
2023/06/20 - 2023/06/26
811位(同エリア2453件中)
ミータさん
この旅行記のスケジュール
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2020年の夏はポーランドのアウシュヴィッツに行く予定だった。しかし、コロナ禍のため旅行は延期になった。この間ナチスドイツやユダヤ人虐殺に関する本を色々読み、満を持して出かけてきた。
ナチスドイツの「安楽死」組織があったベルリンのティーアガルテン通り4を訪れる。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ドレスデンからのEC特急をベルリン南駅で乗り換えて、ポツダム広場駅に到着。そこから徒歩でティーアガルテン通り4を目指す。前回『ちょっとヘヴィーな旅その9』で書いたように、ユダヤ人の大量虐殺に先立って障がい者たちの「安楽死」がまず行われた。その「安楽死」組織があったのがここティーアガルテン通り4なのである。
右側の建物はベルリン・フィルハーモニーのコンサートホール。ベルリン フィルハーモニー 劇場・ホール・ショー
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ティーアガルテン通り4(Tiergartenstrasse4)にナチスドイツの「安楽死」組織の建物があったため、障がい者などの「安楽死(殺害)」計画を「T4」計画(ActionT4)と呼ぶ。
1939年に最初の「安楽死」が行われ、1940年から1941年にかけて7万人以上の精神障がい者や知的障がい者がガス室で殺された。T4組織の人たちは、障がい者の「安楽死」の後、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカなどの「絶滅収容所」で排気ガスを使用したユダヤ人の大量虐殺を行ったとある。その後アウシュヴィッツでは、排気ガスより「効率的」に殺せるツィクロンBが使用された。 -
グーグルレンズによる翻訳(一部抜粋)
「知的障害や精神疾患を持つ人々だけでなく、社会的に不適応な人々も、ドイツの絶滅政策の最初の犠牲者の中に含まれていました。それにもかかわらず、それらは1945年以降忘れ去られました。彼らの運命は、恥の意識から家族に秘密にされることが多かった。この場所に対する一般の認識を高めようとする試みがなされたのは 1980 年代になってからでした。それ以来、記念銘板と芸術家リチャード・セラによる彫刻が犠牲者を追悼してきました。 2007 年、ベルリン市民は円卓会議を設立し、政治と科学の支援を得て、適切な情報と記念サイトの設置を求めて運動を行いました。ドイツ連邦議会は、2011 年 11 月 10 日の決議でこの懸念を考慮しました。ベルリン州によって設計コンペが発表された後、この記念碑と情報サイトは 2014 年に一般に引き渡されました。」 -
T4作戦の犠牲者の一人ヴィルヘルム・ヴェルナー(1898年-1940年)の絵。彼は知的障害があり、ピルナのゾンネンシュタインで殺された。
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グーグルレンズによる翻訳
「1933年にナチスが政権を取る以前から、「不治の病人だけでなく、ケアを必要とする施設患者や障害のある新生児に対する「積極的安楽死」(ギリシャ語で良い死)についての議論があった。この考え方の基礎は、19 世紀の優生学または人種衛生の教義でした。その支持者は、「遺伝的に劣った」人々の過剰な増加によって人々の「遺伝的健康」が危険にさらされていると見ていました。彼らの断種と施設化は国際的に議論された」
優生思想は日本にもあって、戦後も長らく優生保護法によって障がい者の断種(不妊手術」が行われたことは、前回の旅行記(『ヘヴィーな旅その9』)にも書いた。現代に生きる私たちも、ともすれば「優生思想」に傾いてしまうであろう。 -
障がい者、遺伝性疾患を持つ者は「社会の経済的負担(お荷物)になる」という理由で40万人に対し「断種(不妊手術)」が行われた。
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障がい者たちを「安楽死」を行う収容所に運んだバスの写真。
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ティーアガルテン通り4にあった「安楽死」中央組織の建物の写真。
「医師、管理スタッフ、運転手など 60 人以上が患者殺害の組織化に関与しました」とある。 -
「T4組織は犠牲者の遺品の内、貴重品を持ち去り金儲けをした」とある。
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グーグルレンズの翻訳(少し修正)
「約500人がベルリンの「T4」本部とガスで人々が殺害された施設の組織と運営に直接関与していた。司法当局は殺人事件を隠蔽した。
多くの医師は、キャリア、信念、あるいは権威を盲目的に受け入れたため、関与していました。彼らの見解では、治癒と消滅は一緒のものでした。彼らは専門家として、ガス被害者を選びました。絶滅収容所ではガス栓を作動させました。精神病院では患者を麻薬で殺害したり、住民を餓死させたりした。彼らは患者に対する実験や被害者の脳の研究を行った。看護スタッフは「Aktion T4」を使って医師を助けました」 -
グーグルレンズの翻訳(写真左より)
「T4組織の医療責任者、ヘルマン・パウル・ニッチェ(1870年~1948年)。尊敬される施設長として、彼は 1933 年以前から人種衛生を重視する給与体系を代表していました。同時に、患者ケアの改善も望んでいました。安楽死犯罪への関与により、ドレスデン地方裁判所で死刑判決を受け、1948年に処刑された」
「フリーデリケ・プシュ(1900~1980年)は、ブランデンブルク・ゴーデン州立施設の医師として、子供や若者の殺害に関与した。有罪となる証人の陳述にもかかわらず、1945 年以降、彼女は気にされることなく東ドイツで精神科医として働くことができました」
「フリードリヒ・ティルマン (1903-1964) は、ティーアガルテン通り 4 番地のオフィスマネージャーとして、殺人計画の管理を担当していました。 1960 年に彼に対して開始された刑事訴訟は、彼の死後に取り下げられた」
「ジュリアス・ハラーヴォーデン、「安楽死」の犠牲者700人以上の脳を自分の研究のために使った」 -
グーグルレンズによる翻訳
「1945年の戦争が終わった後も、精神病患者は差別にさらされ続けた。優生思想は根強く残っていた。状況が改善し始めたのは 1970 年代になってからです。安楽死裁判では、少??数の犯罪者のみが重刑を言い渡された。関与した医師のほとんどは責任を問われることはなかった。1987 年にドイツ連邦共和国で「安楽死」連盟(負傷し強制不妊手術を受けた人たち)が設立され、今日に至るまで、国民(国家)社会主義政権によって迫害されている人々と同じ権利を得るために戦っています。ドイツ議会は2007年に強制不妊手術法を非合法化したばかりだ」
日本と同じように障がい者に対する強制不妊手術は戦後長らく合法だったのだ(日本の優生保護法は1996年まであった)。そして、「安楽死」に関わった医師のほとんどは責任を問われなかったとある。日本も人体実験などに関与した731部隊に所属した医師の多くが、戦後罪に問われることなく、大学や公的病院などで働いていた。 -
ティーアガルテン通り4の記念碑。
この地で障がい者の「安楽死」計画が行われ、さらにユダヤ人の大量虐殺に向かう。 -
ティーアガルテン通りから公園沿いに進むとこの「ナチズムにより迫害された同性愛者の追悼碑」がある。
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追悼碑の壁の窓から動画が見えるようになっている。ナチスドイツにとって同性愛者も「民族共同体」の敵で、処罰の対象だった。多くの同性愛者が強制収容所に入れられ、命を落とした。
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「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 (ホロコースト記念碑) モニュメント・記念碑
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「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」は柵によって中に入れない?この部分は、照明の改修工事のために立ち入り禁止になっていた。
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「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」の中に入る。
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ヨーロッパ全体で約600万人のユダヤ人がナチスドイツによって虐殺された。
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犠牲になったユダヤ人たちの墓石の様だ。
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「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」は様々な高さがあり、身長よりも高い物もある。
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国会議事堂(中央奥)とブランデンブルク門(右手前)。
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ブランデンブルク門。
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ベルリンの壁を越えようとして殺された人たちの慰霊碑。
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ドイツ連邦議会議事堂。ナチスの独裁政権が成立するきっかけは「ドイツ国会議事堂放火事件」である。以下、Wikipediaを参照して、
「1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するが、保守党との連立政権で、まだ基盤は不安定だった。1933年2月27日に「ドイツ国会議事堂放火事件」が起こり、それを機にヒトラーは「緊急大統領令」を発令。また、放火事件は共産主義者の組織的犯行とし、多くの共産主義者、続いて無政府主義者や社会民主主義者が逮捕、拘留された。1933年3月5日の選挙でナチ党は199議席から288議席へと躍進したが、全体の647議席の過半数獲得には至らなかった。
1933年3月23日、総選挙後初の本会議が開催された。出席した議員の数は535人であり、共産党議員81人、社会民主党議員26人、その他5人の議員は病気・逮捕・逃亡等の理由で「欠席」。ナチス党はドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させた。この法律は国会審議・議決なしに広範な範囲の法令を制定する権利をヒトラー政権に認めるというものだった」(Wikipediaより)。
それでも、第1次世界大戦の敗戦によってできた賠償金が重くのしかかり、さらに世界大恐慌で失業者が急増する中、ナチスドイツが掲げる経済政策は多くのドイツ国民には魅力的に映ったのだろう。それが「民族共同体」に属さない者を排除することで成り立つものだとしても。ドイツ連邦議会議事堂 現代・近代建築
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ナチスドイツによってシンティ・ロマ(ジプシー)の人々も迫害され、強制収容所に入れられた。その追悼碑もできていた。
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グーグルレンズによる翻訳
「シンティ族とロマ族の虐殺の年表
国民(国家)社会主義のもとでは、1933 年から 1945 年にかけて、ドイツや他のヨーロッパ諸国で何十万人もの人々が「ジプシー」として迫害されました。彼らのほとんどは、シンティ、ロマ、ラレールなど、所属するさまざまなグループに従って自分自身を定義していました。ロヴァリとかマヌーシュとか。ヨーロッパ最大のグループはシンティとローマでした。国民(国家)社会主義国家とその人種差別的イデオロギーの目標は、この少数派の破壊でした。男性、女性、子供たちは捕らえられ、連れ去られるか、故郷やゲットー、強制収容所、絶滅収容所で殺害されました。イエニチェのメンバーと他の旅行者は、同様に迫害された犠牲者の別のグループを結成した。」 -
再び、ブランデンブルク門に戻ってきた。
ナチスドイツは「アーリア人種」の一民族であるドイツ人の民族共同体の繁栄を掲げ、反対に民族共同体に入らないユダヤ人、障がい者、同性愛者、シンティ・ロマ(ジプシー)などを迫害、排除したのである。
ナチスの約束する繁栄は、他国を侵略し、領土拡大が前提だった。戦争の準備のためには莫大な資金が必要である。そこでユダヤ人を国外追放し、彼らの財産を奪い取ることにした。戦争が始まるとさらに多くの資金や物資が必要になる。まずは「生産性」のない障がい者たちの「安楽死」が行われ、ユダヤ人たちの大量虐殺(ホロコースト)へと突き進むことになる。 -
かつて、東西ベルリンを隔てるベルリンの壁は、このブランデンブルクすぐ側にあった(ブランデンブルク門は東ベルリン側になる)。
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テレビ塔。
最寄りのブランデンブルク門駅から地下鉄(Sバーン)に乗り、ホテルのあるポツダムに向かう。途中のヴァンゼー駅で乗り換えるが、ベルリン中央駅やフリードリヒシュトラーセ駅まで歩くのが面倒だった。
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