2022/01/11 - 2022/01/11
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杏仁豆腐さん
浅草名所七福神巡りの後半です。
石浜神社で参拝した後、石浜神社境内にある「石濱茶寮 楽」で昼食。
その後、今戸神社、待乳山聖天を巡り、無事に浅草名所七福神巡りを完了しました。
ついでに、すみだリバーウォークを歩き、東京ミズマチを眺めながら、東京スカイツリーの東京ソラマチまで歩きました。
2万歩を超えました。
七福神信仰の歴史
鎌倉時代、日本古来の守り神恵比須(漁労、労働、商売などの守護神)の信仰に、中国を経てインドから大黒天(五穀豊穣、飲食の神)、弁財天(音楽、知恵、弁説、財福の神)の信仰が加わりました。室町時代にかけて、この三神の信仰が庶民の間に深まってきますと、毘沙門天(人倫の道、仏法の守り神)、布袋尊(吉凶の占い、家庭円満など福徳の神)、福禄寿(幸運、生活の安定、長寿の神)、寿老人(長寿延命の神)の四神が加えられて、人々の願望に応える七福神として信仰の象徴になったものと一般に理解されています。
江戸時代、かの上野寛永寺の開祖天海僧正が徳川家康に説いて、寿命、有福、人望、清廉、威光、愛敬、大量を七福とし、為政者のあるべき姿としました。
2014年は深川七福神巡り
前半 http://4travel.jp/travelogue/10849167
後半 http://4travel.jp/travelogue/10849210
2015年は日本橋七福神巡り
http://4travel.jp/travelogue/10968967
2016年は山手七福神巡り
前半http://4travel.jp/travelogue/11091848
後半http://4travel.jp/travelogue/11092422
2017年は千寿七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11204484
2018年は東海七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11322500
後半https://4travel.jp/travelogue/11322570
2019年は新宿山ノ手七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11446974
2020年は隅田川七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11585262
後半https://4travel.jp/travelogue/11585709
2021年下谷七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11672917
後半https://4travel.jp/travelogue/11673442
2022年浅草名所七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11734622
後半https://4travel.jp/travelogue/11735039
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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石浜神社に来ました。
石浜神社は、神亀元年(724)聖武天皇の命により創建したと伝えられます。源頼朝が藤原泰衡討伐の折に当社に祈願、大勝したことから社殿を造営されたといいます。 -
第一鳥居は、安永8年(1780)、麁香様の開帳の年に建立されました。
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第二鳥居は、寛延2年(1749)の建立です。
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こちらで、七福神絵馬(寿老人)をいただいました。
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左に寿老神。
昭和52年(1977)、浅草七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
右は、宝得大黒天。 -
富士遙拝所
宝暦8年(1758)の建立です。 -
富士遙拝所の隣は、白狐祠。
江戸後期、招来稲荷社繁栄の頃の狐に関する伝えは、この祠にちなむものです。 -
招来稲荷神社
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亀田鵬斎の詩碑
亀田鵬斎(1752-1826)は江戸後期の儒者。 -
鳥居の間からスカイツリー
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麁香(あらか)神社関係資料
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境内にある、「石濱茶寮 楽」でランチです。
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石浜神社ご鎮座1300年記念事業の一環として、境内にオープンしました。
石浜神社に祀られている真先稲荷神社では、かつて門前に豆腐田楽を売る茶屋が立ち並び、名物だったそうです。 -
名物開運七福天丼をいただきました。
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ししとう、かぼちゃ、茄子、のり、玉子、キス、海老の天ぷら。
海老は有頭海老で、大きいです。
ボリュームあります。 -
この日は暖かかったので、テラス席で食べている年配の女性も3組ほどいました。
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石浜神社を出ると、白鬚橋です。
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隅田川は雄大です。
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明治天皇行幸對鴎荘遺蹟
隅田川畔の橋場一帯には、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたそうです。対鷗荘(対鴎荘)もその1つで、明治時代の政治家三条実美(1837~1891)の別邸でした。 -
隅田川に沿って歩きます。
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スカイツリーを眺めながら、隅田川沿いを歩くのは、いい気分です。
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隅田公園内にある明治天皇御製碑。
明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。その帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」と詠まれたそうです。 -
今戸神社に着きました。
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こちらで、七福神絵馬(福禄寿)をいただきました。
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境内には、女性がけっこういました。
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ドラマ「恋はつづくよどこまでも」のロケ地です。
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本殿の横には2体の「石なで猫」がいます。
神社に祭られている神様と同じ「いざなみ」「いざなぎ」という名前のカップルだそうです。 -
今戸焼発祥の地
今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人 形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の 今戸神社にある狛犬台座には宝暦二年(一七五二)に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。
今戸焼の起源は定かではないが、伝承では天正年間(一五七三~九一)に 千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である『江戸名所図会』には瓦作りの挿絵がみられ、「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には 今戸焼の窯が描かれている。
近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。
関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には 一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。
沖田総司終焉の地は、今戸神社とされ、境内には「沖田総司終焉之地」の碑があります。 -
手水舎にも招き猫。
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慶養寺
仁王像に招かれて入ってみました。 -
観音様
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山谷堀公園
山谷堀は、かつてあった東京の水路です。江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られました。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが「山谷堀公園」となっています。 -
今戸橋跡
今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。
この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われています。
現存する欄干は、大正15年(1926年)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987年)現在のような形となりました。 -
待乳山聖天に着きました。
駐車場から入ると、スロープカーがあります。スロープカーの存在は知っていましたが、乗るのは初めてです。 -
スロープカーに乗り込みました。
けっこうワクワクしてしまいました。 -
けっこうな急斜面に感じます。
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スロープカーが動き始めて、下を見ること高さを感じます。
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山頂?に到着し、スロープカーから降りました。男性の方が一人、待っていました。
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本堂です。
お参りをし、最後の七福神絵馬(毘沙門天)をいただきました。 -
こちらでは、お下がり大根がいただけます。ご丁寧に大根を入れる袋まで置いてあります。
有難くいただいて、家で美味しくいただきました。ありがたや~。 -
宝篋印塔
全国的にも類例の少ない銅造の宝篋印塔です。 -
神楽殿
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待乳山聖天は、正式には待乳山本龍院と言います。
浅草寺をご本山とする聖観音宗の寺院です。浅草寺の子院のひとつです。
本尊は歓喜天(聖天)と十一面観音。 -
歓喜地蔵尊
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出世観音
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待乳山は、江戸時代、広大な江戸の平野にポツンとある10メートルの山でした。頂上からの見晴らしの良さから、当時から名所として文人墨客に愛されました。多くの絵画に画かれ、歌に詠まれています。
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トーキー渡来之碑
リー・デ・フォーレスト博士は明治6年(1873)米国アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年(1923)更にトーキーを発明。紐育市に於て上映世人を驚かせ在り。大正13年(1924)故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰国、大正14年(1925)7月9日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮電化の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正15年(1926)大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3年(1928)の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより三十年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年(1948)、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和27年(1952)テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌昭和28年(1953)8月30日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン早世の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
昭和31年(1956)5月吉日 建碑者 皆川芳造 -
腰壁には大根と巾着のレリーフ。
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待乳山聖天を後にし、浅草には戻らず、スカイツリーまで歩きます。
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東武スカイツリーライン
その下がすみだリバーウォークです。 -
すみだリバーウォークを歩きます。全長約160メートルの遊歩道です。
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頭上をりょうもうが走ります。
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間近に走る列車を見ることができます。
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隅田川が輝いています。
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2020年6月に開業した東京ミズマチ。
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DCU
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DCU
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東京スカイツリーまでもうすぐです。
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東京ソラマチで銀座天龍の餃子を購入しました。
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ニラ、にんにくを使わずに作られたジャンボ焼き餃子です。
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浅草名所七福神詣では、江戸市中でも有名だったのですが、戦後一時期中断のやむなきに至り、昭和五十二年に復活して今日に受け継がれているそうです。古くから江戸市民に霊験あらたかな福の神として親しまれてきています。
七福神巡りは七草(1月7日)までに巡るものとされていますが、浅草名所七福神は一年を通して御朱印や授与品の受付を行っています。 -
下町を歩き、いろいろな風景に出会うことができました。天気のいい日に巡ると気分も爽快です。
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七福神巡りは達成感もあり、歴史も感じることができるので、とても楽しい街歩きです。健康にもいいです。さて、来年はどこに行きましょうか。
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