2023/04/06 - 2023/04/06
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kojikojiさん
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別府3日目の朝はさわやかでした。前日までの小雨模様の空は東へ過ぎ去り、青空が覗いています。朝食をとった後は急いで別府駅まで出て、普通列車で大分駅を経由して臼杵駅まで移動します。駅の改札を出ると構内に観光案内所があり、10分後に出るバスの出発まで臼杵の観光案内のパンフレットや地図をいただけました。とても親切な女性でバス停へ向かう我々を見送ってくださいました。港の方からやってきたバスに乗って「臼杵石仏」まで移動します。駅からは「旧臼杵城址」を回り込んで、臼杵川に沿って上流へ向かいます。途中フンドーキンの醤油工場が見えました。ここで初めて気が付きましたが、ロゴマークが重りの分銅の中に金と書かれていたので漢字で書くと「分銅金」でした。20分ほどで「臼杵石仏」のバス停に到着しました。「臼杵石仏事務所」でチケットを購入してトイレを借りて先へ進みます。小川に沿って上流へ向かうと入り口があり、ここで竹の杖を借りることが出来ました。ここから先は杖があった方が便利な場面はあったので、脚の痛い妻は助かったようです。臼杵石仏と書かれた石碑の前で写真を撮っていると、料金所の女性が出てきてシャッターを押してくださいました。空いていて誰もいないのでなせる業ですが、臼杵の方の親切はこの後も続きました。オフシーズンなのか我々以外に見学されているのは数人見掛けただけでした。ここは長年来たかった場所なので、少々気が抜けた気もします。「ホキ石仏第1群」から「ホキ石仏第2群」、急な坂を登った先にある「中尾五輪塔」の見学もします。「山王山石仏」を参拝する頃にはかなりの疲れがたまってきます。「古園石仏」から「臼杵石仏公園」を見下ろすとかつてはここに巨大な受けがあったのであろうことが想像できました。公園を抜けると芝桜がきれいに咲いています。ハード型の巨大な花壇になっていましたが、半分は花が無かったのが残念です。「満月寺」に参拝し、石仏や日吉塔を見学して鐘楼で鐘を撞くことも出来ました。石仏のある盆地に鐘の音が響き渡る様はちょっと感動的でもありました。まだこんな古き良き日本が残っているのだと感激しました。見学を終えて料金所に杖を返しに行き、絵葉書を買ってスタンプを押して臼杵駅へ戻るバスを待ちます。市内へ戻ってお昼を食べた後は市内の観光へ移ります。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス タクシー JALグループ JR特急 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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別府3日目は前日と変わって天気が回復したようです。
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周囲は明るくなってきましたが、街自体はまだ眠ったようです。それでも別府駅を発着すっ列車が時折通過していきます。
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「鉄輪温泉」の周辺はきれいに蒸気が上がっています。
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高温の温泉のj水蒸気と山から湧き出る霧が混ざってより美しい姿です。
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「グローバルタワー」もくっきり見えました。
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それよりも野焼きを終えたばかりの真っ黒な扇山はしっとりとした姿を見せてくれています。この山が燃える姿を見てみたかったです。
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国東半島はこの時が一番きれいに見えました。
亀の井ホテル 別府 宿・ホテル
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朝食を食べ終えてホテルの裏口から表に出ると昨日まできれいに咲いていた桜もすっかり散っていました。
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日課の絵葉書も別府駅から投函します。
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この日は日豊本線に乗って大分経由で臼杵まで移動します。日豊本線は小倉駅と鹿児島駅を結ぶ九州の東海岸を縦断する路線です。
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この時は特急列車には乗らないと思っていましたが、帰りに乗ることが出来ました。
別府駅 (大分県) 駅
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駅の構内には豊後絞りと別府絞りの展示がありました。といっても布が4枚掛けられただけでしたが。
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豊後絞りは豊後国高田荘で鎌倉時代に相模国から地頭として下向した三浦氏の一族によって、室町時代後期に木綿の栽培が始められ、江戸時代初期にはこの三浦木綿を絞り染めの技法を用いて藍染めしたものが「豊後絞り」の始まりのようです。
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大分県内の別府で行われている別府絞り(地獄絞り)は豊後絞りの系統に属するとされ、明治の中ごろ豊後絞りが絶える頃に始まり、温泉客の土産物として発展したもので、現在も小規模ながら生産が続けられています。
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ホームに上がると大分行きの特急ソニック1号が停車していました。今日の目的地の臼杵はその先なので次の普通列車に乗ることにします。
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ホームのベンチもこんな感じで温泉をイメージしています。
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ホームから見えた焼酎の二階堂の看板には真っ赤に燃える扇山の姿がありました。たった1日ずれただけで真っ黒な山肌しか見えませんでした。
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今年就航したばかりの新しい「さんふらわあ」の看板に旅に誘われているような気分になります。
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普通列車が入線してきました。九州の列車は原色を使ったカラフルなものが多いです。
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車内もおしゃれなカラーリングです。通勤通学の時間のようでしたが、それほどの混雑ではなかったのでずっと座ることは出来ました。
大分駅 駅
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日豊本線は単線なので普通列車は何度も途中駅で通過列車のための待ち時間がありました。
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のどかな風景の中での特急の通過待ちも良いものです。
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ソメイヨシノは終わりが近づいていましたが、八重桜はまだこれからが見頃のようです。
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別府から臼杵までは普通列車で1時間10分で到着しました。駅では記念に切符をいただき、構内の観光案内で地図やバスの時刻表をいただきました。小さなカウンターが1台置かれただけの案内所でしたが、係の女性がとても親切に説明してくださいました。
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バスが10分後には出発なのでゆっくりする時間が無く、お礼を言って表に出ます。駅前にはこれから行く「臼杵石仏」のレプリカが置かれてありました。
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バスはすぐにやってきました。ここではSUICAが使えないので整理券を取っておきます。1000円札は車内で両替できました。
臼杵駅 駅
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駅の案内所でパンフレットをいただいたので車内で勉強しておきます。
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車内は家に帰る高校生が2人と我々だけがお客で、前に座っているのはバス会社の方でした。
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バスは「臼杵城址」の丘を大きく回り込んで臼杵川に出ます。そのまま20分ほどで「臼杵石仏」に到着しました。
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「臼杵石仏事務所」でチケットを購入して、トイレにも寄っておきます。ここで失敗したのは近くにある「臼杵焼 atelierSARAYAMA」の存在を知らなかったことです。昼前に寄った「臼杵市観光交流プラザ」で器を見て、お昼を食べた「山田屋」では食後のケーキのお皿に使われていました。
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料金所からは小さい川沿いに進むと入り口が見えてきました。
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入り口では竹の杖が置かれてあり、借りることが出来ました。杖が必要なほど急な山道なのだろうかと心配になりましたが、実際はそれほどでもありませんでした。
国宝臼杵石仏 名所・史跡
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妻の写真を撮っていると小屋からおばさんが出てきてシャッターを押してくれました。空いていたので出てきてくれたのですが、臼杵の方のホスピタリティはこの後も感じることが出来ました。
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参道の途中には臼杵市とスリランカのキャンディー市の姉妹都市提携の記念植樹の泰山木がありました。スリランカには2週間ほど旅したことがあり、キャンディにも2日間程滞在しました。歯仏寺に参拝したことや街中を練り歩くキャンディアン・ダンスの集団に出会ったことを思い出します。
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入り口からはゆっくりとした坂道が続き、すぐに最初の「ホキ石仏第二群」のお堂が見えてきました。「臼杵石仏」は四群61体の磨崖仏の総称で、 国の特別史跡に指定され、そのうち59体が国宝に指定されています。 磨崖仏が国宝に指定されたのは日本で初めての事です。
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参道からは梅の古木がたくさん見えました。残念ながら時期は過ぎてしまっていますが、白い花を咲かせるようです。
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高台まで上がってくると眼下に「臼杵石仏公園」が見えてきます。ここにはハート型に芝桜が植えられていてピンク色の花を咲かせています。その向こうには満開の桜と「満月寺」が見えます。後で知りますが、この公演の部分は昔は大きな池だったそうです。
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「ホキ石仏第二群」 に到着しました。ホキ石仏第二群は第一龕と第二龕から構成され、 磨崖仏に向かって左が第一龕で右が第二龕です。ホキとは「崖」という意味の地名で、 龕(がん)とは断崖を掘って仏像などを安置する場所の事です。
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中央に九品(くほん)の阿弥陀像が刻まれており、 その両脇には1体ずつの菩薩立像が配されています。9体の阿弥陀如来像は比較的小さく、 中央の阿弥陀如来像だけが座像で、両脇に4体ずつの立像を配しています。
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脇には天部の不動明王の座像も残されています。三昧耶形は右手の利剣(倶利伽羅剣)で、左手の羂索は確認できませんでした。
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死後の世界の極楽浄土には9つの階層(九品)があり、往生には「九品往生」、極楽には「九品浄土」そして阿弥陀如来にも九品の弥陀(九品仏)などといった区分を見ることができます。
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九品仏は「上品」、「中品」、「下品」、さらに「上生」、「中生」、「下生」が組み合わさり、9種の違った印相をしているはずですが、細かくは確認できません。
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中央の阿弥陀如来坐像は胴体の部分が欠損していますが、顔から肩にかけて往時の色彩が残っているようです。
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ホキ石仏第二群第一龕には阿弥陀如来坐像を中心に、左に勢至菩薩立像、右に観音菩薩立像を配しています。阿弥陀三尊ともにふっくらとした体で、非常に状態良く残っています。
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それぞれの本尊や三尊の前には線香が置かれてあります。30円なので全部の仏さまに線香をあげてきました。
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「阿弥陀如来坐像」
阿弥陀如来は大乗仏教の如来の1つで、浄土教系の仏教では「南無阿弥陀仏」という念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰を説きます。 -
「観音菩薩立像」
浄土教では観無量寿経の説くところにより、阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることが多いです。単体での観世音菩薩は衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれています。西国三十三所観音霊場や京都の三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来しています。 -
顔には古い着色の跡が良く残っています。以前に兵馬俑博物館へ行ったときに、地中から発掘されたばかりの俑は極彩色だと知りました。それが空気に触れると退色してしまうというのは驚きでした。
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「勢至菩薩立像」
阿弥陀三尊の右脇侍で観無量寿経の中には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名づく」とあり、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、その亡者を仏道に引き入れて正しい行いをさせる菩薩とされます。三昧耶形は未敷蓮華(ハスの蕾)なので、右手にはそんな彫刻があったのではないかと想像します。 -
現在も覆屋が設けてありますが、ここに置かれている岩は鎌倉時代の覆屋の礎石だそうです。現在の新しいものを建設中に発見されたそうです。
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ホキ石仏第二群から奥に進むとさらに山が険しくなってきます。
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日本の原風景のような新緑の美しい季節です。
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ホキ石仏第一群の参拝に移ります。上り下りが多いので足の悪い人にはしんどい場所です。
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ホキ石仏第一群第二龕
第二龕はホキ石仏第一群の中心にあり、 第一龕と同じく如来三尊坐像が刻まれています。 左から薬師如来、本尊は阿弥陀如来、右には釈迦如来の坐像3体の右側に愛染明王坐像が配されています。 -
本尊の阿弥陀如来はかなりの彩色が残っています。あまり特徴のない普通の光背も残っています。放射光背の場合の線の数は一般に48本で、阿弥陀如来の四十八願を表現しています。この光背は「アミダクジ」の元になっていて、クジの線が阿弥陀如来の光背に似ているため阿弥陀籤という名前になったといわれています。
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釈迦如来は歴史的に実在した仏陀であり、仏教の開祖である釈迦を尊ぶ呼び名です。ミャンマーのバガンを旅した際に、釈迦とそれ以前にこの世に現れて人々を教化したという3人のブッダ(悟りを開いた人)、倶留孫(くるそん)、倶那含牟尼(くなごんむに)、迦葉(かしょう)を併せて祀った寺院を巡ったことを思い出します。
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NHKの「美の回廊をいく」という番組を見てカンボジアのアンコールワット、スリランカの寺院、ボロブドゥール、バンコクやスコータイなどタイの寺院、ベトナムのフエ、ミャンマーのバガンを旅しましたが、まだまだ訪ねていない遺跡が日本にありました。
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ホキ石仏第一群第四龕は地蔵菩薩半跏像を中心に、左右に5体ずつの十王立像を配しています。石仏は小ぶりですが着色も良く残っていて、欠損も殆どなく状態の良い物です。
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地蔵は釈迦入滅のときにその依嘱を受けて弥勒出世まで六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の衆生を済度教化する菩薩とされます。六道をつかさどるために地蔵は6体で表され六地蔵と呼ばれます。
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左右の十王像は初七日を司る泰広王(不動明王)、二七日を司る初江王(釈迦如来)、三七日を司る宗帝王(文殊菩薩)、四七日を司る五官王(普賢菩薩)、五七日を司る閻魔王(地蔵菩薩) 、六七日を司る変成王(弥勒菩薩)、七七日を司る太山王(薬師如来)です。
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続いて百ヶ日を司る平等王(観音菩薩)、一周忌を司る都市王(勢至菩薩)三回忌を司る五道転輪王(阿弥陀如来)の十王は人間が亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の10人の裁判官です。
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地蔵菩薩は剃髪した僧侶の姿で袈裟を身にまとい、左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印の印相をとる姿です。
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カラフルな色彩を見ているとシンガポールの胡文虎の虎豹別野(ハウ・パー・ヴィラ)で見た、十殿閣羅という中国の十王による裁判のジオラマを見たことを思い出します。
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そしてまだ願いの叶っていない中国の河南省洛陽市の南方にある「龍門石窟」、敦煌の「莫高窟」、山西省大同市街の西方にある「雲岡石窟」にも早い時期に行ってみたいと思っています。
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ホキ石仏第一群第三龕は阿弥陀如来と大日如来と釈迦如来の三尊の坐像を中心に、 脇侍に勢至菩薩立像と観音菩薩立像を配しています。 右端の観音菩薩立像は残念ながら上半身が欠損しています。
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大日如来は「無相の法身と無二無別なり(姿や形の無い永遠不滅の真理そのもの)」という如来の一尊です。仏の悟りの境地そのものである「法身」は色も形もなく、説法もしないとされますが、大日如来は「法身」でありながら説法を行うといわれます。
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大日如来の「智」の面を表したのが金剛界の大日如来であり、「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来であるとされます。この金剛界の智法身と胎蔵界の理法身は一体不可分で、 金剛界の大日如来は智拳印(胸の前で直立した左手の人差指を右手の拳で握るもの)を結んでいます。
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2つの石窟はこのような位置関係になっています。ほんの数メートル離れただけで全く違う世界が広がっています。
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ホキ石仏第一群第一龕は薬師如来と釈迦如来と阿弥陀如来の如来坐像三体を中心に、 両脇に菩薩と観音菩薩の2体の立像を配した5体の石像が刻まれています。
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牛木石仏を参拝する場合には10円玉を200円分ほど持って行った方が良いと思います。30円の線香の束ですが、1か所を参拝すると次々にあげたくなってしまいます。
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臼杵石仏内のホキ石仏第一群のすぐ横から、国指定重要文化財、特別史跡に指定されている五輪塔へ向かう階段があります。その先はずっと急な坂になっていました。
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登った先には中尾五輪塔と呼ばれる石造ぼ五輪塔がおかれてありました。大小2基の阿蘇の熔結凝灰岩で出来た五輪塔です。
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大きいほうは総高1.52メートルあり、地輪は下が広くて上は狭くなっています。外輪は平面が円ではなくて角張っています。地輪に嘉応2年の1170年の刻銘があります。小さい方は総高1.04メートルで、地輪に面取りがあります。この塔には承安2年の1172年の刻銘があります。
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共に平清盛ら平氏の全盛だった平安後期に造立されたもので、刻銘のあるものとしては日本で2番目と3番目に古いものです。
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五輪塔の坂を登らずに先へ進んだ妻の後を追いますが、急坂を登って降りた後なので足がなかなか進みません。
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山王山石仏への道の途中に日吉神社へと続く脇道がありますが、さすがに登ってみようという気は起きません。そのまま左の順路へ進みます。
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「臼杵石仏」の中でこの石仏だけは急な階段を登って石仏の目の前へ行きます。 スロープから拝観する事も可能ですが、石仏をかなり下から見上げますので、全体を見る事は出来ません。
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果たして妻はここを昇り降りしたのだろうかと疑いの心が湧いてきます。
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山王山石仏は中央に伝釈迦如来坐像を置き、左脇侍に阿弥陀如来坐像、右脇侍に伝薬師如来坐像を配した三尊像です。
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右手の施無畏印は人々を安心させ、恐れることはないという意味があります。欠損していますが、左手は仏が人々の願いを聞きとどけ、成就させることを示した印相です。
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幼い童子のような顔ですが、個人的にはこの三尊が一番良いと思えました。
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毎年秋から冬にかけて仏様のクリーニング作業があるそうです。岩には影響のない紫外線をコケやシダなどの植物に照射することで、仏体を傷つけることなく植物を枯らすことができ、植物を枯死させた後には専門家の手作業で植物の除去や植物が生えづらくなる作業を行うそうです。この作業は「国宝臼杵磨崖仏」で全国で初めて技術開発された方法だそうです。
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U字型の散策路を周ってくるとホキ石仏第一群の覆屋がきれいに見えます。これだけの石仏ですが、訪れる人の姿はほとんどありません。
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谷間にはシャガの群生があり、きれいに花を咲かせていました。シャガは中国原産で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物です。種子が発生しない植物なので、日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ち、またその分布の広がりは人為的に行われたようです。
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子供の頃に家族で山へ行った帰りに、通りがかった農家でシャガをいただいたことがありました。母は大切に家に持ち帰り庭に植えましたが、根付くことはありませんでした。
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誰もいない石仏の見学はまだまだ続きます。
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国東半島は神仏習合の発祥の地で、古くからある山岳信仰と宇佐神宮を中心とする八幡信仰に天台宗系の修験と融合した場所ですが、日吉神社も天台宗と深いつながりがあったなと思い出します。
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この階段を見ただけで登ってみようという気持ちにはなれませんでした。先ほどの坂を登った方が良かったかもしれません。
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最後の古園石仏までやってきました。ここに並ぶ2体の金剛力士像は平成29年になってから国宝に指定されました。他の像が昭和27年に指定されているので、かなり遅れての認定です。
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左側の像は欠損していますが、右側の像は良く残されています。像の高さは257センチという巨大なものです。開口の「阿形(あぎょう)」像と、口を結んだ「吽形(うんぎょう)」像の2体を一対とします。この像は「吽形」のようです。
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続く壁にも彩色された跡が残っているので、往時はカラフルな石窟だったのでしょう。
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古園石仏は臼杵石仏の中で最も有名な石仏群で、全13体の石仏が並んでいます。中尊である大日如来坐像は日本の石仏の中でも最高傑作の1つと言われています。
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左から伝宝生如来坐像、伝阿門如来坐像、中央の大日如来坐像、伝無量寿如来坐像、伝不空成就如来坐像と続きます。
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切れ長の伏し目と端正な顔立ちの頭部は、約300年前に崩落してから仏体の下の台座に置かれていたのですが、保存の為の修復によって、平成6年の1994年に元の位置へと復元されました。
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大日如来を中尊に密教曼荼羅を表していて、大日如来が智拳印を結んでいますので、金剛界曼荼羅だとわかります。密教には金剛界と胎蔵界がありますが造立年代は臼杵磨崖仏の中でも最古級で、11世紀後半頃からの作と考えられています。
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13体は以下の通りで、左から伝増長天立像、不動明王坐像、勢至菩薩坐像、伝文殊菩薩坐像、伝宝生如来坐像、伝阿門如来坐像、中央の大日如来坐像、伝無量寿如来坐像、伝不空成就如来坐像、伝普賢菩薩坐像、観音菩薩坐像、伝降三世明王坐像、多聞天立像と続きます。
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有料エリアを出て「臼杵石仏公園」へ芝桜を見に行ってみます。
臼杵 湯の里 宿・ホテル
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この辺りが元々は池だったとは思えませんが、周囲の山と2本の川筋を考えると何となくイメージが出来てきます。
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この地にはかつて真名野長者(まなのちょうじゃ)が屋敷を構えていたといわれます。長者の娘は般若姫といい当代切っての美女として知られていました。その噂は都にまで届き、時の天皇に輿入れすることになります。姫は都へ上るために船で瀬戸内海を進んでいたところ、周防灘で嵐に遭い難破してしまいます。
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水難は一説には真名野長者が開拓のために”埋め立てた沼”の主だった龍の祟りだったともいわれます。姫は現在の山口県柳井市のあたりに漂着します、その地で亡くなってしまいます。長者は姫を弔うために山口に般若寺という寺を、大分には蓮城寺という寺を建立し、屋敷のあったこの深田には磨崖仏を建てたといわれています。
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公園を越えた小川の堤には桜が満開でした。この旅の後は山形の旅が続き、桜を期待していたのですが、数日遅くて見ることは出来ませんでした。
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石仏公園を挟んで向かいの山裾に、「満月寺(まんがつじ)」があります。満月寺は伝説によれば臼杵石仏の縁起に欠かせない真名長者の発願により 三重町内山蓮城寺を開いた蓮城法師によって創建されたとされています。
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境内に山門はありませんが、「仁王像(木原石仏)」が置かれています。翌日の国東半島のツアーでも思いましたが、大分は石造の仁王像が多いように思えました。
満月寺 寺・神社・教会
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臼杵石仏と同じく凝灰岩製で、その膝から下は地面に埋もれています。 阿形の胸部と右手には穴があけられており、 阿形・吽形共に腰を外側に捻っています。 2基共に鼻が欠落しているのは、病気回復の信仰の為に削られたと言われています。
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本堂へ誘うような敷石の上を進みます。参拝した後に境内を見学させていただきます。
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「満月寺」は元々は天台宗の寺院でしたが、大友氏によって荒廃した後に再興して現在は法華宗系の寺院となっています。大友宗麟がキリスト教のために徹底した神社仏閣破の破壊を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向においてで、本拠である豊後や筑後で行われた神社仏閣の破壊は次期当主の義統が行ったようです。
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寺に右側の岸壁にも石仏の姿があります。
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蓮城法師像と真名長者夫婦像は1つの大きな岩の中に2つの穴が掘られ、 向かって左手に蓮城法師像、右手に真名長者夫婦像が安置されています。
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蓮城法師は真名長者のもとで石仏を彫ったといわれる人物です。真名長者(まなのちょうじゃ)夫婦は臼杵石仏を造らせた人物と言われ、 この石像は室町時代に造られました。
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庫裏の左側には石像五重塔がきれいな姿で残っています。塔の銘文から正和4年の1315年に阿闍梨隆尊が先師尊全及び亡き父母のために造立し、作者は日秀という阿闍梨であったことまで分かります。基礎石の4面には宝筺印塔のものに酷似した格狭間(こうざま)が刻まれています。
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奥には鐘楼があり、自由に撞くことが出来ました。お寺の鐘を撞くことはあまりないので、久しぶりに撞いてみるといろいろなことが思い出されました。子供の頃の年末に京都の清水坂の伯母の家で紅白歌合戦を見て、その後に清水寺へ除夜の鐘を撞きに行きました。由紀さおりの「夜明けのスキャット」が流行っていたので、昭和44年の小学校2年生の冬でした。
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鐘の音は石仏を見学しているときも聞こえたので、自分の撞いた鐘の音がそこまで届いていると思うと感慨深いものがありました。
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宝篋印塔(日吉塔) は13世紀後半の鎌倉時代後期の作であり、特別史跡および重要文化財に指定されています。満月寺の守護社である日吉社から通称がつけられたと思われます。また、建立以来この位置を動いていないことが発掘調査で分かっているそうです。
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ここが池だったと考えると極楽浄土のような景色があったのではないかと思えました。入り口に戻り、竹の杖を返してお礼を伝えました。帰りのバスの時間に合わせて、絵葉書を購入してスタンプを押していると時間切れになりました。
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「しぐるるや 石を刻んで 仏となす」
調べてみると昭和4年の12月に種田山頭火は臼杵石仏を訪れているようです。ちょうど父の生まれたころだと思いました。 -
臼杵駅方面へ戻るバスがやってきました。ここから駅方面へ戻ったのは我々と年配の欧米人のご夫婦だけでした。こんなところまでよく旅行されているなと思うと同時に日本を知ってもらいたいと願います。自分もいろいろな所を旅していて、こんなところまでよく来ましたねなんて言われることが多かったのでそう思えたのかもしれません。
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