2023/10/05 - 2023/10/05
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gianiさん
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2023/10/05
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旧底井野村は、江戸時代に福岡藩主が参勤交代等に利用した御成道こと「底井野往還」が通っていました。
明治期の底井野村には、官営八幡製鉄所関連施設として「遠賀川ポンプ室」が建設され、世界遺産を構成しています。でも、訪れる人が少なくのんびりと見学できます。
展示資料室もあるので、見ごたえがあるコースです。
現在は中間市を構成しています。
八幡地区の製鉄所関連施設は↓
https://4travel.jp/travelogue/11858812
- 旅行の満足度
- 5.0
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折尾駅で、筑豊本線へ乗り換えます。
福北ゆたか線と呼ばれています。JR筑豊本線 乗り物
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垣生と書いて「はぶ」と読みます。
市域の中心にある市役所基点で見ると、西側/遠賀川対岸にあります。筑前垣生駅 駅
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駅近くの地域交流センターには、
世界遺産のガイダンスセンターがあります。中間市歴史民俗資料館 美術館・博物館
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1901年に操業開始した官営八幡製鉄所関連施設の
遠賀川ポンプ室の詳細な説明が得られます。 -
第一次拡張工事
操業開始当時の生産能力は9万トンで、計画(18万トン)の半分でした。鉄鋼の輸入量は23万トンで、自給には程遠い状態でした。1906年の帝国議会で1088万円の予算を獲得し、18万トン体制を目指します。 -
用水路の建設
鉄鋼1tを生産するには、150tの工業用水が必要です。
福岡県第二の河川遠賀川から取水して、八幡製鉄所まで輸送する全長11.4kmの設備です。毎分29立方メートルのペースで水を供給する必要がありました。 -
用水路の設備
取水口/貯水池/ポンプ室から成る設備を「水源地」と呼びます。103万円の予算が配分されました。
貯水池は、取水口よりも低い水位まで掘り込んで建設し、ここで砂などの不純物を沈殿させます。その水を蒸気ポンプで5.4km離れた上ノ原調整池まで揚水します。
上ノ原調整池は標高70mに位置し、111万立方メートルの貯水能力を持ちます。調整池から5km離れた製鉄所までは、鬼ケ原貯水池を経由して自然落下で導水します。
1909年に竣工/翌10年に稼働しましたが、沈殿池は1913年までズレ込みました。 -
近代上水道
上記のベースとなった技術は、1888(M20)年のH.パーマーによる横浜水道(山梨県道志村~横浜間)敷設をはじめとする近代上水道システムです。
水源地で取水し、水道管を通して市街の高所(丘陵)の給水所までポンプで汲み上げ、高低差(自然落下)で各蛇口まで導水するシステムです。 -
中島鋭治
遠賀川水源地の建設を監督しました。「近代水道の父」という称号どおり、東京の水道設備の補強や仙台/名古屋/平壌/仁川/釜山等の水道を設計した、この道のパイオニアです。東大工学部教授として、多くの後継者を育てています。 -
揚水ポンプ
直径28インチ(78cm)の水道管で5.4km離れた丘上の貯水池へ揚水するために、300馬力の蒸気ポンプ2台を敷設しました。当時先進国の上水道で定評のあったトリプル-エクスパンション-エンジンポンプ(ヘイソン-デビー社製)を導入します。トリプルとあるように、高圧/中圧/低圧用の3つのシリンダーでフランジャーを稼働させました。
※説明では日本での導入事例はほとんどないと記載されていましたが、ここでの実績が反映されてか三井三池炭鉱各坑の排水設備ではデビー社のポンプがガンガン導入されています↓
https://4travel.jp/travelogue/11732889 -
増設
上の写真から5年後の1915年には、当初の計画通りポンプが2台追加され、4台体制になります。このたび導入されたのは、石川島製作所(現IHI)製の同型でした。この時期の業界主流は「渦巻ポンプ」と呼ばれる小型のものでしたが、実績を重視して敢えて従来型を導入したようです。 -
ボイラー室
蒸気ポンプの動力源であるボイラーは、石炭を燃焼させて水を高圧水蒸気に変換します。バブコック&ウィルコック社製のボイラーガ4基写っています。1915年のポンプ増設に伴い、4基が追加されます。左奥には、石炭を積んだトロッコが写っています。ボイラー室まで、引き込み線が通っていました。 -
現在のポンプ室
1950年頃に電化され、荏原製作所の渦巻ポンプに交替し、現在に至ります。内部の壁は撤去され、ボイラー室も不要になっています。 -
竣工時(1910年)の外観
右側に写る高さ45mの煙突が、印象的です。蒸気ボイラーに欠かせないアイテムです。38m×23m高さ7.4mの赤レンガ化粧積みの建物です。 -
水道管敷設
主な障害物は川で、鉄橋を敷設して水道管を通しました。当時は川に架かる橋が少なかったこともあって、歩道橋としても機能しました。
※子供の頃、1日3本しか走らないローカル鉄道線の鉄橋を住民は歩道橋代わりに使用していました(戦後は違法行為です。マネをしないように)。 -
取水堰の建設
当初は取水井(川底に井戸のような取水口を建設)を使用していましたが、1927年に洞岡地区に大型高炉を建設するに至って、より多くの水が必要となりました。1930年に遠賀川中間取水堰を竣工させます。 -
ポンプ室の横の河原に、全長62mの堰を設け、渇水期に水位が変動してもスムーズに取水できるようにしました。
工業用水のみならず、飲料水/農業用水も取水しています。 -
写真のような堰板を横に41枚並べた可動堰です。
堰板の寸法は、縦110cm×高さ150cm×厚さ20cm。一斉に堰戸を閉められるものの、上げるためには操作船を浮かべて一枚一枚巻き上げる必要がありました。 -
渇水時に姿を現した底部
基礎をコンクリートで被覆して、その上に花崗岩を張っています。
節約のためか、一番川幅の狭い部分に建設されたため、洪水対策が脆弱なのが悩みでした。2003~13年の10年間で、避難判断水位に達することが5回、うち4回が洪水被害を引き起こす状況でした。 -
新中間堰(2018~)
中間堰のすぐ上流に建設したもので、堰の全長を81→139mへ延長し、川底も3.6m掘り込むことで河道面積を拡大。HWL(設計水位のようなもの)の河道面積が60%向上し、理論上は10年単位の避難判断水位到達回数0になりました。一言でいえば、水(川)の流れを良くしたということです。
魚腹式(3か所)で低価格/耐久性の向上を図っています。魚道も確保しています。 -
いざ、現地へ。
資料館沿いの県道98号線を通って、遠賀橋を渡ります。
対岸左には市役所、右には消防署が見えます。
渡り切って右折します。 -
周辺の航空写真
2000年撮影なので、取水堰は先代のものです。 -
遠賀橋からの眺め
向こうの中島(中州)の左側に取水堰が設けられているのがわかります。 -
橋の先の右側に消防署が写っています。
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中間消防署
炭鉱経営で財を成した岩崎久米吉の住居跡です。
土地家屋が寄贈され、永らく中間町役場庁舎として利用されました。現在は、消防署。 -
黒川を渡ると、江戸時代の水門があります。
今は、素通り。堀川の中間唐戸 名所・史跡
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笹尾川から徒歩5分ほどで、
新中間取水堰が現れます。
資料館から徒歩20分ほどです。
堰戸の寸法は、幅23m×高さ3.6mが4枚です。高さは1.1m→3.6mに向上、堰戸の上端は旧堰戸の底面と同じ水位、つまり平時の水位が1.1m低くなりました。 -
後ろを振り向くと、遠賀川ポンプ室が見えます。
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水利使用標識
工業用水及び飲料水を兼ねていることを明記。
24時間当たり18万6762立方メートルの取水能力(毎秒2.1616立方メートル)です。 -
インスタ映えするようなアクセサリーが。
赤レンガの中で、アーチ部分は白い鉱滓レンガがアクセントに。鉱滓は、高炉で製鉄する際の残骸で、高温焼成した鉱滓レンガとしてリサイクルしています。
私有地(柵/金網)に囲まれているので、これ以上近づけません。遠賀川水源地ポンプ室 名所・史跡
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竣工当時の姿。
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河川敷の道路沿いには、貯水池(沈殿池)も見えます。
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笹尾川を渡る鉄管(水道管)橋。現役です。
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その横には、中間唐戸が。
コチラは、別回に歩きます。 -
再び、展示室へ戻ります。
地域史を扱うコーナーもあります。 -
福岡藩主御茶屋
底井野村には歴代藩主の遊猟場(鷹狩)があり、休息/宿泊するための御茶屋(藩主別邸)が建設されました。二代藩主黒田忠之の治世のことです。三代藩主黒田光之の代に、最盛期を迎えます。1672年には、小倉藩主を接待しています。 -
御茶屋図
現代人に分かりやすいように編集したものです。
左右両端には、鷹専用の部屋(建物)や鳥番の屋敷もあります。狩は娯楽にとどまらず、有事に備えた模擬戦の役割と藩主の威光を領民に示す大事な政治/軍事目的がありました。
一週間ほど滞在することもあり、趣向を凝らした庭園が準備されました。 -
花畑には、菊/芍薬/牡丹等四季折々の花が咲き誇りました。白鳥や鴛鴦(おしどり)が放たれ、春には雛を育てました。邸内で鴨狩もできました。
光之の晩年に財政難から規模が縮小されますが、6代藩主継高は御茶屋を重用します。しかし、1796年には廃止となり、玄関/御用勤所/内証玄関を除く建物を解体して飯塚宿の御茶屋建替用材となりました。庭園の池も埋立てられ、御茶屋は田畑になります。 -
御茶屋の終焉(1838)
参勤交代のルート上に位置するために、御茶屋がないのは不便ということで、1812年に復活しています。鷹狩も再開されました。
しかし1838年の倹約令で再度廃止され、鷹も野に放たれます。それ以降、御茶屋が再開されることはありませんでした。
写真は、上底井野村の図面(1786年)です。 -
底井野往還
江戸時代は勝手に橋を架けることが許されなかったので、遠賀川は大きな障害物でした。福岡と小倉を結ぶ唐津街道は2箇所で渡船が必要になり、危険と不便が極まりない道でした。それゆえ参勤交代ルートとして、赤間往還(赤間宿~木屋瀬宿)と中筋(底井野)往還が開通しました。底井野往還は、赤間往還の六反田から分岐し、底井野で遠賀川を渡って、黒崎宿付近へ到達するルートです。
交通の要衝ということもあり、村内で往還が折れ曲がった場所に郡家が設けられています。郡家は近隣の村々を束ねる郡役人と村役人(庄屋)等が会して業務を行う施設で、今でいう(国や県の機関が集まる)合同庁舎のようなものです。村の中心には、住宅が93軒も連なっていました。 -
小田宅子の旅行
1841年に伊勢参りをした旅を振り返って1858年に編纂した「東路日記」が残されています。底井野豪商の一面が垣間見られる貴重な史料です。
宅子は、金融業で財を成した小松屋の跡取りとして生まれ婿を迎えますが、後に弟(男子)が生まれたために家業を譲り、隣で醸造業を営みます。彼女が残した和歌は、高い教養がにじみ出ています。 -
700kmの道のりを走破してお伊勢参りを果たすも、最終的に日光まで足を延ばし、全行程は3200km/144日の大旅行になりました。伊勢から先の通行手形を取得していないことを考えると、かなりの冒険です。京/大坂/奈良/鎌倉/江戸見物や、厳島神社/金比羅/熱田神宮/諏訪神社/善光寺/東照宮といった神社仏閣を訪れ、旅の費用は126万円でした。
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小松屋と底井野往還/郡家
底井野往還は(筑前六宿を構成する)木屋瀬宿をスルーするルートなので、この地域で多くの特権を持つ木屋瀬宿からの激しいバッシングを受けました。例えば底井野を経由した旅人には、渡船を許さない(→歩いて渡れ!渡船業務は木屋瀬宿の船庄屋の専売特権でした。)等の制裁を課し、赤間往還へ旅人を誘導します。
郡家は1704~10年頃に開設され、木屋瀬の圧力で閉鎖/再開を繰り返しますが、1844年を最期に廃止されます。郡家が閉鎖/廃止されると、周囲の村民は黒崎or木屋瀬の郡家まで通う必要がありました。
小松屋はモノの販売を一切行わず、両替を主とする金融一筋で商売できたことは、底井野村に富が溢れてこそ為せる業種です。1972年まで往時の家屋が残っていました。 -
昭和の遺物
宇多田ヒカルではありません。(母親の)藤圭子(当時19歳)です。1970年刊。明治以降は、村東部(対岸部)の遠賀川ポンプ室および大正以降に開発された炭鉱で栄えますが、1960年代に繁栄は終わって今に至ります。北九州市のベッドタウンとして、現在は求心力の低下した黒崎の経済圏に取り込まれています。 -
では、資料館周辺を実際に歩いてみます。
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資料館の背後にあるのは、垣生公園。
池が印象的です。垣生公園 公園・植物園
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延寿橋を渡って、八幡宮へ。縁起の塊のような名前の橋です。
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丘の上には、埴生(はぶ)神社が。
仲哀天皇/神功皇后による熊襲征伐の際に、埴生に上陸して行宮を設け、航海安全を願って再び出航したスポットです。
※八幡神社の主祭神は二人の間に生まれた応神天皇ですが、こうした歴史的経緯もあり両親に次ぐポジションで祀られています。 -
船で乗り付けるなんて、すっとんきょんな話に聞こえますが、縄文海進時に中間市域は海の底でした。古遠賀湾という海域が遠賀川流域を覆い、底井野の丘が島として顔を出しています。故事は弥生時代なので、もっと水が引いている状態ですが、玄界灘から船で上陸するのは難なく行えました。
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神社を後に古墳へ向かいます。
垣生神社は戦国時代に大友氏に破壊されましたが、当時の花尾城主麻生隆実によって1572年に現在地へ再興されました。 -
公園内には、6世紀の古墳が残ります。
横穴式という通路から、古墳時代後期の様式だとわかります。
須恵器やガラス玉等が、発見されました。垣生羅漢百穴 名所・史跡
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こんな感じです。
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古墳とはいざ知らず、昔の人は石仏を彫って奉納しました。
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中間仰木彬記念球場
中間市出身の仰木彬氏を顕彰しています。西鉄ライオンズ入りし、近鉄/オリックスの監督として名を遺しました。両親が教員と訊いて納得の采配でした。一方で、野茂/イチローの独特のフォームを矯正せず、なおかつメジャー行を後押ししたことは、教員=保守的イメージとは真逆。指導者として傑出していました。 -
底井野往還に沿って、1660年に竣工した山田川と呼ばれる農業用水が通っています。
遠賀川の支流犬鳴川を植木で堰止め、鞍手町/中間市/遠賀町に灌漑水を供給する長さ16.4kmに及ぶ用水路です。
写真のように水田よりも高い住宅地を流れ、建設当初から生活用水の供給も念頭にあったことが窺えます。 -
御茶屋跡には、明治期に底井野小学校が建設され、現在に至ります。
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趣ある民家が残ります。
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県道を横断(上底井野交差点)すると、小田宅子宅跡が。
現在も小田さんが住んでいるので、末裔かと思われます。
底井野往還に沿って、用水路も続きます。 -
月瀬八幡宮
猫山(丸まった猫の姿を連想することから命名)の麓にあります。道路の向かいは、上底井野村の中心部です。 -
猫山の上に、社殿と稲荷神社があります。
比高20mほどの山ですが、猫城址として、1578年に宗像氏の配下150余名が配置されました。 -
1580年に大友氏配下の毛利鎮実が鷹取城から兵1000名を率いて出陣し、猫城を攻めます。一方の宗像氏貞配下の吉田倫行らが猫城から応戦し、勝利します。
宗像氏に関する旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11857541月瀬八幡宮 / 猫城址 寺・神社・教会
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遠目に見た猫城址。
次回は、長崎街道木屋瀬宿を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11867037
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