2023/06/20 - 2023/06/26
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ミータさん
この旅行記のスケジュール
2023/06/25
この旅行記スケジュールを元に
2020年の夏はポーランドのアウシュヴィッツに行く予定だった。しかし、コロナ禍のため旅行は延期になった。この間ナチスドイツやユダヤ人虐殺に関する本を色々読み、満を持して出かけてきた。
ホロコースト(ユダヤ人絶滅)が決議されたヴァンゼー会議場に向かう。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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グリーニッカー橋のバス停からヴァンゼー行きの316番のバスに乗り、
”Am Kleinen Wannsee”というバス停で114番のバスに乗り換え、
”Haus der Wannsee-Konferenz(ヴァンゼー会議場)”まで20分ほどで到着する。316番バスで終点のヴァンぜー駅まで行くと、114番バスが1本後の便になり、40分位かかる。
会議場の手前に”Liebermann-Villa(リーバーマン邸)”というバス停がある。リーバーマン(1847年7月20日 - 1935年2月8日)はユダヤ人の印象派の画家である。私が最初にドイツを訪れたとき、ベルリンの美術館でリーバーマンの企画展が開催されていたので、その名前を知った。リーバーマン邸に寄っても良かったのだが、先を急いだ。
2020年の夏にアウシュヴィッツとピルナのゾンネンシュタインに行く予定だったが、コロナ禍で延期になった。この間、ナチスドイツやユダヤ人虐殺などに関する本を読んでいると、「ヴァンゼー会議」というのが何度も出てきた。 -
ヴァンゼー会議は1942年1月20に開催され、「ユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト=ユダヤ人絶滅)」を決議した。もっとも、この会議の前からユダヤ人の大量虐殺は行われ、アウシュヴィッツ収容所に「効率よく殺害できる」クレマトリウム(ガス室と焼却炉を併設した建物)の建設も始まり、ホロコーストの準備は進められていた。だが、「全ヨーロッパ1100万人のユダヤ人の絶滅」が具体化したのがこの会議だった。会議はほとんど形だけで、「ユダヤ人問題の最終的解決」が決議された。
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ヴァンゼー会議からの80年後の2022年1月、
ドイツで”Die Wannseekonferenz”という映画が公開された。ヴァンゼー会議の様子を描いた映画で、本物のヴァンゼー会議場で撮影された。日本では今年(2023年)1月に公開されたので観に行った。日本語タイトルは『ヒトラーのための虐殺会議』となっているが、ヒトラーは出てこない。議事録をもとに描いているので、ほとんどが会議の場面で、ある程度ホロコーストに関する知識がないとついていけない。上述した「リーバーマン邸」についても、映画の一場面に「この近くにリーバーマンの別荘がある」「ユダヤ人の画家だね」というようなセリフが出てくる。そこには差別的な雰囲気はなかった。「ユダヤ人の絶滅計画」の話し合いをしながら、(休憩中の雑談だが)ユダヤ人画家の話をする。何気ない場面だが、印象に残った。
映画のパンフレットに東京女子大学准教授(ドイツ近現代史研究者)の柳原伸洋氏の「ナチ・ドイツは差別が利得を生む社会、誰かを貶めることで支持を集めて権力を得られる社会を育んでいた」という解説がある。元々ドイツ人(他のヨーロッパ諸国の人々も含む)の中にあった反ユダヤ主義を利用し、ナチスドイツは権力の座を得た。ホロコーストはある意味当然の帰結だったのである。
現在の日本にも外国人差別(特に入国管理局という公的な機関が「不法滞在」として長期間収容所に収容し、人権を無視した対応をし、自殺を含む複数の死者が出ている)、性的マイノリティも同性婚が認められない、街のバリアフリーも進まず障がい者は生活しづらいなど差別が続いていて、ナチスドイツが行ったことは他人事ではない。 -
ヴァンゼー会議場は、湖畔に建つ瀟洒な邸宅である。ヴァンゼー会議場を訪れる時間を造るためにドレスデンとか駆け足になってしまった。
ヴァンゼー会議記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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記念碑。
グーグルレンズの翻訳
「1942 年 1 月にこの家で悪名高いヴァンゼー会議が開催されました
国民(国家)社会主義者の支配によって亡くなったユダヤ人の記憶に寄せて」 -
中に入るとヴァンゼー会議会議やユダヤ人虐殺に関するパネル展示がある。入館料は無料だが、入り口に募金箱があったので5ユーロ入れておいた。地下にはロッカーもあったが、気付かずにリュックを背負ったまま見学した。
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映画『ヒトラーのための虐殺会議』にも登場した暖炉だ。
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暖炉。
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グーグルレンズの翻訳
「迫害者と連合国による証拠の確保、ポーランド/ソ連、1944/1945
長年の迫害の間にすでにユダヤ人は国民(国家)社会主義者の犯罪を記録していた。彼らは自分たちの経験が自分たちの証言を通じて語られることを望んでいます。 1942年、ドイツ人は犯罪の証拠を意図的に隠蔽し始めた。囚人は集団墓地を開けて遺体を焼かなければなりません。殺人現場は整地され、植林される。それにもかかわらず、連合軍はさまざまな痕跡に遭遇します。ソ連とポーランドでは、国家調査委員会が解放地域で証拠を確保している。」
ナチスドイツはユダヤ人虐殺の証拠を隠滅しようとしたが、連合国(特にソ連)とナチスドイツの占領地だったポーランドが虐殺の証拠を集めた。「ホロコーストは捏造だ」という歴史修正主義者が現れるが、やはりあったことは否定できない。 -
このサンルームも映画に出てきた。ヴァン湖(ゼーは湖という意味)が見える。
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グーグルレンズの翻訳
左の写真の説明
「ヨーロッパ全土からの国外追放:ドイツ国防軍兵士によって移送される前のユダヤ人の女性と子供たち、ギリシャ、トアニナ、1944年3月24日」
右の写真の説明
「銃乱射事件:1942年10月14日、ウクライナの処刑前のミショッチ・ゲットーのユダヤ人の女性と子供たち。ドイツ人とその地元(ドイツの占領地)支援者らは、特にソ連の占領地で銃乱射事件を続けている。合計で約220万人(の犠牲者)になります。」 -
グーグルレンズの翻訳
「絶滅収容所:ベウジェツ、1942 年
1942年、ナチス政権は人々をガスで窒息させる追加の収容所を設置した。ドイツ占領下のポーランドには多くの殺人現場がある。最も多くの犠牲者を出した収容所は、クルムホフ(ヘウムノ)、ベルゼツ (ベウジェツ)、ソビボル、トレブリンカ、アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容所である。ドイツ人は合計で約260万人のユダヤ人をガスで殺害した。」
銃殺で220万人、ガス室で260万人が殺された。収容所で病死や餓死したものなどを入れると、約600万人のユダヤ人が犠牲になったと言われている。 -
1942年、総督府内(ドイツ占領下のポーランド)で160万人以上が殺害された。
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グーグルレンズの翻訳
「合計580万人のユダヤ人が殺害された
ナチスの大量犯罪の犠牲者
・100万人を優に超える非ユダヤ系ポーランド人
・約300万人のソ連軍捕虜
・10万人を優に超えるシンティとロマ人
・約20万人の病人および障害者
・約80万人の「パルチザンの協力者」。
・100万人以上の餓死
・強制収容所や他の拘留場所に収容されている数十万人の非ユダヤ人囚人
・地中海での約50万人の民間人強制労働者」
ナチスドイツの蛮行によってユダヤ人以外にも多くの人々が犠牲になった。 -
ヨーロッパ各地から移送されたユダヤ人の人数。
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グーグルレンズの翻訳
「1942年1月20日の会議
ラインハルト・ハイドリヒはナチス政権の高官らを招待した。彼らは重要な当局や機関から来ています。彼らは全員、反ユダヤ政治に積極的に参加しており、さまざまな利益を追求しています。
ハイドリヒ氏は、参加者を共通の認識に導き、自らのリーダーシップに参加してもらいたいと考えている。
男たちは、>>ユダヤ人問題に対する最終的な解決策<<について話します。その中心にあるのは、ヨーロッパ中のユダヤ人全員を殺害するという計画だが、これには誰も反対しない。
会議後、ハイドリヒはその結果を自分の意見として反映した議事録を作成した。」
上記の翻訳文の中に「さまざまな利益を追求」とあるが、ドイツの「民族共同体」のために、ユダヤ人の財産を没収し、労働力として働かせられるだけ働かし、働けない者は殺す。だから、映画『ヒトラーのための虐殺会議』の中でも、「全ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させる」という計画に「労働力としてのユダヤ人は生かすべきだ」というような意見が出てくる。ユダヤ人の命を守るのではなく、労働力としてしてしか見ていない。
ソ連との戦争が当初の予定より長引いていた。そして、1941年12月、ドイツと同盟関係にあった日本がハワイのパールハーバーを奇襲し太平洋戦争が始まる。全面戦争に入っていく中で、占領地のユダヤ人をどうするかが、大きな課題となっていた。マダガスカルにユダヤ人を移送する計画もあったが、海域は連合国側が支配している。ユダヤ人の国外(ヨーロッパ)追放から絶滅へと大きく方向を転換したのが、このヴァンゼー会議だった。 -
アドルフ・アイヒマン。彼はヴァンゼー会議の議事録をまとめた。強制収容所への数百万人の移送に指揮的役割を担った。戦後アルゼンチンに亡命するが、1962年にイスラエルで処刑された。ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」と結び付けられることが多いが、彼は「上からの命令に忠実に従った」のではなく、主体的にユダヤ人虐殺に関わった。
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あの壁のレリーフも映画『ヒトラーのための虐殺会議』に出てきた。
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ヴァンゼー会議の議事録。
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グーグルレンズの翻訳
写真左
「1941年末、ドイツ軍はリッツマンシュタット、ミンスク、リガ、カウエンで数万人を銃殺した。そうすることで、彼らはゲットーにドイツ帝国からの追放者のためのスペースを作ります。ミンスクとリガだけで約4万人のユダヤ人が殺害されている」
写真右
「ビーレフェルトからリガに移送される前のユダヤ人、1941年12月13日。(中略)1941 年 10 月から 1942 年 1 月まで、約 50,000 人がリッツマンシュタット、ミンスク、リガ、カウエンに移送され、そのうち 6,000 人が到着時に射殺されました。」 -
グーグルレンズの翻訳
「アインザッツグルッペ ン(移動虐殺部隊。主にドイツ親衛隊と警察官で構成された部隊のメンバー)がユダヤ人の女性と子供を射殺、デュボッサリー、1941 年 9 月 14 日
7月後半以降、(ソ連との戦争で)すぐに勝利する可能性はますます低くなりそうだ。ナチス指導部は戦争が長期化することを恐れている。この危機的な展開は、殺人政策の拡大に貢献します。殺人部隊はユダヤ人全員を射殺し始める。彼らは全員、パルチザン、「余分な食事をする人」、または「疫病の運び屋」である可能性があると考えられています。」 -
「水晶の夜」事件で襲撃されたシナゴーグ。
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上記「水晶の夜」事件の解説
グーグルレンズの翻訳
「シナゴーグの放火を見守る見物人、ジーゲン、1938年11月10日
1938 年 11 月、SA と SS の隊員はユダヤ人の礼拝所、店舗、家屋を略奪し、破壊しました。彼らは何百人もの人々を殺害します。多くの人が自ら命を絶ちます。口実はパリでの十代のドイツ外交官暗殺未遂事件。ナチス政権は以前、ポーランド国籍を持つ他の1万7000人のユダヤ人とともに、彼(ドイツ外交官暗殺未遂事件の犯人)の両親をポーランドに追放した。」
両親が国外追放された10代のユダヤ人の少年が、パリのドイツ外交官を暗殺しようとする事件があった。それに対する報復として、ドイツ各地のユダヤ人のシナゴーグ、商店などが襲撃された。少年の事件がなくても、襲撃は行われていたと思う。ナチスドイツはドイツ人の反ユダヤ人感情を煽っていった。「水晶の夜」とは、襲われたユダヤ人商店の窓ガラスが割られて、地面に散らばったのが、水晶の様にきらめいていたことにちなんでいる。 -
ユダヤ人と結婚したドイツ人は「民族の血を汚した」と、プラカードを着けて市街地を歩かされる。人々の反ユダヤ感情はこうして増強された。
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グーグルレンズの翻訳
「戦争の終わりに向けて、ナチスの当局者はファイルを破壊し始めました。彼らは自分たちの足跡を隠蔽したいのです。元国内省長官マルティン・ルターはこの時、ザクセンハウゼン強制収容所に投獄されていた。彼は以前にも上司のヨアヒム・フォン・リッベントロップを打倒しようとしたことがある。これが、>>最終解決策<< ファイルがそのまま残り、米兵によって没収された理由である可能性があります。
1945 年以降、連合国はニュルンベルクで戦犯に対する裁判を開催した。 1947年には、米国の検察当局もナチスの高官に対する訴訟を準備した。米国検察官ロバート・ケンプナー率いる捜査チームは、>>最終解決策<<ファイルを発見しました。」
ヴァンゼー会議の議事録が残っていたのは、すごく貴重なことだと思う。 -
2階吹き抜け部分から入り口付近を見下ろす。
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湖側から見たヴァンゼー会議場。
「ユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト=ユダヤ人絶滅)」という人類史上最も残虐な決定がなされた場所は、この様な美しい邸宅だった。 -
ヴァン湖。ベルリン近郊の保養地なのだ。
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湖畔のライオン像。
バスでヴァンゼー駅に向かう。 -
ヴァンゼー駅に到着。
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ヴァンゼー駅からSバーン(近郊電車)で2駅のグルーネヴァルト駅で下車。「ちょっとヘヴィーな旅」の締めくくりはここになる。
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グルーネヴァルト駅17番ホーム。ここも今回の旅行の計画を立てているときに知った(グーグルマップで見つけた)。2020年にアウシュヴィッツとピルナのゾンネンシュタインを訪れることができていたら、ここには来なかっただろう。
17番線 モニュメント・記念碑
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この17番線ホームから1万人ものユダヤ人が各地の収容所に運ばれた。
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グーグルレンズの翻訳
「ホロコーストの巻まで
1941 年 10 月から 1945 年 2 月までここを通過したベルリンの 1 万人のユダヤ人市民を記念して
ナチスの処刑人は強制収容所に送られ、殺害された」 -
ホームには移送された年月日、人数、ベルリン、移送先の収容所のあった地名が記されたプレートが並んでいる。全部は撮影していないので、紹介するのはほんの一部である。
「1941年10月18日/1251人のユダヤ人 / ベルリン - ウッチ」 -
「1942 年 12 月 9 日/1000 人のユダヤ人/ベルリン-ムシュヴィッツ」
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「1943年8月4日 / 70人のユダヤ人/ベルリン-テレジエンシュタット」
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「1943年11月/ 50人のユダヤ人 / ベルリン-アウシュヴィッツ」
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「1943年11月15日 / ユダヤ人50人 / ベルリン-テレジエンシュタット」
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「1943年12月7日/ 55人のユダヤ人 / ベルリン-アウシュヴィッツ」
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「1944年1月20日/48人のユダヤ人 / ベルリン - アウシュヴィッツ」
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「1944 年 10 月 12 日 /31人のユダヤ人 / ベルリン-アウシュヴィッツ」
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「1944年11月24日/28人のユダヤ人/B(ベルリンか?)-RAVENSBR.(ラーフェンスブリュックか?)/ SACHSENHSN(ザクセンハウゼン)」
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「1945年 3月27 日 / 18人のユダヤ人 / ベルリン - テレジエンシュタット」
アウシュヴィッツがソ連軍によって解放されtのが1945年1月27日、ドイツの敗戦が1945年5月8日。ドイツの敗戦がもう確実になっていた時期にもユダヤ人の収容所への移送は続いていたのである。
次回はついに最終回、ベルリン散策と帰国編。
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