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ツアー3日目の午後は再び「那智大滝」方面に戻ります。午前中に参拝した「那智大滝」のさらに奥にある「熊野那智大社」と「青岸渡寺」の参拝に移ります。ここへは25年前にも来たはずなのですが、全くといっていいほど記憶が残っていません。参道を登っていれば記憶も甦るかと思いましたが、あまりの暑さでそれどころではありませんでした。「熊野那智大社」までは延々と石段を登り、登り切ったところに境内が広がっています。「熊野那智大社」は熊野三山の中でも「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社」の二社とは異なり、山中の「那智大滝」を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後のようです。当初は「那智大滝」の正面にある「飛瀧神社」の地に社殿があったそうです。そのまま社殿が残されていれば、こんな石段を登らなくて済んだのだと思います。ツアーの参加者の年齢層は我々より高いのですが、いつも我々は置いていかれてしまうほど皆さんお元気でした。境内に入りってまずは右手の本殿を参拝します。続いて正面にある五殿を参拝し、護摩木を持って「樟霊社(しょうれいしゃ)」と呼ばれる巨大なクスノキの洞の中を通り抜けます。何か生まれ変わったような気分でしたが、穴のサイズがぎりぎりで通れないのではないだろうかと心配になりました。生まれたときに4,200グラムと大きかったので母からは「新生児室に並んでいる子供の中で二回り大きくて恥ずかしかった。」といわれたことを思い出しました。ここでも護符を購入しようと思ったのですが、「飛龍神社」のものと同じだということで買いませんでした。続いて隣接する「青岸渡寺」に参拝します。ここは横にスライドするだけで上り下りが無くてよかったです。まずは本堂で参拝します。明治時代の神仏習合が廃されると、熊野三山の他の2つ「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社」では仏堂は全て廃されましたが「熊野那智大社」では如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため破却はせずにしておかれました。明治7年の1874年に古くからの信者らによって「熊野那智大社」から天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興しました。寺号は豊臣秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の「青巌寺」に由来するといわれます。参拝の後は境内の展望台から三重塔と「那智大滝」を望みましたが、ようやくこの景色を眺めることが出来たという思いでした。参拝を終えると登ってきた参道を下るミッションが残っています。この下り道も日影はなく蒸し暑さには閉口しました。表参道の下りの石段も終わるころに数頭の鹿の姿を見ることが出来ました。集合場所の「那智山観光センター」では自動販売機で買った飲み物を一気飲みしてバスに乗り込みます。

トラピックス 聖地高野山 総本山金剛峯寺・熊野三山 紀伊半島10の世界遺産(6)灼熱の参道を登り熊野那智大社と青岸渡寺を参拝する。

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2023/06/29 - 2023/06/29

183位(同エリア213件中)

旅行記グループ 2023紀伊半島の旅

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kojikoji

kojikojiさん

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ツアー3日目の午後は再び「那智大滝」方面に戻ります。午前中に参拝した「那智大滝」のさらに奥にある「熊野那智大社」と「青岸渡寺」の参拝に移ります。ここへは25年前にも来たはずなのですが、全くといっていいほど記憶が残っていません。参道を登っていれば記憶も甦るかと思いましたが、あまりの暑さでそれどころではありませんでした。「熊野那智大社」までは延々と石段を登り、登り切ったところに境内が広がっています。「熊野那智大社」は熊野三山の中でも「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社」の二社とは異なり、山中の「那智大滝」を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後のようです。当初は「那智大滝」の正面にある「飛瀧神社」の地に社殿があったそうです。そのまま社殿が残されていれば、こんな石段を登らなくて済んだのだと思います。ツアーの参加者の年齢層は我々より高いのですが、いつも我々は置いていかれてしまうほど皆さんお元気でした。境内に入りってまずは右手の本殿を参拝します。続いて正面にある五殿を参拝し、護摩木を持って「樟霊社(しょうれいしゃ)」と呼ばれる巨大なクスノキの洞の中を通り抜けます。何か生まれ変わったような気分でしたが、穴のサイズがぎりぎりで通れないのではないだろうかと心配になりました。生まれたときに4,200グラムと大きかったので母からは「新生児室に並んでいる子供の中で二回り大きくて恥ずかしかった。」といわれたことを思い出しました。ここでも護符を購入しようと思ったのですが、「飛龍神社」のものと同じだということで買いませんでした。続いて隣接する「青岸渡寺」に参拝します。ここは横にスライドするだけで上り下りが無くてよかったです。まずは本堂で参拝します。明治時代の神仏習合が廃されると、熊野三山の他の2つ「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社」では仏堂は全て廃されましたが「熊野那智大社」では如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため破却はせずにしておかれました。明治7年の1874年に古くからの信者らによって「熊野那智大社」から天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興しました。寺号は豊臣秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の「青巌寺」に由来するといわれます。参拝の後は境内の展望台から三重塔と「那智大滝」を望みましたが、ようやくこの景色を眺めることが出来たという思いでした。参拝を終えると登ってきた参道を下るミッションが残っています。この下り道も日影はなく蒸し暑さには閉口しました。表参道の下りの石段も終わるころに数頭の鹿の姿を見ることが出来ました。集合場所の「那智山観光センター」では自動販売機で買った飲み物を一気飲みしてバスに乗り込みます。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
3.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • 「那智ねぼけ堂」でお昼を食べた後は再び熊野川をさかのぼって、「那智大滝」を通り過ぎてその奥にある「那智山観光センター」の駐車場でバスを降ります。

    「那智ねぼけ堂」でお昼を食べた後は再び熊野川をさかのぼって、「那智大滝」を通り過ぎてその奥にある「那智山観光センター」の駐車場でバスを降ります。

    那智山観光センター お土産屋・直売所・特産品

  • ここから1時間40分の自由時間になり、「熊野那智大社」と「青岸渡寺」の参拝に向かいます。ここまでの参拝と違って、いきなり長い石段が見えてきます。

    ここから1時間40分の自由時間になり、「熊野那智大社」と「青岸渡寺」の参拝に向かいます。ここまでの参拝と違って、いきなり長い石段が見えてきます。

  • 表参道の登り口には郵便局があり、ポストに絵葉書を投函します。

    表参道の登り口には郵便局があり、ポストに絵葉書を投函します。

  • ツアーの参加者は我々よりも年上の方ばかりですが、皆さんお元気でさっさと階段を登って行かれます。我々は後ろからのんびりついていくことにします。

    ツアーの参加者は我々よりも年上の方ばかりですが、皆さんお元気でさっさと階段を登って行かれます。我々は後ろからのんびりついていくことにします。

  • 参道には土産物屋が並んでいますが、立ち寄っている時間も余裕もありません。

    参道には土産物屋が並んでいますが、立ち寄っている時間も余裕もありません。

  • 「熊野那智大社」境内に向かう途中の中ほどに樹齢約450年とされる和歌山県指定天然記念物のモッコクの大樹がありました。樹高10メートルで幹周り1.8メートルとのことです。大社経営の宿泊所龍泉閣の庭園は、もとは実方院といい、「青岸渡寺」の<br />尊勝院とともに熊野御幸の際に上皇が宿泊所として使用されたところです。

    「熊野那智大社」境内に向かう途中の中ほどに樹齢約450年とされる和歌山県指定天然記念物のモッコクの大樹がありました。樹高10メートルで幹周り1.8メートルとのことです。大社経営の宿泊所龍泉閣の庭園は、もとは実方院といい、「青岸渡寺」の
    尊勝院とともに熊野御幸の際に上皇が宿泊所として使用されたところです。

    實法院跡 名所・史跡

  • 我々ツアーの痕には参拝する人もいないのか、人の気配は感じられません。太陽光線を避ける場所もなくものすごい蒸し暑さです。この和歌山の旅の後は福島県の「相馬野馬追」の祭りにも行きますし、8月にはダイヤモンド・プリンセスの祭り巡りのクルーズも控えています。日傘や手r持ちの扇風機以上の対策を考えないとならないと感じました。

    我々ツアーの痕には参拝する人もいないのか、人の気配は感じられません。太陽光線を避ける場所もなくものすごい蒸し暑さです。この和歌山の旅の後は福島県の「相馬野馬追」の祭りにも行きますし、8月にはダイヤモンド・プリンセスの祭り巡りのクルーズも控えています。日傘や手r持ちの扇風機以上の対策を考えないとならないと感じました。

  • 湧き水で冷やされたラムネが美味しそうです。こんな売り方も最近は見掛けなくなりました。子供の頃は1本30円くらいだった記憶があります。

    湧き水で冷やされたラムネが美味しそうです。こんな売り方も最近は見掛けなくなりました。子供の頃は1本30円くらいだった記憶があります。

  • 参道に並ぶ店にも人の気配は感じられません。これだけ暑いといつ来るか分からないお客を待って店頭にはいられないと思います。

    参道に並ぶ店にも人の気配は感じられません。これだけ暑いといつ来るか分からないお客を待って店頭にはいられないと思います。

  • ようやく「熊野那智大社」への参道と西国第一番札所の「青岸渡寺」の分かれ道にたどり着きました。

    ようやく「熊野那智大社」への参道と西国第一番札所の「青岸渡寺」の分かれ道にたどり着きました。

  • まずは「熊野那智大社」の参拝に向かいます。「熊野那智大社」は熊野三山の中でも昨日参拝した「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社の2社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは後になります。当初は那智滝の正面にある現在の「飛瀧神社」の地に社殿があったそうです。

    まずは「熊野那智大社」の参拝に向かいます。「熊野那智大社」は熊野三山の中でも昨日参拝した「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社の2社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは後になります。当初は那智滝の正面にある現在の「飛瀧神社」の地に社殿があったそうです。

    熊野那智大社 寺・神社・教会

  • 現在も「飛龍神社」後に社殿があれば、こんなところまで登ってこなくてもよかったのにと思います。手水舎にはあじさいのフローティングフラワーがあり、涼しげな雰囲気を醸しています。

    現在も「飛龍神社」後に社殿があれば、こんなところまで登ってこなくてもよかったのにと思います。手水舎にはあじさいのフローティングフラワーがあり、涼しげな雰囲気を醸しています。

  • 最近はこのような花が増えたように感じます。それにしても色とりどりの美しいあじさいでした。

    最近はこのような花が増えたように感じます。それにしても色とりどりの美しいあじさいでした。

  • 涼しげに思えたのも束の間で、再び長い石段が続いています。ツアーの方々の姿はもうありません。

    涼しげに思えたのも束の間で、再び長い石段が続いています。ツアーの方々の姿はもうありません。

  • 子供の頃に母の実家の京都へ行った際に、伯母の住んでいる清水の「茶わん坂」にも泊まっていました。現在は駐車場への自動車道路でしたが、その当時は石段が続いていました。その急な石段を斜めに登ると歩きやすいと教わったことを思い出します。

    子供の頃に母の実家の京都へ行った際に、伯母の住んでいる清水の「茶わん坂」にも泊まっていました。現在は駐車場への自動車道路でしたが、その当時は石段が続いていました。その急な石段を斜めに登ると歩きやすいと教わったことを思い出します。

  • 妻にとっての熊野三山参拝は命がけになってきました。登り切ったところでようやく平らな玉垣の内に至ります。

    妻にとっての熊野三山参拝は命がけになってきました。登り切ったところでようやく平らな玉垣の内に至ります。

  • 玉垣内には礼殿から見て正面に五殿、左側に一殿が造営されています。正面五殿には各一柱、左の一殿を八社殿と称し、八柱の神々をお祀りしています。<br />

    玉垣内には礼殿から見て正面に五殿、左側に一殿が造営されています。正面五殿には各一柱、左の一殿を八社殿と称し、八柱の神々をお祀りしています。

  • 主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、イザナミノミコト)で、熊野三山の他の二山と違い「熊野大瀧」の神を併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。元々は「熊野大瀧」の近くで祀られていましたが、約1,700年前に現在の場所に遷りました。

    主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、イザナミノミコト)で、熊野三山の他の二山と違い「熊野大瀧」の神を併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。元々は「熊野大瀧」の近くで祀られていましたが、約1,700年前に現在の場所に遷りました。

  • 本殿に近い右から「第一殿 瀧宮(大己貴神)」「第二殿 証誠殿(家都御子大神)」「第三殿 中御前(御子速玉大神)」「第四殿 西御前(熊野夫須美大神)」「第五殿 若宮(天照大神)」「第六殿 八社殿(天神地祗)」が並びます。

    本殿に近い右から「第一殿 瀧宮(大己貴神)」「第二殿 証誠殿(家都御子大神)」「第三殿 中御前(御子速玉大神)」「第四殿 西御前(熊野夫須美大神)」「第五殿 若宮(天照大神)」「第六殿 八社殿(天神地祗)」が並びます。

  • 八咫烏(やたがらす)は熊野の神様の使いである三本足の烏です。より良い方向へ導く導きの神とされ、「熊野那智大社」の境内にある「御縣彦社(みあがたひこしゃ)」も祀られています。御祭神の建角見命(たけつぬみのみこと)は神武天皇の神武東征の際に八咫烏に化身して先導した神様です。<br />

    八咫烏(やたがらす)は熊野の神様の使いである三本足の烏です。より良い方向へ導く導きの神とされ、「熊野那智大社」の境内にある「御縣彦社(みあがたひこしゃ)」も祀られています。御祭神の建角見命(たけつぬみのみこと)は神武天皇の神武東征の際に八咫烏に化身して先導した神様です。

  • 参拝を終えて社務所で護符を購入しようと思ったのですが、「飛龍神社」のものと同じだということで買いませんでした。

    参拝を終えて社務所で護符を購入しようと思ったのですが、「飛龍神社」のものと同じだということで買いませんでした。

  • 「樟霊社(しょうれいしゃ)」は樹齢850年と推定され楠で、樹高は27メートル、幹回り約8.5メートルあり、御神木として祀られています。平重盛の御手植と伝わっています。平重盛は清盛の嫡男であったにもかかわらず、父よりも先に亡くなっています。

    「樟霊社(しょうれいしゃ)」は樹齢850年と推定され楠で、樹高は27メートル、幹回り約8.5メートルあり、御神木として祀られています。平重盛の御手植と伝わっています。平重盛は清盛の嫡男であったにもかかわらず、父よりも先に亡くなっています。

  • 今回の旅でも「闘鶏神社」や「大門坂」でも楠の巨木を見てきましたが、環境のせいかこの楠が一番迫力がある枝ぶりでした。

    今回の旅でも「闘鶏神社」や「大門坂」でも楠の巨木を見てきましたが、環境のせいかこの楠が一番迫力がある枝ぶりでした。

  • 当時の熊野三山造営奉行だった平重盛は「熊野速玉大社」の「梛(なぎ)の御神木」も植えています。

    当時の熊野三山造営奉行だった平重盛は「熊野速玉大社」の「梛(なぎ)の御神木」も植えています。

  • 枝張りは南北に25メートルもあり、県指定の天然記念物になっています。那智川の谷の向こうの山まで伸びていきそうに思えます。<br />

    枝張りは南北に25メートルもあり、県指定の天然記念物になっています。那智川の谷の向こうの山まで伸びていきそうに思えます。

  • この楠は幹の根元が空洞になっていて中を通り抜けることが出来るようです。

    この楠は幹の根元が空洞になっていて中を通り抜けることが出来るようです。

  • ここでも護摩木を求めて中に入ることにします。この空洞をくぐり抜けるのが「樟霊社胎内くぐり」といい、無病息災や長寿を願う方に崇められているそうです。平重盛は病没していますが、胃潰瘍とも背中の腫瘍が原因と伝えられています。還暦を過ぎて願うは無病息災ばかりです。

    ここでも護摩木を求めて中に入ることにします。この空洞をくぐり抜けるのが「樟霊社胎内くぐり」といい、無病息災や長寿を願う方に崇められているそうです。平重盛は病没していますが、胃潰瘍とも背中の腫瘍が原因と伝えられています。還暦を過ぎて願うは無病息災ばかりです。

  • 確かに胎内くぐりという名にふさわしい木のムロです。これだけ空洞になって良く枝葉をのばせると思います。子供の頃に筑波山へ家族旅行に行ったときにも巨岩の胎内くぐりを通ったことがありました。

    確かに胎内くぐりという名にふさわしい木のムロです。これだけ空洞になって良く枝葉をのばせると思います。子供の頃に筑波山へ家族旅行に行ったときにも巨岩の胎内くぐりを通ったことがありました。

  • 出口の穴は体ぎりぎりだったので、思い出したことがありました。生まれたときに4,200グラムと大きかったので母からは「新生児室に並んでいる子供の中で二回り大きくて恥ずかしかった。」とよく言われました。

    出口の穴は体ぎりぎりだったので、思い出したことがありました。生まれたときに4,200グラムと大きかったので母からは「新生児室に並んでいる子供の中で二回り大きくて恥ずかしかった。」とよく言われました。

  • 「熊野那智大社」の参拝を終えて隣接する「青岸渡寺」の参拝に移ります。

    「熊野那智大社」の参拝を終えて隣接する「青岸渡寺」の参拝に移ります。

  • 明治時代になり神仏習合が廃されると、熊野三山の他の2つの「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」では仏堂は全て廃されましたが、「熊野那智大社」では「如意輪堂」が有名な西国三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却はせずにしておかれました。ただ、仏像や仏具は「補陀洛山寺」などに移されて空堂とされました。

    明治時代になり神仏習合が廃されると、熊野三山の他の2つの「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」では仏堂は全て廃されましたが、「熊野那智大社」では「如意輪堂」が有名な西国三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却はせずにしておかれました。ただ、仏像や仏具は「補陀洛山寺」などに移されて空堂とされました。

    那智山青岸渡寺 寺・神社・教会

  • 明治7年の1874年に古くからの信者らによって「熊野那智大社」から天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興しました。寺号は豊臣秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来するといわれます。「如意輪堂」の名の通り如意輪観世音菩薩が祀られています。

    明治7年の1874年に古くからの信者らによって「熊野那智大社」から天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興しました。寺号は豊臣秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来するといわれます。「如意輪堂」の名の通り如意輪観世音菩薩が祀られています。

  • 西国三十三所には縁があるようですが、参拝したことがあるのは京都周辺の寺院だけです。今回は紀三井寺(金剛宝寺)の近くまで行きながら参拝できなかったのが残念です。

    西国三十三所には縁があるようですが、参拝したことがあるのは京都周辺の寺院だけです。今回は紀三井寺(金剛宝寺)の近くまで行きながら参拝できなかったのが残念です。

  • 山号の那智山の扁額が掲げられています。

    山号の那智山の扁額が掲げられています。

  • 御詠歌の「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」を唱えてみます。ご詠歌(ごえいか)は仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌と成し、旋律=曲に乗せて唱えるもので、日本仏教において平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の1つです。

    御詠歌の「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」を唱えてみます。ご詠歌(ごえいか)は仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌と成し、旋律=曲に乗せて唱えるもので、日本仏教において平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の1つです。

  • 巡礼歌の起源は花山法皇の西国巡礼時に始まったとされますが、観音三十三所諺註が最初とするものも有力とされているようです。

    巡礼歌の起源は花山法皇の西国巡礼時に始まったとされますが、観音三十三所諺註が最初とするものも有力とされているようです。

  • 境内にはタブノキ(通称:犬樟)の巨木がありました。こちらは樹齢700年といわれています。イヌグスとしては全国屈指の巨木だそうです。

    境内にはタブノキ(通称:犬樟)の巨木がありました。こちらは樹齢700年といわれています。イヌグスとしては全国屈指の巨木だそうです。

  • そして目の前の展望台からは有名な景色が望めます。「青岸渡寺」の三重塔は500年前に制作された「那智参詣曼荼羅」にも描かれています。戦国時代の内戦のさなか天正9年の1581年に焼失しましたが、昭和47年の1972年に再建されました。

    そして目の前の展望台からは有名な景色が望めます。「青岸渡寺」の三重塔は500年前に制作された「那智参詣曼荼羅」にも描かれています。戦国時代の内戦のさなか天正9年の1581年に焼失しましたが、昭和47年の1972年に再建されました。

  • 各階に異なる仏の像が安置されていて、1階には那智の滝にまつわる多くの伝説に登場する不動明王、2階には西方の極楽浄土に住まう阿弥陀如来、3階には慈悲の菩薩である飛瀧権現本地千手観音が祀られています。

    各階に異なる仏の像が安置されていて、1階には那智の滝にまつわる多くの伝説に登場する不動明王、2階には西方の極楽浄土に住まう阿弥陀如来、3階には慈悲の菩薩である飛瀧権現本地千手観音が祀られています。

    那智山青岸渡寺三重塔 名所・史跡

  • 「那智大滝」も「飛龍神社」のある滝壺の高さではなく、滝の落ち口の高さに近いので、また違った景色を楽しむことが出来ます。

    「那智大滝」も「飛龍神社」のある滝壺の高さではなく、滝の落ち口の高さに近いので、また違った景色を楽しむことが出来ます。

  • 下からでは見えなかった滝の落ち口の奥までが見えました。この注連縄をかけ替えるのも命がけのように思えました。

    下からでは見えなかった滝の落ち口の奥までが見えました。この注連縄をかけ替えるのも命がけのように思えました。

  • 水の流れは龍が昇っているように見えました。

    水の流れは龍が昇っているように見えました。

  • ここで熊野三山の参拝は終わりなので石段を登ることもありません。

    ここで熊野三山の参拝は終わりなので石段を登ることもありません。

  • 望遠レンズを使って滝と同じくらいの大きさで記念写真を撮りました。

    望遠レンズを使って滝と同じくらいの大きさで記念写真を撮りました。

  • 「青岸渡寺」の境内にも熊野古道が通っているのが分かります。家に帰ったら熊野古道のルートをちゃんと調べてみようと思いました。

    「青岸渡寺」の境内にも熊野古道が通っているのが分かります。家に帰ったら熊野古道のルートをちゃんと調べてみようと思いました。

  • 空を表す宝珠と滝を重ねてみました。あまりの暑さに三重塔までは足を延ばしませんでしたが、ここからは太平洋も見えるそうなのでちょっと残念だった気がします。

    空を表す宝珠と滝を重ねてみました。あまりの暑さに三重塔までは足を延ばしませんでしたが、ここからは太平洋も見えるそうなのでちょっと残念だった気がします。

  • 「見晴亭」の縁台で冷たい飲み物をいただいてクールダウンします。しばらく休憩させていただきます。

    「見晴亭」の縁台で冷たい飲み物をいただいてクールダウンします。しばらく休憩させていただきます。

    見晴亭 グルメ・レストラン

  • 青岸渡寺の鐘は鎌倉時代に鋳造されたもので、庇の大きな鐘楼が印象的です。この鐘楼は時を告げるために撞くことはできません。寺院によっては撞くことが出来ますが、参拝後につく鐘は「戻り鐘」といわれ、功徳が消え縁起が悪いとされます。

    青岸渡寺の鐘は鎌倉時代に鋳造されたもので、庇の大きな鐘楼が印象的です。この鐘楼は時を告げるために撞くことはできません。寺院によっては撞くことが出来ますが、参拝後につく鐘は「戻り鐘」といわれ、功徳が消え縁起が悪いとされます。

  • 最後はバスまでの下りの石段が続きます。

    最後はバスまでの下りの石段が続きます。

  • 現在は「青岸渡寺」の山門になっていますが、以前は「熊野那智大社」の大門であり、熊野古道の「大門坂」にあったために大門坂の名前の由来でもありました。昭和8年1933年に「大門坂」から500メートルほど登った地にあった門を現在の地に移設されました。

    現在は「青岸渡寺」の山門になっていますが、以前は「熊野那智大社」の大門であり、熊野古道の「大門坂」にあったために大門坂の名前の由来でもありました。昭和8年1933年に「大門坂」から500メートルほど登った地にあった門を現在の地に移設されました。

  • 先ほどの分岐点まで戻ってきました。

    先ほどの分岐点まで戻ってきました。

  • 表参道を下る段になって、ようやく周辺のお店を見る余裕が出てきました。

    表参道を下る段になって、ようやく周辺のお店を見る余裕が出てきました。

  • 囲碁の歴史は非常に古く、中国では紀元前1100年頃、日本でも大宝年間の700年頃から楽しまれていたとも言われています。蛤で碁石(?棋子)を作るようになったのは17世紀後半で、それまでは天然の白い石と黒い石を使用していました。宮崎県日向市の蛤が碁石の原料として見出されたのは明治の中ごろで、富山の薬売りが日向の蛤を大阪に持ち帰ったのがきっかけです。明治41年に大阪の碁石職人が移り住んでから日向での蛤碁石の製造が始められるようになり、現在はここでしか製造されていないようです。

    囲碁の歴史は非常に古く、中国では紀元前1100年頃、日本でも大宝年間の700年頃から楽しまれていたとも言われています。蛤で碁石(?棋子)を作るようになったのは17世紀後半で、それまでは天然の白い石と黒い石を使用していました。宮崎県日向市の蛤が碁石の原料として見出されたのは明治の中ごろで、富山の薬売りが日向の蛤を大阪に持ち帰ったのがきっかけです。明治41年に大阪の碁石職人が移り住んでから日向での蛤碁石の製造が始められるようになり、現在はここでしか製造されていないようです。

  • 那智黒石は平安時代にはすでに硯の材料として使用されていたとされますが、黒碁石として広く用いられるようになったのは明治20年頃以降です。名称に「那智」を含んでおり、主に熊野那智大社周辺で販売されていますが、産出地は那智勝浦町ではなく、三重県の熊野市神川町周辺です。黒色で緻密なことから金属の条痕色が判別しやすいため試金石として用いられます。

    那智黒石は平安時代にはすでに硯の材料として使用されていたとされますが、黒碁石として広く用いられるようになったのは明治20年頃以降です。名称に「那智」を含んでおり、主に熊野那智大社周辺で販売されていますが、産出地は那智勝浦町ではなく、三重県の熊野市神川町周辺です。黒色で緻密なことから金属の条痕色が判別しやすいため試金石として用いられます。

  • 表参道の石段の脇には二ホンジカの姿が見えました。野生のシカですが人間を見慣れているのかすぐ近くにいます。

    表参道の石段の脇には二ホンジカの姿が見えました。野生のシカですが人間を見慣れているのかすぐ近くにいます。

  • 3月の道東の旅ではエゾシカを探しても姿を見ることはまれでしたが、ここで間近に見ることが出来るとは思いませんでした。

    3月の道東の旅ではエゾシカを探しても姿を見ることはまれでしたが、ここで間近に見ることが出来るとは思いませんでした。

  • 鹿たちも暑いのか日影のコンクリートに背中を当てて涼んでいるようです。

    鹿たちも暑いのか日影のコンクリートに背中を当てて涼んでいるようです。

  • 我々のツアーと入れ違いにHISのツアーが登っていきましたが、すぐに人々の姿は消えてしまいました。

    我々のツアーと入れ違いにHISのツアーが登っていきましたが、すぐに人々の姿は消えてしまいました。

  • 「那智山観光センター」縫い戻って自動販売機で飲み物を買って500ミリリットルを一気飲みしました。落ち着いたところで絵葉書を1枚書きます。

    「那智山観光センター」縫い戻って自動販売機で飲み物を買って500ミリリットルを一気飲みしました。落ち着いたところで絵葉書を1枚書きます。

    那智山観光センター お土産屋・直売所・特産品

  • 熊野辺りでは古いポスターのデザインを流用した絵葉書がたくさんありました。記憶には残っていませんが、南紀白浜辺りを初めて旅したのは昭和37年の1962年でした。古い写真を見ているとこの絵ハガキのような時代だったのではないかと思えました。

    熊野辺りでは古いポスターのデザインを流用した絵葉書がたくさんありました。記憶には残っていませんが、南紀白浜辺りを初めて旅したのは昭和37年の1962年でした。古い写真を見ているとこの絵ハガキのような時代だったのではないかと思えました。

  • 今回お世話になった熊野観光のバスです。ドライバーのおっちゃんは気さくで面白い方でした。吉本新喜劇の池乃めだかみたいな火事です。運転も上手で道を良く知っているので安心して乗っていられました。

    今回お世話になった熊野観光のバスです。ドライバーのおっちゃんは気さくで面白い方でした。吉本新喜劇の池乃めだかみたいな火事です。運転も上手で道を良く知っているので安心して乗っていられました。

  • 路線バスに乗って熊野古道を歩いてみようと本気で考えだし始めました。妻は絶対に行かないと思うので弟を誘って、涼しい時期に計画してみます。

    路線バスに乗って熊野古道を歩いてみようと本気で考えだし始めました。妻は絶対に行かないと思うので弟を誘って、涼しい時期に計画してみます。

  • これでツアー3日目の観光は全て終わり、バスは「橋杭岩」のホテルまで戻ります。「那智大滝」もこれが見納めです。

    これでツアー3日目の観光は全て終わり、バスは「橋杭岩」のホテルまで戻ります。「那智大滝」もこれが見納めです。

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2023紀伊半島の旅

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