀伽紫蘭(なんだかしらん)・黄山堂(こうさんどう)、俳号は塩辛亡(しおからぼう)、狂歌号は一節千杖(ひとふしちつえ)、沈金彫り貝細工でも著名です。 -
石造地蔵菩薩立像
寛文二年(1662年)
背に普回向として法華経第七化城喩品の一節(普回向)が彫られています。欠損の右手は錫杖を有したと推定されます。奉納者には、導師3名、男性20名の他に当時として稀な女性名「玉」も刻まれています。
江戸庶民信仰の現れた眉目秀麗な立像菩薩です。 -
あちこち寄ったので、時間がかかってしまいました。
やっと二番目の七福神の白髭神社に到着です。 -
白鬚神社は、天暦5年(951)に慈覺大師が関東下向時に、白鬚大明神の御分霊を当地に祀ったと伝えられています。
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江戸時代に隅田川七福神巡りがつくられた際、寿老人を祀る寺社がどうしても見つからず、白髭大明神はその名前から白い髭の老人を祀るのだろうと連想して当社に定められたそうです。
そのため、寿老人ではなく、寿老神ということです。 -
天暦5年(951)に慈覺大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進された。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。(白鬚神社由来より) -
初詣の人たちも多くいました。
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明治に建立された七福神碑には「白鬚大神」の文字があります。
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山玉向島講社の碑
山玉向嶋講社は、かつて向島地域を拠点に活動した富士講の一つです。関連資料によれば、この講社は明治8年(1875)頃には既に存在し、専用の祭祀具を誂えて定例礼拝を執行するなどしていたようです。また、夏季には20名前後の人数で富士山を登拝していたことが分かっています。
2基で1対を成す本碑は、その山玉向嶋講社が建立したもので、「大願成就三十三度登山」を果たした四代目の先達玉山丈行のほか、講元松本萬次郎や当時の世話人22名の名前が確認できます。また、総勢87名の一般構成員の名前も分かります(ただし5名は商家屋号)。不明点の多い山玉向嶋講社の組織と構成員を把握するうえで大変貴重な資料となっています。
なお、本碑に名前を刻んだ玉山丈行という先達は、実名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人であったことが確認されています。また、大正7年(1918)8月3日までには大先達に昇格していたことが分かっています。建碑当時すでに大先達だったにもかかわらず本碑に「四代目先達」と刻んだ理由は不明ですが、本碑はこの人物が講社設立以来4人目の先達だったことを示しています。 -
墨多三絶の碑
上州桐生の織物商で漢詩人の佐羽淡斎(さばたんさい)が墨堤(ぼくてい)の風景を詠んだ三連の絶句(四句から構成される漢詩)を刻んだ碑です。
漢詩の内容は、墨堤から隅田川を眺めた情景を絶句形式で描き、当時のすみだの風情を良く表しています。 -
岩瀬鴎所君之墓碑
江戸時代末期の外交家。
文政元年 (1818年) 江戸に生まれました。
名は忠震 ( ただなり) で、鷗所 (おうしょ) の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。
幕府の徒頭、設楽貞夫の第三子で天保十一年 ( 1840 )、旗本岩瀬忠正の養子になりました。
嘉永二年 ( 1849 ) 老中阿部正弘から目付に抜てきされました。
鷗所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鷗所が一番といわれました。
幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるにも参画しました。
後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。
その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年 (1861年) 七月十六日、四十四歳で没しました。 -
白髭神社境内に寺島ナスの案内板があります。
江戸・東京の農業 寺島ナス
かつて、白髭神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688〜1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流か運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。
享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子
西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(かそ)とす。」また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子と して、「東西葛西領中びて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。
農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(つちものだな)(青物市場)等に出荷していました。
江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業 -
鷲津毅堂之碑(わしづきどうのひ)
三条実美てん額、厳谷一六書による毅堂の伝記碑。
毅堂は名を宣光といい、幕末・明治初期に活躍した漢学者で、明治政府の官職を歴任し、明治十五年(1882)に司法権大書記官となりましたが、同年秋に58歳で没しました。毅堂はまた、小説家・永井荷風の母方の祖父でもあります。明治十六年の建立です。 -
白髭神社を出ました。
西川春洞・寧住居跡
西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化4年(1847)日本橋の家で生まれました。
幼い頃、書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。
そして、この地(寺島村一二○七番)に居を構え、多くの弟子を養成しました。
春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正4年この地に没しました。
春洞の息子寧は、明治35年ここに生まれ、寺島小学校(現第一寺島小学校)に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和60年に書家として初めて文化勲章を受賞しました。
平成元年5月目黒区中町で没しました。 -
葛飾北斎「白鬚の翟松 今戸の夕烟」
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この道は、旧墨堤の道です。
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~1673)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目、都立東白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿をけしてしまった、旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっています。 -
旧墨堤の道
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子育地蔵堂
この堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。
この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。
その後、天保3年(1832)4月に11代将軍徳川家斉が鷹狩りに来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
御堂前の坂は、明治44年(1911)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。
昭和8年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立100年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。 -
子育地蔵堂を後にし、向島百花園に向かいます。
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