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日本の近代化の総決算が官営八幡製鉄所です。<br />なぜ八幡なのか?<br />そもそもどんな施設なのか?<br />そんな点も含めて巨大施設を追いかけます。<br />世界遺産に登録されている旧本部/遠賀川ポンプ室にも足を運びます。<br />一筆書きの位置情報も参考にしてみてください。<br /><br />名称の変遷<br />1901官営八幡製鉄所<br />1934日本製鐵<br />1950八幡製鉄所<br />1970新日本製鉄<br />2012新日鉄住金<br />2019日本製鉄<br />※登記は、新日鉄以降も八幡製鉄所株式会社が社名を変更した(合併母体)流れになっています。

八幡製鉄所の全貌:官営から令和まで…図説と実地検証で解く。

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2023/10/01 - 2023/10/01

135位(同エリア200件中)

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

日本の近代化の総決算が官営八幡製鉄所です。
なぜ八幡なのか?
そもそもどんな施設なのか?
そんな点も含めて巨大施設を追いかけます。
世界遺産に登録されている旧本部/遠賀川ポンプ室にも足を運びます。
一筆書きの位置情報も参考にしてみてください。

名称の変遷
1901官営八幡製鉄所
1934日本製鐵
1950八幡製鉄所
1970新日本製鉄
2012新日鉄住金
2019日本製鉄
※登記は、新日鉄以降も八幡製鉄所株式会社が社名を変更した(合併母体)流れになっています。

旅行の満足度
5.0

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  • 旅のはじまりは、不思議な名前の駅。バブル期にオープンしたテーマパークの名残です。中年世代は、様々な思い出がよみがえる場所です。

    旅のはじまりは、不思議な名前の駅。バブル期にオープンしたテーマパークの名残です。中年世代は、様々な思い出がよみがえる場所です。

  • 駅ホームから北側を覗くと、一直線に伸びる水色の構造物が。NIPPON STEELと書かれています。

    駅ホームから北側を覗くと、一直線に伸びる水色の構造物が。NIPPON STEELと書かれています。

  • 実は、製鉄所の歴史の詰まったエリアです。<br />まずは駅南側を散策します。

    実は、製鉄所の歴史の詰まったエリアです。
    まずは駅南側を散策します。

  • この中にある世界遺産ガイダンスコーナーで学習。

    この中にある世界遺産ガイダンスコーナーで学習。

    北九州イノベーションギャラリー 美術館・博物館

  • 幕末から始まる産業近代化の要は、鉄でした。大砲や軍艦ひとつを取っても、鉄が必要。従来のたたら製鉄から、各藩は反射式溶鉱炉を試作しました。鉄道等の産業にも鉄は不可欠。実際は、鉄も鉄鋼も輸入で賄っているのが実態でした。<br />鉄鉱石から鉄を抽出する製鉄/銑鉄を鋼材にすることは、近代化の至上課題でした。

    幕末から始まる産業近代化の要は、鉄でした。大砲や軍艦ひとつを取っても、鉄が必要。従来のたたら製鉄から、各藩は反射式溶鉱炉を試作しました。鉄道等の産業にも鉄は不可欠。実際は、鉄も鉄鋼も輸入で賄っているのが実態でした。
    鉄鉱石から鉄を抽出する製鉄/銑鉄を鋼材にすることは、近代化の至上課題でした。

  • 1880年にイギリスの技術を全面的に導入した官営釜石製鉄所(写真)を操業させるも、様々なトラブルに見舞われ、83年に廃止されます。そして、鋼鉄より品質の劣る錬鉄製造の施設でした。

    1880年にイギリスの技術を全面的に導入した官営釜石製鉄所(写真)を操業させるも、様々なトラブルに見舞われ、83年に廃止されます。そして、鋼鉄より品質の劣る錬鉄製造の施設でした。

  • 産業の近代化、殊に鉄道の伸長に伴う鉄鋼需要は、国内の生産能力では賄いきれず、輸入の割合が増していき、国家財政を圧迫していました。<br />1895年に日清戦争で獲得した賠償金を基に脆弱な基盤を強化し、銑鋼一貫の工場を建設することにします。

    産業の近代化、殊に鉄道の伸長に伴う鉄鋼需要は、国内の生産能力では賄いきれず、輸入の割合が増していき、国家財政を圧迫していました。
    1895年に日清戦争で獲得した賠償金を基に脆弱な基盤を強化し、銑鋼一貫の工場を建設することにします。

  • 製鉄所設置場所の選定<br />必要条件を満たす候補地を作成し、1896年10月に八幡村建設予定地になります。<br />経緯としては、原料供給/製品消費地/労働力供給/工業用水といった条件を考慮し、京浜/阪神/備後が脱落。呉(坂村)/北九州(大里/板櫃/八幡)が最終選考に残りました。<br />

    製鉄所設置場所の選定
    必要条件を満たす候補地を作成し、1896年10月に八幡村建設予定地になります。
    経緯としては、原料供給/製品消費地/労働力供給/工業用水といった条件を考慮し、京浜/阪神/備後が脱落。呉(坂村)/北九州(大里/板櫃/八幡)が最終選考に残りました。

  • 八幡の決め手は、原料/用地(安い/広い)/政財界の誘致の三拍子が揃ったことでした。<br />写真(1896年)の田園風景が、建設予定地です。渋沢栄一/安川敬一郎といったビッグネームも参画します。<br />唯一の欠点は洞海湾の水深が1.5mだったことですが、水路を掘り下げることでクリアしました。

    八幡の決め手は、原料/用地(安い/広い)/政財界の誘致の三拍子が揃ったことでした。
    写真(1896年)の田園風景が、建設予定地です。渋沢栄一/安川敬一郎といったビッグネームも参画します。
    唯一の欠点は洞海湾の水深が1.5mだったことですが、水路を掘り下げることでクリアしました。

  • 製鉄所に必須の3鉱物<br />石炭:高炉の燃料。鉄鉱石を熱して鉄分を溶解/抽出します。<br />鉄鉱石:直近の産地は中国大陸。酸化して錆色になっています。<br />石灰石:高炉内で不純物と結合し、銑鉄の純度を上げます。<br />石炭/筑豊炭田、鉄鉱石/洞海湾(港)、石灰石/平尾台と、八幡は原料供給地に近いです。

    製鉄所に必須の3鉱物
    石炭:高炉の燃料。鉄鉱石を熱して鉄分を溶解/抽出します。
    鉄鉱石:直近の産地は中国大陸。酸化して錆色になっています。
    石灰石:高炉内で不純物と結合し、銑鉄の純度を上げます。
    石炭/筑豊炭田、鉄鉱石/洞海湾(港)、石灰石/平尾台と、八幡は原料供給地に近いです。

  • お手本モデルの選定<br />建設予定地と決定と同時に、政府は欧米へ視察団を派遣し、ドイツ式採用を決定。グーテホフヌンクスヒュッテ社(GHH)に設計/設備調達/実習生の訓練を依頼し、1898年6月に着工しました。

    お手本モデルの選定
    建設予定地と決定と同時に、政府は欧米へ視察団を派遣し、ドイツ式採用を決定。グーテホフヌンクスヒュッテ社(GHH)に設計/設備調達/実習生の訓練を依頼し、1898年6月に着工しました。

  • 世界遺産に登録された建物<br />1899年に旧本事務所、1900年に修繕工場と旧鍛冶工場が完成しました。<br />1899年に北東方向(枝光川対岸)から撮影。

    世界遺産に登録された建物
    1899年に旧本事務所、1900年に修繕工場と旧鍛冶工場が完成しました。
    1899年に北東方向(枝光川対岸)から撮影。

  • 第一高炉(溶鉱炉)の基部(1899年)<br />大きいです。製鉄所の要となる部分です。<br />

    第一高炉(溶鉱炉)の基部(1899年)
    大きいです。製鉄所の要となる部分です。

  • 1901年2月5日に高炉に火入れが行われ、鉄鉱石から銑鉄が抽出できるようになりました。そして、続く製造ラインで鉄鋼を製造する銑鋼一貫のシステムが稼働しました。

    1901年2月5日に高炉に火入れが行われ、鉄鉱石から銑鉄が抽出できるようになりました。そして、続く製造ラインで鉄鋼を製造する銑鋼一貫のシステムが稼働しました。

  • 挫折<br />銑鉄製造でトラブルが続き、翌02年7月に操業停止。製鉄所内にコークス炉を建設し、原料炭の質向上で対処します。04年4月に2度目の火入れをするも、僅か17日後に休止。2月に勃発した日露戦争の準備には全く貢献できない有様でした。<br />製鉄所長官は、鉄冶金の第一人者野呂景義(写真)を招聘します。

    挫折
    銑鉄製造でトラブルが続き、翌02年7月に操業停止。製鉄所内にコークス炉を建設し、原料炭の質向上で対処します。04年4月に2度目の火入れをするも、僅か17日後に休止。2月に勃発した日露戦争の準備には全く貢献できない有様でした。
    製鉄所長官は、鉄冶金の第一人者野呂景義(写真)を招聘します。

  • 再出発(1904)<br />野呂は、ドイツの製鉄所で使用する鉄鉱石/コークスと八幡使用のものの差異に着目し、高炉を改良します。3か月後の7月25日の火入れは大成功で、安定操業が実現しました。1910年には、鋼材の国内生産の9割を生産するまでになります。<br />※コークス:石炭をコークス炉で真空加熱し、ガス/タール/軽油等の不純物を分離して、熱量を向上させた精製炭。

    再出発(1904)
    野呂は、ドイツの製鉄所で使用する鉄鉱石/コークスと八幡使用のものの差異に着目し、高炉を改良します。3か月後の7月25日の火入れは大成功で、安定操業が実現しました。1910年には、鋼材の国内生産の9割を生産するまでになります。
    ※コークス:石炭をコークス炉で真空加熱し、ガス/タール/軽油等の不純物を分離して、熱量を向上させた精製炭。

  • 1910年には、ロンドンで開催された日英博覧会に製品を出品。

    1910年には、ロンドンで開催された日英博覧会に製品を出品。

  • 列強諸国に宣伝できるレベルまで、日本の製鋼技術は向上しました。これを以て、産業近代化(重工業)は、ゴールに到達します。<br />写真を見ると、英語表記では帝国製鉄所(複数形)となっています。

    列強諸国に宣伝できるレベルまで、日本の製鋼技術は向上しました。これを以て、産業近代化(重工業)は、ゴールに到達します。
    写真を見ると、英語表記では帝国製鉄所(複数形)となっています。

  • 拡大/発展<br />1905年には第2高炉が火入れされ、銑鉄の生産力は2倍になります。日露戦争後に民間需要が急増し、第一期拡張工事では09年の第3高炉火入れ、10年には遠賀川水源地ポンプ室を稼働させます。第二期/第4高炉(14年)、第三期/第5高炉(18年)、第6高炉(21年)といった感じで進みます。<br />製鉄の関連工場として、窯業(レンガ/セメント)部門/化学部門も分岐します。<br />

    拡大/発展
    1905年には第2高炉が火入れされ、銑鉄の生産力は2倍になります。日露戦争後に民間需要が急増し、第一期拡張工事では09年の第3高炉火入れ、10年には遠賀川水源地ポンプ室を稼働させます。第二期/第4高炉(14年)、第三期/第5高炉(18年)、第6高炉(21年)といった感じで進みます。
    製鉄の関連工場として、窯業(レンガ/セメント)部門/化学部門も分岐します。

  • 遠賀川ポンプ室<br />粗鋼1tの生産に必要な水は150t、水は製鉄の生命線です。製鉄所から11.4km離れた遠賀川河岸からパイプラインで送水しました。送水の動力源として英国製石炭ボイラーと蒸気ポンプが輸入されました。

    遠賀川ポンプ室
    粗鋼1tの生産に必要な水は150t、水は製鉄の生命線です。製鉄所から11.4km離れた遠賀川河岸からパイプラインで送水しました。送水の動力源として英国製石炭ボイラーと蒸気ポンプが輸入されました。

  • 河内貯水池<br />8年かけて1927年に完成。板櫃川上流部を堰(ダム)止めた人造湖。700万立方メートルの貯水量。延べ90万人を動員するも、事故による死者を出さなかった偉業を達成。現役の施設です。

    河内貯水池
    8年かけて1927年に完成。板櫃川上流部を堰(ダム)止めた人造湖。700万立方メートルの貯水量。延べ90万人を動員するも、事故による死者を出さなかった偉業を達成。現役の施設です。

  • 終焉<br />昭和に入って軍国主義が進行し始めると米国からのスクラップ鉄の輸入がままならなくなり、政府は製鉄業の統合して銑鉄増産を画策します。1934年に官営八幡製鉄所と5社が統合して日本製鐵株式会社が発足。国策会社の一部になります。1950年の財閥解体に伴い、八幡製鉄株式会社が発足します。<br />では、屋外へ繰り出します。

    終焉
    昭和に入って軍国主義が進行し始めると米国からのスクラップ鉄の輸入がままならなくなり、政府は製鉄業の統合して銑鉄増産を画策します。1934年に官営八幡製鉄所と5社が統合して日本製鐵株式会社が発足。国策会社の一部になります。1950年の財閥解体に伴い、八幡製鉄株式会社が発足します。
    では、屋外へ繰り出します。

  • ガイダンス施設の道路向かいには、第一高炉が。

    ガイダンス施設の道路向かいには、第一高炉が。

    東田第一高炉史跡広場 公園・植物園

    外から by gianiさん
  • 東田第一高炉<br />1901という大きなプレートが。場所は正確ですが、施設は第10次改修高炉(1962-72)と現地看板には記載されており、実際は東田第6高炉みたいです。高さ30m。普通の街並みに浮いた存在。

    東田第一高炉
    1901という大きなプレートが。場所は正確ですが、施設は第10次改修高炉(1962-72)と現地看板には記載されており、実際は東田第6高炉みたいです。高さ30m。普通の街並みに浮いた存在。

    東田第一高炉 名所・史跡

    一応 by gianiさん
  • 一部危険個所があるために、現在は封鎖。フェンス越しに眺めるのみです。

    一部危険個所があるために、現在は封鎖。フェンス越しに眺めるのみです。

  • ガイダンス施設付近からの構図。<br />1909年撮影で、第3高炉まで3基並んでいます。高炉群に隣接して、第一製鋼工場が立地し、銑鋼一貫の配置です。<br />現在地は、敷地のど真ん中です。<br />続いて、駅北側へ移動します。

    ガイダンス施設付近からの構図。
    1909年撮影で、第3高炉まで3基並んでいます。高炉群に隣接して、第一製鋼工場が立地し、銑鋼一貫の配置です。
    現在地は、敷地のど真ん中です。
    続いて、駅北側へ移動します。

  • 旧本事務所展示スペースからの眺め。

    旧本事務所展示スペースからの眺め。

    官営八幡製鉄所 名所・史跡

    これが by gianiさん
  • 創業時の同じロケーションの写真と比較。<br />線路の部分が、当時は埠頭になっていました。

    創業時の同じロケーションの写真と比較。
    線路の部分が、当時は埠頭になっていました。

  • ズームするとこんな感じ。<br />本当に小さく見えるだけ。<br />工場の只中にあるため、セキュリティ上内部の見学は不可能です。

    ズームするとこんな感じ。
    本当に小さく見えるだけ。
    工場の只中にあるため、セキュリティ上内部の見学は不可能です。

  • 赤レンガですが、屋根は和瓦葺き、構造材は木を使用するなどの特徴があります。長官室/技監室/外国人顧問技師室等がありました。<br />拡大に伴い、1922年に本部は移転しましたが、建物は今も現役です。

    赤レンガですが、屋根は和瓦葺き、構造材は木を使用するなどの特徴があります。長官室/技監室/外国人顧問技師室等がありました。
    拡大に伴い、1922年に本部は移転しましたが、建物は今も現役です。

  • 2つ小倉寄りの戸畑駅へ移動。次の九州工大駅まで、戸畑製造所が広がります。

    2つ小倉寄りの戸畑駅へ移動。次の九州工大駅まで、戸畑製造所が広がります。

  • 東洋製鐵株式会社(1917-34)<br />第一次世界大戦中の需要増に伴い渋沢栄一らが参画して起業、戸畑村に製鉄所を建設/稼働。戦後の不況で体力を失い、1921年に官営八幡製鉄所に無償で業務移管。1917年に第1高炉/1924年に第2高炉が火入れします。銑鉄販売のみで製鋼施設がありませんでした。東洋製鐵は、八幡製鉄所とは数キロ離れたロケーションです。<br />写真は1931年のもので、手前が埋立地、奥が高炉群。<br />

    東洋製鐵株式会社(1917-34)
    第一次世界大戦中の需要増に伴い渋沢栄一らが参画して起業、戸畑村に製鉄所を建設/稼働。戦後の不況で体力を失い、1921年に官営八幡製鉄所に無償で業務移管。1917年に第1高炉/1924年に第2高炉が火入れします。銑鉄販売のみで製鋼施設がありませんでした。東洋製鐵は、八幡製鉄所とは数キロ離れたロケーションです。
    写真は1931年のもので、手前が埋立地、奥が高炉群。

  • 専用鉄道(1930-)<br />八幡製鉄所と戸畑地区の移動は海運でしたが、効率と危険の観点から両者を鉄道で結ぶことになり、3年の工期を経て全長6kmの専用鉄道で結ばれました。戸畑からは高炉から銑鉄が、八幡地区からはスラグ(鉄鉱石のカス)を運びました。スラグを埋立に使用することで、戸畑地区の面積は拡大します。<br />

    専用鉄道(1930-)
    八幡製鉄所と戸畑地区の移動は海運でしたが、効率と危険の観点から両者を鉄道で結ぶことになり、3年の工期を経て全長6kmの専用鉄道で結ばれました。戸畑からは高炉から銑鉄が、八幡地区からはスラグ(鉄鉱石のカス)を運びました。スラグを埋立に使用することで、戸畑地区の面積は拡大します。

  • 路線は、八幡製鉄所から真っ直ぐ東進し、丘をトンネルで越えて旧安川邸付近で北へ角度を変えて、九州工大前駅の東方で戸畑地区へ乗り入れます。複線で、国鉄車両が走行できる高規格で設計されました。現役路線で、通称くろがね線。<br />1931年の写真では、くろがね線の鉄橋を戸畑から来た電気機関車が通過中。立体交差するのは、国鉄鹿児島本線。奥は、今は無き路面電車の線路。

    路線は、八幡製鉄所から真っ直ぐ東進し、丘をトンネルで越えて旧安川邸付近で北へ角度を変えて、九州工大前駅の東方で戸畑地区へ乗り入れます。複線で、国鉄車両が走行できる高規格で設計されました。現役路線で、通称くろがね線。
    1931年の写真では、くろがね線の鉄橋を戸畑から来た電気機関車が通過中。立体交差するのは、国鉄鹿児島本線。奥は、今は無き路面電車の線路。

  • 現在の写真<br />手前のトラス橋の奥にくろがね線の鉄橋が写っています。立体交差するのは、JRではなく県道50号線(後述)。<br />

    現在の写真
    手前のトラス橋の奥にくろがね線の鉄橋が写っています。立体交差するのは、JRではなく県道50号線(後述)。

  • 九州製鋼株式会社(1917-34)<br />第一次世界大戦の需要に伴い安川敬一郎が創立、戦後不況で1928年に八幡製鉄所へ統合、第4製鋼工場と名前を変えます。旧西八幡貨物駅の北側に位置し、位置情報には近似スポットを入れました。<br />写真は1901年の地図で、左枠外に位置します。

    九州製鋼株式会社(1917-34)
    第一次世界大戦の需要に伴い安川敬一郎が創立、戦後不況で1928年に八幡製鉄所へ統合、第4製鋼工場と名前を変えます。旧西八幡貨物駅の北側に位置し、位置情報には近似スポットを入れました。
    写真は1901年の地図で、左枠外に位置します。

    藤枝家 大和 グルメ・レストラン

  • 中国の漢冶萍(かんやひょう)公司と合弁で九州製鋼を設立し、前者から銑鉄を輸入して鉄鋼を生産するシステムでしたが、公司の経営が悪化して銑鉄が供給されず操業不能に陥り、八幡製鉄所に統合されました。<br />写真は、設立当時の記念絵葉書に印刷された製鋼/製材工場の様子。

    中国の漢冶萍(かんやひょう)公司と合弁で九州製鋼を設立し、前者から銑鉄を輸入して鉄鋼を生産するシステムでしたが、公司の経営が悪化して銑鉄が供給されず操業不能に陥り、八幡製鉄所に統合されました。
    写真は、設立当時の記念絵葉書に印刷された製鋼/製材工場の様子。

  • 洞岡(くきおか)地区の開発<br />八幡製鉄所の北側は、洞海湾を埋め立てた広大な地区が存在します(洞岡地区)。1930年の洞岡第1高炉/33年の第2高炉(日産700t)が火入れされます。洞海湾に面し鉄鉱石を船から直接高炉へ移せるので、合理的な立地です。これに伴い、従来の地区は東田地区と呼ばれます。<br />上の地図では、洞海湾として描かれている部分です。洞海湾は埋め立てが進み、航路を確保するためにこれ以上の埋立はできない段階まで来ています。<br />

    洞岡(くきおか)地区の開発
    八幡製鉄所の北側は、洞海湾を埋め立てた広大な地区が存在します(洞岡地区)。1930年の洞岡第1高炉/33年の第2高炉(日産700t)が火入れされます。洞海湾に面し鉄鉱石を船から直接高炉へ移せるので、合理的な立地です。これに伴い、従来の地区は東田地区と呼ばれます。
    上の地図では、洞海湾として描かれている部分です。洞海湾は埋め立てが進み、航路を確保するためにこれ以上の埋立はできない段階まで来ています。

  • 1934年には、国策会社日本製鐵八幡製鉄所になります。当時は需要を賄うためにアメリカからスクラップ(廃棄)鉄(くず鉄)を大量に購入していましたが、輸入禁止に対応できるように鉄は国産で賄えるようにと政府は考え、高炉を建設します。1937年に洞岡第3高炉(写真)/38年には第4高炉を操業させます。共に日産1000tの能力で、段違いです(戸畑は300と400)。東田6/戸畑2/洞岡4基と、高炉は12まで増加します。<br /><br /><br />

    1934年には、国策会社日本製鐵八幡製鉄所になります。当時は需要を賄うためにアメリカからスクラップ(廃棄)鉄(くず鉄)を大量に購入していましたが、輸入禁止に対応できるように鉄は国産で賄えるようにと政府は考え、高炉を建設します。1937年に洞岡第3高炉(写真)/38年には第4高炉を操業させます。共に日産1000tの能力で、段違いです(戸畑は300と400)。東田6/戸畑2/洞岡4基と、高炉は12まで増加します。


  • 第二次世界大戦(1939-45)<br />殊に対米戦では、軍艦/戦闘機/戦車用の特殊鋼の生産が伸びます。しかし制空権を奪われると、中国からの鉄鉱石供給が困難になり、民間から鉄製品を徴収する事態に。炭鉱も疲弊し、燃料不足で12あるうち9基の高炉が休止。1944/45年には空襲を経験します。特に45年8月8日の八幡大空襲では、製鉄所と企業城下町が大損害を受けます。八幡空襲の煙が翌朝も隣の小倉上空を覆い、視界を悪くしたために原爆投下は長崎に変更されたと言われます。<br />

    第二次世界大戦(1939-45)
    殊に対米戦では、軍艦/戦闘機/戦車用の特殊鋼の生産が伸びます。しかし制空権を奪われると、中国からの鉄鉱石供給が困難になり、民間から鉄製品を徴収する事態に。炭鉱も疲弊し、燃料不足で12あるうち9基の高炉が休止。1944/45年には空襲を経験します。特に45年8月8日の八幡大空襲では、製鉄所と企業城下町が大損害を受けます。八幡空襲の煙が翌朝も隣の小倉上空を覆い、視界を悪くしたために原爆投下は長崎に変更されたと言われます。

  • 緑:東田地区<br />青:洞岡地区<br />緑+青=八幡地区<br />赤:戸畑地区

    緑:東田地区
    青:洞岡地区
    緑+青=八幡地区
    赤:戸畑地区

  • 八幡製鉄株式会社(1950-70)<br />GHQの財閥解体で、日本製鐵は八幡製鉄と富士製鉄の2つの製鉄会社に分かれます。戦後の製鉄業は八幡の復興を最優先したことと、朝鮮戦争の特需等で徐々に回復します。

    八幡製鉄株式会社(1950-70)
    GHQの財閥解体で、日本製鐵は八幡製鉄と富士製鉄の2つの製鉄会社に分かれます。戦後の製鉄業は八幡の復興を最優先したことと、朝鮮戦争の特需等で徐々に回復します。

  • 第一次合理化計画(1951-55)<br />設備の近代化に重点が置かれます。製鋼用の精錬は平炉(反射炉に似た原理)でしたが、転炉に転換します。写真は1954年試作のLD転炉。製鋼工場のライン上の機械も最新のものに更新されました。

    第一次合理化計画(1951-55)
    設備の近代化に重点が置かれます。製鋼用の精錬は平炉(反射炉に似た原理)でしたが、転炉に転換します。写真は1954年試作のLD転炉。製鋼工場のライン上の機械も最新のものに更新されました。

  • 第二次合理化計画では、化学部門を分離してスリム化を図ります。1956年には、戸畑製鉄所内に八幡化学工業を設立して分離。起源は、1907年にコークスの製造過程で発生するコールタールを活用した事です。現在は日鉄ケミカル&マテリアル株式会社になっています。

    第二次合理化計画では、化学部門を分離してスリム化を図ります。1956年には、戸畑製鉄所内に八幡化学工業を設立して分離。起源は、1907年にコークスの製造過程で発生するコールタールを活用した事です。現在は日鉄ケミカル&マテリアル株式会社になっています。

  • 戸畑地区の発展(写真)<br />戦前の2つの高炉は廃炉になっていましたが、第二次合理化計画に伴い、1959年に戸畑第1高炉及び転炉を建設し、銑鋼一貫工場に生まれ変わらせます。60年に第2/62年に第3高炉が建設され、八幡地区から戸畑地区へ集約させる計画を発表した翌70年に富士製鉄と合併し、新日本製鉄株式会社に社名が変更されます。<br />72年には東田地区の高炉が廃止と第4高炉建設、78年には洞岡地区の高炉が廃止(鉄冷え)され、戸畑に統一されます。

    戸畑地区の発展(写真)
    戦前の2つの高炉は廃炉になっていましたが、第二次合理化計画に伴い、1959年に戸畑第1高炉及び転炉を建設し、銑鋼一貫工場に生まれ変わらせます。60年に第2/62年に第3高炉が建設され、八幡地区から戸畑地区へ集約させる計画を発表した翌70年に富士製鉄と合併し、新日本製鉄株式会社に社名が変更されます。
    72年には東田地区の高炉が廃止と第4高炉建設、78年には洞岡地区の高炉が廃止(鉄冷え)され、戸畑に統一されます。

  • 新日鉄(1970-2012)<br />富士製鉄との合併は、独禁法に抵触するとして公取委から却下。そこで鉄道レールの技術を日本鋼管(当時 現JFEスチール)に供与して、独占状態を放棄する等の措置で承認されました。現在も国産レールの80%は、八幡地区で生産してます。写真のレールにはNIPPON STEELと刻まれ、長年輸入に頼ったつらい歴史を思い起こさせます。<br />社名は、かつて富士製鉄と同じ会社(日本製鐵)だったこと、悲願の再統合の表れです。英名表記は、NIPPON STEEL CORPORATIONです。

    新日鉄(1970-2012)
    富士製鉄との合併は、独禁法に抵触するとして公取委から却下。そこで鉄道レールの技術を日本鋼管(当時 現JFEスチール)に供与して、独占状態を放棄する等の措置で承認されました。現在も国産レールの80%は、八幡地区で生産してます。写真のレールにはNIPPON STEELと刻まれ、長年輸入に頼ったつらい歴史を思い起こさせます。
    社名は、かつて富士製鉄と同じ会社(日本製鐵)だったこと、悲願の再統合の表れです。英名表記は、NIPPON STEEL CORPORATIONです。

  • 「鉄冷え」と本部移転<br />1970年代以降、高炉の休止や廃炉が相次ぐ鉄冷えの結果、八幡地区は高炉がなくなり、1990年には本部も戸畑へ移転します。八幡地区には広大な遊休地が発生します。1990年の北九州スペースワールド開園を始めに、遊休地の活用が始まります。残りの部分は新日鉄と北九州市が共同で東田開発事業を展開します。東田第一高炉が製鉄所の離れ小島になっているのは、そのためです。<br />

    「鉄冷え」と本部移転
    1970年代以降、高炉の休止や廃炉が相次ぐ鉄冷えの結果、八幡地区は高炉がなくなり、1990年には本部も戸畑へ移転します。八幡地区には広大な遊休地が発生します。1990年の北九州スペースワールド開園を始めに、遊休地の活用が始まります。残りの部分は新日鉄と北九州市が共同で東田開発事業を展開します。東田第一高炉が製鉄所の離れ小島になっているのは、そのためです。

  • 現地には日鉄系不動産会社の看板が。<br />思慮深い読者の皆さんは、昔の写真に写る鉄道ルートに違和感を感じ、混乱したと思います。

    現地には日鉄系不動産会社の看板が。
    思慮深い読者の皆さんは、昔の写真に写る鉄道ルートに違和感を感じ、混乱したと思います。

  • 1946年撮影の写真。手前には、大谷球場/先日解体された大谷会館(1927年に開館した製鉄所職員用の福利厚生施設)、現在の八幡東警察署の敷地が写っています。国鉄八幡駅(1955年に1km西方へ移動)と鹿児島本線の奥に、第一高炉が写っています。実は、JRの線路が1999年に付け替えられています。<br />本来九州鉄道(JRの前身)は当時の海岸沿いに線路を敷設するはずでしたが、官営製鉄所との協約で製鉄所を大きく迂回する不自然な線形になります。約100年を経て計画時の線形に戻り、距離が894m短縮されました。

    1946年撮影の写真。手前には、大谷球場/先日解体された大谷会館(1927年に開館した製鉄所職員用の福利厚生施設)、現在の八幡東警察署の敷地が写っています。国鉄八幡駅(1955年に1km西方へ移動)と鹿児島本線の奥に、第一高炉が写っています。実は、JRの線路が1999年に付け替えられています。
    本来九州鉄道(JRの前身)は当時の海岸沿いに線路を敷設するはずでしたが、官営製鉄所との協約で製鉄所を大きく迂回する不自然な線形になります。約100年を経て計画時の線形に戻り、距離が894m短縮されました。

  • 同じ場所<br />左から大谷球場、大谷会館跡(更地)、警察署です。旧八幡駅前からここまでは、八幡東区役所や商店街のアーケードがクロスする繁華街です。

    同じ場所
    左から大谷球場、大谷会館跡(更地)、警察署です。旧八幡駅前からここまでは、八幡東区役所や商店街のアーケードがクロスする繁華街です。

  • 旧JR線(=かつての八幡製鉄所の境界線)は、枝光駅から現在の県道50号線→戸畑バイパス(国道3号線)→都市高速5号線高架(写真)と重なっています。

    旧JR線(=かつての八幡製鉄所の境界線)は、枝光駅から現在の県道50号線→戸畑バイパス(国道3号線)→都市高速5号線高架(写真)と重なっています。

  • 国道3号から県道50号に分岐すると、スペースワールド跡地。現在はイオンモールとTHE OUTLET北九州(写真)になっています。線路の北側も、旧本部事務所以東はアウトレット第二駐車場や緑地になっています。<br />※創業の地である東田地区の人員は、富士製鉄との合併前の1960年代に関東初進出となる君津製鉄所へ既に振り分けられ、着々と整理が進んでいました。

    国道3号から県道50号に分岐すると、スペースワールド跡地。現在はイオンモールとTHE OUTLET北九州(写真)になっています。線路の北側も、旧本部事務所以東はアウトレット第二駐車場や緑地になっています。
    ※創業の地である東田地区の人員は、富士製鉄との合併前の1960年代に関東初進出となる君津製鉄所へ既に振り分けられ、着々と整理が進んでいました。

  • 八幡製鉄所跡は東田緑地に。というわけで、一般人も近づけます。岸壁と係留具は、大正時代に若松築港株式会社が官営製鉄用に施工した遺構です。

    八幡製鉄所跡は東田緑地に。というわけで、一般人も近づけます。岸壁と係留具は、大正時代に若松築港株式会社が官営製鉄用に施工した遺構です。

  • 対岸は洞岡地区

    対岸は洞岡地区

  • 枝光駅付近<br />立派な踏切はJR貨物の専用路線、旅客線(駅)は踏切の先の丘に沿って走る複線です。北九州工業地帯沿いなので、旅客/貨物分離の複々線です。

    枝光駅付近
    立派な踏切はJR貨物の専用路線、旅客線(駅)は踏切の先の丘に沿って走る複線です。北九州工業地帯沿いなので、旅客/貨物分離の複々線です。

  • 若戸踏南側。ゴルフ練習場のネットの奥に、くろがね線の鉄橋が見えます。高速枝光ランプの高架下には、枝光川が。

    若戸踏南側。ゴルフ練習場のネットの奥に、くろがね線の鉄橋が見えます。高速枝光ランプの高架下には、枝光川が。

  • その先には、安田工業株式会社八幡工場が。<br />東洋で最初に洋釘を製造しました。工場の建屋は、東京駅赤レンガ駅舎でお馴染みの辰野金吾の設計。

    その先には、安田工業株式会社八幡工場が。
    東洋で最初に洋釘を製造しました。工場の建屋は、東京駅赤レンガ駅舎でお馴染みの辰野金吾の設計。

  • 官営八幡製鉄所で線材が製造されたおかげで、洋釘製造が可能になりました。<br />

    官営八幡製鉄所で線材が製造されたおかげで、洋釘製造が可能になりました。

  • 黒崎駅までワープ。<br />北口には、八幡村に製鉄所を熱心に誘致した筑豊炭鉱王のひとり安川敬一郎が創業した安川電機本社が。城山を挟んで隣接する八幡製鉄所には、彼が創立した黒崎窯業(現黒崎播磨、現在は日鉄系列)本社/八幡工場もあります。<br />官営製鉄所建設には、工場建設用に大量のレンガ/高炉用の耐火煉瓦が必要で、他社からの供給と共に自前の工場を持っていました。セメントもレンガも製鉄も製造に窯(高炉も窯の一種)が必要な広義の窯業、銑鉄/鉄鋼製造時の鉄滓がセメントの原料になるということで、窯業が発達しました。八幡製鉄所の窯業事業は、八幡化学を経て現在の日鉄高炉セメントに引き継がれます。

    黒崎駅までワープ。
    北口には、八幡村に製鉄所を熱心に誘致した筑豊炭鉱王のひとり安川敬一郎が創業した安川電機本社が。城山を挟んで隣接する八幡製鉄所には、彼が創立した黒崎窯業(現黒崎播磨、現在は日鉄系列)本社/八幡工場もあります。
    官営製鉄所建設には、工場建設用に大量のレンガ/高炉用の耐火煉瓦が必要で、他社からの供給と共に自前の工場を持っていました。セメントもレンガも製鉄も製造に窯(高炉も窯の一種)が必要な広義の窯業、銑鉄/鉄鋼製造時の鉄滓がセメントの原料になるということで、窯業が発達しました。八幡製鉄所の窯業事業は、八幡化学を経て現在の日鉄高炉セメントに引き継がれます。

    安川電機 名所・史跡

  • 続いて、世界遺産を構成する遠賀川ポンプ室へワープ。<br />辺鄙な場所ですが、映えるセットです。<br />周囲には石炭用トロッコ引き込み線等もありました。<br />蒸気ボイラー棟/蒸気ポンプ棟の2棟から成ります。

    続いて、世界遺産を構成する遠賀川ポンプ室へワープ。
    辺鄙な場所ですが、映えるセットです。
    周囲には石炭用トロッコ引き込み線等もありました。
    蒸気ボイラー棟/蒸気ポンプ棟の2棟から成ります。

    遠賀川水源地ポンプ室 名所・史跡

    まさに by gianiさん
  • 内部は、こんな感じ。蒸気エンジンです。

    内部は、こんな感じ。蒸気エンジンです。

  • 動力は1950年代に電気ポンプに代わっています。

    動力は1950年代に電気ポンプに代わっています。

  • 川の水は勝手に使用できず、遠賀川のような一級河川の水利権は国交省の許可が必要です。今も現役なので、こんな使用標が。令和元年度で期限が切れているのが???

    川の水は勝手に使用できず、遠賀川のような一級河川の水利権は国交省の許可が必要です。今も現役なので、こんな使用標が。令和元年度で期限が切れているのが???

  • 全長11.4kmに及ぶパイプラインのスタートです。

    全長11.4kmに及ぶパイプラインのスタートです。

  • こちらは、河内貯水池の建設風景。

    こちらは、河内貯水池の建設風景。

    河内貯水池 自然・景勝地

  • 続いて、日本製鐵小倉製鉄所正門および本館。<br />1918年に浅野総一郎が設立した浅野小倉製鋼がルーツです。

    続いて、日本製鐵小倉製鉄所正門および本館。
    1918年に浅野総一郎が設立した浅野小倉製鋼がルーツです。

    住友金属工業 小倉製鉄所 名所・史跡

  • 1953年に住友金属工業と合併します。

    1953年に住友金属工業と合併します。

  • 至近距離で観察できる貴重な製鉄所です。

    至近距離で観察できる貴重な製鉄所です。

  • 2002年には高炉(写真中央)を火入れ、銑鋼一貫設備になります。<br />2012年には新日本製鉄と合併し、新日鉄住金に。住友御三家なのに住友グループを離脱します。<br />2019年に社名を日本製鉄株式会社に変更、小倉製鉄所は高炉休止になります。現在は日本製鉄九州製鉄所八幡地区に組み込まれています。<br />九州製鉄所八幡地区では、戸畑の高炉1基のみが稼働していますが、2023年には、環境対策で高炉を電気炉に転換する方針を発表しています。<br />

    2002年には高炉(写真中央)を火入れ、銑鋼一貫設備になります。
    2012年には新日本製鉄と合併し、新日鉄住金に。住友御三家なのに住友グループを離脱します。
    2019年に社名を日本製鉄株式会社に変更、小倉製鉄所は高炉休止になります。現在は日本製鉄九州製鉄所八幡地区に組み込まれています。
    九州製鉄所八幡地区では、戸畑の高炉1基のみが稼働していますが、2023年には、環境対策で高炉を電気炉に転換する方針を発表しています。

  • 戸畑地区と小倉地区(右下)

    戸畑地区と小倉地区(右下)

  • おまけ<br />くろがね線や戸畑製造所のある地区。<br />工大前バス停近くには、おいしい戸畑ちゃんぽんのお店が。

    おまけ
    くろがね線や戸畑製造所のある地区。
    工大前バス停近くには、おいしい戸畑ちゃんぽんのお店が。

  • こんな店構え。

    こんな店構え。

    チャンポン福龍 グルメ・レストラン

  • ここのちゃんぽんは、唯一無二の芸術的な味。麺も独特です。<br />次は、製鉄所を支えた筑豊炭田のハブ機能を果たした直方市を探検します↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11859723

    ここのちゃんぽんは、唯一無二の芸術的な味。麺も独特です。
    次は、製鉄所を支えた筑豊炭田のハブ機能を果たした直方市を探検します↓
    https://4travel.jp/travelogue/11859723

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