2023/10/05 - 2023/10/05
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gianiさん
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今時、若松と訊けば会津若松を連想するかと思います。
1963年に北九州市になる以前の若松市は、筑豊炭田の石炭出荷港として、大いに栄えました。
江戸時代の交通網で、福岡/博多へ通じる街道の宿場町として、物流(年貢米の大坂輸送)拠点として重要なポジションでした。
戦争中には貨物取扱量ナンバーワンも経験した石炭経済は1960年代に急速に萎み、時代に取り残された味のある街を歩きます。
ごんぞうと呼ばれる港湾労働者が町の空気に大きな影響を及ぼし、神戸港の山口組のように、暴力が蔓延る町でもあり、独特の文化を育みました。
一筆書きの位置情報も、参考にしてみて下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
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九州屈指の唐津街道は、小倉宿常盤橋を起点とします。JR鹿児島本線に沿ったルートです。
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戸畑到着。船で洞海湾を渡ります。
現在の渡船場は埋立地なので、当時はもっと南側、牧山の麓でした。Tzcafe グルメ・レストラン
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片道3分、100円の航海です。
江戸時代は伝馬船で運行していたので、天候不順で足止めを食らうこともありました。
狭い水路ですが、1930年の転覆事故では73名が犠牲になりました。昔から、交通の難所でした。 -
若松側の渡船場は、現在の旧ごんぞう小屋辺りでした。
唐津街道最初の宿場若松です。
では、若松の歴史を巡ります。旧ごんぞう小屋 名所・史跡
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若松恵比須神社
若松が記録に登場するのは、神代。
熊襲征伐に赴く仲哀天皇/神功皇后夫婦が足止めされた際に、海底で光る石を拾って祠に祀った場所です。武将だった竹内宿彌が、若々しい松の並木に感嘆したので若松と呼ばれるようになりました。境内は、大正期の埋立まで海に面していました。若松恵比須神社 寺・神社・教会
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洞海湾は、古今和歌集の紀貫之の和歌に「大渡川」の名前で登場し、響灘の波風を避けるルートとして古来から重宝されました。写真は、伊能図を基にした幕末の地図。洞海湾から江川を経て、遠賀川河口の芦屋まで船で移動できました。熊襲征伐や朝鮮出兵の際も用いられた航路です。
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江戸時代
福岡藩の領地になり、初代藩主黒田長政は1604年に「河ば(偏=白、旁=斗)島」に若松城を築き、黒田二十四騎の一人である三宅家義を配置。地図のように、若戸大橋/渡船の真ん中に位置する要害でした。
福岡藩は当時、細川家(後に熊本へ移封)の小倉藩と隣り合わせで、国防のために若松/黒崎/鷹取/大隈/小石原/左右良6か所に城を築き、第一級の武将を配置しました。家義は藩の水軍のトップ/若松代官を兼任しました。1615年の幕府一国一城令で廃城になります。若戸大橋 名所・史跡
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河ば島は、幕末に台場が設置され、明治期には三菱の貯炭場と造船所が建ちましたが、通行の妨げになるので、1940年に撤去されます。
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唐津街道の宿場町
徳川幕府は、全国の街道を整備しました。長崎街道小倉宿から福岡(55万国の城下町)を経由して唐津(九州随一の譜代大名)/平戸(オランダ/英国商館)へ至る当時の幹線です。
1630年以降、幕府の巡検使が上陸する重要な場所と位置付けられました。陸路で遠賀川河口の芦屋宿へ続きます。 -
洲口番所
正徳年間(1711-16)に、船改を行うために設置。代官所の管轄で、1871年の廃藩置県まで存続しました。
このように若松は、宿場町/港町として機能しました。洲口番所跡 名所・史跡
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福岡藩修多羅米蔵跡
1717年に福岡藩の米蔵が、芦屋から若松へ移ります。遠賀川流域で収穫された年貢米8万石(12,000t)が大坂の蔵屋敷へ輸送されました。現在は鉄道よりも山側のロケーションで、明治期の埋立で海岸線が後退したことの証拠です。
1750年には、藩による若松港の修築が完了します。翌51年には若松代官が廃止、黒崎代官の管轄になります。
現在も残る江戸時代の史跡は、これくらいです。 -
遠賀堀川の開通
1763年に、遠賀川から洞海湾へ直通する遠賀堀川が開通します。従来の芦屋→江川→洞海湾ではなく、ダイレクトに通す150年越しのプロジェクトでした。九州一の幹線長崎街道に並行する水路です。芦屋に対する若松のウエイトはさらに増します。
1824年には焚石(石炭)会所を開設し、ここから筑豊の石炭を全国へ出荷しました。当時は、川ひらた(写真)と呼ばれる平底の川船で若松港まで運びました。
明治維新で炭鉱開発が自由化されると、筑豊炭田の出荷量は激増し若松港はひっ迫します。1890年に若松築港会社を設立して港湾整備を行い、躍進します。 -
物揚場に面した若松南海岸通りには、名だたる建物が立ち並ぶ商業中核地でした。目の前の岸壁で積み下ろしもできる超一等地です。通称若松バンド。
若松は石炭の出荷量日本一の港として君臨し、戦前には貨物取扱量日本一も記録します。門司と並ぶ港でした。若松南海岸通り 名所・史跡
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若戸大橋方向へ向かって当時は、厳島神社(写真 向かいに弁財天上陸場)/三井物産(1916)/若松石炭商同業組合の順に並びました。
三井物産若松支店は、1923年まで石炭積出量が一位でした。 -
旧若松石炭商同業組合ビル(1905)
鉄筋コンクリート造り2階建ての建物で、現存する若松区で最も古い洋風建築。石炭会館 名所・史跡
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通称石炭会館で、今も現役です。内部には各種団体、パン屋さん等が入居しています。
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石炭会館の先には若松税関(1905)、2008年に解体された麻生鉱業(1930s 鉄筋コンクリート2階建て)、古河鉱業、水上警察署(1933年築 鉄筋コンクリート造4階建て)といった感じに並んでいます。
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古河鉱業若松支店
レンガ造り2階建てで、ルネサンス様式の建物。旧古河鉱業若松ビル 名所・史跡
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1階の旧営業室
大正時代の装飾が残ります。模倣ではなく、西洋様式を完全に消化した上で自由自在にデザインしているが素晴らしいです。 -
階段の踊り場でも、細部にまでこだわった美しい姿が。
事務所閉鎖後はテナント貸ししていましたが、21世紀に入り若松の歴史を伝える展示施設として生まれ変わりました。 -
2階の会議室
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ドーム部分の天井
古河は安川松本商店と並ぶ、若松港4大石炭積出業者です。その上に、三井/三菱が君臨しました。 -
旧三菱合資若松支店(1913)
レンガ造り3階建てで、自社所有の筑豊炭鉱の採掘/輸送/販売を統括しました。1969年以降は、上野海運が使用しています。三菱若松支店は、1924-34年まで石炭積出高1位でした。 -
説明を読むと、内部には吹き抜け、天井にステンドグラスをはめるなど、贅の限りを尽くした内容です。
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杤木(とちき)ビル(1920)
鉄筋コンクリート造り3階建て、実は地下も2階まであります。杤木商事本社として建てられました。当初から自家用浄化槽や水洗便所が備わった最新鋭ビルでした。
本社は東京へ移転し、テナント貸ししています。 -
入り口部分
1901年創業の杤木順作商店がルーツで、石炭販売/海運/造船等を営んだ関係で、現在も日鉄関係の荷物を運ぶ事業が存続します。1915年に杤木商事、1945年に杤木汽船となり、今も物流業界で活躍しています。 -
大正町商店街
旧市役所(現区役所)の向かいに位置し、市場等のレトロな商店街です。若松の庶民の中心地ででした。大正町商店街 市場・商店街
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横には、吉田磯吉邸跡が。
遠賀川から若松まで石炭を運ぶ川船の船頭でした。身を転じて実業界で活躍し、市議も務めました。労働争議など、争いの調停でも功績のある親分気質の人柄でした。 -
その横は連歌町。若松一の歓楽街で、1958年の売春禁止法まで遊郭もありました。
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中川通
若松を南北に貫く目抜き通りです。
石炭を積んだ貨物電車が走り、電車通りとも呼ばれました。いわゆる路面電車の線路に電気機関車が牽く貨物列車が走行し、旅客営業は行いませんでした。 -
若松市営電気軌道(1936-75)
国鉄若松操車場と北湊沿いの安瀬を結び、石炭を北湊の船にも積載できるようになります。港に面した工場群に引き込み線が繋がり、工場にも有用な存在でしたが、1958年をピークにトラックにシェアを奪われ廃止。電車が通ると自動車が沿道の商店へ幅寄せするので、住民からは邪魔な存在でした。
近似スポットを登録します。安瀬一丁目うどん グルメ・レストラン
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中川通の左側には、若松一の高級料亭が。
明治期の贅を尽くした建築が素敵で、表門と共に文化財です。料亭 金鍋 グルメ・レストラン
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料亭なので、風営法に基づき、県の公安委員会の許可を取って営業しています。
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建物全体を囲む表門。
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小倉名物サバの糠炊き。
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中川通の反対側には、ホテルルートインが建ちます。
実は、若松唯一の百貨店丸柏百貨店跡です。戦後は井筒屋若松店になります。
芥川賞作家の火野葦平ゆかりのスポットを目指します。若松天然温泉 ホテルルートイン北九州若松駅東 宿・ホテル
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安養寺へ向かう道沿いの公園には、2代目玉井組事務所跡の石碑が。
葦平の本名は、玉井勝則。父の玉井金五郎が1906年に設立した石炭荷役請負業の事務所です。ごんぞうたちを取りまとめた親分です。 -
初代事務所は、海岸南通り沿いの厳島神社に隣接しました。現在工事中で、説明板が見られない状態です。
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安養寺
高塔山に面したお寺で、玉井家の菩提寺です。安養寺 寺・神社・教会
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ここに葦平も眠ります。
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彼の旧居が、一般公開されています。
1939年築です。カッパ好きだったのでカッパのねぐらというニュアンスで名付けます。火野葦平旧居 河伯洞 名所・史跡
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玄関から続く廊下。
1906年生まれの葦平は、31歳で出征。出征中の38年に芥川賞を受賞し、一兵卒から従軍記者に任務が変更されます。40年に帰還すると、なんと親が印税を使って勝手に家を建てていたというのが顛末です。 -
息子の印税から今の1.5億円相当の金額を勝手に引き出し、自分好みの贅を尽くした建築にしました。葦平は、この家を気に入らなかったそうです。
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意匠を尽くした天井の飾り
実は、トイレの天井です。 -
水回りも、当時としては超ハイカラ。
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高級木材を惜しみなく使い、釘隠しなど細部もこだわりを。
ごんぞうの親分としては、成功したんだから贅沢して何が悪い?という感覚なのでしょう。
兵隊三部作がベストセラーになりますが、戦後は世論が一転。戦争賛美に率先し、多くの読者を戦場へ向かわせた人物と叩かれ、思い切り凹みます。 -
葦平は、1960年に2階の書斎でガス自殺しました。遺体は、この机に向かって座っていました。自殺が死因ということは、1972年に遺族によって初めて公表されました。
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1950年代の自宅での一コマ。
何の動物だか分かりますか?
実は、ライオンを自宅で飼っていました。ライオンは、病気で亡くなったそうです。 -
親分肌の豪快な人物として知られましたが、親しく知る人は内向的で繊細な本性に気づいていました。若松は暴力の町ワーストスリーに入る町でした。ごんぞうは、荒くれ集団でした。石炭利権に絡んで反社会組織も幅を利かせ、傷害事件は茶飯事。そんな若松が生み出したキャラクターでした。
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若松は、石炭産業の衰退で力を失います。余力のあるうちに新生北九州市に加わって大正解です。若松操車場跡に鎮座するSLは、錆びまくっています。
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若松機関区跡には、過去の栄華をほうふつとさせる炭車が。
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機関区跡と河伯洞の間には、先述の藩米蔵跡が。
Y字路の鋭角部分に石碑があります。位置情報は、鈍角側のお店を入れておきました。
次は、黒崎宿を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11862340菓子工房 響 グルメ・レストラン
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