2021/10/24 - 2021/10/24
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gianiさん
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公共交通では回れない世界遺産も、
レンタサイクルならば気軽にお得に回れます。
今田美桜さんが出演する「ふくおか避密の旅」を私なりに作成。
環状の地図情報も参考にしてください。
柳川・久留米を訪れた筑後国紀行は↓
https://4travel.jp/travelogue/11735102
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旅の始まりは大牟田駅。
天神からなら西鉄、博多からならJRが便利です、
JR駅前の案内所で情報収集とレンタサイクルを借ります。
一日500円、交通系ICカードも決済できて便利な足です。大牟田観光プラザ 名所・史跡
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まずは、石炭産業科学館へ。
知識ゼロから、勉強を始めます。
写真は、同館マスコットのクロベエ。
個人的には、下記公式HPの蟻んこみたいなキャラが好きです。
http://www.sekitan-omuta.jp/topic/index.html大牟田市石炭産業科学館 美術館・博物館
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最初にエリアを俯瞰。中央を鉄道と国道3号線が横断。
海側に三川坑と港と博物館、
山側に宮原坑と万田坑が位置します。
徒歩移動には無理があるので、自転車は最適です。 -
「コール(石炭)は突然に?」
都が応仁の乱に明け暮れていた1469年、三池郡の稲荷(とうか)山で農夫の伝治左衛門夫婦が焚火をしていると、突然黒い石が燃え出してびっくり。(「石炭山由来」より) -
江戸時代の採鉱
組織的最高が始まったのは18世紀。柳川藩と三池藩が、塩づくりや瓦焼きの燃料として使用しました。
※三池藩は、柳川藩初代藩主立花宗茂の甥を祖とするので、互いに親戚関係。支藩ではなく、独立した藩。城は持てず、現在の大牟田小学校に陣屋がありました。 -
記録によると、現在の大牟田市の南半分を領有していた三池藩は、遅くとも1738年には稲荷山で採掘を行っていたことが明らかになっている。当初は請負制、藩主が陸奥国下手渡へ移封された45年間は請け負っていた藤本伝吾の私営、三池帰還後は藩直営となった。
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記録によると、現在の大牟田市の北半分を領有していた柳川藩は、1721年に平野山で採掘を始めている。家老小野春信の知行地だったので、小野家が経営に当たった。恩恵を受ける石炭問屋や番船から据金(敷金)を預かって、経営資金にした。
※1857年には両藩の坑道が繋がってしまうハプニングが発生し、その後も境界争いが続く。 -
現場へはペアで赴いた。
男性(先山)はツルハシで石炭を掘り崩すことに専念し、
女性(後山)はそれをかき集めて笊や籠に入れて坑外まで運び出した。
先山がツルハシやワラジを複数担いでいるのは、数時間で擦り切れ、切れ味が悪くなる重労働だった証。後山は弁当持参。休憩も坑内です。 -
後山が運んだ石炭は、大八車に載せ代えて港まで運ばれました。
大牟田浜(柳川藩)や須賀浜(三池藩)から船で有明海沿岸や瀬戸内海へ輸出され、製塩や瓦焼きの燃料として使用されました。大八車の荷重は男性300kg,女性240kgでした。 -
洋式技術の導入
明治6年に、炭山は官営になりました。全国の炭坑に先駆けて、お雇い外国人の指導の下、洋式技術で能率的な増産に着手。大浦に新斜坑を掘り、レールを敷いて炭車を運行できるように坑道を碁盤目状に整理。図のように、従来の思いのままに掘り進めた狸掘りとは対照的。明治11年には、斜坑は蒸気機関の巻き上げ機で、平坦部は馬車で炭車を牽きました。
※坑道に蒸気機関車を走らせるのは、サイズ・大気汚染等の問題で無理なので、地上の動力とワイヤーで繋ぎました。 -
先山が採掘し、後山が主坑道の炭車まで運ぶ。「効率化」が進んでも、手掘りは残りました。坑内の暑さにより、女性も上半身裸です。
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水との闘い
鉱山では、坑内に湧き出す地下水が問題になります。人力で汲み出すか、足踏み水車で掻き出していました。40m上方へ排水するために、80段160台の水車が3交代制で88日間連続稼働という記録が残っています。 -
換気
坑内の作業員が窒息しないためにも、換気は死活問題でした。
換気には温度差(空気は温かい方から冷たい方へ流れる)を利用します。
夏は地表の空気が立坑の下へ向かい、冬は坑内の相対的に温かい空気が地表へ向かって流れる自然通気法が通用します。しかし、春や秋は地表と坑内の温度差が小さくなるので、坑内で火を焚いて人為的に温度差を造り出す加熱通気法が採用されました。 -
明治12年には、三ツ山立坑(たてこう:鉛直方向に開けた坑)の底に設置された蒸気機関による排水が始まります。
立坑は煤煙を廃棄する「煙突」の働きをします。温かい空気は上へ向かう性質を利用して、坑内の澱んだ空気を地表に排気する「換気」の役割も同時に果たしました。 -
通気の機械化
自然通気法では、冬季には坑道に汚れた空気が流れる形で循環し、鉱員等に悪影響を及ぼします。汚れた空気は、誰もいない立坑を流れるのが望ましいです。坑路の伸張に伴い、通気の機械化に迫られます。明治17年には、全国に先駆けて蒸気を動力とするギーバル式扇風機を導入。木製の羽根は高速回転に向かないので、通気量を増やすには大型化しかありませんでした。この後、新発明があるたびに最新型の扇風機を導入しました。 -
明治22年には、民間の三井組に払い下げられ、工部省三池鉱山局技師だった團琢磨が最高責任者として天下る。彼は、大正3年に三井財閥の総帥に上り詰めるまで、三池炭鉱の近代化を促進する。
写真は愛用のシルクハット -
石炭の輸送
石炭は外貨獲得の貴重なアイコンだった。当初は大牟田~島原~長崎~上海、後に大牟田~口之津(又は三角西)~上海ルートになったが、積換の手間がネックだった。原因は、大牟田に大型船が乗り入れられないことだった。
※翌月に産業遺産三角西港を訪れた旅行記はこちら
https://4travel.jp/travelogue/11679390 -
明治35(1902)年に、團は大牟田の築港に着手する。
まず福岡ドーム17個分の広さ(九州ではお馴染みの比較基準)を堤防で仕切って干拓し、中央部を掘り下げてドックとした。
ドックの外側には、1万t級が3隻横付けできる内港と外港に通じる全長1800m幅137mの航路を建設するために遠浅の海を掘り下げ、航路と内港の周囲に防砂堤を築いた。 -
干拓の堤防建設は人海戦術。干潮時に1000人以上の労力で、数時間で締め切りました。
ドックの出入口には閘門を設置し、干潮差が日本一の有明海でも水位を確保できます。三池港は明治43年に完成し、閘門も含めて現役です。 -
航空写真。掘り込んだ部分がハチドリ型に浮き上がっていますね。
発展に伴って内港や航路に沿って埋め立てが進み、海岸線が後退します。 -
明治11年以降、石炭の運搬は馬車鉄道でしたが、明治24年には蒸気機関車が導入され、能率が格段にアップします。同年には九州鉄道の大牟田駅(現JR)も開業し、陸路海路で、津々浦々まで配送されました。
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採掘が進むにつれて浅いところは掘り尽くし、明治後期には深度200mを超える石炭を採掘し始める。それには強力な機械と、コストに見合うだけの採掘量が求められた。
※明治31年の宮原坑、同35年の万田坑は世界遺産として公開。 -
電気の登場
明治27年に自前の発電所を建設して電力が導入され、照明として用いられました。蒸気動力の場合、地上のボイラーから坑内まで蒸気パイプ通すと温度低下で圧力が下がりますが、電力は電線を通せば良いだけ。問題は、強力なモーターが開発されていないことでした。 -
採炭法
坑道の落盤を防ぐために鉱脈を柱として残しておく残柱式採炭法では、鉱脈の半分以下しか採掘できませんでした。坑道も狭いので、手掘りのまま。後に圧縮空気を利用した小型機械も導入されました。 -
新しい採炭法
天盤が崩れないよう木材の井桁で坑道を補強したり、石や砂で採掘跡を埋め戻すと、同じ面積でより多くの採炭が可能になりました。坑道も広くなり、電動機も進歩したために、大型機械で一気に壁一面を掘り崩す「長壁式採炭法」が導入されました。 -
扇風機の進化
通気用扇風機の羽根の形は直線よりも曲面の方が効率的になり(自宅の扇風機の羽根を観察してください)、素材も金属製になって、高速回転が可能になりました。動力も電力になり、ターボ型扇風機に行き着きます。
地下深く高温の採掘現場にも、電動の扇風機や冷房機が導入されたのも電力のおかげです。 -
輸送の電化
明治42年には、炭鉱と各所を結ぶ鉄道車両の動力として電気機関車を採用し、昭和7年には電化が完了。坑道を走るトロッコも電気機関車が採用されました。エネルギー効率が良く、煙も出さない動力です。 -
乾留
石炭を熱分解して、揮発性の物質と不揮発性の物質に分離する。揮発性物質の比重の違いを利用して、様々な化学物質を取り出せる。元々は、石炭から純粋な炭素成分だけ取り出して無煙炭(コークス)を精製することが目的だった。
写真は石炭の木。幹の部分を見ると、熱を掛けると比重の軽いものから順にピッチ・重油・コールタールの成分が揮発し、最終的に練炭が残る。 -
乾留の際の副産物は金のなる木だということで、三井炭鉱は明治末から石炭化学を研究し、活用し始めた。石炭からガス・コークス・タールを取り出し、各々を更に乾留・蒸留して、様々な工業原料を生み出した。
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炭坑の周囲には、石炭から得た工業原料を化成する工場が林立し、石炭化学コンビナートが形成され、互いは鉄道で結ばれた。大正4年には、日本初の合成染料、医薬品、薬剤、火薬、化学肥料などが製造された(石炭の木の枝の部分を参照)。
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リング状に走る専用鉄道は原料や製品の輸送だけでなく、従業員の通勤等にも利用された。
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戦前の輸出向けの合成染料(インディゴ色)
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昭和15年の三川坑を皮切りに、採炭現場の最前線は海底に移行し、深度も600mを超えます。昭和26年の初島、その後の三池島といった人工島(通気口)が沖合に築かれます。
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戦後は石油の台頭、円高、労使・環境問題等に直面し、自動化・省力化が促進されます。大型機械をリモートで監視制御しながら採掘し、コンベアや坑内鉄道で効率よく運び出されました。
採掘計画から選炭まで、品質管理にもコンピュータが駆使されました。
1997年(平成9年)に三池炭鉱は124年の歴史に幕を閉じました。 -
立坑のエレベータで、地下400mの採掘現場へ!
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音や振動も忠実で、本当に降下しているような臨場感を味わえます。
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参考資料
コンティニュアス・マイナー(米ジョイ社製)
毎分10tの採掘能力があるが、自重36トンが災いして、地盤が軟弱な三池炭鉱での使用期間は僅かだった。厚い炭層で使用された。 -
ホーベル(ドイツ語:大工道具のカンナを意味する)
ウエストファリア社(独)製 平均切削能力:5t/分 自重3t
薄い炭層に沿って高速で往復しながら石炭を削り取る。
大工の鉋掛けと全く同じ動きをする。 -
ロードヘッダー(三井三池製作所製)
掘削能力:1~2t/分 自重16t
先端の回転式ドラムで掘り進む。比較的小型なので、三池炭鉱で広く採用された。
現在も、鉄道や道路のトンネル掘削に使用されている。 -
掘削ドラムの下には、スコップ状の掻き寄せ部が石炭を自動回収し、後ろのコンベアへ自動で流してくれる省力化アイテム。
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自走シールド枠とドラムカッター(共に三井三池炭鉱製作所製)
先述の長壁式掘削法の機械。木枠や鉄柱を毎回組み立てる必要がなく、写真では100本の自走枠で天盤を支えている。カッターとコンベアと枠が連動し、極めて効率的。 -
坑内を走った電気機関車。全高は、人間の身長よりも低い。
同じ三井系の東芝製。 -
三池争議(1959-60)
石炭から石油へというエネルギー革命の最中、戦後最大の労働争議が発生しました。 -
三川坑炭塵爆発(1963.11.9)
脱線暴走した炭車が巻き上げた炭塵に着火して爆発を起こす。
死者458名、一酸化炭素中毒945名という戦後最悪の炭坑事故だった。 -
大牟田の歴史
大正6年、人口増加で市制施行。人口は68,000人。
大正10年には上水道も開通する。 -
昭和2年には、路面電車が開通(~27年)。
昭和13年には九州鉄道久留米線(現西鉄)が市内に到達、翌年には大牟田駅まで伸長。
戦争中は5回の空襲に見舞われる。 -
石炭採掘時には燃えない石ころ(ボタ)も混ざっており、選別の際に取り除かれました。ボタは、三池炭鉱では埋め立てに使用されたので、炭坑に付き物のボタ山は見当たりません。
資料館を出て、これから実地です。 -
三井港倶楽部
三池港の竣工に合わせて開業。三井財閥の管理職や外国高級船員向けの施設として供用された。 -
三川坑
昭和15年に開坑。海底へ延びる。1997年の閉山まで稼働。こちらは、資材や採炭を運ぶ通路として機能した。鉱員の出入りは、北側の有明坑(1977年に有明炭鉱を合併して獲得)から行われた。
プレートは閉山時の社名:三井石炭鉱業株式会社三池鉱業所三池炭鉱三川坑跡 名所・史跡
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三池港
展望台から閘門とドックを眺めます。
ボランティアスタッフが常駐し、説明を訊くことができます。
今も現役です。三池港と光の航路 自然・景勝地
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内港。大型船が停泊しています。
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三池税関
長崎税関の支所として、明治41年に三池港とセットで開庁(外航船が直接乗り入れるようになり、海外との窓口となったため)。現存する5つの明治期の税関庁舎の一つで、昭和40年まで使用。内港に隣接。 -
三井炭鉱専用鉄道
明治11年に、大牟田港~大浦坑を結ぶ馬車鉄道として開業。
明治38年までには、現在のJR大牟田駅、七浦坑、宮原坑、万田坑、三池港などが馬蹄状に繋がれ、総延長は(引込線も含めて)150kmに及んだ。 -
昭和59年までは通勤鉄道としても利用され、平成9年の閉山時の総延長は45.9km。2020年5月に、最後まで残った三井化学専用線が廃止。
線路を辿れば、三池炭鉱関連の施設を一通り見学できます。 -
往時の写真を見ると、本線は複線電化されていますね。
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当時の駅の跡。プラットホームが残ります。
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力を入れて自転車を漕ぐ丘を越えると、万田坑。
向かいの小さな施設でお勉強。
万田坑は一番保存状態が良いので、マストの訪問地です。
住所は熊本県荒尾市になります。万田炭鉱館 美術館・博物館
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稲荷山での石炭発見のジオラマ
手作り感がほほえましいです。 -
専用鉄道・航路・坑口の分布と変遷。
とても分かりやすい説明です。 -
在りし日の姿。
繁栄部ぶりが伝わる写真です。 -
万田坑と周辺図
社宅に囲まれ、一つの町を形成しています。
実際、三井炭鉱は、私設学校や夜間学校、保育所を所有していました。 -
いよいよ万田坑へ。
万田坑ステーションで切符を買います。
ボランティアガイド・ツアーの時間が近かったので申し込み。
時間まで、ステーションの展示を見学。万田坑 名所・史跡
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閉山するまでに三池炭鉱は、石炭の国内生産の1割を生産しました。
特に、戦争中と戦後復興期に大貢献しました。 -
明治16年に七浦坑、21年に宮浦坑、28年に勝立坑、31年に宮原坑、35年に万田坑、大正12年に四山坑、昭和15年に三川坑が出炭開始。
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万田坑の歴史
明治30年に第一竪坑(たてこう)を掘り始め、第二竪坑も着手する。
32年には総鉄骨造りの櫓が完成、35年には採炭開始。
42年には施設全体が完成。
昭和26年に採炭終了。
※第一竪坑は揚炭と入気、第二竪坑は人や資材の昇降と排気に使用。 -
四川坑
万田坑や勝立坑の通気不良や坑内温度上昇の対策として、大正12年に開坑。海底部採掘も見据えた立地である。
玉名支線
原万田~平井。三井化学の専用線として始まるが、終戦とともに平井工場が閉鎖。戦後は周囲の社宅からの通勤路線として、昭和59年まで営業。
※私見:平井のグリーンランドは三井が開発したので、三井化学跡とも考えられる。 -
山ノ神
繰り込み(1日の作業指示)の際に、山ノ神に拝礼の際に一礼して一日の安全を祈願した。
※山ノ神は、大山祇神社(おおやまづみ神社:愛媛県)の大山積神。 -
第二竪坑櫓
明治41年竣工。高さ18.9m。八幡製鉄所製の鉄鋼では必要な品質に到達できず、スコットランドから鋼材を輸入。昇降機のワイヤーを支えた。
手前は竪坑入口。採炭終了後も閉山まで、三池鉱山の排気・排水口として機能したために現存している。 -
竪坑内部。柵内で2台のゲージが釣る瓶式に昇降。264m下まで約1分で運転。資材や人を運搬した。右奥は、信号所。
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信号所の内部。
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第二竪坑巻揚機室
昇降機の駆動部。信号所等と電話等で連絡して駆動した。
建物右横の壁には、先述の山ノ神が祀られている。 -
2階との踊り場にある小型ウィンチ(巻揚機)
人員を昇降させるためのゲージ巻揚機。直径4mの巻胴に36mmのワイヤーが巻き上げられる。270mを1分で巻き上げる性能。 -
巻揚機(ウインチ)
重量物の搬入搬出に使用。ワイヤーの直径は46mm。 -
左奥にあるのは、大正建築の発電所。レンガ造りにコンクリートを塗り付けた。800kwの発電機が備え付いていたが、内部は変電所に改変。
右の広場は操車場。石炭を積んだ無数の貨車が停車していた。
右奥の土台は、第一竪坑櫓跡。明治32年に日本初の総鉄骨造りの櫓が建った。高さ30.7m幅も第二竪坑の2倍、万田坑のシンボル的建物だったが、採炭終了の3年後に解体。
変電所と第一竪坑櫓の間にはデビーポンプ室があった。蒸気でポンプを動かして排水していたが、電力化に伴い取り壊し。 -
職場
何のことやら?という名称だが、いわゆる工機部。
簡単な機械の製造と加工・修理を担当。
ベルト付け替えに拠って、一台の発動機で様々な機械を動かした。
右奥から左手前にかけて県境が走る。福岡県側から撮影。 -
汽缶場跡
巻揚機室の手前に3棟あった。汽缶場とはボイラー室のこと。動力が蒸気から電力に移ったために取り壊される。 -
蒸気を動力としていたころの煙突跡。
昭和初期には5台あった。安全のため、根元から切り取られている。 -
沈殿池
坑内の地下水は、ここで不純物を沈殿させてから川に流した。
三池炭鉱では、採掘量の10倍の量の地下水を処理せねばならなかった。 -
2代目扇風機室
排気用の電動扇風機が設置。大正3年に平屋が竣工。排気がほかの竪坑に移った昭和13年に、2階部分が建て増しされ、事務所として使用。
※閉山時の建物は、1/4程度の面積しか現存しない。当時の事務所はもっと広く、建物の真ん中を県境が走ってた。
宮原坑へ移動します。 -
宮原坑
七浦坑(M.16~)宮浦坑(M.21~)の採炭現場が深くなったことで排水効率が悪化していたことの打開策として、さらなる採炭と排水を兼ねた宮原坑が誕生。明治31年に第一竪坑(深さ150m揚炭・入気・排水)、34年に第二竪坑(深さ156m人員昇降)が完成。初年の明治31年から27万t/年、その後は40万t/年以上を産出する優良物件だったが、昭和6年に採炭終了。その後も、排水等のメンテナンスで使用。
三池集治監に収容された囚人が採鉱に従事しており、「修羅坑」と怖れられた労働環境だった。宮原坑(世界遺産) 名所・史跡
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住宅地に囲まれた不思議な空間(空き地)で、インパクトのあるスポット。
現存する遺物は少ないですが、現場の掲示物の説明も丁寧で、ぜひ訪れたいスポットです。 -
第二堅坑櫓および巻揚機室(遠景)
高さ20m。156m下まで人員を運ぶための滑車とワイヤーを支えました。現存する最古の総鉄骨造りの櫓です。 -
櫓の直下
ワイヤーで吊るされたゲージが。その下には、深い穴が。 -
巻揚機室の中へ。
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人員を昇降させるための巻揚機。巻胴の左側が昇、右側が降と書かれています。
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デビーポンプ室跡
壁のみ残存。手前に向かって建物が存在し、Davey社製の世界最大のポンプ(510PS用水量8.5t/分 重量600t)が2台収納されていた。 -
デビーポンプ詳細
宮原坑よりも高台にあった大浦坑や宮浦坑や七浦坑の地下水が流れ込み、坑内底にはダムも存在した。それらを一手に引き受けて揚水した。第一竪坑にも2台設置され、合計4台体制だった。エネルギー源の蒸気機関次第で出力は変動した。装置が地上に設置されたので、坑内で水没しておじゃんになる心配とも無縁だった。
※勝立坑にも、デビーポンプが設置されていた -
明治20年代でも人力で排水していたことが分かる手記。
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北側排水路
デビーポンプで汲み上げた坑内の地下水は、石で組まれた排水路を通って、諏訪川に排出されました。 -
大正時代の採炭の様子。
先山と後山が写っています。左下の写真のように本来は上半身裸で作業していましたが、一般公開用に着衣しているようです。被写体が明らかに、写真用のポーズを取っていますね(笑)。 -
宮原坑の観光事務所。
ボランティアガイドの説明によると、かつては課長クラスの社宅だったとのこと。 -
囚人を三池炭鉱で働かせるために、明治16年に開設。明治41年に三池刑務所に改称。宮原坑の閉山と共に存在意義を失い閉鎖。高さ5~6mの壁で、外界と仕切られ、地下には脱獄防止用の板石が敷かれている。敷地は現在、三池工業高校となり、学生の逃亡を阻止している。
集治監:国が管理する重刑者を収容する施設。西日本では三池だけ。有名なのは、後の網走監獄。旧三池集治監外塀 名所・史跡
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囚人は毎日、歩いて宮原坑まで通勤しました。
オリジナルはレンガ壁ですが、戦後コンクリートでコーティングされました。 -
ちょっと寄り道。
1764築の眼鏡橋。工学上の傑作。早鐘眼鏡橋 名所・史跡
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宮浦坑跡
明治21年開坑採炭開始、昭和43年採炭終了。写真の大斜坑は、大正13年~平成2年まで使用。宮浦石炭記念公園 公園・植物園
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看板の奥は、三井化学大牟田事業所。
2020年5月まで鉄道が稼働していました。 -
煙突も1本残っています。
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市役所旧館
昭和11年竣工。石炭がいかに大牟田を潤していたかがわかる建物。大牟田市庁舎 名所・史跡
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JR沿いのレトロ建築。
駐在所だったみたいです。 -
西鉄大牟田駅横に静態保存してある路面電車。
市電は昭和2年に開業。その後西鉄の一部になり、昭和27年に廃止。
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