2020/01/06 - 2020/01/06
7583位(同エリア85005件中)
杏仁豆腐さん
今年の七福神巡りは隅田川七福神巡りです。7年目になります。
向島界隈の名所、旧跡も寄りました。
ランチは、鳩の街通り商店街の古民家カフェこぐまでいただきました。
2014年は深川七福神巡り
前半 http://4travel.jp/travelogue/10849167
後半 http://4travel.jp/travelogue/10849210
2015年は日本橋七福神巡り
http://4travel.jp/travelogue/10968967
2016年は山手七福神巡り
前半http://4travel.jp/travelogue/11091848
後半http://4travel.jp/travelogue/11092422
2017年は千寿七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11204484
2018年は東海七福神巡り
前半https://4travel.jp/travelogue/11322500
後半https://4travel.jp/travelogue/11322570
2019年は新宿山ノ手七福神巡り
https://4travel.jp/travelogue/11446974
2020年隅田川七福神巡り前半
https://4travel.jp/travelogue/11585262
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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向島百花園に到着です。
江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた花園です。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)。交遊のあった江戸の文人墨客(ぶんじんぼっかく)の協力を得て、元旗本、多賀氏の屋敷跡である向島の地に、花の咲く草木観賞を中心とした「民営の花園(かえん)」を造り、開園しました。 -
東京市碑
向島百花園の由来を記した石碑です。 -
百花園の中に入ると、あちこちに句碑があります。
春もやや けしきととのう 月と梅
芭蕉 -
鳥の名の 都となりぬ 梅やしき
千樹菴益賀 -
福禄寿尊碑
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春の七草が展示されています。
直径約50㎝高さ約1mの「ジャンボ七草籠」です。 -
福禄寿です。
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隅田川七福神の発祥の地百花園は、文化元年(1804年)に仙台の人、佐原鞠塢(きくう)が開いたものです。百花園という名は『梅は百花のさきがけ』という意味で酒井抱一が命名したといわれています。
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こちらにも春の七草、「地植えの春の七草」です。
せり、なずな、おぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ春の七草 -
こにやくの さしみもすこし 梅の花
芭蕪 -
百花園から見るスカイツリー
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徳川慶喜公日本橋石柱
木造・石造・鉄製と作り替えられた日本橋の石造時代の石柱の模造品と思われます。
日本橋の文字は徳川慶喜公の書と伝えられていますが、欄干通しの穴を灯籠に見立てたものと考えられています。 -
冬の百花園もなかなかいいものです。
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はぎのトンネル
今は枯れたトンネルです。 -
向島百花園では毎年、春の七草を籠に仕立て「七草籠」を作り、皇室にも献上しています。
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百花園の売店で春の七草を販売していました。
購入しました。翌日が七日なので、七草がゆにしていただきました。 -
春の七草の解説
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蓮花寺に来ました。
真言宗智山派寺院です。
本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられ、寺島大師と呼ばれ、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに江戸三大師と言われていました。 -
聖徳太子を納めた太子堂
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「厄除弘法大師」の道標
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露伴児童遊園地に来ました。
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幸田露伴が明治41年から大正13年まで蝸牛庵(かぎゅうあん)と名付けて親しんだ住居の跡です。
蝸牛がいます。
露伴は関東大震災で井戸に油が浮くようになったため、大好きな隅田川を離れ、大正13年小石川へと転出しました。 -
幸田露伴文学碑
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昭和家屋とスカイツリー
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路地尊
向島に「一言会」という「防災まちづくりの会」があります。正しくは「一寺言問を防災のまちにする会」といいます。
この会の防災施設の一つが「路地尊」です。
江戸の風俗画にある天水桶を覆う屋根を模した天蓋と掲示板があります。その手前に手押しポンプがあります。水は井戸水ではありません。奥の家の屋根に降った雨水を樋とパイプで地下水槽に導き、この手押しポンプでくみ上げることができます。 -
鳩の街通り商店街の古民家カフェこぐまでランチです。
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昭和二年築の薬局をリノベーションした古民家カフェです。
店内の作り付けの棚は昔のままの薬棚。薬の引き出しや柱時計、ミシン、タイプライターなども、 この家に古くからあったモノたちです。 -
店に入った時は、ご婦人二人いましたが、やがて私一人になりました。
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古民家カフェはとても落ち着きます。
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焼きオムライスをいただきました。
スパイシーな味です。汗も出てきます。
すみだブランド認証を受けています。 -
食後の珈琲もゆっくりいただきました。
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十分に休息しました。
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カフェこぐまの近くにある寺島保育園の脇に吉川英治旧居跡があります。
1892(明治25)年、横浜生まれ。父は旧小田原藩士。県庁勤務の後、牧場経営に失敗し、家運が傾いたため、小学校を中退。朝から晩まで働き通した。
18歳の時、上京。本所菊川町(立川4丁目)のラセン釘工場に住み込み、夜は、本所林町(菊川1丁目)の府立夜間職工学校で、工芸図案を学ぶ。
その後、浅草三筋町にある輸出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となった。
貧しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ(吉川雉子郎の名で発表した川柳)
1917(大正6)年25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やすの寺島村1820(東向島1丁目)のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの寺島村1120(東向島3丁目)の借家に呼んだといわれている。 本格的な作家活動は30歳で「親鸞記」を初めて新聞連載した時に始まる。以後、創刊された「キング」に「剣難女難」、大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」を連載し、国民文学作家としての地位を不動のものにした。 -
狭い路地を歩きます。
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榎本武揚旧居跡
父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中浜万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で函館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。1856(安政3)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。1862(文久2)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。1867(慶応3)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
戊辰戦争絵は徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この函館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。1874(明治7)年に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。
1905(明治38)年から没する1908(明治41)年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。 -
言問小学校の脇には、依田學海旧居跡があります。
依田學海(よだがっかい)は、森鷗外の師匠にあたる漢学者、文芸評論家で、鷗外の代表作、『ヰタ・セクスアリス』に出てくる文淵先生のモデルになった人です。
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成島柳北旧居跡
成島柳北(1837~1884)は、幕府の儒者の家に生まれ、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えた。後に、騎兵奉行・外国奉行などを歴任した。
明治維新後は新政府の招きを固辞し、「朝野新聞」の主宰として、新聞条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を批判したことで知られた。
1884(明治17)年11月、海常園と呼ばれたこの場所で48年の生涯を閉じた。初め、横川にある本法寺に葬られたが、1909(明治42)年に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬された。
明治18年、長命寺の境内に柳北の記念碑が建てられた。
こちらも言問小学校の脇にあります。 -
長命寺に着きました。
寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りを行った際、急に病を催し、ここで休息をとり、境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、長命水の名を捧げられると共に、長命寺と呼ばれるようになったといいます。 -
本堂に安置する弁財天。
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幼稚園を経営しているので、敷地の中にあります。
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長命水
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芭蕉雪見の句碑
「いざさらば 雪見にころぶ所まで」
芭蕉の門人・祇空はこの地に庵をつくり、その後、祇空の門人・自在庵祇徳は、庵宝に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。
そして、三世・自在庵祇徳が安政五年(1858)に庵を再興し、この句碑を建立したそうです。 -
木の実ナナ歌碑
「風のように踊り 花のように恋し 水のように流れる」
木の実ナナは向島の出身です。 -
成島柳北の碑
成島柳北は、森繁久弥のおじいさんの弟です。
幕末・明治の随筆家・実業家です。
この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治十八年(1885)に建立されました。 -
出羽三山の碑
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孕山堂江雨燈影の碑・江戸桜の碑
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弘福寺に来ました。
長命寺の隣です。 -
淡島寒月旧居跡
父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主でだったそうです。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあったとか。
1884(明治17)年、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んでいました。
息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿していました。
1893(明治26)年頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居しました。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入りました。
夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場しますが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれています。 -
咳の爺婆尊
風外和尚禅師(寛永年中の人)自刻の父母の石像があります。風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていましたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれています。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしておりましたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀らしめたものです。
風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めております。人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしが伝わっています。
(HPより) -
咳の爺婆尊
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弘福寺本堂鬼瓦
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延宝6年(1673)鉄牛道機禅師が黄檗宗弘福寺として創建したといいます。
布袋尊を祀っています。 -
布袋尊
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貞享5年銘梵鐘
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池田冠山墓碑
池田冠山は学問・諸芸に通じ、毛利高標・市橋長昭と併せて「柳間詰の文学三侯」(寛政の文学三侯)と称されました。 -
庭に通じています。
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庭から見た本堂
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弘福寺からちょっと寄り道。
桜餅の山本やに来ました。 -
桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(一七一七年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。
その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。
これが江戸に於ける桜もちの始まりでございます。 (HPより) -
桜餅を購入しました。
もう何回もいただいている桜餅。 -
薄いクレープに包まれた上品な餡子。
桜の葉の香りとともにいただきます。 -
山本やの前には2つの解説があります。
向じま 花さくこころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
(「無何有洲七草集」女郎花の巻「寄寓隅田川名所恋」)
近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヶ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。
そこで次の句を詠んでいる。
花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も
から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。
子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴声は悲壮で「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。 -
三浦乾也旧居・窯跡
天賦の才に恵まれ、若くして乾山焼 6代を襲名した。
陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠 ( おがわ - はりつ ) が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。
嘉永 6年 ( 1853 )、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。
黒船来航である。驚愕した乾山は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。
これが認められ、翌安政元年 ( 1854 )、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。
安政 3年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。
この功業により厚遇され、同藩には万延元年 ( 1860 ) まで滞在した。
この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。
明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。
明治 8年 ( 1875 )、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯留めなどの捜索に励み、特に、簪 ( かんざし ) の珠は「乾也玉」の名で流行した。 -
「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」
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「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆・巨匠野口雨情氏が昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唄われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。(墨田区)
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ジュウガツザクラが咲いていました。
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料亭「割烹 美家古」
昭和前期建築の歴史的建造物です。
東京大空襲からも逃れ、現在も当時の佇まいを保っています。
2011年(平成23年)に、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 -
見番通りを歩きます。いりむらに来ました。
煎餅屋さんです。
久しぶりにいりむらで煎餅を買います。 -
いりむらの向こうにスカイツリー。
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生醤油がありませんでした。
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歴史を感じる煎餅屋さんです。
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辛子を購入しました。
お米の味わいがいいです。
美味しい煎餅です。 -
仁王と柿の種も購入。
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お年賀もいただきました。
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お年賀は、こんぶ茶でした。
うれしいサービスです。 -
やっと三囲神社に到着です。
七福神巡りの最後の場所です。
だいぶあちこち寄り道をしました。 -
以前は「三囲稲荷」と一般に呼ばれていた墨東の古社です。
草創年代については明らかでないのですが、社伝によれば、600年ほど前の文和年間、近江国三井寺の僧源慶(げんけい)が東国を巡礼していた途中、隅田川のほとり、牛島のあたりを通りかかると、荒れ果てた小祠が目につき、農夫にその由来を尋ねると弘法大師創建の由緒ある祠であるとのこと。
源慶はそのさまを深く悲しみ、自ら再建に着手しようとして地面を掘ったところ、白狐に跨った神像が納められた一つの壷が出て来ました。
そのとき、どこからともなく白狐が現われ、神像のまわりを三度めぐって、またいづこともなく消え去りました。この故事から「みめぐり」の名が起ったと伝えられています。 -
日比翁助(ひびおうすけ)石垣の歌碑
いしがきの 小石大石持合ひて 御代は
ゆるがぬ 松ヶ枝の色 日比美勲
日比翁助は号を美勲と称し 三越呉服店の会長 わが国 近代的百貨店の創始者。 -
最古の紀年銘を示す石造物
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「三囲のライオン像」
大正3年、当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み、三越本店に一対のライオン像を置いたそうです。 -
このライオン像は、2009年に閉店した三越の旧池袋店から移してきたものだそうです。
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三囲のコンコンさん
やさしい顔です。 -
三井家が三囲神社を守護社としたのには、主に以下の二説があると言われています。
1.この三囲神社は、三井家の本拠があった江戸本町から鬼門(北東)に位置しており、「鬼門除けの神」として祀られていた。
2.また、「三囲」という漢字は井を四角で囲っていることから、三井家を守るということからこの神社を祀った。 -
「恵比寿」と「大国神」が祀られています。
ここで七福神巡りは終わりです。 -
石造りの三柱鳥居。この石造りの三柱鳥居は「三井邸より移すとあります。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されています。
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白狐祠鳥居
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老翁老女の石像
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顕名霊社
三井家先祖を祀っています。 -
宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞いの碑)
「此御神に雨乞する人にかわりて 遊ふ田地(夕立)や田を見めぐりの神ならば 晋其角」と刻まれています。元禄6年(1693年)は春から非常な旱ばつで、附近の農民は三囲の社頭に集まり、鉦や太鼓を打ら鳴らして、ただただ雨乞いをするばかりでした。
そこへ俳人として高名な其角が参詣にきて、「夕立や‥‥‥」の句を献じたところ、翌日から雨が続き、農民の苦難は救われたと伝えられています。 -
三囲神社でお御籤を引いたら、大吉でした。
七福神巡りのパワーです。 -
三囲神社を後にし、曳舟駅方面に向かいます。
森鴎外旧居跡があります。
文久2年(1862)に現在の島根県津和野町に生まれた森鷗外(本名林太郎)は、明治5年(1872)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村87番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに3年後に小梅村237番にあった300坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鷗外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、明治12年(1879)千住に転居するまで暮らしました。
父の意思で学業に専念する道をつけられた鷗外は、上京二か月後には西周宅に下宿してドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治9年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海(よだがっかい)邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鷗外の代表作『渋江抽斎』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治10年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鷗外にとり、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。(*1) -
堀辰雄旧居跡
堀辰雄は明治三十七年(一九〇四)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(現在のすみだ福祉保健センター所在地)で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或(あ)る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果(いちじく)の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水で新小梅町二ノ四(現在の向島1丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。
牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。
関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四)四月に父松吉が隅田公園裏の新小梅町八番地(現在の向島1丁目七番)に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(一九三八)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。 -
秋葉神社に来ました。
秋葉神社は、当地周辺を五百崎の千代世の森と呼び習わしていたころ千代世稲荷大明神と称して正応2年(1289)頃に創建したと伝えられます。 -
《石燈籠》墨田区登録文化財
「本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の子です。
この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主涌井雅楽頼忠挙が宝永6年(1709)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦8年(1718)に奉献しました。
鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中を勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(1704)に奉献したものです。なお、この一対は『墨田区登録文化財』に登録されています。
当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれ、『江戸名所図絵』には『秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり』とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。 -
人が誰もいなく、静かです。
隅田川七福神巡りの散策のこれですべて終了です。 -
スカイツリーラインの曳舟駅まで来ました。
2万歩以上歩きました。疲れました。 -
隅田川七福神は黒い御神体です。
今年1年も無事に過ごせますように!!
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