2023/10/04 - 2023/10/05
105位(同エリア315件中)
gianiさん
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目と舌を楽しませる一方で、
本土の盾となった元寇や朝鮮出兵など、
大陸の玄関口特有の苦痛も味わった歴史を辿ります。
海の幸や温泉のある港町も堪能します。
北部の旧勝本町と旧芦辺町がおすすめです。
壱岐前編↓
https://4travel.jp/travelogue/11857246
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじめは、勝本漁港。
勝本入口バス停で下車。旧勝本町役場の麓に位置します。
情緒ある宿も多いです。
1km圏内に歴史が詰まっています。
初歩レベルの歴史で行くと、 -
神功皇后の三韓征伐(神話:歴史では習いません)
防人の駐屯地(白村江の戦い)
蒙古襲来(文永の役)
朝鮮出兵
といった感じです。 -
何といっても宿泊がおすすめのエリア。
郷ノ浦を17時前後に出発するバスが3本、
芦辺港17:39発1805着のバスがあります。
写真は1993年まで「つたや旅館」として営業していた建物。
現在、情緒あるゲストハウスとして営業再開。外食派におすすめです。 -
旧原田酒造土蔵
宿泊棟向かいの漆喰塗りの蔵が食堂になっています。
雰囲気良いです。値段もそれなりの料理です。 -
旧杉玉の酒屋
蔵の向かいは、現在ビール蔵(醸造元)になっています。飲めるだけでなく、おつまみも洗練されています。食後の飲みにイチオシです。ISLAND BREWERY グルメ・レストラン
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通りの先の乙な店。
よしもと食堂 グルメ・レストラン
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刺身定食1100円税込み
壱岐の漁港の中でも、勝本は別格と言われます。
味噌汁は、かじめ入りです。 -
イチオシの店
朝昼晩スポット的に営業する店。朝営業は超レアです。夜は19:00閉店の超健全店。
イチオシなので、リンク張っときます。民泊もやっています。
https://aliceiniki.wixsite.com/-site新鮮市場ありす グルメ・レストラン
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イカ丼定食1400円也
イカの甘さと歯応えに涙。ゲソ部分は煮付けにして一匹(一杯)余すことなく味わえます。煮付けの強烈な鮮度に号泣。味噌汁はアラカブ。
ご主人が毎日漁に出るので、地物に確実にありつけます。 -
翌朝の景色
蔵の足元は赤レンガでした。
1000円で、新鮮な干物を七輪で焼く朝定食を提供します。 -
向かいのブルワリー
確かに杉玉が、ぶら下がっています! -
朝市は観光客目当ての内容。
勝本朝市 名所・史跡
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朝8時には、ほとんどの店が営業中。
さすがは漁師町、朝が早いです。
海に面した通りの一本裏が、旧勝本町の目抜き通りです。
鮮魚店が皆無の代わりに、青果店(野菜は自給自足/自主流通がメインなので果物店)が多いです。 -
朝のレトロな辻
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よしもと食堂向かいの区画(海沿い)の民家に、芭蕉高弟としておなじみの河合曾良終焉の地が。
1710年に幕府巡検使に随行して勝本を訪れるも体調を崩し、海産物商の中藤家で療養するも甲斐なく息を引き取りました。遺体は、能満寺に埋葬されています。河合曽良の墓 名所・史跡
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鯨供養塔
著名人を引き付けた原動力は、捕鯨です。巨大な利益を生み出す産業で、藩の保護下にありました。永取鯨組が設置。 -
聖母宮
街の端にある由緒ある神社。長崎県なので聖母=マリア様ではなく、神功皇后のことです。第14代仲哀天皇の皇后/第15代応神天皇の母であり、三韓(朝鮮半島)出兵の際の行宮(あんぐう 仮御所)跡とされます。
西暦200年10月にここで風待ちをして、12月に軍船3270艘を繰り出して船出したことから風本(かざもと)と名付けました。帰路で立ち寄った際に、戦勝を記念して勝本と改名しました。聖母宮 寺・神社・教会
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本殿
皇后が崩御した269年に行宮跡に社壇を造り、鏡を奉納。時代を経て放置されましたが、毎夜海中から光るものが揚がってくる出来事が続いたので、神功皇后を祀る神社を建てました(701年)。現在の建物は1752年築。建材は、壱岐に生息しないヒノキ尽くし。
聖母宮は壱岐七社の一つです。というか、一の宮に次ぐ二の宮(ナンバー2)の格式です。 -
馬蹄石
社務所の左隣には、馬蹄石が。皇后の強い意志が、乗っていた馬の4本の脚に伝わり、岩には4つの馬蹄型の窪みがあります。 -
駅家跡
ちょっと寄り道。聖母宮付近には、701年の駅逓制度に基づいて全国に整備された街道の終点が。駅家が710年に設置され、馬や宿舎が整備されました。写真は推定地。 -
聖母宮西門
1592年(文禄の役)に加藤清正が寄進、というわけで加藤家の家紋入り。1752年の改修の際に、費用を寄進した4代目土肥市兵衛(鯨組の親方)の家紋(蔦)に改変され消失。 -
石垣も加藤清正の寄進。朝鮮出兵の際に勝本は兵站基地となり、諸大名が壱岐に駐在しました。神功皇后は、大陸での戦勝祈願をするには最適の神様です。
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境内から見た石垣
厚みを感じます。400年を超えても盤石です。 -
南門は、佐賀藩の祖となる鍋島直茂の寄進。
戦線とは離れた壱岐では士気が乱れ、島の男たちが徴用されて不在なのを良いことに、兵士たちは女性島民や島の施設に狼藉を尽くします。彼らのエネルギーの捌け口として、こうした土木工事に従事させました。 -
聖母宮の向かいには加藤/鍋島らの大名宿舎が設置され、社務所の向かいには宿舎の物見台が残っています。
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物見台からの景観
大陸方向を見渡せます。 -
馬蹄石の左には、目立たない石碑が。
文永之役 元寇上陸の地の文字が。
鎌倉時代の1回目の元寇時に、蒙古襲来の歴史が浮き彫りに(後述)。 -
聖母宮の反対方向には厳島神社が。
海の神(市杵島姫命)を祀る厳島神社は、大陸への航海安全の神様として大和朝廷が経路に設置しました。後(平安時代)には、弁財天も合祀する慣習が定着します。
日宋貿易携わる際に、清盛が広島の厳島神社を手厚く庇護したのも納得ですね。 -
神社の向かいは港。
対岸の山頂には、勝本小学校の校舎が。
その左隣は城山です。
頑張って登ってみます。 -
勝本城跡
立派な石垣が。朝鮮出兵の際に、唐津呼子の名護屋城と対馬を繋ぐ兵站基地として建設。
ちなみに神功皇后も唐津の土器崎から出航し、勝本で風待ちして対馬の鰐先へ向かっています。1400年後も同じ最短ルートを選択しています。勝本城跡 名所・史跡
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1591年に秀吉が平戸の松浦鎮信に突貫工事を命じ、僅か4か月で完成。地元の成人男性を全て徴用しました。そんなわけで、勝本の町から男が消え、町に陣取った清正/鍋島兵が狼藉を働きました(先述)。
本丸目指し、階段を上ります。 -
整形していない石で、垣を築いています。しかも石質やサイズもバラバラ。鏡積みという技法です。雑な造りに見えますが、430年後も崩れていません。
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本丸は150×70mの楕円形。
海上安全を願って、稲荷神社が勧請されました。
完成後は本多正武が500名を率いて赴任し、兵站(前線へ軍馬/食料/兵器の海上輸送)を担当しました。
標高79mの要塞です。 -
神社横にある展望台
右下の湾が入り込む場所がバス停、左端に丘の上の校舎や聖母宮の位置する浦が見えます。
こうしてみると、勝浦は入り組んだ地形と沖側に並ぶ島々で全方向を囲まれた天然の良港だとわかります。 -
二の丸部分は舗装されて、周回道路と駐車場になっています。
この地で亡くなった河合曾良の句碑と、彼の出身地諏訪大社から贈られた御柱が。
秀吉の没後、速やかに撤退し、城は棄却されました。先ほどの石垣だけ残されました。 -
下山して、聖母宮鳥居前の道を折り返します。
情緒ある鄙びた漁師町の光景。
平戸の松浦氏が秀吉の臣下になった頃は、壱岐も松浦氏の配下になります。
通りの左側は、平戸藩の朝鮮通信使迎接所の敷地でした。 -
通りの終点から振り返って撮影。
100m以上歩きました。大きな施設です。
朝鮮出兵後、家康は李氏朝鮮との和解/国交回復に尽力します。室町時代から朝鮮との外交に携わった対馬の宗氏が携わり、徳川幕府との外交が樹立されます。朝鮮通信使は、日朝友好の証として朝鮮国王が派遣した外交使節で、原則として将軍が代替わりした際に派遣されました。
※日米和親条約を締結するまで、江戸幕府が唯一国交を結んだのが李氏朝鮮です。幕末は外圧に負けての締結ですが、朝鮮は幕府側の能動的行動で締結に至ります。 -
朝鮮通信使迎接所
ソウル~江戸を往復する際、日本では対馬(巌原)→壱岐(勝本)→筑前(藍島)という順番で移動し、各藩に外交使節の宿舎を提供することが割り当てられました。国賓なので、最大級の接待が求められました。
写真は、第10回(1748年)の使節団員(李聖麟)筆の勝本浦の様子。聖母宮の横に、ひときわ目立つ建物(青色部分)として描かれています。 -
通りの反対側から撮影
当時海岸線沿いの道はなく、迎接所は海に面していました。
1711年の通信使が3日間滞在した際に、山芋1500本、スルメイカ3t、鶏卵15,000個、米7.5t、鮑7.5t、酒2700リットルが消費されました。 -
日本海を横断する使節船が停泊するには水深が不足し、海に張り出した波止場の部分に舟橋を並べて迎接所入りしました。使節団は総勢450名、案内役の対馬藩士800名、合計1250名という一団でした。
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迎接所の横には、平戸藩の押し役所跡が。今も石垣が残りますが、草に覆われていました。1680~1869年にかけて海上警備と治安維持にあたりました。200名ほどの役人が詰めました。
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志賀山を囲むような道沿いに、味のある建物が。
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藤島家住宅
廻船問屋旧大久保本店で、江戸時代の建築。今年8月までカフェを営業していました。モカジャバ カフェ 大久保本店 グルメ・レストラン
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通りの左側は、対馬屋敷跡。
その手前(枠外)は、捕鯨の永取家屋敷跡です。
対馬藩は朝鮮通信使の案内役を務め、800名程が同行しました。屋敷には60名の対馬藩士が常駐していました。 -
側溝のふたの上に、当時の屋敷遺構が残っています。
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先ほどの迎接所跡の向かいには、正村蔦屋永取家の屋敷神を祀った祠が残っています。
続いて、バス停の反対側の東エリアへ。 -
旧松本薬局
1912年築。耐火対策で、赤レンガで左右を覆われています。 -
ディティールも凝っています。
国の有形文化財登録。 -
土肥鯨組新宅
1799年築。4代目土肥市兵衛の時代にピークに達し、鴻池に次ぎ、三井と並ぶ富豪と番付されるまでになります。聖母宮の寄進や朝鮮通信使接待の費用を全額負担するなど、捕鯨によって得た莫大な利益をほうふつとさせる姿。その後、建物は石橋酒造店の手に渡ります。
2代目はマグロ漁を確立して財を成します。本マグロは、勝本港の名物です。ただし、漁業資源確保のために自主規制しています。 -
御茶屋屋敷跡
大久保屋敷とも呼ばれます。4代目土肥市兵衛が3年かけて贅の限りを尽くした屋敷を建てました。現在は全長90m高さ7mに及ぶ巨大な壁が残ります。通称「阿呆壁」「阿房屏」。京都祇園で豪遊した際に連れて帰った妓を大勢侍らせ、部下たちに妓を与えました。土肥家の阿房屏 名所・史跡
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長四郎さんの塚
天保年間に城代家老の行列を横切った7歳の少年が無礼討ちに逢い、住民が塚を建てて供養しました。以降、海で溺れる子供がいなくなったとの言い伝えが。
この先は、田浦鯨組の屋敷や作業場がありました。 -
ヒヨリミテラスのイカメンチバーガーは残念レシピでした。無駄にオシャレで、値段も一級品です。
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城山からの眺め
右手前の山は、本浦城跡。663年の白村江の戦いに敗北し、国防が重視された664年に建設。奥のイルカパークの横には、防人跡が。イルカパーク&リゾート 動物園・水族館
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ちょっと早めにバス停へ。
大潮で、ぎりぎりの潮位。 -
バス停横のコミュニティセンター兼観光案内所で休憩。2日間限定の写真展が。
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1919年の写真
中央に厳島神社、左方向へ聖母宮や朝鮮通信使迎接所跡等が並びます。 -
勝本港西部は海岸道路がなく、家屋に停泊所が面していました。
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1970年頃も、同じ状況です。
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旅館やブルワリー周辺。
1954年頃。 -
上:1930年頃の商店街
下:1920年頃の勝本朝市 -
1954年頃の写真
旧松本薬局から御茶屋敷跡方向の構図。 -
同上
漁協付近の光景。1920年撮影。 -
さらに東の田浦鯨組跡。1920年撮影。
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1995年のお祭り光景
中国ではなく、日本の光景です。
ベロンベロンに酔っぱらったような顔色と、色で性別を表現する古典的な発想が傑作(笑) -
続いて、元寇関連のスポット巡りです。
11:16発のバスで芦部方面へ(左回り)。
2つ先の霞翠校前バス停まで乗車。1.7kmの区間なので歩ける距離ですが、坂道がきついので楽な方法を選択。 -
車窓には壱岐七名水の一つが。
夏も枯れない井戸で、汲んだらかなり冷たかったです。
煮沸して飲むようにという指示が、、、(城山から港へ下りる際に寄り道) -
バス停からは下り坂。
射場原古戦場/千人塚を経て、消防署の先に小さい石標が。
文永之役 高麗橋古戦場とだけ書かれています(古戦場の部分は埋没)。 -
後ろを振り返ると、消防署が。
元寇(蒙古襲来)は、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2回に及びました。
文永の役は、専ら旧勝本町が舞台となりました。 -
石標の立つ十字路の左側の景色。
蒙古軍は、10/14に聖母宮のある馬場崎/防人が駐在した天ヶ原/西海岸の浦海の3か所から上陸しました。900隻のうち450隻が着岸。丘を越えて壱岐を攻めます。 -
徒歩で平川橋バス停を通過して、
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圃場整備竣工の碑という巨大な石碑を目印に、
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目立たない石標が3本。いずれも同じ内容ですが、経年劣化に伴い2代目3代目を立てました。
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最新のものは、はっきりと
文永之役 唐人原古戦場 と記載。
草に覆われていたので、除草して撮影。
緒戦を交えたスポット。 -
次の分岐を左に曲がり、谷江川に沿ってグーグルマップ頼りに農道を歩くと
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小山が出現。
庄ノ三郎ヶ城跡です。谷江川に囲まれ、天然の濠になっています。
壱岐国守護代の平景隆は100名ほどの兵を率いて、庄ノ三郎ヶ城から唐人原へ出陣し、緒戦を交えます。先ほどの高麗橋/射場原等でも小競り合いが。弓矢の応酬の末、劣勢になり退却します。
※ここまでは、良くて石標のみのスポット。地形を景観で把握したい物好き以外はスキップして、グーグルマップで確認する方が賢いかもしれません。 -
新城古戦場
ここが主戦場でした。 -
こんな景色で、珍しく平原と言える景観です。
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唯一ここにしかない貴重なパネル。文永の役関連のスポットをプロットアウト&解説したバイブル的内容。最初にここを訪れて情報収集するのが正解です。
新城橋バス停から100mほどの位置です。 -
多勢に無勢、しかも火薬や毒矢に悩まされ、景隆らは壱岐守護職の居館である樋詰城へ退却します。
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城址は、新城神社となっています。
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境内には、平景隆自刃の地という石碑が。
現場トップの責任を取って、自ら命を絶ちます。 -
社殿の左には、景隆の墓がありました。
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千人塚
先ほどの新城古戦場には、死者を弔う塚が。
蒙古軍は、住民を皆殺しにしました。生き残った島民は、100名に満たなかったともいわれています。こうした千人塚が島内各所にあります。 -
若宮神社の人穴
島民たちは蒙古兵の手を逃れるために、洞窟へ隠れました。壱岐商業高校の向かいにある若宮神社の境内にも隠れたそうです。 -
750年前の話ということもあり、穴は見つかりませんでした。境内はこんな光景なので、当時洞穴があってもおかしくない雰囲気です。
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1kmほど山へ歩くと塚が。
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姫御前塚
平景隆の娘は、守備兵が全滅したことを大宰府へ報告すべく、供を一人連れて使いに出るも敵の毒矢が刺さり、ここで息を引き取ります。 -
新城古戦場まで戻って、谷江川を下ります。
元寇遺跡に近似したスポットを位置情報に入れておきます。カフェ・ド・ルディー グルメ・レストラン
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流域の沢が合流し、このように大きくなって芦部バス停付近で海へ注ぎます。
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今回は丘を登り、箱崎八幡宮を目指します。
実は、原始の月読神社はここだったと言われています。 -
芦辺港へ通じる谷
ここもスルーして丘を登ります。 -
江戸時代の鯨供養塔
5つの鯨組が共同で立てたもの。、瀬戸の布屋(ぬのや)/勝本の土肥(どい)//郷ノ浦の許斐(このみ)/芦辺の篠崎等の名前が彫ってあります。壱岐では当時、17の鯨組が藩の認可の下で操業。大政奉還後に自由化されてからは73まで増えます。
余談:土居組の祖先は、朝鮮出兵ソウル攻撃の際に松浦兵が美しい娘を拉致して、松浦鎮信に差し出した女性との間に生まれた子供とされます。鎮信の命で泣く泣く浜に捨てますが、僧が拾って市三郎と名付けて育て、後に松浦藩士に取り立てられます。彼の息子が、初代土居市兵衛です。 -
眼下には恵比寿漁港を含む瀬戸浦が。
ここが、弘安の役(1281年)の舞台です。
5/26に東路軍が襲来。 -
現在の芦辺港
湾が奥まった入り江で、天然の良港です。
蒙古軍も、良い場所を選びました。 -
船匿城跡
上の写真は、ここからの眺めです。文永の役で討死した平景隆に代わり、少弐資時が守護代に赴任。船匿城を居館にしました。ここから出陣しますが歯が立たず、討死します。19歳でした。
※私有地なので、麓のお宅で許可を取ってください。
近似地のスポットを位置情報に入れました。芦辺港フェリーターミナル 乗り物
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芦辺フェリーターミナルには、少弐資時の騎馬像が。
父親の経資/祖父の資能は、九州の幕府御家人を統括する鎮西奉行/九州を統括する朝廷役職大宰少弐を兼任する家柄でした。 -
壱岐を落とした蒙古軍は博多湾へ上陸しますが、思わぬ反撃に逢い撤退します。鎮西奉行の少弐経資は、博多の前線から数万の軍勢を率いて壱岐へ急行し、6/29-7/2にかけて激戦が繰り広げられます。
少弐公園には、古戦場を示す石標があります。
蒙古軍は、壱岐からも撤退します。家督を息子に譲っていた(少弐資時の祖父)資能も84歳で参戦し、海上で戦死しています。元寇の戦跡(少弐公園) 名所・史跡
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引き揚げられた碇石
サイズ的に、大型船で使用されたものです。文永の役を教訓に、執権北条時宗と鎮西奉行少弐経資は、壱岐でも対策を講じていました。経資は息子を守護代として派遣し、戦闘の数か月前にも大型船で兵糧や武器等を供給しました。その際に沈没した船の錨が、少弐公園に展示されています。 -
少弐資時の墓
少弐公園内にあります。1896年に彼の墓だと特定されました。少弐資時の墓 名所・史跡
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墓の特定を受けて、身を賭して国を守った少弐資時を祀る壱岐神社も建てられました。護国神社の性格も持っています。
壱岐神社 寺・神社・教会
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通りの向かいには、少弐の千人塚が。
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弘安の役でも、蒙古軍は住民を手あたり次第虐殺しました。
周囲には人穴等も残ります。 -
少弐公園を波打ち際まで降りると、龍神崎に神社が。
龍と蛇から想像つくように、出雲大社系です。龍蛇神社 寺・神社・教会
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こんなお肌ザラザラの龍です。
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少弐公園の狼煙台跡
664年に防人と共に配置。狼煙台は45m間隔で3基設置され、使節船なら狼煙1本、賊船なら2本、賊船が200隻以上なら3本同時に上げるというルールでした。22kmごとに設置され、現在地→馬渡島→呼子…大宰府と繋がりました。その後も江戸時代まで機能しました。 -
馬渡島は霞んで見えません。
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お祭りの山車を移動中。
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貴船神社には、電力王松永安左エ門の産湯の井戸が。
貧しかったんですね。
位置情報は近似スポット。豊月 グルメ・レストラン
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芦辺港が見えます。横の山に船匿城があります。港を往来する船から見えない位置にあるというのが由来だそうですが。。。
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フェリーターミナルに到着
こちらはギリギリまで乗船切符売っています。
11:15発、博多13:25着です。 -
向かいのイオンでは、海産物土産豊富な壱岐水産、おしゃれな土産物ショップが入っています。共に、カード決済可能です。
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おまけ
元寇の混乱の後、鎌倉幕府から室町幕府へ遷移するにあたり、全国で多くの戦闘が生じ、大勢の犠牲者が出ました。足利尊氏は彼らを弔い平和を記念するために、各国に安国寺を建立するよう命じます。壱岐国の安国寺は、原の辻遺跡付近にあります。安国寺 寺・神社・教会
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境内には、松浦久信/メンシア夫妻の墓が。
久信は平戸藩2代目藩主で、1602年に伏見で客死しています。
妻はキリシタン大名で大村藩主大村忠純の五女「その」で、洗礼名がメンシアです。 -
という訳で、鉢にはキリシタンのシンボルであるハート/魚/月/太陽が。
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古墳群の中には、生池城跡が残ります。
元寇で生き残った島民の一部は、同じ経験をした対馬/五島の人々と組んで大陸沿岸で海賊行為を働く倭寇になりました。
室町時代以降、村上水軍などと並ぶ松浦党と呼ばれる水軍武士団も誕生し、松浦氏は戦国大名を経て平戸藩主になります。 -
生池城は、松浦党の源壹が16世紀半ばに居住しました。濠も残っています。左側が本丸で、100×150mほどの楕円形です。
平戸藩へ編入された関係で、壱岐は長崎県に組み込まれます。航路は博多と唐津、空路でのみ長崎県と繋がるのみなので、住民は長崎県民としての意識が皆無です。あえて突っ込むと、福岡県人と答えます。
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