2023/10/05 - 2023/10/05
93位(同エリア200件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記180冊
- クチコミ300件
- Q&A回答0件
- 701,405アクセス
- フォロワー11人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
1604年に福岡藩の国境警備の要として城が築かれたことから黒崎の歴史は始まります。1615年に破城されますが、今度は長崎街道の宿場町として繁栄します。
明治期に停滞するも、大正以降に企業城下町として再生し、商工業都市として発展した歴史を振り返ります。
三石研さんは、黒崎のど真ん中で生まれ育ちました。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
旅のはじめは、黒崎駅。
まずは、黒崎城址を目指します。 -
北九州市は、大きく豊前国(門司/小倉)と筑前国(戸畑/若松/八幡)に分かれます。八幡製鉄所周辺は八幡東区、黒崎周辺は八幡西区になります。
小倉が豊前の城下町なら、黒崎は筑前福岡藩配下の城下町です。 -
小倉藩と福岡藩は、平地を流れる小川(境川)を境界線にしていたため、防備が手薄でした。外敵の侵入を防ぐために国境沿いに6つの城を築き、防衛線としました。洞海湾と皿倉山に挟まれた狭間を守ったのが、黒崎城です。
※筑前六端城は、若松/黒崎/益富(大隅)/鷹取山/麻氐良/松尾(小石原)の6城です。 -
因縁
黒田長政は、豊臣政権下では豊前国の大名でしたが、関ケ原で東軍に組し、福岡に移封されました。細川忠興は、関ケ原後に長政の治めた豊前国に移封されます。ところが長政は慣例を無視して、年貢米を携えて福岡入りします。忠興一行は食糧が消えた豊前で危機に面し、年貢米の返還を要求します。これを機に、両家は因縁の仲になりました。
筑前六端城は豊臣政権の反乱を前提に建築されましたが、こうした隣国との火種も背景にありました。
※細川家は、熊本に加増移封されます。 -
遠賀郡の地図
洞海湾を中心に発達し、上方(京都/大坂)への拠点として、芦屋/若松/黒崎の3港が栄えました。黒崎は洞海湾上に位置し、長崎街道にも面した一等地です。 -
黒崎城
福岡藩主黒田長政は、1604年に家老の井上周防之房へ命を下し、黒崎城を築城させました。井上にはこの地に1万7000石を与えて、周囲を守らせます。黒崎城跡 名所・史跡
-
井上周防之房(ゆきふさ 1554-1634)
黒田二十四騎/黒田八虎の一員で、黒田官兵衛の父の代から仕えた古参です。六端城の中でも筆頭の黒崎城かつ家臣最大の知行地からも重臣ぶりがうかがえます。黒田騒動の翌年に死去しています。
写真は彼の甲冑で、なぜか黒崎小学校が所有しています。 -
道伯山の上に建ち、城山と呼ばれます。
長崎街道は、道伯山と桃園公園のある陣山に挟まれた狭間を通り、防衛上有利です。
余談ですが、八幡製鉄所バレー部が二部落ちした際に、中村祐造監督はひたすら城山へのランニングを課し、部員にボールを触りたいという心を植え付けました。桃園公園 公園・植物園
-
こんな感じで、当時の石垣が残っています。
豊臣氏が滅びた1615年に発布された一国一城令で六端城は取り壊され、黒崎城も廃城になります。
石垣は、1738年の黒崎周辺の新田開発の際にほとんどが持ち去られました。 -
城から黒崎の街を見下ろすと、こんな感じです。素晴らしい立地です。
-
城下町から宿場町へ
黒崎には九州一の幹線道路長崎街道が走っており、交通の要衝でした。城下町から、宿場町として繁栄しました。黒崎は筑前六宿の一つとして、特別な地位にありました。では、黒崎宿を探検してみます。 -
東構口
基点(長崎街道なら小倉)側の宿場入口を、方向に関係なく東構(かまえ)口といいます。黒崎城の南側にあった堀を埋めて構口を開き、番所を設けて通行を監視しました。昼夜交替で4名の番人を配置しました。黒崎宿 東構口跡 名所・史跡
-
東構口から小倉方向の眺め
-
黒崎宿の全体図
東構口を進むと、左折しています。 -
左折すると、味のある建物が。
この辺りに、御茶屋(本陣)が置かれました。藩主別邸で、諸大名や長崎奉行等も江戸へ往復する際に宿泊しました。 -
左折しないで右折すると、そこには黒崎湊(黒崎港)がありました。洞海湾に面し、西廻り航路が開発されると、海を通して日本各地へ通じる窓口となりました。1689年に福岡藩の支藩である秋月藩の米屋敷が設けられ、94×34mの敷地に4棟の米蔵が建ちました。埋立前は、海沿いのロケーションでした。
-
現在は駐車場で、小野田セメント黒崎工場※の変電所だった経緯があります。
米は大坂で売却されて換金され、藩の財源になりました。
※中央セメントとして操業するも、1926年に小野田セメントに買収。 -
振り返ると、城山(道伯山)。
黒崎城の立地の良さがわかります。 -
五卿上陸の地(黒崎湊)
黒崎港は、1863年の八・一八政変で都を追われた三条実美らが、1865年に大宰府へ流される際に上陸した歴史があります。ここから長崎街道を徒歩で大宰府を目指しました。
黒崎湊は九州と大阪を結ぶ客船が発着する稀有な湊でした(もう一つは小倉湊)。 -
五卿上陸地は埋め立てが進み、太平洋セメントの敷地に面して石碑が建っています。先述の小野田セメントの工場はなくなりましたが、合併して誕生した太平洋セメントの八幡サービスセンターとして地盤を維持しています。
-
長崎街道へ戻ります。
御茶屋跡には、ファミマ付近も含まれます。国道3号線バイパスを潜ります。 -
バイパスと並行するJR鹿児島本線の踏切を渡ります。
-
官営八幡製鉄所の沿線を走るので、市内は複々線。左(南)側の旅客線と右側の貨物線と、目的別の複々線です。
この辺りは、本陣に沿って町茶屋(脇本陣)が立ち並んでいました。 -
櫻屋離れ跡
線路沿いに石碑と和歌が。旅籠櫻屋店主の古海正顕は、幕末に勤王の志士を支援し、五卿が宿泊して和歌のやり取りをしました。1840年築のため、八幡西図書館内に一部移設されています。 -
こちらが本館跡。
櫻屋は参勤交代時の薩摩藩士の定宿だった背景が、幕末に花開いたようです。 -
右側に巨大な廃墟。
三石研さんが上京した年に開業した黒崎そごう跡です。1979年に開店、2000年の破綻後は井筒屋が入っていましたが、2020年に空きビルになりました。黒崎衰退のシンボルです。 -
国道3号線を横断します。
2つの山に挟まれた狭い土地に、バイパス/JR/国道の3路線がひしめき合っています。 -
この辺りには、制札場と呼ばれる藩の行政機関がありました。
-
突き当りの山には、春日神社が。
-
春日神社
花尾城主麻生氏の氏神を祀り、黒崎城築城に伴い現在地に移されました。社宝は、絹本着色黒田二十四騎画像です。春日神社 寺・神社・教会
-
今来た道を引き返します。
左へ曲がると、長崎方面へ通じる本道です。 -
人馬継所
問屋場とも呼ばれる、宿場の輸送担当施設です。人足や馬が常備されており、参勤交代に必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱いました。
櫻屋前から進んで右折する辻に位置しました。 -
長崎方向へ街道を進みます。
この辺りは、旧藤田村に該当します。 -
左には、古刹の正覚寺
正覚寺 寺・神社・教会
-
代官所跡
宿場には、藩の行政全般を担当する代官所、その隣には村役人との調整を行う郡家が建っていました。黒崎代官は1638年に大塚権左衛門が着任したのが始まりで、この頃には黒崎宿が整備されました。 -
宿場周辺の道路
黄:黒崎宿
茶:当時の道路
宿場の全長は1kmほどで、東構口から海にぶつかる手前で左折し、春日神社の入口で大きく右カーブ、代官所の前を通って西構口に至ります。
地図の右端から宿場を迂回するルートは御除道と呼ばれ、伝染病の発生時に宿を迂回するルートでした。宿場から南方向へ延びる2本の道は、鳴水村御立退所(地図下端)へ通じ、火災時に藩主諸大名等が御茶屋から御立退所への避難ルートでした。 -
街道は、県道273号線(宿場通り)を斜め左に横断します。
旧道は、くまで通りに突入します。
宿場通りは埋立てられた中橋川の跡で、長崎街道に中橋が架かっていました。
右枠外は、汐入と呼ばれる干潟でした。くまで通り 名所・史跡
-
くまで通りはアーケード街で、旧熊手村だったことに由来します。
歩行者天国の道路標識があるので、馬を引いて歩くと交通違反です。 -
八幡西区らしい地名や人名が、ローカル感を誘います。
個人商店/飲食店が多いです。 -
アーケードに納まる神社
街道の守護神とされる猿田彦神を祀ります。猿田彦神は、天孫(天照大神の孫)が高千穂に降臨した際に道案内を務めました。興玉神 寺・神社・教会
-
人形屋さんの情緒ある看板
小倉(/京都)寄りのエリアは、上市と呼ばれます。 -
アーケードがクロスし、昭和期の繁栄を感じさせます。
ここら辺は、三石研さんの地元。黒崎商店街 市場・商店街
-
下市から南へそれると、岡田宮があります。
三の鳥居は、1700年に奉納。
右の柱に元禄十三年と刻まれているのがわかりますか?岡田神社 <岡田宮> 寺・神社・教会
-
略記
古の遠賀地方を治めていた熊族が、祖先神を奉納したのが起源です。記紀によれば、神武天皇が東征の際に岡田宮に1年滞在したことと、神功皇后の三韓征伐の際に親祭しました。
武家政権下(12c~)でも庇護され、福岡藩の祈祷社に指定されました。 -
主祭神は神武天皇です。
高千穂に降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)の曾孫に当たり、曽祖父が降臨した高千穂から東征を開始し、橿原神宮で初代天皇として即位します。
神功皇后は仲哀天皇の后で、八幡神社の主祭神である応神天皇を身ごもっていた時に三韓征伐を行いました。 -
神武の東征
各地を平定するために、要所に滞在しています。
7年間滞在した多祁理宮(埃宮)は、安芸府中の多家神社です。
旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11813999 -
神功皇后は、熊族の案内で岡田宮を親拝しているので、熊族も服従していたことがわかります。
-
三条実美歌碑
五卿の大宰府落ちの際に、秘密裏に岡田宮を参拝し、和歌を一首奉納しています。
「玉ちはう 神し照らせば 世の中の 人のまごころ かくれやはする」
維新を成し遂げるために神武の加護を願っています。 -
コンクリートの基礎を上ると、
-
本殿は1718年造営、この額は1707年に貝原益軒が執筆。
紋からも、天皇家とのかかわりが分かります。 -
奉納絵馬
-
社宝:黒田二十四騎
黒田長政配下の24武将です。
北九州市では、黒崎城主の井上周防之房/若松城主の三宅若狭家義がランクイン。
知名度では、後藤又兵衛でしょうか。 -
下市に戻ると、西構口。長崎側の宿場境界線。
現在は、黒崎駅前から南下する大通りと交差しています。黒崎宿 西構口跡 名所・史跡
-
道路の両脇に石垣を組み、高さ2m長さ20mの土塀を築きました。昼夜3名の門番が監視に当たっていました。写真は1975年の光景。
-
乱橋を渡ると左折し、斜め右に走り、川から離れます。
-
西構口から乱橋の120mは、岸の浦と呼ばれました。干潟のような状態で、板や丸太を組んだ人道橋が掛けられました。牛馬は干潮時に通行したそうです。写真は撥(ばち)川河口方面(黒崎駅方向)を撮影。
-
乱橋を直進したところには、湊天満宮がありました。
901年に菅原道真が大宰府に流される際に上陸した黒崎湊は、この辺りでした。堆積作用等で江戸/令和時代まで海退が続いていることが分かります。住所もズバリ菅原町2番地にありましたが、現在は岡田宮へ合祀されています。 -
曲里の松並木
乱橋から現在の山手通りを横断すると、見事な松並木が。石垣で盛られた高台を通ります。曲里の松並木 自然・景勝地
-
振り返ると、こんな感じ。景勝地として有名で、木屋瀬宿方向から向かうと、正面に洞海湾が一面に広がる眺めが醍醐味でした。
-
参勤交代で諸大名も通行するので、藩の威信をかけた松並木でした。
-
松並木の横には、先述の市立八幡西図書館が。
-
開架の横に、櫻屋離れを解体した際に残された資材を再利用した閲覧室があります。
-
窓際には、足元を掘り込んだカウンター席もあり、椅子に座る感覚で和を堪能できます。
-
その隣は、ひびしんホール。
木を多用した大ホールの反響板は、なかなかです。黒崎ひびしんホール 名所・史跡
-
乱橋の一本上流に架かる黒崎橋を渡って、黒崎駅へ戻ります。
-
アーケードを抜けてエスカレーターで黒崎駅へ。
黒崎カムズ商店街 市場・商店街
-
そごうの痕跡
建物を宇宙戦艦ヤマトに例えて宣伝していた記憶があります。 -
駅の西側には、区役所も入るコムシティが。
COM CITY 名所・史跡
-
1階の通路に展示が。
-
実は、八幡地区に特化した資料館があります。
-
中世の黒崎
源頼朝から山鹿荘の地頭に任じられた宇都宮家政は、山鹿家政と名乗ります。次男資時は、麻生荘(現若松区)/野面荘/上津役郷の地頭代を務め、麻生資時を名乗ります。その後、麻生氏は遠賀郡一帯の支配者になります。南北朝時代には皿倉山(夜景スポットして有名)、その後花尾城を本拠地として活動します。皿倉山 自然・景勝地
-
戦国時代は、戦国大名配下の国人勢力として、大内/毛利/大友氏等の勢力の庇護を受けますが、豊臣秀吉の九州平定を以て退場します。
花尾城跡 / 花尾城公園 (花尾山城公園) 名所・史跡
-
花尾城の発掘物
生活用品も多く、主従が城内で恒常的に生活していた(=本拠地)ことがわかります。 -
黒崎宿関連年表(17c)
と言いつつ、黒崎周辺の年表。内容を掻い摘むと、
①1644-87に掛けて船舶の整備/増設を藩から命じられ、それと併せて港湾整備の認可が下りますが、入り江が深さに阻まれ頓挫します。
②1673年以降に地域の干拓が始まり、98年には宿場を含む熊手村にも北汐干潟新田が誕生します。 -
黒崎宿で発掘された絵付人形
17世紀前半に製作されたもの。絵付け人形は非常に高価で、筑前六宿の一つとして黒崎が繁栄していたことを裏付ける発掘物です。 -
町屋からは、カトリック教徒が崇拝に用いるメダイも見つかっています。黒田官兵衛/長政親子はキリシタン大名でした。しかし、長政は幕府の禁教令に従い、棄教/弾圧に転じます。
※当初の禁令対象は、支配階級(武士)と天領の領民に限定されました。 -
18c
商業関連
1704年:市場が開かれ、以降は毎月6回開催されます。
1709年:米の回漕は若松、それ以外(人も含む)は黒崎と棲み分けが明文化されます。大坂行き航路の開発で台頭した若松から、黒崎を保護する政策です。
1716年:往来人改番所(関所の藩バージョンで他藩との境界に設置)は黒崎と幕府に届け出、人の流れは若松ではなく黒崎を経由することが明白に。
1743年:藩の新しい特産品である鶏卵の積出港に指定される。
1750年:舟入(築港)がついに完成
1751年:行政のスリム化で若松代官所を廃し、黒崎代官が兼務。
農業関連
1732年の享保の大飢饉がムーヴメントです。収入(年貢米)激減時の借金の返済手段が米の現物納入と規定されたために、新田開発が活発化しました。上記の鶏卵輸出も財源確保が目的です。
1733年:黒崎城石開作。黒崎城址の石垣を持ち運んで、黒崎城石(現在の黒崎駅周辺)を干拓、併せて用水路も建設。
1750年:干拓で洞海湾岸の本城御開新田が誕生し、遠賀堀川開削工事が128年ぶりに再開、1763年に遠賀川と繋がります。
1762年:熊手村の貞元を新田開発。 -
黒崎宿で発掘された陶磁器
左は江戸前期で伊万里焼が含まれます。右は江戸中期で、中国製や黒崎と書かれたものも含まれます。財力のみならず、各地と往来/交易が盛んだったことが分かります。
前期からは陶器の上野/高取焼、中期は筑前磁器が発掘され、藩の特産品として陶磁器が黒崎から大坂等へ販売されていたことが分かります。
※磁器は、朝鮮出兵時に事実上拉致した磁器職人発祥の特産品です。 -
櫨蝋を固める型
ハゼの幹から樹液を取り出して加工した櫨蝋は、筑前産が大坂での取扱量ナンバーワンでした(品質は肥後産が一番)。木屋瀬宿の商人は蜜蝋卸を独占する特権があり、型には商標が彫られていたので、全国の消費者にブランドが知れ渡りました。黒崎港から運ばれた商品の一つです。 -
19c
1840年:黒崎宿大火
天保の大飢饉(1836-42)、安政の大地震(1854)、洪水と旱魃が多発と、ニュースは災害関連です。
1871年:廃藩置県で福岡県遠賀郡に組み込まれる。
1889年:町村制施行に伴い、熊手/藤田/鳴水/前田の4村が合併した黒崎村が誕生。
1891年:博多から鉄道伸張。門司港~久留米間に黒崎駅が設置。
1897年:町制施行。
若松/折尾は筑豊炭田、八幡は官営製鉄所誘致で栄える一方で、黒崎は取り残されます。 -
発掘物には、宿場で生活した庶民にまつわるものも多いです。
-
オランダ人がもたらしたもの
長崎街道ならではの物品。直接的には、オランダ商館員が将軍への表敬訪問の際に立ち寄った黒崎宿で物々交換したもの、ほかにも出島から長崎の町を通して遥々流れてきた品物等です。 -
黒崎宿周辺の模型
線路を挟んで北側が、城石新田です。現在は三菱化学/安川電機本社になっています。
中橋川を中橋で渡り、現在のくまで通りと黒崎駅に挟まれたエリアが汐入新田です。
曲里の松並木は、岡に沿って通っています。岡田宮も丘の端に鎮座しています。 -
写真は、1960年の曲里の松並木。
-
道伯山周辺
-
年貢米の積出港だった若松は、藩政後期に石炭積出港にも指定されました。遠賀堀川の水運と鉄道開通で、日本一の石炭積出港としてにぎわいました。写真は1897年頃の若松。
-
この頃、写真に写る若松駅が川舟輸送を追い越し、明治維新後真っ先に栄えました。
-
こちらは、官営製鉄所建設中(1899年撮影)の八幡村。人口2000人の寒村は、製鉄所の本格稼働時には人口6万人を超える工業都市に発展しました。戸畑市も、工業化で発展します。
-
黒崎の再発展
1911年に路面電車が開通し、門司港~黒崎~折尾が庶民の足で繋がります。
大正時代に、筑豊御三家の一つ安川財閥が安川電機と黒崎窯業(現黒崎播磨)、中央セメントが進出し、宿場町から企業城下町として再発展します。
1926年には八幡市に吸収合併され、32年には黒崎駅前区画整理事業で放射状の街並みが誕生します。黒崎は商工業の街として栄えます。 -
1918年には末松商店、19年には高島商店(現高島HD)が設立され、新興勢力も台頭します。東構口付近の本陣跡で紹介した建物は、末松商店の現役事務所です。大正末の建築とされます。
-
1935年には三菱化成(現三菱化学)が進出し、三菱の企業城下町/八幡製鉄所のベッドタウンとして最盛期を迎えます。1963年に北九州市八幡区となり、1974年以降は八幡西区の中心として、小倉に次ぐ商都として最盛期を迎えます。写真は、1964年撮影。
-
再斜陽
1980年代に再び斜陽化し、現在に至ります。
小倉も体力を落とし、北九州市全体が斜陽化。現在はレトロを売りにしています。
工業:製鉄所八幡地区のリストラ、製造業全般の不況の影響を受けます。
商業:人の流れは福岡(博多/天神)に奪われ、大局的には東京へ奪われています。
そごうと後釜の井筒屋撤退は、シンボリックな事件です。 -
角打ち
日本遺産/世界遺産と共に市が観光でイチオシしているのが、角打ちです。仕事帰りに酒屋のカウンターで立ち飲みして、サッと帰る文化です。常連さん同士の淡い付き合いも魅力です。小倉が有名ですが、黒崎も健在です。いのくちは1938年創業、製鉄所は三交代制だったので、店のピークは日に3回ありました。 -
航空写真(2010年撮影)
橙線:長崎街道
青線:1899年の海岸線
城山の北側(旧小野田セメント工場)は海ですが、三菱化学の敷地は、ほとんど埋立が進んでいません。
汐入は、黒崎駅から放射状に延びる道路に挟まれた商業地区になっています。 -
黒崎駅の北口を出ると、安川電機本社があります。
安川電機 名所・史跡
-
安川電機を取り囲む広大な敷地に三菱化学が広がります。
本社こそ丸の内ですが、設立翌年に最初の工場が操業開始した原始の地です。三菱化学 黒崎事業所 名所・史跡
-
城山の東側は、現在は日鉄グループの黒崎播磨と製鉄所が広がります。戸畑地区への集約が進みつつも、八幡地区も半端ない広さです。
新日本製鉄 八幡製鉄所 名所・史跡
-
JR鹿児島本線
1907年に国有化される前は、安川敬一郎ら地元有力者が設立した九州鉄道によって開業しました。JR鹿児島本線 乗り物
-
おまけ
夜の黒崎は、魅力的な飲食店の花園です。ラーメンは、あっさり豚骨が主流。毎日飲めるスープが魅力です。手抜きは一切ありません。そんなお店が、ゴロゴロしています。 -
筑豊電鉄に乗って長崎街道を進みます↓
https://4travel.jp/travelogue/11884116筑豊電気鉄道 (電車) 乗り物
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
gianiさんの関連旅行記
この旅行で行ったスポット
もっと見る
戸畑・八幡・黒崎(福岡) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
100