2020/01/27 - 2021/01/27
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
小国コスタリカで、
国全体のことが分かる珠玉の博物館に出会いました。
しかも無料です。
欧米列強の権益が絡む酸い歴史です。
コスタリカ紀行1 野生動物の宝庫カラーラ国立公園
https://4travel.jp/travelogue/11681891
コスタリカ紀行2 幻の鳥ケツァールに遭う
https://4travel.jp/travelogue/11697862
- 旅行の満足度
- 5.0
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アラフエラへは、空港へ行くバスの終点まで乗車すると到着します。
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地元出身の国民的英雄の名前を冠した博物館へ入城。
「爆弾三勇士」みたいなエピソードを持ちます(後述)。フアン サンタマリア博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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共和国独立までの道
入植者たちは、平原を耕し、農場や家を建設した。快適なカルタゴ(1563年設立)から、未開の西方へ進んだ。1706年にはエレディア、1732年にはサンホセ、1782年にはアラフエラに都市を設立した。サトウキビ、タバコ、牛を輸出した。
1821年、突然にスペイン本国からの庇護が途絶えた。 -
主要な町には民兵がいた。当初、彼らは先住民を征服し、海賊の攻撃を撃退した。征服に際しては、本国の公的支援を受けた。1560年、スペイン王国の最初の分遣隊がコスタリカに到着した。1750~1824年の間に、民兵は35人の兵士から成る騎兵大隊と、130人の兵士から成る歩兵大隊に編成された。
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都市紹介:カルタゴ
1マイル四方の都市で、7つの教会がある。
通りに沿って灌漑水路が流れ、清潔で涼しい環境である。カルタゴ火山の南側に位置し、サンホセの東方15マイルの場所にある都市である。住民はフレンドリーで礼儀正しい。
(英国からの旅行者ジョン・ヘールによる) -
エレディア
ヴィエハ(エレディアの旧称)はサンホセから西へ6マイルのところあり、美しいサバンナ(熱帯草原)を横切るルートである。この地方で最も古い町の一つであり、中央広場に面して非常に立派な教会があり、広場ではクリスマスが祝われる。
(ジョン・ヘールによる) -
サンホセ
スペイン領コスタリカの主都で、広大な卓状地に位置する。
教会は一つしかなく、特別言及するような大きな建物は一つもない。
一般に中南米で見られるように、通りはまっすぐに伸びる。
碁盤の目状の道路で区切られた区画が何百もあるが、
建物はいずれも平屋建てである。
稀に石造りもあるが、建物は干レンガ造りである。
町の周りは農地が広がり、そのほとんどはコーヒー農園である。
(1845年 スコットランド人の旅行者ロバート・グラスゴー・ダンロップによる) -
アラフエラ
人口1万人の都市であり、中央広場に面した教会や市民会館や建物は、とにかく美しい。新しい家は、大きな窓とウッドバルコニー、長大なギャラリーを設置している。
(ジョン・ロイド・スチーブンス(米国の旅行者)による) -
プンタレナス
メインロードに沿って木造建築が立ち並ぶ細長い街で、サンホセとは対照的である。平屋ではなく2階があるが、激しいスコール対策で屋根はこけら板で覆われ、その点はサンホセの建築と同じである。敷地(庭)にはヤシやパパイヤの木、ミモサやアカシアが植えられ、隣の家との境界線を兼ねる。
(1853年 ドイツ人旅行者モリツ・ワグナーによる) -
中米連邦国時代の年表
1821:独立が宣言され、初の憲法である同意協定が発効。
グレゴリオ・ホセ・ラミレス(写真)らが起草。
1823:帝国派(前年に建国したメキシコ帝国への合併を主張。カルタゴとエレディア)と共和派(サンホセとアラフエラ)によるオチョモゴ会戦(第一次内戦)勃発。共和派が勝利し、カルタゴからサンホセに遷都される。
1824::中米連邦国に加盟し、翌年には2番目の憲法が制定される。
1825:最初の貨幣が鋳造される。
フアン・モラ・フェルナンデス(写真)が初の元首(~1833)に選出される。
北西部の ニコヤ地方が領土に加わる。
天使のマリアを 国の守護天使とする。カトリックを公式宗教とする。
1829:「4月法」により中米連邦国を離脱、1831に再加入。
1830:印刷機を輸入。新聞発行の素地ができる。
1833:ホセ・ラファエル・ガレゴスが元首となる(~1835)。
1834:アンブランシア法(主都を4都市(サンホセ/カルタゴ/エレディア/アラフエラ)で3か月毎の持ち回り制にする)制定
最初の新聞「ラテルトゥリア」紙が創刊 -
国家の構築
1835:ブラウデオ・カリーリョ(写真)が暫定で元首になる(~1837)
アンブランシア法廃止に抗議した3都市が政府に挙兵するも鎮圧される。主都はサンホセに統一される。
1838:最初のクーデター。マヌエル・アギラールはカリーリョを首謀者とする軍事クーデターで元首の座を奪われる。再び権力の座に就いたカリーリョ(~1842)は、中米連邦国から離脱する。
1839:中米連邦国が瓦解する。
関税法制定。コスタリカ~ニカラグア間のラバによる貿易減少。
1840:プンタレナス港を再構築。北太平洋向けの牛が、アラフエラで売買されるようになる。
1841:保証法(独裁色の強い国家基本法)および民法が施行され、浮浪や悪徳、犯罪を禁止される。
カルタゴが大地震に見舞われる。 -
独立国家として
1842:5月11日、フランシスコ・モラサンは、ブラウリオ・カリーリョ政権を打倒した。中米連邦復活を目指して海外派兵を実行しようとしたため、9月11日にモラサンに反対する大衆が蜂起し、後に彼は処刑される。
その後ホセ・マリア・アルファロが元首になる(~1844)。(事実上の政府機関紙)メントル・コスタリエンセ紙を創刊。翌年には、サント・トマス大学を設立する。
1845:ブラウリオ・カリーリョが亡命先のエルサルバドルで暗殺される。
ホセ・ラファエル・ガレゴス(写真)が再び元首になる。
1846:6月7日の軍事クーデターでガジェゴス政権が転覆。ホセ・マリア・アルフォロが再び元首になる。
1847:ホセ・マリア・カストロ・マドリス(写真)が元首になる。メントル・コスタリエンセ紙が廃刊、「エルコスタリエンセ」紙が創刊。
1848:最初のコーヒー危機(国際市場での価格下落)
フアン・アルファロ・ルイスが反乱を起こす。
新憲法により「コスタリカ共和国」が誕生、カストロ・マドリスは初代「大統領」となる。 -
フアン・モラ・フェルナンデス(1784-1854)
コスタリカの初代元首(1825-33)を務める。
おもな業績は下記の通り。
・牧畜が盛んなニコヤ地方を併合して牛を輸出
・自由国家基本法や4月法などの法整備
・国の守護聖人にカルタゴの天使のマリア(聖母マリアとは別人)を制定
・コーヒー栽培に目を付け、一大産業へ育成。
・造幣局の設立
・印刷機を輸入し、最初の新聞を刊行
・初等教育の整備
・司法制度の整備 -
1840-60の道路地図
黄緑:サンホセ~マティナ
桃色:サンホセ~プンタレナス 140kmの行程に24の中継点。所要3日
朱色:プンタレナス~リヴァス(ニカラグア領) 432kmに80の中継点 所要8日 -
狭くてぬかるんだ道…マティナへの道
このルートの輸送は、下記のように行われる。
サンホセ~カルタゴ間:荷馬車
その先は、トゥリアルバ経由で畜獣の背中or徒歩でマティナまで運んだ。
その先は、マティナ川を河口まで平底船で輸送。
その先は、海岸線に沿ってモインまで徒歩で輸送する。 -
プンタレナスへの道
国のメインルートで、牛の曳く荷車に適している。1842年開通。
グアカテ山(標高1800mの峠)を越えて太平洋へ至る長い道のり。
二輪の荷車にコーヒー袋を載せて輸送する。
乾季に通行するのが最適である。5月から7月末までの通行は非常に困難であり、8月から11月に至っては通行不可能である。 -
リヴァスへの道
植民地時代、ニカラグアからコスタリカへ(時にはパナマまで)ラバで輸送された。ニカラグアから牛が伝来したのも、独立宣言が伝達されたのも、このルートである。
コスタリカの政治商業を支え、他の中米諸国を結ぶ大動脈である。
乾季の通行が適し、雨季は増水した川の水が道を完全に覆ってしまい、沼地になってしまう。 -
革製のサンダル
1856年の祖国防衛時に兵士が着用したサンダル。サンホセ~ニカラグアへ移動するため、一人当たり3足支給された。 -
当時のファッション
英国へのコーヒー輸出と引き換えに、コスタリカへは上流階級向けへの純白の衣装が輸入された。 一方で、庶民は安い生地の服を着ていた。全般的に、特に若者には明るい色が好まれた。 -
フアン・ラファエル・モラ・ポラス(1814-60)
1849-59まで(3選)大統領を務める。農業と貿易の振興および酒タバコの専売で、政府歳入を増大させる。予算は、国家機関整備とそれに伴う公務員雇用、道路等のインフラ整備、軍備増強に充てられた。 -
経済
1850年の時点で、コーヒーはサンホセ周辺の農園で盛んに栽培されていた。とはいえ、少し前までは、庭を彩る観賞用の植物に過ぎなかった。
コーヒー、タバコ、コーヒーはラバの背中に積まれ、太平洋岸のプンタレナス港まで運ばれた。モラ、モンテアレグレ等で収穫された果物と共に英国へ輸出された。航海は数か月に及び、英国では織物や帽子、椅子や書籍、ピアノまでが積み込まれた。
※余談ですが、現地の友人と外を歩いていると、空地の茂みを指差して「これコーヒーの木」と言われることが度々ありました。 -
衛生状態
19世紀には伝染病が蔓延していた。大半の人は裸足で歩いていた。衣服は頻繁に洗濯されず、水源は人間や家畜の排せつ物で汚染されていた。1856年にはコレラが大蔓延し、人口の1割が失われた。19世紀には天然痘、黄熱病、赤痢、マラリア、梅毒、ハンセン病にも見舞われた。かろうじて、1840年代に最初の病院が建設された。
※現在のコスタリカは、水道水が飲用に適している数少ない国の一つです。石鹸で手を洗う習慣が、子どもを含めて国民全体に浸透している姿を見て驚かされました。公共施設の水道蛇口に石鹸がぶら下がっていることも珍しくないです。旅行中の衛生面でのストレスの少ない珍しい国です。 -
教育
以下は建国30年後の時点での話である。1851年には既に、サントーマス大学が存在していた。主要都市には小学校が設立され、生徒は読み書き計算、(カトリックの信仰に基づく)教理問答を履修した。首都には教員養成機関と、女学校もあった。(女子は学校へ行かないのが普通だった) -
テクノロジー
我々には街燈がある! それまでは炭火を絶やさないようにし、着火・照明用の火力を得ていたが、今やマッチがある。西洋から、万年筆や金属製の鋤、ステアリン油脂を固めたロウソクが輸入された。製糖工場は水車を動力とした。すべては変化した。 -
服飾・装い
絹やカシミアは富裕層、綿は庶民の服飾素材だった。庶民の服は高価でなく、襟が無くまったく洗練されていなかった。帽子やブーツ、柄が金や大理石で装飾されたステッキなどのアクセサリーが、コーヒー農場経営者の共通スタイルになった。労働者の月給が15-18ペソだったのに対し、彼らのおしゃれな装いは30ペソを要した。 -
軍服
上段左上より:歩兵部隊の将校、騎銃兵、民兵部隊の将校、太鼓持ち(戦場の意気高揚)、
下段:騎兵隊の将官、騎兵隊の将校、水兵、旅団長(将官となっているが、通常は大佐)、砲兵部隊の将校、砲兵。
※民兵は白い服。正規兵はブーツ着用だが、民兵や楽隊はサンダル。将校は階級が高いほど襟が高いが、兵士は動きやすい服装。1856年初頭のコスタリカ軍の正規兵は数百人しかいなかった。 -
文化
植民地での文化は、新興のヨーロッパ移民の文化と混合し始めた。三時のチョコレート、行進、闘鶏といった既存の文化に加え、今やビリヤード、ピアノを習うこと、社交ダンスといった文化ももたらされた。カトリックの公開問答集は、セルバンテスやバイロン、アダム・スミス等の古典作品と一緒に本棚で眠ることになった。全ては、教会が罪とみなす方向へ進んでいった。 -
以降は、隣国ニカラグアを掌握したアメリカ人私兵部隊との防衛戦争に焦点が当てられます。
太平洋と大西洋の横断が容易な「地峡」に位置するため、英米の利権争いに巻き込まれます。 -
クレートン・ブルワー条約
大西洋と太平洋を結ぶ運河を建設する計画は、既に19世紀半ばに存在した。英国はこの計画に興味を示し、有利な立場にあった。モスキティア(ホンジュラスとニカラグア沿いの大西洋岸)を配下に置いていたからである。米国もこの計画に興味を示し、英国の動きを警戒した。現地での両者の緊張が高まったため、戦争を避けるために両国は1850年4月19日に上記の条約を締結した。 -
英国が主張するミスキティア王国の領土
地図上の「モスキティア」は、1856年にはニカラグアの新聞に掲載されたものである。「英国保護領モスキティア王国(1834-60)」として一般に認識されている領土よりも、幾らか大きめ(現在のホンジュラス・コスタリカ・パナマ領にも食い込んでいる)の範囲を主張していた。
※1860年にニカラグアと英国が結んだグラナダ条約で、主権を放棄した。ベリーズは、1981年に英国から独立を果たしている。 -
米国の介入
英国の植民地化を警戒したニカラグアは、1849年に米国と条約を締結し、ニカラグアの領土で米国に独占的な運河通過権を与えた。見返りとして、米国は外国勢力からの保護を約束した。 -
18世紀後期に東海岸の英国13植民地からスタートした米国は、建国から100年もしないうちに、北米大陸のかなりの部分を領有するようになった。馬車とマネーと銃弾を手に次々と都市を設立し、1853年にはメキシコ領も購入した。
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アメリカ合衆国の伸展と題する絵画
大都会マンハッタンからロッキー山脈を目指して、女神が文明と啓蒙を伝える。
馬車や鉄道を敷いて、西部を「開拓」して先住民や野生動物を西へ西へと追いやることを神からの使命として描いている。当時の価値観が良く表れている一枚。 -
アクセサリー・トランジット・カンパニー
鉄道王とも呼ばれたアメリカの大富豪コーネリアス・ヴァンダーヴィルドによって、アメリカ東海岸と1848年に金が発見された西海岸の間(=大陸横断)で貨物や人を輸送するために設立された会社。
中米では、ニカラグア湖を経由する横断路「トランジット・ルート(字義:輸送路)」を1851年に確立した。さらに、合衆国政府の権益を活用して両洋を横断する運河建設も企む。
※運河はパナマ地峡に建設されたことは、周知のとおり。 -
上記のルートの詳細
大西洋岸のサンフアン・デルノルテ(英名ではグレイタウン)からサンフアン川遡上し、ニカラグア湖に到達する。湖を横断後、駅馬車でリヴァス地峡を横断。大西洋岸のサンフアン・スールに到着する。地峡が輸送のネックだった。 -
フィルバスターとは?
19世紀に米国で組織された私兵集団である。彼らの目的は、平和裏に相手国の領土を侵略することである。米本国では違法だったが、(奴隷制に肯定的な)南部諸州からの政治的支援と寛容さを得ていた。上記の鉄道海運王ヴァンダーヴィルドは、フィルバスターのことを嫌っていた。 -
フィルバスターは、領土拡大の目標を達成する手段となったが、(メキシコの)ソノラやキューバ、ニカラグアの場合のように常に成功するとは限らなかった。
地図:ウイリアム・ウォーカーは1853年に45人の部下とメキシコ入りし、カリフォルニア半島に「ロウアー(低地)カリフォルニア共和国」を、翌年にはソノラに「ソノラ共和国」を勝手に樹立する。 -
グレーの瞳をした男の運命
ウイリアム・ウォーカーの身長は5フィート5インチ、体重130ポンド(165cm59kg)の小柄な男だった。しかし、強靭で活力にあふれている。活動力と決意の強さは鼻の形に、鋭い洞察力と催眠術に掛けるような眼は、天性のグレーの瞳をした男というニックネームを与えた。 -
内戦勃発
1854年のニカラグア大統領選挙は、市民の不満を引き起こした。レオンの自由党は、保守党のフルート・チャモロ候補の勝利を認めなかった。代わりにフランシスコ・カステリョンを大統領にすると宣言し、内戦が勃発した。 -
保守派とリベラル派の争いは、ニカラグア建国当初から続いていた。
保守派もしくは王党派はグラナダを本拠地とし、リベラル派もしくは民主派はレオンを本拠地とした。両者の争いは、内戦とウイリアム・ウォーカーが侵攻する隙を与えてしまった。1855年6月のことである。
※グラナダとレオンは、地図上で橙の点で表示。 -
ウイリアム・ウォーカー、ニカラグアに到着する。
リベラル派は兵力を強化すべく、ウィリアム・ウォーカー率いるフィリバスター勢力を傭兵として雇った。一行は1855年6月29日に到着した。
ウォーカーは、弁護士・医師・ジャーナリストの肩書きを持ち、米国テネシー州で活動していた。それ以上に、彼は狂信的な奴隷主義思想を抱く冒険家として、メキシコに非合法的な国家を樹立すべく蜂起していた。彼らはブリッグ号の営倉に乗って、ニカラグアのレアレホ港に上陸した。 -
レアレホ上陸の様子。
補足:ウイリアム・ウォーカー率いる傭兵団には、filibustersという英単語が用いられている。この単語の用法はかなり限定的で、19世紀に中南米へ侵入して、現地でクーデターや革命や分離独立を目的とした軍事行動を起こすアメリカ人勢力を指して用いられる。
近年では、アメリカ合衆国議会上院での議事妨害という、極めて限定的な行為を指して用いられるようになった。 -
リヴァスでの緒戦(1855年6月29日)
ウイリアム・ウォーカー率いるリベラル派勢力はレオンから南下し、保守派の拠点リヴァスを攻撃した。保守派は町の中央広場の手前で、敵の侵攻を食い止めた。ウォーカーらは、町はずれの日干しレンガでできた家々に避難した。保守派のエマヌエル・モンガロとネリー・ファハルドは、避難先の一軒であるマキシモ・ピノザ邸に火をかけた。この行動が決定打となり、ウォーカー軍はリヴァスから撤退した。 -
ラ・ヴィルゲンの戦い
リヴァスから(更に南下し、ニカラグア湖西岸の)ラ・ヴィルゲンへ向かったウォーカーは、ここで保守派勢力を迎え撃つ。先住民の信頼を勝ち取ったウォーカー軍は勝利する。さらに捕虜は銃剣で刺し通して処刑するというニカラグアの慣習に従わず、捕虜を寛大に扱った。 -
こうした評判は近隣に広まり、ウォーカーに与する民衆勢力が形成され、ニカラグア南部を掌握した。そして隣接するコスタリカ侵攻も企てる。
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ウイリアム・ウォーカーと傭兵団の真の目的は、ニカラグア内戦を利用して現地にアメリカ合衆国に加盟する奴隷州を建設することだった。
コスタリカの大統領フアン・ラファエル・モラは、脅威を感じた。 -
クロドミロ・エスカランテ少佐は、リベリアでフィルバスターを迎え撃つことを指揮官のモラ将軍(モラ大統領の弟)へ立案した。首脳は精査し、国境に近いサンタローサで迎え撃つプランに練り直した。
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コスタリカ軍の進路①
薄い橙:1856/3/3モラ将軍率いる本隊がサンホセを発ち、陸路で3/12リベリア着、リベリア周辺の兵を集めたカニャス将軍(大統領の義弟)の部隊と合流。進軍先のサンタローサ(3/20)とリヴァス(4/11)で会戦。 -
サンタ・ローサの戦い(1856年3月20日)
グアナカステ地方のニカラグア国境に近いサンタ・ローサ村の牧場で、コスタリカ軍とフィルバスターは戦闘を開始した。
ルイス・シーシンガー大佐率いるフィリバスター勢力は、4つの部隊で構成され、カリフォルニア部隊は石の囲いの中に、ニューヨーク部隊、ニューオリンズ部隊、フランス人部隊は、住宅の前に陣取った。
コスタリカは、ロレンツォ・サラザール将軍率いる本隊と、ホセ・マリア・グティエレス大尉率いる別動隊、マテオ・マリン大尉率いる砲撃隊による奇襲をかけた。正面から攻撃する本体と、後ろを回って住宅の背後から攻撃する別動隊の挟み撃ちに遭い、戦闘はわずか14分間で決着がついた。 -
住宅部分は、カサーノ・サンタマリア(サンタマリアの家)として、コスタリカの歴史遺産として公開されていましたが、最近焼失し、2001年に再建されて現在に至ります。
※この家は、別動隊を率いたグテイエレス大尉の妻の実家です。こうした点も、作戦に大いに影響したと思われます。 -
ピニュエリタの丘
戦況を俯瞰できる丘に、コスタリカ軍の司令部がおかれました。 -
サルディナルの戦い(4月10日)
3月末、モラ大統領は、フロレンティーノ・アルファロ将軍に100人の兵を率いてアラフエラを発つように指示した。彼らがサルディナル川がサラピキ川に合流するデルタ地帯に到着したとき、フィリバスター勢力が4隻の船で到着し、戦闘が始まった。戦闘は1時間に及び、屍を残してフィリバスターは退却した。コスタリカ軍は、ムエーレへ引き返した。 -
リヴァスの戦い(1856年4月11日)
ウイリアム・ウォーカーの軍勢はフランシスコ・ゲラの家(写真中央)に立て籠もり、教会の尖塔からの狙撃もあって市街戦を有利に展開した。事態を打破すべく、コスタリカ軍はゲラの家に火を付けようとしたが、ことごとく失敗する。そんな中、アラフエラ出身のフアン・サンタマリアは身を賭して放火し、コスタリカは勝利する。救国の英雄誕生の瞬間である。 -
撤退と戦争の再開
リヴァス戦勝利の翌日にコレラが発生したため、急遽撤退する。帰還兵が持ち帰ったコレラウイルスで、国民の1割が病死した。パンデミック後、コスタリカは軍事行動を再開した。
2回目の軍事行動は、フィルバスターの補給路を断つためにトランジットルートを両側から制圧することである。 -
11月1日に攻撃命令が出ると、本隊はリベリアから陸路でニカラグアへ入り、サンフアン・デルスールおよびリヴァスと転戦する。
11月10日には艦隊がプンタレナスを発ち、サンフアン・デルスール沖でフィルバスター艦隊と対峙するも撃沈され、サンフアン・デルスールを失う。 -
12月5日にマシモ・ブランコ率いる別働隊が、アラフエラを発った。
サラピキ川を筏で下る最中に嵐に遭って損失を被るも、なんとか21日にはサンフアン川に合流するラ・トリニダードに到着する。 -
ラトリニダードの戦い(12月22日)
午後1時、30名のコスタリカ兵を率いたマシモ・ブランコ軍曹は、彼らを4つのゲリラ部隊に分けて敵を襲った。予期せぬ攻撃に、フィルバスターは応戦する時間もなかった。スペンサー率いる援軍も到着した。
そのままサンフアン川を下り、河口の町サンフアン・デルノルテへ向かう。 -
蒸気船捕獲(12月23日)
午前5時、サンフアン・デルノルテでコスタリカ軍は、4隻(マチュカ、ウィーラー、モーガン、ブルワー)の米国蒸気船を捕獲した。作戦は、一発の銃弾も発することなく遂行された。現地の米国人は、英国に介入を依頼したが、英国将校ジョン・E・アースキン大尉は、コスタリカ人の捕獲使用を認めている。 -
英国とコスタリカの関係
1856年にコスタリカがウイリアム・ウォーカーに宣戦布告した際に、英国は表立ってコスタリカ側に付かなかった。1850年のクレートン・ブルワー条約調印が縛りになっていたからである。だが、とりわけニカラグアが米国に運河の権利を与えると、英国はコスタリカを同情と寛容の目で見た。コスタリカへ武器販路だけでなく、1856年12月に英国配下のサンフアン・デルノルテでコスタリカが蒸気船を拿捕した際も寛容に対応した。1856年末に、ウイリアム・ウォーカーは両政府の外交通信を手に入れた。これらの文書は、英国が中米の紛争で中立を守るという合意に違反したことを示す証拠としてワシントンへ提示された。それ以降、英国によるコスタリカへの援助は減少していった。中米における英国の影響力が低下するきっかけとなった。 -
カスティーリョ・ヴィエホの戦い(12月26日)
サンカルロス川を下るルートでサンフアン川を目指したもうひとつの別働隊は、合流点カスティーリョ・ヴィエホ(字義:古い城)にある17世紀建設の砦を攻略する。
サンフアン川を遡って、ニカラグア湖に面したサンカルロス要塞を目指す。 -
サンカルロス要塞の攻略(1856年12月30日)
ニカラグア湖を掌握したコスタリカ軍の主な武器は、弾丸ではなく創意工夫だった。
彼らは旅行者に紛して、フィルバスターが守るサンカルロス要塞を攻略。
翌年1月3日には、アメリカ人乗客350人を乗せた蒸気船「サンカルロス」号を拿捕。水上ルートを完全に掌握する。 -
その後もフィルバスターは敗退を続け、リヴァスで最後の籠城戦に入った。ウイリアム・ウォーカーは、コスタリカ軍が輸送路を掌握したことを知り、意気消沈した。食料は大幅に減少し、兵士たちは空腹、怪我やその他の疾患に悩まされていた。新入の多くはウォーカーに騙されたと陰口を叩いた。彼らは皆ラバの肉を食べていたが、ごく少量だったので、ヘニングセン次のように不満を述べている。このままだと人肉を食べることになる、、、
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ウイリアム・ウォーカー降伏する
1857年5月1日、米国海軍のコルベット艦「サンメアリー」艦長チャールズ・ヘンリー・デイビスを通して、ウイリアム・ウォーカーは米海軍に降伏の勧めに応じた。 -
コスタリカ軍はリヴァスを解放し、凱旋パレードを行った。
しかし、ウォーカーらが武装したまま帰国することが許されたことから、ホセ・ホアキン・モラ将軍率いるコスタリカ軍は厳しい批判にさらされることになる。 -
ホンジュラスで捕まり銃殺される
降伏条件に反して、その後もウイリアム・ウォーカーは、中米におけるフィルバスター活動を続けた。彼は米国政府と米国世論の支持を受けていた。1860年、遂に彼はホンジュラスのトルヒーヨ港で逮捕され、9月12日に銃殺刑に処される。彼の墓は、ホンジュラスの土と化している。 -
銃弾はもはや飛び交わない。戦争は終結し、祝賀ムードに湧いた。
勝利の喜びが終わると、コスタリカは内紛が再発し、フアン・ラファエル・モラ大統領とホセ・マリア・カニャス将軍の命が犠牲になった。あれから150年以上が経過しているが、我々は彼らの英雄的行動を決して忘れない。フアン・サンタマリアのような一兵卒、経済を支えた女性たちの右腕、国を守った軍隊のことも。 -
フアン・ラファエル・モラ・ポラス(兄:座)とホセ・オアキン・モラ・ポラス(弟:立)
祖国防衛を果たすも、戦争資金を賄うために富裕層(コーヒー農園経営者を含む)から強制的に徴収したことと労働者が徴兵されたことによる生産性低下などで、彼らの不満は蓄積していた。1859年に3選を果たしてまもなく、8月14日に軍事クーデターが発生し、彼らは国外に追放される。クーデターには、ロレンツォ・サラザール将軍やマヒモ・ブランコ将軍など、防衛戦争の英雄が加担していた。
翌年フアン・ラファエル・モラは武装してプンタレナスに上陸するが敗退し、捕らえられて処刑される。 -
(フアン・)モラの最期
弟のホセ・ホアキンへ向けた餞の言葉を訂正します。
「ストイック(何事にも動じない様子)」:エステロ通りを抜けて絞首台に向かって歩く姿は、偉大な人の最期に相応しい、並外れた威厳と平静さを保っていた。処刑された場所には、1本の杉の木が立っていた。灼熱の太陽の下で、(楽隊の)太鼓が鳴り響く。彼は、目隠しせずに堂々と死ぬことを望んだ。銃身が彼の心臓に狙いを定めた。でも彼に向って引き金を引くよう命令する勇気はコスタリカ人にはなく、チリ人によって執行された。死刑判決は、9月最後の日の午後3時に執行された。撃たれると、彼の身体は崩れ落ちた。地面の砂は赤く染まり、故国の永遠の汚点となった。
1860年10月15日付のニューヨークタイムズ紙より -
ミュージアムには、いわゆる美術作品も企画展示されています。
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モチーフが何だかわかりますか?
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こちらは、頭がフリーズして固まっています。
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誰だかわかりますか?
祖国を防衛したモラ大統領夫妻です。 -
町の大聖堂。
アラフエラ大聖堂 寺院・教会
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内部は、こんな感じ。
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こちらはアゴニア教会。
アゴニア教会 寺院・教会
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アラフエラ出身の救国の英雄。
第二次リヴァス戦で、命を犠牲にして敵陣に火を付けました。
松明を持って突撃するシーンです。ファン サンタマリア像 モニュメント・記念碑
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博物館にあった作品は、この有名な像のオマージュです。
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帰りのバスの停留所
通称サンホセ国際空港の正式名称は、
フアン・サンタマリア国際空港です。
アラフエラ市に立地します。
参考までに。ファン サンタマリア国際空港 (SJO) 空港
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