2022/12/12 - 2022/12/12
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kojikojiさん
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「沖縄ワールド」を午後2時30分に出発して、バスは「ひめゆりの塔」に向かいます。ここへ来るのは初めてのような40年前に会社の社員旅行で来たような気もしますが記憶は定かではありません。ほぼ初めての気持ちで見学した「ひめゆりの塔」は前日見掛けたアメリカ人のマナーの悪さと相まって、悲しく思えました。また、父が60年ほど前に返還前の沖縄へ出張した際の写真にここへ訪れたものがあったと思い出しました。「沖縄海洋博」の際に当時皇太子だった上皇夫妻が過激派に襲われたことは記憶に残っています。その後も「琉球ガラス村」に立ち寄って古いガラス製品を見たり。那覇に入る前は最後の観光地である瀬長島の「ウミカジテラス」に立ち寄りました。ここへ来るのも初めてですが、駐車場から歩いていると次から次に着陸してくる航空機に驚きます。さらに自衛隊機が着陸するシーンは普段見ることが出来ないので興奮します。「ウミカジテラス」自体は面白い商業施設ですが、若者向きの店が多く、通りをぶらぶら眺めて歩くだけでしたが楽しかったです。那覇市内は夕方の交通渋滞で少し時間がかかりましたが、最終日に宿泊する「ヒューイットリゾート那覇」には午後5時頃に到着しました。最終日の晩は自由夕食で、オプションとして国際通りのステーキ店でのディナーというものもありました。今回のツアーを予約した最大の目的は最終日の夕食が付いていないということでもありました。6年前の旅では最終日が日曜日で行きたかった店が休みだったという苦い経験がありました。その店は「美榮」という琉球料理の料亭でした。ここへ母を連れていけなかったのは悲しい思い出になりました。今回は10日ほど前に連絡して予約してありました。ホテルからは沖縄県のクーポン券を使う必要があるので、国際通りを歩いていきました。40年前に仕事したオリオンホテルを越え、平和通りもぶらぶら歩いてみます。牧志公設市場は建設中で中を見ることは出来ませんでした。お土産をいろいろ買いますが、クーポンを使えない店が多くて困ってしまいます。ドン・キホーテの2階で妻が欲しがっていたT-falの鍋セットを買おうとしたらレジの方に「沖縄産のものにしか使えません。」と言われてガッカリ。さらに国際通りを歩いていると古いサンゴの店があり、ご主人と話していると30%オフとのことです。さらに話していると40%割引になり、クーポン券も使えるということで赤サンゴの大きめのピアスを買い求めてクーポン券に悩まされることは無くなりました。少し遅れて到着した「美栄」は思っていた以上の料亭で、個室で最後の晩の食事を楽しめました。重ね重ね母を連れてきてあげられなかったのが残念です。今までも琉球料理を食べたことはありましたが、そのどれとも違った上品な味に魅了され、その出汁の取り方など詳しく教えていただき、楽しい時間が過ごせました。帰りはタクシーを呼んでいただき、沖縄最後の夜は終わりました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス タクシー ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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午後2時を過ぎたあたりで「ひめゆりの塔」に到着しました。近くの優美堂の駐車場から歩きます。何とも昭和の雰囲気の残ったお土産物屋さんが軒を連ねています。
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沖縄には5回来ていますがここへ来るのは初めてのことです。昔のツアーでは天板の立ち寄り先でしたが、最近のツアーでは数少なくなったように思えます。この時は修学旅行の学生がたくさん来ていました。
ひめゆりの塔 名所・史跡
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慰霊碑の名称は当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいます。「ひめゆり」は学徒隊員の母校である沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになったようです。
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沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名と生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しますが、最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊でした。第三外科壕は黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名のうち87名が死亡しました。さらに壕の生存者8名のうち教師1名と生徒2名は壕を脱出後に銃撃を受ける若しくは砲撃を被弾して死亡したとみられます。従って、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名のみでした。
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前日の「大石林山」で出会った不愉快なアメリカ人6人のことが重なってさらに複雑な気持ちになりました。現在の北朝鮮のミサイル発射や中国の海洋進出を考えると地理的には必要悪だと思いますが、基地の負担の無い時代が来ればよいのにと心から願います。
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「ひめゆりの塔」と名はついていますが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはありません。これは終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものだったようです。
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内部は暗く様子を窺い知ることは出来ませんが、この後に入った「ひめゆり平和祈念資料館」の中には第三外科壕を底から見上げた形で原寸大のジオラマが作られてありました。
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ツアーの方々は立派な白い「慰霊碑(納骨堂)」の写真を撮っていますが、実際の「ひめゆりりの塔」はガマの脇に立つ小さなものです。
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「ひめゆり平和祈念資料館」
の中は撮影することは出来ません。飾られた生徒さんの写真パネルを見るとまだあどけない女の子だと分かります。修学旅行の高校生で混雑していて、時間をかけて見学できなかったのは残念ですが、次の時代を担う学生さんに見てもらった方が良いように思います。ひめゆり平和祈念資料館 美術館・博物館
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自分も高校生の時の広島への修学旅行の前に、社会科見学で「丸木美術館」へ行ったり、それなりに思うところがあって「原爆資料館」に行くことが出来ました。そんな45年も前のことを思い出しました。
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資料館の脇には12月だというのにベンガル矢筈葛がきれいに咲いていました。
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たくさんの花が手向けられていました。高校生の修学旅行のコースにも入っているし、沖縄戦のことが風化しないことを祈ります。
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昭和44年の1969年の返還前に父が出張で那覇を訪れていた頃の写真が残っていました。那覇の「琉球タイムス」の建物の中にあった共同通信の事務所の機器などの資産を確認しに行ったのではないかと思われる写真の中に観光した際の物が残されていました。
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その当時の「ひめゆりの塔」の写真もその中に含まれていました。まだ「アメリカ世」の時代です。この7年後の1975年の「海洋博覧会」のタイミングで、皇室として初めて沖縄を訪れた当時の皇太子明仁親王夫妻は献花のために「ひめゆりの塔」を訪ねています。新左翼党派のメンバー計4名が、壕の中から皇太子の足元に向けて火炎瓶を投げるという事件がありました。当時中学生でしたが衝撃的な事件をニュースで見ました。
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写真を見比べてみるとこの像は現在は置かれてありませんし、砂利道もきれいに整備されています。時代の移り変わりを感じますが、たくさんの高校生の姿を見るとまだ日本も大丈夫かなと感じます。ただ、「ひめゆりの塔」だけが有名で、沖縄戦の激戦地だった南部には数々の戦跡が残されていますが、あまりに知られていない気もします。
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しばらくバスに乗って「琉球ガラス村」にも立ち寄りました。ここは工房の見学と買い物だけの立ち寄り先です。
琉球ガラス村 名所・史跡
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「ひめゆりの塔」とのギャップを感じてしまいますが、暗い気持ちはここで切り替えます。
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ガラス工房は休憩時間のようであまり作業は行われていませんでしたが、いくつもある炉からは熱気が伝わってきます。1300℃くらいの温度になっているようです。いくつもの炉を束ねたドームの屋根自体が巨大な炉のように見えます。
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巨大なドーム天井を支える円柱には様々な装飾が施されています。陶器で造られた皿やシーサー、三島手のような印花を押したカラフルなメダルで埋め尽くされています。皿はこの柱の径に合わせて変形して造られています。
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工房の先には巨大なギャラリーがありますが、エントランスには細かいガラスピースが嵌め込まれたモザイクで埋め尽くされています。
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全体を俯瞰で見るよりもこれくらいの距離で見た方が面白いです。
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円形のホールは壁面も天井もステンドグラスで覆われています。バルセロナの「カタルーニャ音楽堂」と言ったらほめ過ぎですが、台湾の高雄の「美麗島駅」には似ているかもしれません。
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ギャラリーはいくつものコーナーに分かれ、作家さんの造られたガラス製品が並んでいますが、欲しいと思えるものは見当たりません。
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以前に那覇の「第一牧志公設市場」の奥の壺屋通りの手間にある「ロードワークス」という琉球張子の店の作品にハマったことがありますが、その後似たようなものが各地で見られるようになりました。
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ピーナッツバターのプランター社のMr.ピーナッツも立体に戻っていました。これは大人の事情もあるのか「ジーマーミー男爵」という名前のようです。
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数多くあると面白いのですが1個買って帰ってもつまらないので触手が動きません。これらは糸満はりこで、「ニャン山糸満工房」というところで製作しています。
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年の瀬も迫ってきたので銀座8丁目の親戚の陶器店へ干支の土鈴を取りに行かなければならないことを思い出しました。
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シーサーの周りの花はどう考えても牡丹ですね。以前行った中国の西安郊外の六営村の泥人形の獅子を思い出します。しばらく仕舞ったままなので来年あたり出してあげなければと思います。
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見事な一対のシーサーが置かれてありました。ちょっと大きすぎる気もしますが迫力もあり、欲しいなと思える一品でした。
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ギャラリーで一番興味深かったのは沖縄のガラスの成り立ちと、この琉球ガラス村の歩みのコーナーでした。
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琉球にガラスが伝わった時期は性格には分からないようですが、1459年委焼失した首里城の遺構からガラス製の小玉の束が出土したことに始まるようです。
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沖縄で初めにガラスがつくられたのは、今からおよそ110年ほど前といわれ、当時は主にランプのほや、つけもの瓶等が型吹きで造られていました。琉球ガラスの色の特徴は、材料になるガラス瓶の廃材の色をそのまま用いるのが基本になっていて、約7種類の色があります。淡水色は一升瓶の色、みどり色は清涼飲料水のセブンアップの瓶の色、茶色はビール瓶の色です。また薄茶色は透明の瓶と茶色の瓶を混ぜた色です。
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戦後の沖縄におけるガラス産業の振興は、疎開先から引きあげてきたガラス職人の人々や、戦前からガラス製造に従事していた人々が、本土から技法をとりいれることからはじまりました。数ある沖縄の伝統工芸のなかで、最も歴史が浅く、新しい工芸品が琉球ガラスです。琉球ガラスが工芸品として脚光をあびたのは戦後、米国駐留軍の需要が多いことがきっかけでした。
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「斤瓶(駄菓子瓶」1950年から60年代
名前からも中国の影響を感じます。1斤は600グラムなので大きい方は2斤になるのだと思います。このような駄菓子瓶は子供の頃にもあったような気がします。 -
「コカ・コーラ瓶とコカ・コーラコップ」
コーラの空き瓶をカットしただけのコップも貴重だった時代があったのだと感じます。それだけ駐留軍と沖縄の住民の方の生活には格差があったのでしょう。 -
復帰前である1972年(昭和47年)以前のガラス製品はその生産の60%を米国に、20%を本土に輸出し、残りの20%が諸島内で販売されました。しかし、諸島内で販売されているガラス製品の顧客のほとんどが米国駐留軍人だったため、当時の製品はすべて米国人の生活様式と好みに合わせてつくられています。たとえば、パンチボールセットやサラダボール、ドレッシング用の瓶、ワイングラス、シャンペングラス、ガラス製の造花等は現在まで引き続き生産されています。
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昭和47年の1972年の本土復帰を契機に国内からの観光客棟の新しい商品が模索されます。グラス類や食器、花瓶やモール瓶などが主流となり、「沖縄寿ガラス工芸社」「親富祖民芸ガラス」「オリエンタル商会」「ぎやまん館」「琉球共栄ガラス工房」などが設立されます。
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何とも味わいのある厚みのある花瓶とカラス口の水差しです。沖縄県から伝統工芸に認定されていますが、国の「伝統的工芸品」には指定されていません。また「民芸」かどうかの評価も揺れたようです。
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60年代に民芸運動を牽引した濱田庄司氏や三宅忠一氏らが高く評価する一方、民芸の条件を満たさないお土産品だと主張する人もいたようです。
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25年前にヴェネツィアのムラーノ島で煎茶に使えそうなグラスを探したことがありました。すべてが脚付きで、思ったようなものは無くてガッカリしました。その日の晩に寝ていると閃くものがあり、慌てて起きてスケッチブックにデザイン画を起こしました。翌朝にヴァポレットに乗ってムラーノ島に行き、ショップの方に見せると簡単に煎茶碗と茶托がオーダーが出来ました。円高のいい時代でした。
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ギャラリーの作品は手が出ませんでしたが、妻は中くらいの使い勝手の良さそうなボウルを買い求めました。ショップからはツアーの全員に箸置きのお土産がありました。
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バスは南部をぐるりとまわって那覇空港近くの瀬長島に入りました。途中には「カニ注意」の看板があります。これはオオガニという種類のカニが道路に現れるからのようです。今年は北海道で「クマ注意!」「鹿注意!」タヌキにキツネの看板も見ました。奄美大島では「アマミクロウサギ注意!」もありました。
瀬長島 自然・景勝地
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瀬長島の駐車場でバスを降りて、30分ほどの自由時間になります。この日の観光はここが最後です。
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那覇空港が目の前なので南から滑走路へ下りる旅客機が数分おきに現れます。
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立ち寄り先は「ウミカジテラス」という商業施設です。ここへ来るのも初めてなので楽しみにしていました。
瀬長島ウミカジテラス ショッピングモール
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4泊5日のツアーも4日目の終わりになり、翌日はあの空港から東京へ戻るのだと思うと寂しい気分になってきます。旅は長くなると長いほど終わりが寂しくなります。最近はコロナ禍で短い国内旅行ですが、1年に2回7週間の旅をしていた頃は旅の終わりは泣きそうになりました。7週間の旅の最初のうちは時間が止まったように感じますが、中間の日を越えると加速したように終わりが近づいてきます。
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人生の折り返し地点もすでに通り過ぎて、残りの年月を考えると行きたいところに行って食べたいものを食べておかないとという強迫観念に近いものを感じます。
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那覇空港は民間の航空機だけでなく自衛隊の機体も見ることが出来ます。
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F-15は航空自衛隊の主力戦闘機として、全国8個の飛行隊と、その他飛行教導隊などに約200機が配備されています。
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エアーブレーキを100%開いた姿がかっこいいです。
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そしてピカチューが着陸します。
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離陸する機体は北へ飛んでいきます。
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「ウミカジテラス」の中を歩いていてもカフェに入るほどの時間は無いし、この後晩御飯もあるのでテイクアウトの何かを買うことも出来ません。
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地形に合わせてステップフロアになった商業施設はよく考えられた設計だと思います。そのすべてが白く塗られているので、ギリシャの島に迷い込んだような気分になれます。
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ミコノス島やサントリーニ島など、旅してきた島々のことを思い出します。
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久し振りにエーゲ海の島々をフェリーで巡りたくなってきました。妻をまだ連れて行っていない島も数多くあります。
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夏の強烈な日差しの中でここへ来るのも良いですが、こんな冬の夕暮れ時も良い雰囲気です。
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「熱帯ドリームセンター」では妻に言われてブーゲンビリアの鉢を貰いましたが、本当はハイビスカスの方が良かったのです。でもそんなことを妻には言えませんでした。
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でも都内のマンションのベランダで1年中表には出しておけないのだと思い諦めます。
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トルコの雑貨のお店だけ中を覗いてみました。カッパドキアのギョレメのカーペットショップのメフメットは元気にしているかと気になりました。コロナ禍の最初の年は何度も連絡を取り合いましたが、2年目以降連絡は途絶えたままです。
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「ウミカジテラス」を出て、那覇市内のホテルに向かいますが、夕方の帰宅の渋滞に巻き込まれて1時間ほどかかりました。
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最終日の那覇の宿泊は国際通りの北の外れの「ヒューイットリゾート那覇」でした。まだ出来たばかりの新しいホテルのようです。
ヒューイットリゾート那覇 宿・ホテル
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ここにも大きなシーサーが鎮座してホテルを守っています。
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添乗員がチェックインの手続きをしている間ロビーで待機です。カードキーとクーポン券を受け取ると我先にエレベーターに向かうので長い列が出来てしまいます。人が引けるまでしばらくロビーでくつろいでいました。
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フロアに上がってみると異様に廊下の照明が暗くてびっくりです。
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部屋は新しいホテルだけに設備も行き届いていてきれいです。コンセントがたくさんあるのがありがたいです。
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独立した洗面台も使いやすいです。
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トイレも独立したタイプです。
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最近の新しいホテルはバスタブと別に洗い場があるタイプなのはありがたいです。特に1週間とか長期滞在するとその便利さを実感します。くつろいでいる時間もあまりないので準備をして出かけます。
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国際通りに出るとすぐに懐かしいホテルが見えてきました。現在は「ホテル・ロイヤル・オリオン」ですが、40年前に出張で来たときは「西武オリオンホテル」でした。西武百貨店とオリオンビールが提携したホテルで、3階には西武のサテライトショップがありました。このホテルの客室の改修を2週間の予定で来たのですが、台風が来ない年で部屋がずっと満室になり、工事が遅れて40日くらいの滞在になりました。
オリオンホテル 那覇 宿・ホテル
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このホテルに1泊3,000円で泊まって3食付きだったので、当時の出張規定でも1日1万円くらいお金が余りました。そこで国際通りにあった「角萬漆器」で懐石盆を5枚オーダーした23歳の秋でした。その当時沖縄の陶器にはあまり興味がなかったのは残念なことで、金城次郎とか島袋常栄とか小橋川仁王とかの作品を買っておかなかったのか後悔しています。
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ツアーの最終日の夕食は含まれていないので、自分たちで予約しておきました。ツアーのオプションもあり、多くの人が国際通りのステーキ屋さんの食事に行ったようです。
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那覇のホテルに着いてからもらったクーポンが2人で6000円分あります。翌日は使う場所が無さそうなので今晩のうちに使う方が良いと添乗員から説明がありました。
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そう思って脇道の「平和通り商店街」入りますが、午後6時近い時間では店のほとんどが閉まっています。以前ジーマーミ―豆腐を買った店も閉まっています。
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「第一牧志公設市場」はまだ工事中で、中に入ることは出来ません。移転先の仮店舗もこの時間では閉まっていそうなので諦めます。
第一牧志公設市場 市場・商店街
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「むつみ橋通り」を抜けて国際通りに戻ることにします。この通りの方がたくさんの店が開いていました。
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食品店で泡盛やら友人のお土産になりそうなものを多少買うことが出来ました。それでもクーポン券は使えません。
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いいアイディアだと思って「ドン・キホーテ」の2階で買い替えようと思っていたT-falの鍋セットを買おうと思いました。ところがレジで「沖縄で造られたものでしか使えません。」と言われてしまいます。コンビニでは使えるのですが…。
35COFFEE (ドンキホーテ国際通り店) グルメ・レストラン
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スッパイマンは甘味料を加えて作った甘梅を乾燥させた干し梅のお菓子です。梅にはさまざまな栄養があり、クエン酸は疲労の蓄積を予防してくれる効果があるといわれています。沖縄の駄菓子屋で子供たちが、タッパーに入った梅干しを食べていたのがスッパイマンの始まりです。でもスッパイマンを6000円も買えません。
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そして妻の大好きな赤サンゴの店を見つけました。ここでなら軽く6000円なんて飛んで行ってしまうでしょう。もう手元にクーポン券を持っているのが嫌になってきました。
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店のご主人は妻の耳元で「30%引きますよ。」なんて甘い言葉をささやきます。沖縄県のクーポン券も使えるとのことです。
大栄サンゴ 専門店
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さらに「40%引きましょう。」といわれ、大きめの赤サンゴのピアスをお買い上げです。何となく妻がお金を払っているようですが本人は1円も出していません。
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クーポン券を使い切ってしまうともう買い物する気力は無くなりました。昔は免税店が立ち並びお酒を売っている店や軍の放出品のようなものを売っている衣料品店が多かったですが、すっかりその姿は変わってしまいました。
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6年前に母と歩いたときにソフトクリームを食べた塩の店も見掛けなかったし、漆器をオーダーした「角萬漆器」も無くなっていました。
御菓子御殿 国際通りむつみ橋店 お土産屋・直売所・特産品
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変わって若者向きのお店ばかりになっている気がします。そんな中でポツンと取り残されたようなサンゴ店で買い物が出来たのは奇跡のような気もします。
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これから晩御飯でなければブルーシールのアイスクリームも食べたいところでした。
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2012年に建て替えられた「那覇市庁舎」のライトアップを撮りたかったのですが時間がありません。東側には建築家 黒川紀章が設計した「沖縄県庁舎行政棟」があります。
沖縄県庁舎 名所・史跡
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午後7時に予約していた「美榮(みえ)」にようやく到着しました。ここは昭和33年の1958年創業の琉球料理の料亭です。
美榮 グルメ・レストラン
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6年前に母と3人出来た旅行では最終日の晩が日曜日でここへ来ることが出来ませんでした。その後は母亡くなってしまったので連れてくることは出来ませんが、ようやく妻と2人で来ることが出来ました。
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「美榮」は最後の琉球国王である尚泰王の四男で美食家だった尚順男爵の料理に所縁のある老舗で、昭和35年の1960年に現在地に店舗兼住宅として新築された建物です。
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玄関は竹貼りの壁の前に沖縄らしい調度品が飾られ、南蛮の壺にはレッド・ジンジャーが生けられています。
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通された座敷は1階の2間のうちの「帳(とばり)」でした。テーブル席なので正座しなくて良いので助かりました。最初は歩いてきて喉が渇いたのでビールをお願いしました。
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「もずくの酢の物」と「雲南百薬」の小鉢からスタートします。新鮮なもずくとコクのある甘酢の具合がよいです。雲南百薬は中国から渡来した野菜で、オカワカメと言った方が分かりやすいですね。少し前に友人からいただいたのですが、ここでいただいて味付けの勉強になりました。
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「東道盆(とぅんだあぶん)七品盛り」の東道盆とは盛り付ける器のことです。2人だとこのような琉球漆器のお盆に盛られますが、大人数だと重箱のような専用の容器に盛られます。一番奥が「ぽうぽう」というメリケン粉を水で溶かし薄く焼き、すり潰した豚肉と白味噌生姜を練ったものを芯にして巻くクレープのような料理です。奥の左から「蒸しかまぼこ」は魚のグルクンのすり身にからし菜の搾り汁を加えて蒸した緑色のかまぼこです。中央が「昆布巻き」で、おもにカジキマグロの身を昆布で巻いて醤油、砂糖、酒で煮付けたものです。右が「カステラかまぼこ」で、魚のグルクンのすり身に卵を加えて焼き上げたかまぼこです。手前が左から「揚げかまぼこ」で、これも魚のグルクンのすり身に人参の細長くすりおろしたものを加え揚げたものです。中央は白身魚に黄身のそぼろをまぶしたもので、右は「牛蒡の肉詰」で、豚肉をチョップしてすり身のようにしたものに人参、椎茸のみじん切し芯をくり貫いた牛蒡に詰めだし汁で煮込んだ手の込んだ料理です。
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お好みでシークワーサーを搾っていただきます。
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ビールの後はKARI(カリー)という「日本ワイン(神戸ワイン/シャルドネ)」をベースに、本部(もとぶ)産のシークワーサーの持つ爽やかでキレのある酸味や香りが調和された辛口のリキュールです。
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壁面の置かれた飾り棚には女将さんの集められた琉球漆器のコレクションの一部が並んでいます。お店の方に伺っているうちに「角萬漆器」の話しになり、国際通りにあったお店が無くなったというと、移転したと教えてくださいました。若い頃に懐石盆を誂えた話をすると喜んでいただけました。
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「んーちゃふぅとぅきー」は沖縄の郷土玩具作家の古倉保文の琉球芸能をテーマにした琉球玩具(土人形)です。踊り3体と演奏2体の5体セットになっています。今にも踊り出しそうな軽やかさがあり、琉球の着物らしく鮮やかで大胆な着色も美しい土人形です。左から太鼓を持った「ちじん」、「かあちゃしー」はリズムに合わせて頭の上で手を左右にヒラヒラさせる踊りです。中央は「ぬふぁ節」で、伊野波節「女笠踊」の踊り、「むんじゅる」という麦わらを小道具にした踊り、さんしん(三線:さんしん)の5人になります。
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「なかみの吸いもの」が出てきました。立派な琉球漆器の椀に入ってきました。蓋には松と梅があしらわれています。”なかみ”とは豚の胃と腸のことです。材料の性質上、この吸いものを作るにはたいへん手数がかかるそうです。何度も水洗いをした後にあぶら身を除き、オカラをまぶしてよく揉み、アクをとってからオカラを洗い流します。
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次に九年母(くねんぼ:沖縄の柑橘)の皮、生姜とともに煮て臭いを消し、さらに洗いなおして短冊に刻み、鰹節と肉ダシで吸いものに煮込みます。そのため”なかみ”は柔らかくなり、誰にでも好まれる琉球料理の代表といわれております。香料としては、沖縄特産の「フイフアチ」という胡椒のようなスパイスが癖になります。
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「芋くずあんだぎい」
沖縄の田舎風の食べ物です。いもくずとはさつまいもからとった澱粉のことで、これを水でとき、ふかしたさつまいもと一緒につぶして少々塩味を生かしてから、こねあわせ適当な大きさの丸い玉につくり、指で平たく押しひろげたものをさっと揚げます。指の跡のついているのが素朴な風情で、その指の跡に遠路訪れた客を大急ぎでもてなそうとする農家の主婦の心が感じられるわけです。甘そうに見えますが薄い塩味が付いています。 -
左奥が「田芋のからあげ」で、田芋を蒸してから皮をむき、そのまま素揚げにしたものです。右奥は「みぬだる」で、黒ゴマをすりつぶして、砂糖と泡盛と醤油でのばし、これに豚ロースの薄切りを数日浸しておき、味が沁みたところで蒸し上げます。手前は「クワンソウの花の甘酢漬け」です。クワンソウは忘れ草とも呼ばれるニッコウキスゲのような花です。その花を甘酢で漬けたものです。
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「らふてえ」は豚の肩ロース肉と三枚肉を大きめに切って、醤油、泡盛、砂糖で半日以上も気長に煮込んだものです。皮まで柔らかくなって味は格別です。沖縄料理の逸品として折紙つきの美味しさです。。
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「耳皮さしみ」
沖縄では酢の物のことを”刺身”と呼びます。豚の耳とほほのコリコリした所を炭火で焼き、雑物をこそぎ取って水炊きにしてから細切りし、塩を振って1番おきます。あえる時は塩抜きしてから南京豆ときゅうりで風味を加えます。 -
「昆布いりち」
いりちは沖縄の言葉で炒めることです。水洗いした昆布を千切りにして、ふたたびよく洗って、ぬめりをとっておきます。ゆでた豚の三枚肉を短尺に切って鉄鍋で炒め、これに用意しておいた昆布を加えますが、昆布がやわらかく煮えたころさらに薄揚豆腐とカマボコを入れて仕上げます。調味料としてはほんの少量の醤油を使うだけです。それは昆布に含まれている塩分を生かす為で、料理としては決して凝ったものではありませんが、家庭のおかずとして沖縄では大変人気があり、又お祝いの膳にも必ず出されます。あらゆる階層の人に親しまれてきたもっとも沖縄的な料理の1つで、沖縄の婦人の髪が黒くて房々としているのは、よく昆布を食べるせいだろうといわれます。 -
「豚飯(とんふぁん)」
小さく切った肉と人参とカステラカマボコなどを炊き込んだご飯に、汁をかけてサラサラといただきます。 -
最初はこんなご飯の状態で供されます。
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そして汁を掛けてお茶漬けのようにします。出汁はカツオと豚肉からとるのが沖縄では一般的で、昆布からはとらないそうです。その理由は硬水なので美味しく出汁がとれないそうです。
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「甘味(黒糖寒天)」は上品な甘さでした。この器だけ気になったので店の方に尋ねると、「これだけ沖縄の陶器じゃないんです。」と驚かれました。
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「冬瓜漬」は300年ほど前に中国の福州から沖縄に伝えられたといわれています。冊封使が来島した際の饗応料理、御冠船料理の献立で、干物や果物など16種の菓子の中にも橘餅や冬瓜漬が供されています。一般の人も口にできるようになったのは明治以降のことで、作るのには非常に手間がかかるそうです。
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最後に「香片茶」をいただいて余韻に浸ります。「香片茶」とはジャスミン茶のことです。台湾では「香片」と書かれる事が多いですが、他に茉莉花茶(まつりかちゃ)、茉莉緑茶とも呼ばれます。沖縄最後の晩はツアーの喧騒とは離れて優雅な食事がいただけました。
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帰りはタクシーを呼んでいただき、記念写真を撮って真っすぐホテルに帰りました。このホテルのすぐ近くに「栄町市場」があり、ディープな沖縄も見たかったのですが、さすがに疲れて飲みには出られませんでした。
ヒューイットリゾート那覇 宿・ホテル
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旅行記グループ 2022沖縄周遊5日間の旅
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