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旧帝国海軍が建設した街、呉。<br />歴史を紐解くミュージアムと、町並み。<br />最後は海上から海自基地を見学。

呉旅(くれたび)

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2021/11/18 - 2021/11/18

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

旧帝国海軍が建設した街、呉。
歴史を紐解くミュージアムと、町並み。
最後は海上から海自基地を見学。

旅行の満足度
5.0
  • 旅行ガイドでは戦艦大和の模型の写真を大きく載せるので、<br />軟派な博物館だと誤解していました。

    旅行ガイドでは戦艦大和の模型の写真を大きく載せるので、
    軟派な博物館だと誤解していました。

  • まずは軍都として歩んだ歴史を学びます。

    まずは軍都として歩んだ歴史を学びます。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

  • プロローグ<br />日本における海軍のルーツは、幕末の1855年にオランダ国王から軍艦スンピン号をプレゼントされたことに端を発します。<br />最新鋭の船を操船・運用するためのノウハウを学ぶために、長崎に海軍伝習所が設立。西洋の講師陣から、操船・航海術・造船・数学理科等を学びました。講座には医学(特に外科)や活版印刷なども含まれていました。<br />最も多くの講師を擁した科目は、蒸気機関です。

    プロローグ
    日本における海軍のルーツは、幕末の1855年にオランダ国王から軍艦スンピン号をプレゼントされたことに端を発します。
    最新鋭の船を操船・運用するためのノウハウを学ぶために、長崎に海軍伝習所が設立。西洋の講師陣から、操船・航海術・造船・数学理科等を学びました。講座には医学(特に外科)や活版印刷なども含まれていました。
    最も多くの講師を擁した科目は、蒸気機関です。

  • 当然、メンテナンスも必要になるわけで、1865年に幕府の勘定奉行小栗上野介忠順の指揮で、横須賀に造船所を建設し始めます。途中に明治維新が起きます。

    当然、メンテナンスも必要になるわけで、1865年に幕府の勘定奉行小栗上野介忠順の指揮で、横須賀に造船所を建設し始めます。途中に明治維新が起きます。

  • 新政府は、1870年(明治3年)に海軍を創設。<br />日本の海を東海と西海に二分し、各々に鎮守府を設置することに。<br />東海は当初横浜に、明治17年には横須賀へ移転しました。<br />明治22年には4つに細分し、第1海軍区は横須賀、第2は呉、第3は佐世保、第4は舞鶴に鎮守府を設置することになります。

    新政府は、1870年(明治3年)に海軍を創設。
    日本の海を東海と西海に二分し、各々に鎮守府を設置することに。
    東海は当初横浜に、明治17年には横須賀へ移転しました。
    明治22年には4つに細分し、第1海軍区は横須賀、第2は呉、第3は佐世保、第4は舞鶴に鎮守府を設置することになります。

  • 明治19年には、既に鎮守府設置が決定し、都市計画が始まります。<br />碁盤の目状に道路を通し、沿岸部には造船所や製鋼所が建設されます。<br />

    明治19年には、既に鎮守府設置が決定し、都市計画が始まります。
    碁盤の目状に道路を通し、沿岸部には造船所や製鋼所が建設されます。

  • 呉が選ばれた理由は、内海の奥深くに位置するため、防衛面で優れているからです。<br />したがって、呉には大規模な造船工場、造兵施設が付属しました。また船に供給する良質な水が豊富に得られる点も考慮されています。

    呉が選ばれた理由は、内海の奥深くに位置するため、防衛面で優れているからです。
    したがって、呉には大規模な造船工場、造兵施設が付属しました。また船に供給する良質な水が豊富に得られる点も考慮されています。

  • 明治27年に起きた日清戦争では、横須賀よりも戦線に近い呉が海軍の前線の兵站基地として機能しました。艦艇の修理や、接収した商船の改造などでフル稼働しました。(当時の佐世保は未整備)<br />※日清戦争中は、広島に大本営が設置され、軍の総帥である天皇(宮中)も広島へ移動しています。中世の移動宮廷みたいですね。<br />

    明治27年に起きた日清戦争では、横須賀よりも戦線に近い呉が海軍の前線の兵站基地として機能しました。艦艇の修理や、接収した商船の改造などでフル稼働しました。(当時の佐世保は未整備)
    ※日清戦争中は、広島に大本営が設置され、軍の総帥である天皇(宮中)も広島へ移動しています。中世の移動宮廷みたいですね。

  • 戦争中は兵器の需要も急増し、明治30年には呉海軍造兵廠として結実。<br />兵器の素材となる鉄鋼の生産施設も明治35年に製鋼部として結実。<br />海軍は、自前で兵器を生産するシステムを構築しました。

    戦争中は兵器の需要も急増し、明治30年には呉海軍造兵廠として結実。
    兵器の素材となる鉄鋼の生産施設も明治35年に製鋼部として結実。
    海軍は、自前で兵器を生産するシステムを構築しました。

  • 写真中央:西郷従道。海軍大臣として日清戦争中、呉海軍造兵廠を建設。<br />写真右:山内万寿治。初代の呉造兵廠の廠長。<br />写真左:E.C.キルビー。彼の経営するキルビー商会神戸鉄工所が、明治17年以降海軍に取り込まれ、呉で製鋼所を稼働させる。

    写真中央:西郷従道。海軍大臣として日清戦争中、呉海軍造兵廠を建設。
    写真右:山内万寿治。初代の呉造兵廠の廠長。
    写真左:E.C.キルビー。彼の経営するキルビー商会神戸鉄工所が、明治17年以降海軍に取り込まれ、呉で製鋼所を稼働させる。

  • 独自技術の開発研究にも余念がなかった。<br />12センチ連射砲を始め、明治34年には甲艦15センチ砲も製造している。<br />写真左:有坂鉊蔵。砲口兵器の技術者。東大工学部の教授も兼務する。<br />写真右:松村正命。造兵廠長。呉に100トンの大型クレーンを導入。<br />    (※横須賀は50t)

    独自技術の開発研究にも余念がなかった。
    12センチ連射砲を始め、明治34年には甲艦15センチ砲も製造している。
    写真左:有坂鉊蔵。砲口兵器の技術者。東大工学部の教授も兼務する。
    写真右:松村正命。造兵廠長。呉に100トンの大型クレーンを導入。
        (※横須賀は50t)

  • 上記の呉のインフラが整った明治35年に日英同盟が結ばれ、対露戦の基盤は整った。<br />翌36年には造兵廠と造船廠が統合され、呉海軍工廠が設立され、事業の統一化を図る。民間船を軍用に改造することに着手し、翌37年(1904)には開戦となる。

    上記の呉のインフラが整った明治35年に日英同盟が結ばれ、対露戦の基盤は整った。
    翌36年には造兵廠と造船廠が統合され、呉海軍工廠が設立され、事業の統一化を図る。民間船を軍用に改造することに着手し、翌37年(1904)には開戦となる。

  • 流通の整備を図るべく、日露開戦前年に、広島から鉄道が繋がる。<br />12か所のトンネル、26の橋を擁する難工事だった。昭和10年には三原まで伸長し、現在の路線が完成する。当時の呉駅の乗降量は広島駅を凌駕していた。<br />※日清戦争開戦に備え、開戦前年に東京~広島(宇品港)が開通し、兵員や物資を全国からスピーディに終結できた。線路で繋がる事には、重要な意味があった。

    流通の整備を図るべく、日露開戦前年に、広島から鉄道が繋がる。
    12か所のトンネル、26の橋を擁する難工事だった。昭和10年には三原まで伸長し、現在の路線が完成する。当時の呉駅の乗降量は広島駅を凌駕していた。
    ※日清戦争開戦に備え、開戦前年に東京~広島(宇品港)が開通し、兵員や物資を全国からスピーディに終結できた。線路で繋がる事には、重要な意味があった。

  • 日露戦争の行方を決定付けた日本海海戦では、<br />呉から戦艦「富士」、巡洋艦「浅間」「常磐」等が参戦した。<br />※日露戦争の緒戦は旅順港の封じ込め作戦で、やはり海軍が参与。

    日露戦争の行方を決定付けた日本海海戦では、
    呉から戦艦「富士」、巡洋艦「浅間」「常磐」等が参戦した。
    ※日露戦争の緒戦は旅順港の封じ込め作戦で、やはり海軍が参与。

  • 写真左:山本権兵衛。海軍を整備した育ての親的存在。日露戦争中の海軍大臣。<br />写真中:東郷平八郎。呉鎮守府第2代参謀長。連合艦隊の司令長官。<br />写真右:秋山真之。連合艦隊の作戦参謀。日本海海戦の筋書を作成。

    写真左:山本権兵衛。海軍を整備した育ての親的存在。日露戦争中の海軍大臣。
    写真中:東郷平八郎。呉鎮守府第2代参謀長。連合艦隊の司令長官。
    写真右:秋山真之。連合艦隊の作戦参謀。日本海海戦の筋書を作成。

  • 通報艦「宮古」を皮切りに、一等巡洋艦「筑波」「生駒」など、次々と国産の艦艇を建造する。そして、日本一の建造技術を獲得する。<br />※上記山本権兵衛体制の下で、戦艦は旧国名、巡洋戦艦以下は山、川、神社名…を当てることになった。

    通報艦「宮古」を皮切りに、一等巡洋艦「筑波」「生駒」など、次々と国産の艦艇を建造する。そして、日本一の建造技術を獲得する。
    ※上記山本権兵衛体制の下で、戦艦は旧国名、巡洋戦艦以下は山、川、神社名…を当てることになった。

  • 明治39年にイギリスが巨大戦艦「トレッドノート」を建造。世界に震撼を与える。日本海軍はイギリスから巡洋戦艦を購入して、イギリスの技術を吸収しようとする。

    明治39年にイギリスが巨大戦艦「トレッドノート」を建造。世界に震撼を与える。日本海軍はイギリスから巡洋戦艦を購入して、イギリスの技術を吸収しようとする。

  • 明治40年には、イギリスから潜水艦2隻を購入。別途3隻分の部材を購入し、潜水艦の分野にも手を伸ばす。

    明治40年には、イギリスから潜水艦2隻を購入。別途3隻分の部材を購入し、潜水艦の分野にも手を伸ばす。

  • 明治35年に二町二村が合併して誕生した呉市は、<br />明治42年に人口が10万人を突破する。<br />この年に市電も開通する。広島市より3年早かった。

    明治35年に二町二村が合併して誕生した呉市は、
    明治42年に人口が10万人を突破する。
    この年に市電も開通する。広島市より3年早かった。

  • 大正3年に勃発した第一次世界大戦で、日本は連合国側として参戦し、呉からも青島、ウラジオストク、地中海へ出動した。敗戦国ドイツから潜水艦7隻を接収し、日本の潜水艦技術は更に向上する。

    大正3年に勃発した第一次世界大戦で、日本は連合国側として参戦し、呉からも青島、ウラジオストク、地中海へ出動した。敗戦国ドイツから潜水艦7隻を接収し、日本の潜水艦技術は更に向上する。

  • 主戦場のヨーロッパでは、民間船を護衛する駆逐艦が不足し、1916年にはフランスから2隻の発注を受ける。輸入艦から技術を学んだ末に、先進国へ輸出するまでに進歩した。兵器もロシアを始めとする連合国への輸出を続け、休日返上で操業する等、呉は空前の好景気に沸いた。

    主戦場のヨーロッパでは、民間船を護衛する駆逐艦が不足し、1916年にはフランスから2隻の発注を受ける。輸入艦から技術を学んだ末に、先進国へ輸出するまでに進歩した。兵器もロシアを始めとする連合国への輸出を続け、休日返上で操業する等、呉は空前の好景気に沸いた。

  • 写真右:松田重次郎。呉工廠へ工作機械を納入していた。自動車メーカー・マツダの創業者。

    写真右:松田重次郎。呉工廠へ工作機械を納入していた。自動車メーカー・マツダの創業者。

  • 戦艦「長門」<br />大正9年竣工。主砲の口径、排水量、速力、防衛力共に世界一の艦として登場。<br />日本海軍のシンボルとして、国民に親しまれる。太平洋戦争を生き延びた唯一の戦艦でもある。呉で製造されたが、海軍の旗艦として横須賀に配置された。

    戦艦「長門」
    大正9年竣工。主砲の口径、排水量、速力、防衛力共に世界一の艦として登場。
    日本海軍のシンボルとして、国民に親しまれる。太平洋戦争を生き延びた唯一の戦艦でもある。呉で製造されたが、海軍の旗艦として横須賀に配置された。

  • 質・量共に有数の海軍となった日本をけん制するために、1921年にワシントン海軍軍縮条約が締結。保有量は英米の6割という屈辱的な内容だった。対象は戦艦・空母といった主力艦のみ。<br />※長門級の戦艦を、あと7隻建造する計画だったが、1隻(陸奥)しか建造できなかった。

    質・量共に有数の海軍となった日本をけん制するために、1921年にワシントン海軍軍縮条約が締結。保有量は英米の6割という屈辱的な内容だった。対象は戦艦・空母といった主力艦のみ。
    ※長門級の戦艦を、あと7隻建造する計画だったが、1隻(陸奥)しか建造できなかった。

  • 軍縮は世界中に影響を及ぼし、ネイバル・ホリディという言葉が生まれた。艦艇を量産できなくなった呉でも失業者が増大し、移民も行われた。

    軍縮は世界中に影響を及ぼし、ネイバル・ホリディという言葉が生まれた。艦艇を量産できなくなった呉でも失業者が増大し、移民も行われた。

  • 19世紀末のテイラー・システムなど、科学的管理法は既に提唱されていたが、大正13年に伍堂卓雄が工廠長になってから呉にも取り入れられた。<br />生産を合理化すべく、材料の規格統一、部品の互換性、労働者の健康管理など多岐に及んだ。

    19世紀末のテイラー・システムなど、科学的管理法は既に提唱されていたが、大正13年に伍堂卓雄が工廠長になってから呉にも取り入れられた。
    生産を合理化すべく、材料の規格統一、部品の互換性、労働者の健康管理など多岐に及んだ。

  • 人材の育成<br />大正7年には、職工伝習所が設立。熟練工の確保を目的とした。

    人材の育成
    大正7年には、職工伝習所が設立。熟練工の確保を目的とした。

  • 昭和3年には横須賀から海軍技手養成所が移転した。科目の内訳をみると、現在の高専並み。英語も含まれる。中堅技術者を育成させるための少数精鋭向けの教育機関。ちなみにエリートは、帝国大学工学部から供給。

    昭和3年には横須賀から海軍技手養成所が移転した。科目の内訳をみると、現在の高専並み。英語も含まれる。中堅技術者を育成させるための少数精鋭向けの教育機関。ちなみにエリートは、帝国大学工学部から供給。

  • 昭和5年にはロンドン海軍軍縮条約が締結され、主力艦のみならず、全艦艇が対象となった。唯一の抜け道は空軍力で、翌年には呉海軍航空隊が開設される。独立性の高いセクションだった。

    昭和5年にはロンドン海軍軍縮条約が締結され、主力艦のみならず、全艦艇が対象となった。唯一の抜け道は空軍力で、翌年には呉海軍航空隊が開設される。独立性の高いセクションだった。

  • 写真左:伍堂卓雄。科学的管理法を初めて導入。後に通産系の大臣を歴任。<br />写真中:玉沢煥。フォード社視察をきっかけに、造船の生産合理化を行う。<br />写真右:福田烈。造船のための電気溶接技術を向上させる。

    写真左:伍堂卓雄。科学的管理法を初めて導入。後に通産系の大臣を歴任。
    写真中:玉沢煥。フォード社視察をきっかけに、造船の生産合理化を行う。
    写真右:福田烈。造船のための電気溶接技術を向上させる。

  • 船体を軽量化すれば、同じ排水量でも大きな船を作れるので、薄くシンプルな構造にした。その結果、強度が不足し、様々な事故が発生する。最も深刻だったのが、昭和10年の「第四艦隊事件」。演習中の台風で多数の艦艇が破損。駆逐艦2隻は、船首が切断される始末。電気溶接も悪者扱いされた。

    船体を軽量化すれば、同じ排水量でも大きな船を作れるので、薄くシンプルな構造にした。その結果、強度が不足し、様々な事故が発生する。最も深刻だったのが、昭和10年の「第四艦隊事件」。演習中の台風で多数の艦艇が破損。駆逐艦2隻は、船首が切断される始末。電気溶接も悪者扱いされた。

  • 昭和8年の国際連盟脱退などで、官民の国防意識は高まった。産業発展を望む呉市と国防を促進する鎮守府がコラボした博覧会が昭和10年に開催され、70万人を動員する盛況だった。同年に国鉄呉線が全通したことも、動員数に大きく関係している。

    昭和8年の国際連盟脱退などで、官民の国防意識は高まった。産業発展を望む呉市と国防を促進する鎮守府がコラボした博覧会が昭和10年に開催され、70万人を動員する盛況だった。同年に国鉄呉線が全通したことも、動員数に大きく関係している。

  • 世界恐慌、国際社会からの孤立といったマイナス要因の多い時代にあって、スポーツや文化は大いに盛り上がった。<br />写真右:藤村冨美男。呉中学在学中に甲子園制覇。プロ野球選手としては、ミスタータイガースとして不動の四番。物干し竿バットで有名。

    世界恐慌、国際社会からの孤立といったマイナス要因の多い時代にあって、スポーツや文化は大いに盛り上がった。
    写真右:藤村冨美男。呉中学在学中に甲子園制覇。プロ野球選手としては、ミスタータイガースとして不動の四番。物干し竿バットで有名。

  • 昭和16年には、太平洋戦争に突入する。<br />真珠湾攻撃の約1週間後には、戦艦「大和」竣工する。

    昭和16年には、太平洋戦争に突入する。
    真珠湾攻撃の約1週間後には、戦艦「大和」竣工する。

  • 写真は、真珠湾へ向かった第一航空艦隊の司令長官南雲忠一中将の短剣。

    写真は、真珠湾へ向かった第一航空艦隊の司令長官南雲忠一中将の短剣。

  • 空母「赤城」<br />昭和2年竣工。ワシントン海軍軍縮条約調印で戦艦の新造枠が超過し、建造中の戦艦を航空母艦に変更した経緯がある。<br />ミッドウェイ海戦で沈没。太平洋戦争は、空母戦が戦局を決定した。

    空母「赤城」
    昭和2年竣工。ワシントン海軍軍縮条約調印で戦艦の新造枠が超過し、建造中の戦艦を航空母艦に変更した経緯がある。
    ミッドウェイ海戦で沈没。太平洋戦争は、空母戦が戦局を決定した。

  • 戦線拡大に伴い、呉工廠もフル稼働。客船を空母に改造する等、民間船の転用で大忙しだった。

    戦線拡大に伴い、呉工廠もフル稼働。客船を空母に改造する等、民間船の転用で大忙しだった。

  • 水兵の日常を描いた漫画絵葉書。

    水兵の日常を描いた漫画絵葉書。

  • 「水兵さん」として親しまれ、ゼロ戦パイロットと並ぶ子供たちのあこがれの存在、大人の敬意を得る存在だった。

    「水兵さん」として親しまれ、ゼロ戦パイロットと並ぶ子供たちのあこがれの存在、大人の敬意を得る存在だった。

  • 海軍工廠の半分以上が集中していた呉。当然ながら、敵の攻撃の標的となる。合計14回の空襲を受けた。航空戦時代においては、内海に位置しても無意味だった。

    海軍工廠の半分以上が集中していた呉。当然ながら、敵の攻撃の標的となる。合計14回の空襲を受けた。航空戦時代においては、内海に位置しても無意味だった。

  • 広島市に投下された原爆は、呉からも閃光やキノコ雲が確認された。<br />救援隊や調査団が呉から派遣され、大勢が被曝した。

    広島市に投下された原爆は、呉からも閃光やキノコ雲が確認された。
    救援隊や調査団が呉から派遣され、大勢が被曝した。

  • おまけ。<br />明治39年にイギリスに発注した巡洋戦艦「金剛」(呉所属)の蒸気ボイラーの様子。<br />燃料は石炭と重油の混合。<br />1932年の更新工事に伴い、海軍技術研究所の暖房設備として第二の人生を送る。施設は戦後、科学技術庁金属材料開発研究所として再出発し、平成5年まで稼働した。

    おまけ。
    明治39年にイギリスに発注した巡洋戦艦「金剛」(呉所属)の蒸気ボイラーの様子。
    燃料は石炭と重油の混合。
    1932年の更新工事に伴い、海軍技術研究所の暖房設備として第二の人生を送る。施設は戦後、科学技術庁金属材料開発研究所として再出発し、平成5年まで稼働した。

  • 続いては、戦艦大和エリア。<br />まずは、スペックを確認。長門の2倍の大きさだと分かります。

    続いては、戦艦大和エリア。
    まずは、スペックを確認。長門の2倍の大きさだと分かります。

  • ワシントン軍縮条約で規定された[今後10年間の主力艦製造の中止]が満期を迎える1年前(昭和9年)に、海軍は史上最大かつ最強の戦艦を建造することにしました。東大総長も務めた平賀譲は、大和設計に関わる多くの人材を育成した。

    ワシントン軍縮条約で規定された[今後10年間の主力艦製造の中止]が満期を迎える1年前(昭和9年)に、海軍は史上最大かつ最強の戦艦を建造することにしました。東大総長も務めた平賀譲は、大和設計に関わる多くの人材を育成した。

  • 大和竣工時の各国の最新艦と比較。<br />排水量は長門とさほど変わらない中、大和だけ突出しています。幅が40mというのも異常です。<br />主砲の口径(破壊力)も突出しています。<br />気になるのが、航続距離。時速16ノットで7,200浬(13,334km)。下手をすると、片道切符になります。ワシントン会議で獲得した西太平洋の制海権保障に依存したスペックです。<br />大きさの割に乗組員の数が少ないのは、合理化の成果でしょうか。

    大和竣工時の各国の最新艦と比較。
    排水量は長門とさほど変わらない中、大和だけ突出しています。幅が40mというのも異常です。
    主砲の口径(破壊力)も突出しています。
    気になるのが、航続距離。時速16ノットで7,200浬(13,334km)。下手をすると、片道切符になります。ワシントン会議で獲得した西太平洋の制海権保障に依存したスペックです。
    大きさの割に乗組員の数が少ないのは、合理化の成果でしょうか。

  • 大和建造はトップシークレットでした。開発設計陣のみならず、大蔵省への予算要求から製造作業従事者にまで及びました。設計者は、自分が担当する部分以外は何も知りませんでした。工員の出入りも厳しく管理。工場周辺はおろか、空からも様子が見えないように覆いをする徹底ぶりでした。

    大和建造はトップシークレットでした。開発設計陣のみならず、大蔵省への予算要求から製造作業従事者にまで及びました。設計者は、自分が担当する部分以外は何も知りませんでした。工員の出入りも厳しく管理。工場周辺はおろか、空からも様子が見えないように覆いをする徹底ぶりでした。

  • かつてない巨大船を作るには、それに対応するドックを建設する必要がありました。<br />屋根や覆いを付けて、機密を保持しました。

    かつてない巨大船を作るには、それに対応するドックを建設する必要がありました。
    屋根や覆いを付けて、機密を保持しました。

  • 呉工廠を見下ろせる山に入る際には、特別な許可証が必要でした。

    呉工廠を見下ろせる山に入る際には、特別な許可証が必要でした。

  • 重さ1.5トンの砲弾を発射するため、砲塔の重量は2,700トンの巨大なものになりました。砲塔を支える甲板の厚さは、なんと65センチ。<br />巨大艦を一つの塊として建造すると工期が数倍になります。ブロックに分けして、それぞれが同時進行で作業して、出来上がったものを繋げて行くことにより、工期短縮とコスト減を実現。写真は、これらに貢献した3名。<br />右下の写真は2番艦の武蔵。左下は3番艦になるはずだった信濃。空母が不足したので、途中で空母に設計変更。完成直後に被弾沈没。

    重さ1.5トンの砲弾を発射するため、砲塔の重量は2,700トンの巨大なものになりました。砲塔を支える甲板の厚さは、なんと65センチ。
    巨大艦を一つの塊として建造すると工期が数倍になります。ブロックに分けして、それぞれが同時進行で作業して、出来上がったものを繋げて行くことにより、工期短縮とコスト減を実現。写真は、これらに貢献した3名。
    右下の写真は2番艦の武蔵。左下は3番艦になるはずだった信濃。空母が不足したので、途中で空母に設計変更。完成直後に被弾沈没。

  • 軍縮期に大きく進歩した生産管理システムと技術革新が満載の大和。<br />大きな船体ですが、意外にも、量で勝負するアメリカに対して、大和は質で勝負するというのが根底に流れています。<br />こうしたノウハウは、戦後の製造業に還元され、モノづくり大国・経済大国へ成長する原動力となりました。<br />呉の造船実験部のスタッフは、戦後に鉄道技術研究所へ転職し、新幹線の開発に貢献します。

    軍縮期に大きく進歩した生産管理システムと技術革新が満載の大和。
    大きな船体ですが、意外にも、量で勝負するアメリカに対して、大和は質で勝負するというのが根底に流れています。
    こうしたノウハウは、戦後の製造業に還元され、モノづくり大国・経済大国へ成長する原動力となりました。
    呉の造船実験部のスタッフは、戦後に鉄道技術研究所へ転職し、新幹線の開発に貢献します。

  • 直径5mのスクリュー製造に必要な鋳型は、戦後の鋳物技術の基盤に。<br />対弾効力の高い装甲は、特殊鋼分野へ貢献。<br />乗組員の多くは冷暖房の恩恵を受け、「大和ホテル」と呼ばれていた。<br />冷凍・冷蔵庫と空調技術は、家電業界に還元。<br />造波抵抗を軽減させる船首のデザインは、あらゆる船舶に導入。

    直径5mのスクリュー製造に必要な鋳型は、戦後の鋳物技術の基盤に。
    対弾効力の高い装甲は、特殊鋼分野へ貢献。
    乗組員の多くは冷暖房の恩恵を受け、「大和ホテル」と呼ばれていた。
    冷凍・冷蔵庫と空調技術は、家電業界に還元。
    造波抵抗を軽減させる船首のデザインは、あらゆる船舶に導入。

  • 主砲を研究開発は、原子炉研究開発に応用。<br />潜望鏡技術は、カメラをはじめとする精密光学に貢献。<br />ブロック工法・先行艤装による工期の短縮は、造船・高層ビル建設に採用。<br />科学的生産管理は、問題の早期解決・進行状況の把握等を容易にし、戦後10年で世界一の造船国へ躍動する原動力へ。

    主砲を研究開発は、原子炉研究開発に応用。
    潜望鏡技術は、カメラをはじめとする精密光学に貢献。
    ブロック工法・先行艤装による工期の短縮は、造船・高層ビル建設に採用。
    科学的生産管理は、問題の早期解決・進行状況の把握等を容易にし、戦後10年で世界一の造船国へ躍動する原動力へ。

  • 電気溶接技術は、呉工廠で先行開発。<br />鋲(リベット)打ちによる接合と比べて、作業の効率化・軽量化・材料費節約に貢献。<br />電気溶接による船体接合はブロック建造法を可能にし、全体工程の短縮にも貢献。<br />造船業に大いに活かされる。

    電気溶接技術は、呉工廠で先行開発。
    鋲(リベット)打ちによる接合と比べて、作業の効率化・軽量化・材料費節約に貢献。
    電気溶接による船体接合はブロック建造法を可能にし、全体工程の短縮にも貢献。
    造船業に大いに活かされる。

  • 対航空機の爆弾。<br />戦艦めがけて突進する航空部隊の前でクラスター爆発を起こす焼夷弾。一度に複数の戦闘機を焼き払う。

    対航空機の爆弾。
    戦艦めがけて突進する航空部隊の前でクラスター爆発を起こす焼夷弾。一度に複数の戦闘機を焼き払う。

  • 以下は、潜水艦関係。<br />長射程を可能にした「酸素魚雷」<br />世界で唯一の技術で、呉海軍工廠魚雷実験部が開発、水雷部が製造。

    以下は、潜水艦関係。
    長射程を可能にした「酸素魚雷」
    世界で唯一の技術で、呉海軍工廠魚雷実験部が開発、水雷部が製造。

  • ニコンの前身である日本光学工業が開発した潜望鏡は、<br />何と50枚のレンズを組み合わせたもの。<br />

    ニコンの前身である日本光学工業が開発した潜望鏡は、
    何と50枚のレンズを組み合わせたもの。

  • 空母に艦載された航空機は、海軍の管轄。<br />中島飛行機は、戦後合併を経てスバルブランドで自動車を量産中。

    空母に艦載された航空機は、海軍の管轄。
    中島飛行機は、戦後合併を経てスバルブランドで自動車を量産中。

  • 軍都呉。橙は、工廠の屋根。<br />退館して、工廠跡を巡ります。

    軍都呉。橙は、工廠の屋根。
    退館して、工廠跡を巡ります。

  • 海上自衛隊の地方総監。<br />呉鎮守府時代のレンガ建築が、現役で活躍しています。

    海上自衛隊の地方総監。
    呉鎮守府時代のレンガ建築が、現役で活躍しています。

    海上自衛隊呉地方総監部第1庁舎 名所・史跡

  • 歴史の見える丘から、大和を建造したドックを見学。<br />当時はレンガ壁が巡らされ、工廠が見えないようにしていました。戦後に撤去。<br />現在はジャパンマリンユナイテッド社の工場に。同社は、舞鶴海軍工廠跡も引き継いでいます。佐世保海軍工廠は三菱造船が引き継いでいます。

    歴史の見える丘から、大和を建造したドックを見学。
    当時はレンガ壁が巡らされ、工廠が見えないようにしていました。戦後に撤去。
    現在はジャパンマリンユナイテッド社の工場に。同社は、舞鶴海軍工廠跡も引き継いでいます。佐世保海軍工廠は三菱造船が引き継いでいます。

    歴史の見える丘 名所・史跡

  • 昔は沖合で、烏小島が浮いていましたが、工廠拡大に伴って埋め立てられ、現在は潜水艦等の寄港地に。米軍施設が隣接しています。

    昔は沖合で、烏小島が浮いていましたが、工廠拡大に伴って埋め立てられ、現在は潜水艦等の寄港地に。米軍施設が隣接しています。

    アレイからすこじま 名所・史跡

  • 呉鎮守府のトップ、司令長官の公邸へ。<br />入船山全体が敷地で、公園として整備され、博物館もあります。

    呉鎮守府のトップ、司令長官の公邸へ。
    入船山全体が敷地で、公園として整備され、博物館もあります。

    入船山公園 公園・植物園

  • まずは一号館へ<br />呉は元々何もなかった場所。鎮守府を建設するということは、街造りをゼロから始めることを意味しました。埋立・造成、水道、道路、病院など、都市計画すべてに及び、一日あたり2万人の労働者が足掛け4年をかけて作り上げました。<br />写真は、計画立案と建設を管理した佐藤鎮雄大佐。<br />

    まずは一号館へ
    呉は元々何もなかった場所。鎮守府を建設するということは、街造りをゼロから始めることを意味しました。埋立・造成、水道、道路、病院など、都市計画すべてに及び、一日あたり2万人の労働者が足掛け4年をかけて作り上げました。
    写真は、計画立案と建設を管理した佐藤鎮雄大佐。

  • 船で世界と繋がるということは、感染症やパンデミックのリスクが増大することでもあります。軍港は戦地への水の補給、負傷者の治療、工業用水、消火栓等大量かつ衛生的な水を必要としました。<br />横浜・函館に次いで、近代水道が誕生したのも納得です。上水道だけでなく、下水道も重視されました。

    船で世界と繋がるということは、感染症やパンデミックのリスクが増大することでもあります。軍港は戦地への水の補給、負傷者の治療、工業用水、消火栓等大量かつ衛生的な水を必要としました。
    横浜・函館に次いで、近代水道が誕生したのも納得です。上水道だけでなく、下水道も重視されました。

  • 軍人向けの海軍病院、職工向けの共済病院、民間人向けの済生会病院を皮切りに、多くの病院が建設されました。<br />ソフト面でも、地元医師会、検疫所、学会、飲用水の供給前検査、生命保険代理店は呉が発祥です。望ましくない点としては、流行性感冒流行が初めに起こりました。

    軍人向けの海軍病院、職工向けの共済病院、民間人向けの済生会病院を皮切りに、多くの病院が建設されました。
    ソフト面でも、地元医師会、検疫所、学会、飲用水の供給前検査、生命保険代理店は呉が発祥です。望ましくない点としては、流行性感冒流行が初めに起こりました。

  • 長官の官舎。<br />執務や接待等の公的使用は洋館部分で行われました。

    長官の官舎。
    執務や接待等の公的使用は洋館部分で行われました。

  • 応接室の様子。

    応接室の様子。

  • 晩さん会のメニュー。<br />壁は金唐紙(後述)です。

    晩さん会のメニュー。
    壁は金唐紙(後述)です。

  • 洋館の後方は和館。長官とその家族のプライベートな空間です。

    洋館の後方は和館。長官とその家族のプライベートな空間です。

  • 民俗資料館では、金唐紙の展示が。<br />オランダ船で伝来した金唐革がルーツ。エンボス加工した皮革に似せた和紙を使用したものにアレンジした。皺のある紙に金属箔を貼り付けるには、技術が必要。

    民俗資料館では、金唐紙の展示が。
    オランダ船で伝来した金唐革がルーツ。エンボス加工した皮革に似せた和紙を使用したものにアレンジした。皺のある紙に金属箔を貼り付けるには、技術が必要。

  • 呉に赴任した司令長官たち。<br />加藤友三郎:ロンドン会議に主席全権委員として臨み、外交による国防を重視し、「危機の世界を明るく照らす蝋燭」と海外からも称賛される。総理大臣も務める。

    呉に赴任した司令長官たち。
    加藤友三郎:ロンドン会議に主席全権委員として臨み、外交による国防を重視し、「危機の世界を明るく照らす蝋燭」と海外からも称賛される。総理大臣も務める。

  • 鈴木貫太郎:2.26事件で重傷を負うも復帰。軍部を抑え、総理大臣として終戦を実現させる。

    鈴木貫太郎:2.26事件で重傷を負うも復帰。軍部を抑え、総理大臣として終戦を実現させる。

  • 野村吉三郎:真珠湾攻撃前後に駐米大使を務め、最後まで外交による戦争回避に尽力する。<br />不敗神話と精神論に偏り気味の陸軍とは対照的に、海軍は海外事情に通じ、現実的かつ戦闘を好まない人材を多く輩出しました。

    野村吉三郎:真珠湾攻撃前後に駐米大使を務め、最後まで外交による戦争回避に尽力する。
    不敗神話と精神論に偏り気味の陸軍とは対照的に、海軍は海外事情に通じ、現実的かつ戦闘を好まない人材を多く輩出しました。

  • 通称美術館通りには、路上アートも。<br />カエルが居るので、家路を急ぐシーンかと。<br />実は下記のツアー集合時間ギリギリだったので、私も真剣に走りました。<br />

    通称美術館通りには、路上アートも。
    カエルが居るので、家路を急ぐシーンかと。
    実は下記のツアー集合時間ギリギリだったので、私も真剣に走りました。

  • 呉港発の海上ツアーに参加。<br />インパクトを考慮すると、お得な価格だと思います。<br />工廠造船部を海から見学。

    呉港発の海上ツアーに参加。
    インパクトを考慮すると、お得な価格だと思います。
    工廠造船部を海から見学。

    呉港 乗り物

  • 海自OBと思われる年配ガイドさんの名調子と共に、非日常の光景を堪能します。

    海自OBと思われる年配ガイドさんの名調子と共に、非日常の光景を堪能します。

  • 約半分の艦艇は、練習艦でした。

    約半分の艦艇は、練習艦でした。

  • 護衛艦「さみだれ」<br />全長151メートル。<br />日本以外では、駆逐艦と呼ばれます。<br />帝国海軍時代の駆逐艦の名前を継承しています。

    護衛艦「さみだれ」
    全長151メートル。
    日本以外では、駆逐艦と呼ばれます。
    帝国海軍時代の駆逐艦の名前を継承しています。

  • 輸送艦「おおすみ」<br />日本以外では、戦車揚陸艦と呼ばれます。<br />強襲上陸艦としての性能も持ち合わせます。<br />151mある「さみだれ」がかわいらしく見えます。<br />熊本地震では、救援に派遣されました。

    輸送艦「おおすみ」
    日本以外では、戦車揚陸艦と呼ばれます。
    強襲上陸艦としての性能も持ち合わせます。
    151mある「さみだれ」がかわいらしく見えます。
    熊本地震では、救援に派遣されました。

  • 輸送艦「くにさき」<br />おおすみ級。右のハッチを開けて、戦車等がゾロゾロ。甲板にはヘリや航空機を艦載可能。<br />

    輸送艦「くにさき」
    おおすみ級。右のハッチを開けて、戦車等がゾロゾロ。甲板にはヘリや航空機を艦載可能。

  • 護衛艦「かが」<br />日本以外では、ヘリ空母、軽空母と呼ばれます。F35Bを艦載すれば、空母になります。全長248m。<br />帝国海軍の空母の名称を継承しています。

    護衛艦「かが」
    日本以外では、ヘリ空母、軽空母と呼ばれます。F35Bを艦載すれば、空母になります。全長248m。
    帝国海軍の空母の名称を継承しています。

  • 敷設艦「むろと」<br />ソナーや基地間の通信ケーブルを敷設します。

    敷設艦「むろと」
    ソナーや基地間の通信ケーブルを敷設します。

  • むろとと潜水艦<br />潜水艦上では、午後5時の旭章旗を降ろす儀式を行っているところです。

    むろとと潜水艦
    潜水艦上では、午後5時の旭章旗を降ろす儀式を行っているところです。

  • ヘリ空母「かが」背面。駆逐艦には主砲が。<br />自衛隊法では防衛力と表現しますが、海外ではストレートに軍事力と表現します。

    ヘリ空母「かが」背面。駆逐艦には主砲が。
    自衛隊法では防衛力と表現しますが、海外ではストレートに軍事力と表現します。

  • 以下は、大和ミュージアムのマニアックな展示なので、読み飛ばすのが賢明かと。<br />呉郊外の広に設立された工廠と飛行艇開発の歴史です。<br />八八艦隊計画という軍拡が決定した際、既に呉は土地不足。そのような背景で広支廠として設立。<br />

    以下は、大和ミュージアムのマニアックな展示なので、読み飛ばすのが賢明かと。
    呉郊外の広に設立された工廠と飛行艇開発の歴史です。
    八八艦隊計画という軍拡が決定した際、既に呉は土地不足。そのような背景で広支廠として設立。

  • 第一次世界大戦における航空機の活躍に注目した海軍は、広に日本最大の航空機部門(独立した専門部署)を設置。ワシントン海軍軍縮条約により主力艦の建造が制限されると、傾向はより顕著に。航空機の国産化と量産化が目標でした。設立3年後には、支廠ではなく、広海軍工廠として独立。

    第一次世界大戦における航空機の活躍に注目した海軍は、広に日本最大の航空機部門(独立した専門部署)を設置。ワシントン海軍軍縮条約により主力艦の建造が制限されると、傾向はより顕著に。航空機の国産化と量産化が目標でした。設立3年後には、支廠ではなく、広海軍工廠として独立。

  • 上記の[国産化]とは、輸入した航空機のコピーを制作することでした。<br />ただし、部品は輸入に頼っていました。<br />[量産]は、中島飛行機(富士重工業の前身)と愛知電機時計で行われました。<br />写真はF-5型機。

    上記の[国産化]とは、輸入した航空機のコピーを制作することでした。
    ただし、部品は輸入に頼っていました。
    [量産]は、中島飛行機(富士重工業の前身)と愛知電機時計で行われました。
    写真はF-5型機。

  • 航空黎明期の長距離機のメインは[飛行艇]でした。<br />水陸両用機、厳密に言うと、水上飛行の際に写真のように機体が水面に沈むタイプです。<br />当時の飛行機は信頼性が低く、飛行中にトラブル発生で不時着することも度々。長距離路線では、洋上で緊急着陸できる水陸両用機が重宝されました。<br />部品の中でも、特にデリケートな形状が要求されるプロペラ部分は、木製でした。

    航空黎明期の長距離機のメインは[飛行艇]でした。
    水陸両用機、厳密に言うと、水上飛行の際に写真のように機体が水面に沈むタイプです。
    当時の飛行機は信頼性が低く、飛行中にトラブル発生で不時着することも度々。長距離路線では、洋上で緊急着陸できる水陸両用機が重宝されました。
    部品の中でも、特にデリケートな形状が要求されるプロペラ部分は、木製でした。

  • 航空用エンジンの開発は、ベンツやルノーのエンジンを輸入して、コピーを作成する[国産化]がルーツです。<br />写真は、広く採用されたローレン400馬力エンジン。第一次世界大戦中に開発された古いエンジンを終戦6年目(大正13年)にようやくコピー。それを一生懸命製造しているのが、当時の日本の「最先端」です。<br />航空機は、機体とエンジンを別個に考えるようです。現在も、機体メーカーとエンジンメーカーは別個です。

    航空用エンジンの開発は、ベンツやルノーのエンジンを輸入して、コピーを作成する[国産化]がルーツです。
    写真は、広く採用されたローレン400馬力エンジン。第一次世界大戦中に開発された古いエンジンを終戦6年目(大正13年)にようやくコピー。それを一生懸命製造しているのが、当時の日本の「最先端」です。
    航空機は、機体とエンジンを別個に考えるようです。現在も、機体メーカーとエンジンメーカーは別個です。

  • 昭和2年には、機体の設計から製造まで外国の手を借りずに行った一五式が完成。<br />最高速度170km、航続時間は14.5時間で、長距離哨戒も可能。量産されました。

    昭和2年には、機体の設計から製造まで外国の手を借りずに行った一五式が完成。
    最高速度170km、航続時間は14.5時間で、長距離哨戒も可能。量産されました。

  • 機体の素材として金属のみを用いる研究も、ごく初期から行われていました。昭和2年にはR1~3号機が作成されました。広で制作された3号機はロールバッハ社製のオリジナルに設計上の改良を加えました。3機とも問題点山積で試作に終わりました。

    機体の素材として金属のみを用いる研究も、ごく初期から行われていました。昭和2年にはR1~3号機が作成されました。広で制作された3号機はロールバッハ社製のオリジナルに設計上の改良を加えました。3機とも問題点山積で試作に終わりました。

  • 昭和5年には、広で設計・製造された八九型を作成。翼は複葉です。本部の要請で、翌年には単葉の九〇型も誕生。いずれも試作に終わります。全金属製の難しさが浮き彫りにされます。

    昭和5年には、広で設計・製造された八九型を作成。翼は複葉です。本部の要請で、翌年には単葉の九〇型も誕生。いずれも試作に終わります。全金属製の難しさが浮き彫りにされます。

  • 上記の八九型に搭載されたエンジンは、広で設計・製造された600馬力で、大正末期に誕生したものです。その後も多くのエンジンが開発され、量産化しています。

    上記の八九型に搭載されたエンジンは、広で設計・製造された600馬力で、大正末期に誕生したものです。その後も多くのエンジンが開発され、量産化しています。

  • 上記の飛行艇の後継機として、昭和7年に九一型を作成するも、問題が多く改良が終わったのは昭和12年。欧米機に大きく後れを取ったものとなりました。

    上記の飛行艇の後継機として、昭和7年に九一型を作成するも、問題が多く改良が終わったのは昭和12年。欧米機に大きく後れを取ったものとなりました。

  • 昭和7年以降は、開発設計は横須賀が本拠地に。広の航空機開発部門は徐々にシフトされ、航空機部門は製造に専念することになります。

    昭和7年以降は、開発設計は横須賀が本拠地に。広の航空機開発部門は徐々にシフトされ、航空機部門は製造に専念することになります。

  • 昭和16年には、第十一海軍航空廠として広工廠から独立した組織に昇格します。佐世保の第二十一海軍航空廠と並ぶ、一大航空機製造拠点となりました。

    昭和16年には、第十一海軍航空廠として広工廠から独立した組織に昇格します。佐世保の第二十一海軍航空廠と並ぶ、一大航空機製造拠点となりました。

  • 第十一海軍航空廠では、機体よりもエンジン製造がメインでした。三菱が開発した「金星」「火星」「誉」等を量産しました。写真の「誉」は、紫電改にも搭載された2000PS級のエンジンです。

    第十一海軍航空廠では、機体よりもエンジン製造がメインでした。三菱が開発した「金星」「火星」「誉」等を量産しました。写真の「誉」は、紫電改にも搭載された2000PS級のエンジンです。

  • 昭和19年から空襲が本格化し、第十一廠も、工場を隣接県へ移転したり、本廠も岩国へ移転する計画が進んでいました。昭和20年6月には広工廠が第十一廠に合併され、機能が強化されました。鍛造していたエンジン部品を鋳造するプロジェクトも進んでいました。

    昭和19年から空襲が本格化し、第十一廠も、工場を隣接県へ移転したり、本廠も岩国へ移転する計画が進んでいました。昭和20年6月には広工廠が第十一廠に合併され、機能が強化されました。鍛造していたエンジン部品を鋳造するプロジェクトも進んでいました。

  • 終戦後、連合軍に接収されますが、返還されて民間企業が進出します。海軍施設だった名残を感じさせるものとしては、特殊鋼の広島メタル&マシナリー、蒸気タービンの新日本造機、米軍広火薬庫です。

    終戦後、連合軍に接収されますが、返還されて民間企業が進出します。海軍施設だった名残を感じさせるものとしては、特殊鋼の広島メタル&マシナリー、蒸気タービンの新日本造機、米軍広火薬庫です。

  • 話を飛行艇に戻します。<br />飛行艇開発で広工廠の跡を継いだのが、川西航空機(新明和工業の前身)です。<br />昭和5年に海軍の要請を受けて、イギリスへ技術陣を派遣し、全金属機設計のノウハウを吸収します。量産にも関わり、経験を積みます。<br />昭和8年には、海軍から九一型の後継機開発を命じられ、13年に九七型を作成。最終的に世界水準を超える巡航速度385km/h・航続距離4939kmというハイスペックを実現。海軍のみならず民間機にも採用され、南洋諸島との往復にも活躍しました。

    話を飛行艇に戻します。
    飛行艇開発で広工廠の跡を継いだのが、川西航空機(新明和工業の前身)です。
    昭和5年に海軍の要請を受けて、イギリスへ技術陣を派遣し、全金属機設計のノウハウを吸収します。量産にも関わり、経験を積みます。
    昭和8年には、海軍から九一型の後継機開発を命じられ、13年に九七型を作成。最終的に世界水準を超える巡航速度385km/h・航続距離4939kmというハイスペックを実現。海軍のみならず民間機にも採用され、南洋諸島との往復にも活躍しました。

  • 上記の成功後、川西航空機は二式飛行艇の開発を命じられます。昭和17年に量産化し、最高速度466km/h(巡航速度は不明)、航続距離7200kmを実現しました。エンジンは三菱の「火星」を搭載しました。<br />※他の資料では、設計は中島飛行機・製作は川西航空機とされ、こちらの方が正確なようです。

    上記の成功後、川西航空機は二式飛行艇の開発を命じられます。昭和17年に量産化し、最高速度466km/h(巡航速度は不明)、航続距離7200kmを実現しました。エンジンは三菱の「火星」を搭載しました。
    ※他の資料では、設計は中島飛行機・製作は川西航空機とされ、こちらの方が正確なようです。

  • 航空機メーカーとしての地位を築いた川西航空機は、航空艇だけでなく、ゼロ戦として有名な「紫電改」も開発しています。

    航空機メーカーとしての地位を築いた川西航空機は、航空艇だけでなく、ゼロ戦として有名な「紫電改」も開発しています。

  • 戦後GHQによる航空禁止令が敷かれ、昭和27年の主権回復まで続きます。<br />解禁後、飛行艇の開発は新明和興行(後に工業へ改名)がリードし、昭和32年には「溝型波消装置」を開発し、米海軍が協力を申し出るほどのものでした。3年後には防衛庁の対潜哨戒機として採用を決定。昭和45年にPS-1として日の目を見ます。波高3mの時化た水面でも離着陸できる優れものです。<br />※F-Xに代表される次期航空機選定は、開発時点で青田買いするのも珍しくないです。

    戦後GHQによる航空禁止令が敷かれ、昭和27年の主権回復まで続きます。
    解禁後、飛行艇の開発は新明和興行(後に工業へ改名)がリードし、昭和32年には「溝型波消装置」を開発し、米海軍が協力を申し出るほどのものでした。3年後には防衛庁の対潜哨戒機として採用を決定。昭和45年にPS-1として日の目を見ます。波高3mの時化た水面でも離着陸できる優れものです。
    ※F-Xに代表される次期航空機選定は、開発時点で青田買いするのも珍しくないです。

  • 新明和工業は、昭和48年に救難用水陸両用飛行艇を防衛庁より受注。PS-1をベースに開発したUS-1を昭和50年に納入。以後30年間生産されるロングセラーに。平成16年にはUS-2を納入開始。救難飛行艇部隊は、一貫して岩国の海自第71航空隊が担当しています。<br /><br />次の旅行記↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11726314<br />前の旅行記↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11732889

    新明和工業は、昭和48年に救難用水陸両用飛行艇を防衛庁より受注。PS-1をベースに開発したUS-1を昭和50年に納入。以後30年間生産されるロングセラーに。平成16年にはUS-2を納入開始。救難飛行艇部隊は、一貫して岩国の海自第71航空隊が担当しています。

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