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昨年の4月に続いて2度目の「高野山」の参拝は弘法大師空海の生誕1250年という記念の年でした。「奥の院」を参拝した後はバスで「金剛峯寺」へ移動します。本来は歩いての移動でしたが、土砂降りの雨で歩くのもままなりません。参道から境内に入りますが、さらに雨は強くなってきます。その雨よりもこの荒天のおかげで近隣からの参拝者が少なくて空いているのがありがたかったです。昨年参拝できなかった「金剛峯寺」はどうしても参拝したかったので今回のツアーでも絶対に来たい場所でした。さらに次に行った「壇上伽藍」も前回は夜の散策だけだったので「金堂」にも「根本大塔」の内陣にも入ることは出来ませんでした。それが今回叶えられ大満足でした。還暦を過ぎての2年間に2度「高野山」へ参拝することが出来て、ようやく弘法大師とのご縁を感じることが出来ました。ここですべての予定が終わり、走ってきた道を「関西国際空港」まで戻ります。ここで声が濱田マリの添乗員さんともお別れです。彼女からはダイヤモンド・プリンセスについていろいろ情報もいただけたのでありがたかったです。関空から羽田空港への便は最終便だったので、空港で過ごす時間がかなりありました。せっかくの大阪なので「ぼてじゅう」で美味しいねぎ焼きとお好み焼きと生ビールをいただいて、ほろ酔い気分で旅を終えました。

トラピックス 聖地高野山 総本山金剛峯寺・熊野三山 紀伊半島10の世界遺産(9)念願の金剛峯寺を参拝し、再びの壇上伽藍から関西空港を目指す。

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2023/06/30 - 2023/06/30

942位(同エリア1091件中)

旅行記グループ 2023紀伊半島の旅

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kojikoji

kojikojiさん

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昨年の4月に続いて2度目の「高野山」の参拝は弘法大師空海の生誕1250年という記念の年でした。「奥の院」を参拝した後はバスで「金剛峯寺」へ移動します。本来は歩いての移動でしたが、土砂降りの雨で歩くのもままなりません。参道から境内に入りますが、さらに雨は強くなってきます。その雨よりもこの荒天のおかげで近隣からの参拝者が少なくて空いているのがありがたかったです。昨年参拝できなかった「金剛峯寺」はどうしても参拝したかったので今回のツアーでも絶対に来たい場所でした。さらに次に行った「壇上伽藍」も前回は夜の散策だけだったので「金堂」にも「根本大塔」の内陣にも入ることは出来ませんでした。それが今回叶えられ大満足でした。還暦を過ぎての2年間に2度「高野山」へ参拝することが出来て、ようやく弘法大師とのご縁を感じることが出来ました。ここですべての予定が終わり、走ってきた道を「関西国際空港」まで戻ります。ここで声が濱田マリの添乗員さんともお別れです。彼女からはダイヤモンド・プリンセスについていろいろ情報もいただけたのでありがたかったです。関空から羽田空港への便は最終便だったので、空港で過ごす時間がかなりありました。せっかくの大阪なので「ぼてじゅう」で美味しいねぎ焼きとお好み焼きと生ビールをいただいて、ほろ酔い気分で旅を終えました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • 昨年の4月に来たときは参拝できなかった「金剛峯寺」です。駐車場でバスを降りた途端にものすごい土砂降りの雨になりました。

    昨年の4月に来たときは参拝できなかった「金剛峯寺」です。駐車場でバスを降りた途端にものすごい土砂降りの雨になりました。

  • 参道の左右には大きな手桶が並べられ、水が溜められていました。「金剛峯寺」の屋根には天水桶が置かれていることで有名ですが、同じような意味があるのでしょうか。

    参道の左右には大きな手桶が並べられ、水が溜められていました。「金剛峯寺」の屋根には天水桶が置かれていることで有名ですが、同じような意味があるのでしょうか。

  • 思わず正門の下で足が止まってしまいます。大玄関の寺院幕には寺紋の五三桐紋と三つ巴紋が染め抜かれています。川瀬巴水の版画のような雨が写っています。

    思わず正門の下で足が止まってしまいます。大玄関の寺院幕には寺紋の五三桐紋と三つ巴紋が染め抜かれています。川瀬巴水の版画のような雨が写っています。

    金剛峯寺 寺・神社・教会

  • 「金剛峯寺」という寺号は明治期以降は1つの寺院の名称になっていいますが、高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であったようです。

    「金剛峯寺」という寺号は明治期以降は1つの寺院の名称になっていいますが、高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であったようです。

  • 空海は宝亀5年の774年に讃岐国の屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といいました。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、山野に分け入って修行もしました。延暦23年の804年に留学生(るがくしょう)として唐に渡航し、長安の「青龍寺」の僧の恵果に密教の奥義を学び、大同元年の806年に帰国しています。

    空海は宝亀5年の774年に讃岐国の屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といいました。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、山野に分け入って修行もしました。延暦23年の804年に留学生(るがくしょう)として唐に渡航し、長安の「青龍寺」の僧の恵果に密教の奥義を学び、大同元年の806年に帰国しています。

  • 現在は西安となっている長安の「青龍寺」は唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで日本との縁も深い場所です。「入唐八家」のうち6名の僧侶がここで仏教を学んでいます。「入唐八家」とは平安初期に唐に渡り密教を学んだ8人の僧侶のことで、最澄・空海・常暁・円行・円仁・慧運・円珍・宗叡を指します。空海は苦労して中国仏教密宗文化を学び、漢学についても研鑚を積んでいます。仏教、詩、詞、サンスクリット、書などについても成果をあげ、奈良の東大寺で日本密宗真言宗を開きます。日本留学僧の中でも数少ない仏学大師となり「東密」の開祖となりました。

    現在は西安となっている長安の「青龍寺」は唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで日本との縁も深い場所です。「入唐八家」のうち6名の僧侶がここで仏教を学んでいます。「入唐八家」とは平安初期に唐に渡り密教を学んだ8人の僧侶のことで、最澄・空海・常暁・円行・円仁・慧運・円珍・宗叡を指します。空海は苦労して中国仏教密宗文化を学び、漢学についても研鑚を積んでいます。仏教、詩、詞、サンスクリット、書などについても成果をあげ、奈良の東大寺で日本密宗真言宗を開きます。日本留学僧の中でも数少ない仏学大師となり「東密」の開祖となりました。

  • 2010年に妻の希望もあって西安と始皇帝廟と兵馬俑を見る旅で「青龍寺」に参拝する機会がありました。四国八十八箇所巡りに所縁があるので、0番札所という印をいただいたことがありました。

    2010年に妻の希望もあって西安と始皇帝廟と兵馬俑を見る旅で「青龍寺」に参拝する機会がありました。四国八十八箇所巡りに所縁があるので、0番札所という印をいただいたことがありました。

  • 西安の「青龍寺」以降の旅でも日本各地で空海の足跡に出会うことがありました。能登では空海が佐渡島から能登に渡った際に最初に見付けた「見附島」にも行きました。唐で修行した空海が弟子の中から三国伝来の伝承者として認められ三杵を与えられました。それを他の弟子がねたんで奪おうとしたことから日本の海に向かって三杵を投げ、日本に帰ってから全国を探し回りました。

    西安の「青龍寺」以降の旅でも日本各地で空海の足跡に出会うことがありました。能登では空海が佐渡島から能登に渡った際に最初に見付けた「見附島」にも行きました。唐で修行した空海が弟子の中から三国伝来の伝承者として認められ三杵を与えられました。それを他の弟子がねたんで奪おうとしたことから日本の海に向かって三杵を投げ、日本に帰ってから全国を探し回りました。

  • 独鈷杵(どっこしょ)は佐渡の小比叡山の柳の木に、三鈷杵(さんこしょ)は高野山の松の木に、五鈷杵(ごこしょ)は珠洲市の宝立町の法住寺の桜の木で見つかりました。

    独鈷杵(どっこしょ)は佐渡の小比叡山の柳の木に、三鈷杵(さんこしょ)は高野山の松の木に、五鈷杵(ごこしょ)は珠洲市の宝立町の法住寺の桜の木で見つかりました。

  • 5月末の旅では松山から海岸線に沿って愛媛県と高知県を巡り、徳島まで移動するなかでも空海の伝説をいくつか聞くことがありました。今朝まで滞在していた「橋杭岩」にも伝説が残っていました。

    5月末の旅では松山から海岸線に沿って愛媛県と高知県を巡り、徳島まで移動するなかでも空海の伝説をいくつか聞くことがありました。今朝まで滞在していた「橋杭岩」にも伝説が残っていました。

  • 昨年は妻の誕生日の旅で高野山を訪れ、今回またご縁があって高野山を参拝する機会が出来ました。昨年時間的に訪れることの叶わなかった奥の院の「燈籠堂」の「地下法場」を参拝できましたし、こうやって「金剛峯寺」の参拝も出来ています。

    昨年は妻の誕生日の旅で高野山を訪れ、今回またご縁があって高野山を参拝する機会が出来ました。昨年時間的に訪れることの叶わなかった奥の院の「燈籠堂」の「地下法場」を参拝できましたし、こうやって「金剛峯寺」の参拝も出来ています。

  • 弘法大師とのご縁を感じて「飛行三鈷杵」を模した「高野開祖三鈷杵」に触れておきます。空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年の816年のことで、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされています。

    弘法大師とのご縁を感じて「飛行三鈷杵」を模した「高野開祖三鈷杵」に触れておきます。空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年の816年のことで、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされています。

  • 「金剛峯寺建立修行縁起」では空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(狩場明神という名の神の化身)に出会いました。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げます。言われるままに犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れました。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったといわれます。

    「金剛峯寺建立修行縁起」では空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(狩場明神という名の神の化身)に出会いました。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げます。言われるままに犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れました。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったといわれます。

  • この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されています。神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされます。昨年の高野山の旅では「丹生都比賣神社(にうつひめ)」にも参拝しました。

    この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されています。神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされます。昨年の高野山の旅では「丹生都比賣神社(にうつひめ)」にも参拝しました。

  • 空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西南北にそれぞれ7里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としました。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させて結界内に不浄なものを入れないために密法の法により結界を張ったとされます。

    空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西南北にそれぞれ7里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としました。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させて結界内に不浄なものを入れないために密法の法により結界を張ったとされます。

  • 高野山全域の結界の中に更に2重の結界が張られ、その2重の結界内部はのちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされます。結界内には開創以来、次の4つの禁が明治まで続きました。<br />1.肉や魚を持ち込まない。食べない。<br />2.女人禁制。<br />3.遊芸に関わる鳴り物をしない。<br />4.鶏と猫を飼わない。

    高野山全域の結界の中に更に2重の結界が張られ、その2重の結界内部はのちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされます。結界内には開創以来、次の4つの禁が明治まで続きました。
    1.肉や魚を持ち込まない。食べない。
    2.女人禁制。
    3.遊芸に関わる鳴り物をしない。
    4.鶏と猫を飼わない。

  • 女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した明治39年の1906年のことだそうです。日本には現在も4カ所の女人禁制の地が残っています。その中の1つの大峰山はここからも近い場所にあります。50年ほど前に山伏の方々と「西の覗き」などの山岳修行をした懐かしい場所でもあります。

    女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した明治39年の1906年のことだそうです。日本には現在も4カ所の女人禁制の地が残っています。その中の1つの大峰山はここからも近い場所にあります。50年ほど前に山伏の方々と「西の覗き」などの山岳修行をした懐かしい場所でもあります。

  • 遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として豊臣秀吉の話は有名です。母の大政所の三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲いました。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝えられています。<br />鶏と猫は禁じていますが犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためといわれます。

    遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として豊臣秀吉の話は有名です。母の大政所の三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲いました。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝えられています。
    鶏と猫は禁じていますが犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためといわれます。

  • 「奥殿」の前に広がる「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」が作庭されたのは弘法大師御入定1150年の昭和59年の1984年で、新別殿とともに施工されました。2,340平方メートルという広さの一面は京都の白川砂で埋められています。

    「奥殿」の前に広がる「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」が作庭されたのは弘法大師御入定1150年の昭和59年の1984年で、新別殿とともに施工されました。2,340平方メートルという広さの一面は京都の白川砂で埋められています。

  • その雲海の中央に浮かぶ「奥殿」を守り囲むように龍の如く曲線を描いた石組が特徴的です。その石組には空海の出身地である四国の花崗岩が使われているそうです。勅使門を挟んで2匹の龍が向かい合ったように配置されています。

    その雲海の中央に浮かぶ「奥殿」を守り囲むように龍の如く曲線を描いた石組が特徴的です。その石組には空海の出身地である四国の花崗岩が使われているそうです。勅使門を挟んで2匹の龍が向かい合ったように配置されています。

  • 奥の一番手前に立てられた岩は雄の龍の頭だそうです。そう聞かされて見てみると少し左を向いて頭を立てているようです。

    奥の一番手前に立てられた岩は雄の龍の頭だそうです。そう聞かされて見てみると少し左を向いて頭を立てているようです。

  • 雌の龍の頭は向こうを向いているので、顔のように見えるかは確認できません。

    雌の龍の頭は向こうを向いているので、顔のように見えるかは確認できません。

  • 雲間から体をくねらせて中に浮かぶ龍の姿に見えてきました。ただ蟠龍(ばんりゅう)はとぐろを巻いた龍のことです。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍のことなので、白川砂は雲を表しているのではないのかもしれません。

    雲間から体をくねらせて中に浮かぶ龍の姿に見えてきました。ただ蟠龍(ばんりゅう)はとぐろを巻いた龍のことです。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍のことなので、白川砂は雲を表しているのではないのかもしれません。

  • 雌の龍の体は「奥殿」への渡り廊下まで続いています。尾の辺りは大雨の水に浸かっています。かえって龍たちに命が吹き込まれたように見えました。

    雌の龍の体は「奥殿」への渡り廊下まで続いています。尾の辺りは大雨の水に浸かっています。かえって龍たちに命が吹き込まれたように見えました。

  • 「奥書院」の中庭には梯子が掛けられていました。「本殿」の屋根の上には天水桶が置かれてあったので、そのための梯子だと思われます。

    「奥書院」の中庭には梯子が掛けられていました。「本殿」の屋根の上には天水桶が置かれてあったので、そのための梯子だと思われます。

  • 「本殿」の中の座敷の襖絵は撮影禁止でしたが、千住博の奉納した「断崖図」と「瀧図」は撮影が可能でした。

    「本殿」の中の座敷の襖絵は撮影禁止でしたが、千住博の奉納した「断崖図」と「瀧図」は撮影が可能でした。

  • 撮影禁止の部屋の中には豊臣秀次自刃の部屋も残されていました。案内の看板を見たときには歴史の一場面に立ち会ったような気分になりました。<br />豊臣秀次は豊臣秀吉の姉の長男で、子の無い秀吉の跡を継ぎ関白になりました。秀吉は豊臣政権の後継者として秀次にすべてを譲るつもりでいたようですが、自分に子(秀頼)が出来たことで次第に秀次が邪魔な存在になっていきます。突如に謀反の疑いありということで申し開きの場もあたえないまま高野山への追放命令を出します。

    撮影禁止の部屋の中には豊臣秀次自刃の部屋も残されていました。案内の看板を見たときには歴史の一場面に立ち会ったような気分になりました。
    豊臣秀次は豊臣秀吉の姉の長男で、子の無い秀吉の跡を継ぎ関白になりました。秀吉は豊臣政権の後継者として秀次にすべてを譲るつもりでいたようですが、自分に子(秀頼)が出来たことで次第に秀次が邪魔な存在になっていきます。突如に謀反の疑いありということで申し開きの場もあたえないまま高野山への追放命令を出します。

  • 追放理由は謀反の疑いの他にも「辻斬りをした。」「正親町上皇が亡くなっても喪に服さず食肉をした。」「鹿狩りをした。」などがあげられていますが、どれもいわれのないもののようです。文禄4年の1595年の7月、秀次は追い立てられるように数名の家臣のみを連れ高野山に入ります。数日過ごした後に秀吉からの切腹命令が下り、金剛峰寺の前身である「青巌寺」の柳の間にて秀次は切腹して果てました。

    追放理由は謀反の疑いの他にも「辻斬りをした。」「正親町上皇が亡くなっても喪に服さず食肉をした。」「鹿狩りをした。」などがあげられていますが、どれもいわれのないもののようです。文禄4年の1595年の7月、秀次は追い立てられるように数名の家臣のみを連れ高野山に入ります。数日過ごした後に秀吉からの切腹命令が下り、金剛峰寺の前身である「青巌寺」の柳の間にて秀次は切腹して果てました。

  • 弘法大師空海により開創されて1200年の記念に令和2年の2020年に茶の間には全長16メートルを越す「断崖図」が奉納されました。

    弘法大師空海により開創されて1200年の記念に令和2年の2020年に茶の間には全長16メートルを越す「断崖図」が奉納されました。

  • 「囲炉裏の間」には全長25メートルを越す「瀧図」で覆われています。

    「囲炉裏の間」には全長25メートルを越す「瀧図」で覆われています。

  • 昨日見てきた「那智大滝」とは違った横に広がる滝です。

    昨日見てきた「那智大滝」とは違った横に広がる滝です。

  • 「囲炉裏の間」は別名「土室(つちむろ)」といい、弘法大師自筆の愛染明王が祀られています。

    「囲炉裏の間」は別名「土室(つちむろ)」といい、弘法大師自筆の愛染明王が祀られています。

  • ようやく「本堂」を一周してきました。「中門」の裏側は「台所」になっていました。

    ようやく「本堂」を一周してきました。「中門」の裏側は「台所」になっていました。

  • 赤い漆喰で固められた巨大な竈には大きな鍋や釜が並べられています。

    赤い漆喰で固められた巨大な竈には大きな鍋や釜が並べられています。

  • その上部には煙突の役目をする設備があります。実際に使われていた頃の真っ黒い煤が残っています。

    その上部には煙突の役目をする設備があります。実際に使われていた頃の真っ黒い煤が残っています。

  • 神棚の下の紅白の紙は「宝来」と言って、しめ縄の代わりに掛ける縁起物です。空海が中国からもたらしたもので、高野山には農地がなく、注連縄を作る稲わらを入手するのが難しいことから、この宝来を神棚や床の間や玄関などに掛けます。基本的には正月に掛け替え、一年中掛けておくところがほとんどです。

    神棚の下の紅白の紙は「宝来」と言って、しめ縄の代わりに掛ける縁起物です。空海が中国からもたらしたもので、高野山には農地がなく、注連縄を作る稲わらを入手するのが難しいことから、この宝来を神棚や床の間や玄関などに掛けます。基本的には正月に掛け替え、一年中掛けておくところがほとんどです。

  • 天井から吊られた棚の下の段には食べ物を置きました。上の段の周囲に貼られた白い紙はネズミが食べ物に伝われないようにするネズミ返しです。

    天井から吊られた棚の下の段には食べ物を置きました。上の段の周囲に貼られた白い紙はネズミが食べ物に伝われないようにするネズミ返しです。

  • 鳥居の下の「宝来」は「たま」と呼ばれる宝珠で、仏様が手に持っている「願いをかなえる宝の珠」のことです。ここでも神仏習合の名残りを感じます。

    鳥居の下の「宝来」は「たま」と呼ばれる宝珠で、仏様が手に持っている「願いをかなえる宝の珠」のことです。ここでも神仏習合の名残りを感じます。

  • 「金剛峯寺」の参拝が終わりました。この1年の願いがようやく叶った気がします。

    「金剛峯寺」の参拝が終わりました。この1年の願いがようやく叶った気がします。

  • 「下紋」の表側に回って写真を撮っておきます。

    「下紋」の表側に回って写真を撮っておきます。

  • 帰る段になって急に雨が強くなってきました。予定ではこのまま「壇上伽藍」まで歩くはずでしたが、あまりに雨が強いので駐車場に戻ってバスで移動することになりました。

    帰る段になって急に雨が強くなってきました。予定ではこのまま「壇上伽藍」まで歩くはずでしたが、あまりに雨が強いので駐車場に戻ってバスで移動することになりました。

  • 「大玄関」の上部には曽我蕭白(そが しょうはく)の雲竜図のような龍が天を見上げています。この龍が雨を降らせているのだなと感じました。

    「大玄関」の上部には曽我蕭白(そが しょうはく)の雲竜図のような龍が天を見上げています。この龍が雨を降らせているのだなと感じました。

  • 「金剛峯寺」の参拝が終わりました。参拝に来たときは暗くて分かりませんでしたし、土砂降りの雨の中で写真を撮っていても気が付きませんでしたが。

    「金剛峯寺」の参拝が終わりました。参拝に来たときは暗くて分かりませんでしたし、土砂降りの雨の中で写真を撮っていても気が付きませんでしたが。

  • この時期御開帳された弘法大師像が見送ってくれているような気になりました。急いでバスに戻り、最後の「壇上伽藍」の参拝に向かいます。

    この時期御開帳された弘法大師像が見送ってくれているような気になりました。急いでバスに戻り、最後の「壇上伽藍」の参拝に向かいます。

  • まずは全員で「金堂」の裏側の軒下でガイドさんの説明を聞きます。1時間ほどの自由時間になり、それぞれで「壇上伽藍」を参拝することになります。「御影堂」は昨年の夜の参拝で来たときに吊られた灯篭が輝いてきれいだったことを思い出します。

    まずは全員で「金堂」の裏側の軒下でガイドさんの説明を聞きます。1時間ほどの自由時間になり、それぞれで「壇上伽藍」を参拝することになります。「御影堂」は昨年の夜の参拝で来たときに吊られた灯篭が輝いてきれいだったことを思い出します。

    壇上伽藍 寺・神社・教会

  • 「御影堂」はもともと空海の持仏堂として十大弟子の1人である僧都(そうづ)が建立し、後に真如親王直筆の弘法大師御影像を奉安して御影堂と名付けられました。外陣には弘法大師の十大弟子像が掲げられている「壇上伽藍」でも随一の聖地です。

    「御影堂」はもともと空海の持仏堂として十大弟子の1人である僧都(そうづ)が建立し、後に真如親王直筆の弘法大師御影像を奉安して御影堂と名付けられました。外陣には弘法大師の十大弟子像が掲げられている「壇上伽藍」でも随一の聖地です。

  • かなりの土砂降りになっているので誰も雨宿りしている軒下から出ようとしません。

    かなりの土砂降りになっているので誰も雨宿りしている軒下から出ようとしません。

  • とりあえず正面側に回って堂内を参拝しようと思います。この「金堂」の内陣も昨年は夜間の参拝だったので入ることが出来ませんでした。

    とりあえず正面側に回って堂内を参拝しようと思います。この「金堂」の内陣も昨年は夜間の参拝だったので入ることが出来ませんでした。

  • 唐で修行した空海が大同元年の806年に帰国する際に日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵」を投げました。帰国後にその三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたといわれます。こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなり、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰をあつめています。普通の松の葉は2葉か5葉ですが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっており、肌身につけると御利益があると言われています。母の実家から京都の永観堂へ行くときに祖父から本堂の奥に3葉の松があると教えてもらったことを思い出しました。

    唐で修行した空海が大同元年の806年に帰国する際に日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵」を投げました。帰国後にその三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたといわれます。こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなり、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰をあつめています。普通の松の葉は2葉か5葉ですが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっており、肌身につけると御利益があると言われています。母の実家から京都の永観堂へ行くときに祖父から本堂の奥に3葉の松があると教えてもらったことを思い出しました。

  • 真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたことから「根本大塔(こんぽんだいとう)」と呼ばれています。本尊は大日如来で周りには金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。

    真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたことから「根本大塔(こんぽんだいとう)」と呼ばれています。本尊は大日如来で周りには金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。

  • ここも昨年は参拝することが出来なかったので願いが叶った思いがします。写真で見るのとは違った迫力に圧倒されました。堂内は写真撮影禁止でした。

    ここも昨年は参拝することが出来なかったので願いが叶った思いがします。写真で見るのとは違った迫力に圧倒されました。堂内は写真撮影禁止でした。

    金堂 名所・史跡

  • 現在の「金堂」の建物は7度目の再建で昭和7年の1932年に再建されています。内部の壁画は岡倉天心に師事した木村武山(ぶざん)の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来は高村光雲の手によるものです。こちらも堂内は写真撮影禁止でした。

    現在の「金堂」の建物は7度目の再建で昭和7年の1932年に再建されています。内部の壁画は岡倉天心に師事した木村武山(ぶざん)の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来は高村光雲の手によるものです。こちらも堂内は写真撮影禁止でした。

  • 少し雨が小降りになってきたので「壇上伽藍」の他のお堂も参拝することにします。

    少し雨が小降りになってきたので「壇上伽藍」の他のお堂も参拝することにします。

  • 「六角経蔵」は鳥羽法皇の皇后であった美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。

    「六角経蔵」は鳥羽法皇の皇后であった美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。

  • この六角経蔵は別名「荒川経蔵」といいます。時計回りに回転させ、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えました。今回は1人で回してみると、何とか2周することが出来ました。今まで一番大きかったのは中国の雲南省の香格里拉の独克宋古城の「大佛寺」の巨大なマニ車でした。こちらでは「オム・マニ・ペメ・フム」というチベット仏教の真言を唱えました。

    この六角経蔵は別名「荒川経蔵」といいます。時計回りに回転させ、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えました。今回は1人で回してみると、何とか2周することが出来ました。今まで一番大きかったのは中国の雲南省の香格里拉の独克宋古城の「大佛寺」の巨大なマニ車でした。こちらでは「オム・マニ・ペメ・フム」というチベット仏教の真言を唱えました。

  • 「中門」まで降りて見ることにします。天保14年の1843年に焼失した後、平成27年の2015年の「高野山開創1200年記念大法会」に向けた再建計画が成るまでは基壇のみの姿のままで放置されていました。高野山開創1200年記念大法会に際し再建されました。

    「中門」まで降りて見ることにします。天保14年の1843年に焼失した後、平成27年の2015年の「高野山開創1200年記念大法会」に向けた再建計画が成るまでは基壇のみの姿のままで放置されていました。高野山開創1200年記念大法会に際し再建されました。

  • 「増長天像」<br />像の姿には様々な表現がありますが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されます。胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色で、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれますが、この像では剣を持っていません。

    「増長天像」
    像の姿には様々な表現がありますが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されます。胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色で、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれますが、この像では剣を持っていません。

  • 胸にとまった鬼ヤンマは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味が込められています。

    胸にとまった鬼ヤンマは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味が込められています。

  • 「広目天像」<br />持物は古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現されました。これは主に天平時代までの表現とされます。密教の胎蔵界曼荼羅では体色は赤色で、右手は三鈷戟を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿、また羂索を持った姿で表されることもあります。胸元の蝉は「蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退ける」という意味合いがあります。

    「広目天像」
    持物は古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現されました。これは主に天平時代までの表現とされます。密教の胎蔵界曼荼羅では体色は赤色で、右手は三鈷戟を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿、また羂索を持った姿で表されることもあります。胸元の蝉は「蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退ける」という意味合いがあります。

  • 「持国天像」<br />持物は刀の場合が多く、胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれます。中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表されるのが違います。中国を旅していて四天王のアトリビュートが違うことに驚いたことがあります。

    「持国天像」
    持物は刀の場合が多く、胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれます。中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表されるのが違います。中国を旅していて四天王のアトリビュートが違うことに驚いたことがあります。

  • 「多聞天像」<br />仏力は四天王の中でもっとも強く、手に持つ戟(げき)もしくは鉾を持ち、自らが持つ圧倒的な力で業魔を降伏します。1尊で表される場合は毘沙門天と呼ばれます。

    「多聞天像」
    仏力は四天王の中でもっとも強く、手に持つ戟(げき)もしくは鉾を持ち、自らが持つ圧倒的な力で業魔を降伏します。1尊で表される場合は毘沙門天と呼ばれます。

  • 増長天像と広目天像が現代の大仏師の松本明慶により新造され、天保14年に類焼をまぬがれた多聞天像と持国天像の二天像と共に四天王像が中門と伽藍全域を守護しています。本当はこのまま周辺に買い物に行きたいところですが、そんな時間は残っていません。

    増長天像と広目天像が現代の大仏師の松本明慶により新造され、天保14年に類焼をまぬがれた多聞天像と持国天像の二天像と共に四天王像が中門と伽藍全域を守護しています。本当はこのまま周辺に買い物に行きたいところですが、そんな時間は残っていません。

    中門 名所・史跡

  • 昨年は3本だった角塔婆は2本になっていました。内容も弘法大師の誕生1250年の記念と御影堂の屋根瓦の落慶のものでした。

    昨年は3本だった角塔婆は2本になっていました。内容も弘法大師の誕生1250年の記念と御影堂の屋根瓦の落慶のものでした。

  • 「愛染堂」<br />建武元年の1334年に後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で後醍醐天皇の御等身といわれています。この堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年の1848年に再建されたものです。

    「愛染堂」
    建武元年の1334年に後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で後醍醐天皇の御等身といわれています。この堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年の1848年に再建されたものです。

  • 「不動堂」<br />建久8年の1197年に鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷(現在の金輪塔の付近)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。堂の四隅はすべて形が違い、4人の工匠がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。

    「不動堂」
    建久8年の1197年に鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷(現在の金輪塔の付近)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。堂の四隅はすべて形が違い、4人の工匠がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。

  • 「東塔」<br />大治2年の1127年に白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王の二体も脇侍として祀られました。天保14年の1843年に焼失してから再建されず、140年たった昭和59年の1984年にようやく再建されました。

    「東塔」
    大治2年の1127年に白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王の二体も脇侍として祀られました。天保14年の1843年に焼失してから再建されず、140年たった昭和59年の1984年にようやく再建されました。

  • 「三昧堂」<br />済高(さいこう)座主が延長7年の929年に建立された堂で、もともと総持院境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、「三昧堂」と呼ばれるようになりました。

    「三昧堂」
    済高(さいこう)座主が延長7年の929年に建立された堂で、もともと総持院境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、「三昧堂」と呼ばれるようになりました。

  • 「西行桜」<br />歌人としても有名な西行法師は久安5年の1149年の32歳のころから30年間にわたって高野山に草庵を結びました。高野山では大会堂と三昧堂の造営と移築に尽力しました。三昧堂の移築に際し西行法師によって植えられた桜といわれます。

    「西行桜」
    歌人としても有名な西行法師は久安5年の1149年の32歳のころから30年間にわたって高野山に草庵を結びました。高野山では大会堂と三昧堂の造営と移築に尽力しました。三昧堂の移築に際し西行法師によって植えられた桜といわれます。

  • 「大会堂」の本尊は阿弥陀如来です。阿弥陀如来と併せて阿弥陀三尊といわれる脇侍(きょうじ)でもある「勢至菩薩(せいしぼさつ)」「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」が祀られています。

    「大会堂」の本尊は阿弥陀如来です。阿弥陀如来と併せて阿弥陀三尊といわれる脇侍(きょうじ)でもある「勢至菩薩(せいしぼさつ)」「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」が祀られています。

  • 菩薩の中には単独で祭祀される場合もありますが、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍として必ず脇に配されます。障子の開口から中を覗くことが出来ます。

    菩薩の中には単独で祭祀される場合もありますが、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍として必ず脇に配されます。障子の開口から中を覗くことが出来ます。

  • 迎えに来たバスに乗り込んで「高野山」を後にします。ここからは一路「関西国際空港」へ向かうだけです。

    迎えに来たバスに乗り込んで「高野山」を後にします。ここからは一路「関西国際空港」へ向かうだけです。

  • 4日間で和歌山県を走り回ったツアーで視野が、充実した内容だったので申し込んで良かったと思います。

    4日間で和歌山県を走り回ったツアーで視野が、充実した内容だったので申し込んで良かったと思います。

  • 添乗員さんが心配していた空港への橋もスムーズに通過することが出来ました。

    添乗員さんが心配していた空港への橋もスムーズに通過することが出来ました。

  • 和歌山県方面は厚い雲に覆われています。前半の3日間は最高の天気で良かったです。最終日も雨のおかげで人の少ない高野山を参拝することが出来ました。

    和歌山県方面は厚い雲に覆われています。前半の3日間は最高の天気で良かったです。最終日も雨のおかげで人の少ない高野山を参拝することが出来ました。

  • あっという間に「関西国際空港」に到着です。

    あっという間に「関西国際空港」に到着です。

  • 東京に住んでいるとほとんど来ることの少ない空港です。これまでに3回か4回しか利用したことがありません。

    東京に住んでいるとほとんど来ることの少ない空港です。これまでに3回か4回しか利用したことがありません。

  • ターミナルビルの表には人の気配もありません。

    ターミナルビルの表には人の気配もありません。

    関西国際空港 空港

  • JALのカウンターで添乗員さんが搭乗手続きをするのを待ちながら荷物のパッキングを済ませます。桃がつぶれないように持って帰らなければなりません。面白い添乗員さんともここでお別れです。8月に乗るダイヤモンド・プリンセスの情報もいろいろいただけました。

    JALのカウンターで添乗員さんが搭乗手続きをするのを待ちながら荷物のパッキングを済ませます。桃がつぶれないように持って帰らなければなりません。面白い添乗員さんともここでお別れです。8月に乗るダイヤモンド・プリンセスの情報もいろいろいただけました。

  • にもrつを預けてセキュリティを通過した後の「ぼてじゅう」で晩御飯を食べることにしました。飲食店が少ないので15分ほど並ばなければなりませんでした。

    にもrつを預けてセキュリティを通過した後の「ぼてじゅう」で晩御飯を食べることにしました。飲食店が少ないので15分ほど並ばなければなりませんでした。

    ぼてぢゅう 関西国際空港店 グルメ・レストラン

  • せっかく大阪を通過するのですから関西らしいものを食べたいです。「とんぺい」も東京ではなかなか食べる機会がありません。

    せっかく大阪を通過するのですから関西らしいものを食べたいです。「とんぺい」も東京ではなかなか食べる機会がありません。

  • 「ねぎ焼き」も東京ではあまりお目にかからないメニューです。一昨年の秋に大阪へ行った際に新梅田食道街の「Sakura」で食べた「ねぎ焼き」の味が忘れられません。

    「ねぎ焼き」も東京ではあまりお目にかからないメニューです。一昨年の秋に大阪へ行った際に新梅田食道街の「Sakura」で食べた「ねぎ焼き」の味が忘れられません。

  • 「ミックスお好み焼き」の3品を一気に食べてしまいました。

    「ミックスお好み焼き」の3品を一気に食べてしまいました。

  • 生ビールと3品で5,940円とお手頃な晩御飯でした。

    生ビールと3品で5,940円とお手頃な晩御飯でした。

  • 羽田行きの便はこの日の最終便です。到着も少し遅れたので出発も少し遅れました。

    羽田行きの便はこの日の最終便です。到着も少し遅れたので出発も少し遅れました。

  • 定刻でも池袋行きのリムジンバスはすでにありませんでした。次に近いのが新宿なので、新宿行きのリムジンバスに乗って4日間の旅が終わりました。

    定刻でも池袋行きのリムジンバスはすでにありませんでした。次に近いのが新宿なので、新宿行きのリムジンバスに乗って4日間の旅が終わりました。

    羽田空港 第1旅客ターミナル 空港

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2023紀伊半島の旅

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