2022/01/28 - 2022/01/28
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gianiさん
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筑後第一の都市といえば、ダントツで久留米。
でも、400年前までは柳川が主都でした。
稀代の戦国武将・立花宗茂の拠点として、貴重な文化財に触れ合える街。
初代藩主・田中吉政が整備した城下町には、驚きの仕組みが。
「水に恵まれない水郷」に隠された先人の知恵に迫ります。
付録に、簡単な久留米訪問レポート。
- 旅行の満足度
- 5.0
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城下町北部を流れる沖端川。
水郷柳川の水源です。 -
西鉄柳川駅そばにある神社。柳川城の表鬼門に位置し、
立花宗茂夫婦と義父の3人を祀っています。
境内の西を走る二ツ川(城下町に真水を供給するための水路)で城下町と隔てられています。
立花宗茂は卓越した武勇と戦術で、生涯無敗を誇りました。
大友宗麟の家臣から秀吉の直臣に昇格し、1587年に柳川領を拝します。
九州平定や小田原攻め、二度の朝鮮出兵で、国内のみならず、大陸でも怖れられた武勇伝を残しています。
家康から熱いラブコールを受けますが、義を重んじて関ヶ原では西軍に付きます。実父の仇である島津義弘撤退時は、敗将を討つのは義に反すると、逆に護衛します。(義に感じた義弘は、帰国後すぐに柳川へ援軍を率いて宗茂を支援しようとします。)
関ヶ原後に浪人となって家臣団を手放すも、後に家康から陸奥国棚倉3万石を賜り、江戸で歴代将軍の話し相手を務めます。武勇のみならず、利に走らず、義を重んじる生き様故の信用と思われます。三柱神社 寺・神社・教会
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立花家の菩提寺。内部は撮影禁止です。
御家中(外堀の内側)にあります。
大坂の陣では秀忠軍の軍事顧問として貢献し、1620年に柳川11万石を拝領。関ヶ原で西軍に付いて、旧領を取り戻した唯一の大名に。島原の乱でも、総大将松平信綱の軍事顧問として勝利に貢献。歴代将軍に寵愛されたゆえに、国元に戻れたのは僅か4回だとか。 -
柳川城。
蒲池鑑盛の拠点の一つとして、1560年代に構築。
1587年に、秀吉の九州平定時の軍功で立花宗茂が城主となる。
1601年に田中吉政が初代藩主となる。後に田中家は断絶し改易。
1620年に立花宗茂が再封。廃藩置県に至る。柳川城阯 名所・史跡
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天守閣跡。本丸と天守閣は、市立柳川中学校になっています。
ちなみに、二の丸は私立柳川高校になっています。
城跡に役場か学校は、定番ですね。 -
往時の姿。天守閣は明治5年に焼失しています。
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本丸・二の丸を囲む内堀。
現在は、中高生の逃走を阻止しています。 -
立花史料館は中堀と外堀に挟まれています。
写真は北側の中堀です。 -
立花宗茂・誾千代(ぎんちよ)夫妻。
NHK大河ドラマ招致プロジェクトのための公式イメージキャラクターだそう。実写版のイメキャラもいるそうです。 -
立花宗茂の画。
肖像画は死後に故人の追善・顕彰のために描かれることが多く、まずは賛(文章。故人の功績を綴る)が書かれ、武将の場合は禅宗の高僧が担当することが多いそうです。
昔の肖像画≒死後に描かれるイメージ画なので、死後まもなくに描かれたものほど史実性が高いと評価されます。 -
戸次(べっき)鑑連(道雪)
大友宗麟の家臣。立花氏が宗麟に反逆した際に討伐。そのまま立花城と名跡を継ぎます。息子がいなかったので、7歳の娘に家督を譲り、後に宗茂を婿養子として迎えます。宗茂は名跡の立花姓を名乗ることを許されます。 -
誾千代(ぎんちよ)
戸次道雪の娘。7歳で家督を受け継ぎ、主君大友宗麟が認めた証書も存在する。一次史料によって実証された数少ない女城主の一人。
立花宗茂と結婚しますが、子宝には恵まれませんでした。 -
当時のエピソードの舞台。
立花城は、現在の福岡市東区に位置します。
誰もが欲しがった博多に睨みを効かせるポジションです。 -
宗茂の死後1年以内に描かれた肖像画。
従四位下・飛騨守としての官職と立花家の家紋が入ったフォーマルな姿。国元の重臣が抱く主君のイメージそのものです。
※江戸の菩提寺に奉納された肖像画は、フランクな格好で杖を持ち、家光下賜のアイテムを手にする隠居姿。歴代将軍に寵愛されていた江戸での姿(江戸詰家臣の視点)で描かれています。 -
藩主夫人が利用した籠
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ひな人形
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御所人形
西国大名が参勤交代中に京都御所へ参内(表敬訪問)した際に拝領された。 -
顔が大きく手足が太くて短い
丸々とした幼児の姿で、艶やかな白肌が特徴。 -
鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく)
頭飾りは日光を反射し、月輪と呼ばれた。
胴にも赤漆で月輪が描かれている。
立花家が経営する宿泊施設のロビーに展示。 -
松濤園
松島を模した大名庭園で、外堀に面する。松濤園 公園・植物園
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立花伯爵家和館からの眺め
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金箔押桃形兜
宗茂が、部隊全員に着用させた。300体ほど作られた。
大広間の廊下に展示。 -
柳川伝承 さげもん(下げ物)
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女児の生まれた家庭では、初節句の際に
父方の実家から雛壇が、母方からは「さげもん」が贈られる。 -
直径40cmの竹輪に7本の糸を垂らし、各糸に7つずつ柳川鞠を結ぶ。
竹輪の中央に垂らした糸には、大きな鞠を2つ結びつける。
鞠は、歳をあらわす。 -
7×7=49 人生五十年と言われるが、女性は一歩引いて49年。
中央の2個を足して、人生五十年を超えるように願掛けする。 -
御所人形風でしょうか。
可愛らしいです。 -
立花伯爵家の守衛所
10万石以上の大名家の当主であれば、原則伯爵を賜りました。
ちなみに公爵を賜った当主は、徳川・毛利・島津家の5名だけです。 -
伯爵家洋風館
明治後期の上流階級は、和館と洋風館を併設した住宅を建築するのがトレンドでした。 -
2階の大広間
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ディティールも素敵です。
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暖炉もオシャレ
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階段を降りて1階へ。
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食堂
マントルピースも素敵。 -
松濤園の南側に面する外堀
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柳川だけに、柳と川の組み合わせが素敵。
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観光案内所のさげもん
柳川市観光案内所 名所・史跡
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北原白秋の実家。
日本酒の蔵元でした。
周囲の家は北原さんが多いです。北原白秋生家 白秋記念館 美術館・博物館
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ここにも、さげもんが。
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柳川鞠は、代々女性が手作りしてきました。
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柳川鞠が正統ですが、今は手縫いなら何でもOKです。
御所人形とか、その他自由なモチーフも素敵でした。 -
蔵元だけに、中は寒いです。
快適さよりも酒精酵母様様です。 -
奥には、柳川の歴史も学べる資料館が。
特に、漁業に関する内容が面白かったです。
内部は撮影禁止です。。 -
地元で人気の魚屋兼食堂でランチ。
夜明茶屋 グルメ・レストラン
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どれもおいしそうでしたが、
有明握りをチョイス。すべて地魚です。 -
今日の組み合わせ。
絶品でした。 -
この辺りでしか食べない希少な魚介類のプロフィールもあります。
特に固有種は、ここでしか味わえません。 -
ムツゴロウは、煮付けで頼みました。
漬物の代わりにオキアミとか、なんとも心憎いです。 -
転じて中堀の北側を横断。
中堀の内側の旧三の丸から脱出。 -
城下町の境界線となる外堀沿いには、初代藩主田中吉政が。
近江出身で織田・豊臣に仕える。関ヶ原では同郷の石田三成を捕縛し、戦功として筑後一国33万石を委ねられる。
柳川を本拠地にした3人目の武将でだが、柳川周辺を開発(干拓・治水・道路建設等)した人物として、今も住民から慕われる。
銅像も、領内を巡回するラフな格好です。屋外で腰かけて弁当を頬張る気さくな人物だったそうです。田中吉政公之像 名所・史跡
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外堀には照葉樹が茂り、凍てつく寒さの中で癒しを与えてくれます。
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日吉神社(厄除け)
住吉大社は平安京の表鬼門に位置することから、方除けも兼ねる。1290年に勧請。歴代城主から信仰される。社殿は18世紀築の年季もの。おたふくが、節分が間近であることを窺わせます。
※地図で位置関係を見ると、蒲池鑑盛は表鬼門になるように柳川城を築いたと推測できます。日吉神社 寺・神社・教会
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境内には太郎稲荷も。
マルチな神で戦勝護軍も担当。戸次道雪・誾千代父娘が篤く信仰。関ヶ原から帰城する際に葦原で道に迷った立花宗茂を道案内したとされ、城内に祀られていたが、戦後現在地へ移転。 -
柳川あめんぼ(市民)センター内にある秀逸な資料館。
水郷柳川について学べます。あめんぼセンター 美術館・博物館
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筑紫平野の成り立ち
縄文海進が最も進んだ5000年前は、殆どが水没。
気温上昇に伴い、2000年前(弥生時代)へ向けて海岸線が後退します。
有明海沿岸は、大小78の河川が運ぶ堆積物で湿地が広がります。 -
掘割
2000年前に人類は、湿地(=柳川市)へ進出。
湿地に溝を掘って、掘った土で地面を盛り上げて耕地にする。 -
溝には様々な生物が住み着き、底の土は栄養豊富な肥料となった。溝の幅は広く、距離も長くした。こうした作業の繰り返しで、各所で堀が繋がり、掘割が誕生する。
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7世紀以降の律令政治で、土地は国有となる。
条里制に基づいて土地が管理され、碁盤の目状に整理された。
写真は柳川市北西部の田脇地区。 -
8世紀以降の荘園開発を促進する諸法で班田制は崩壊し、荘園の掘割は再び不規則になる。図は、市北東部の蒲池城周辺。
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田中吉政
初代柳川藩主として、二ツ川(沖端川を水源として城下町の水路を潤す)を建設。花宗川や太田川(共に久留米藩の持ち物になる)も整備。体系的な水路網が形成される。保水排水浄化に関する様々な技術を駆使した柳川の恩人。市内の水路の総延長は930kmで、市の面積の14%を占めるのだとか。 -
江戸時代の筑後国。
元々は全てを柳川藩(田中家)が治めていたが、改易によって久留米藩(黄)、柳川藩(緑)、三池藩(橙)に分割される。
沖端川は久留米藩と柳川藩の境界線に位置し、境川と呼ばれた。 -
1697年以降の約180年の間、境川には上流へ向かって堰や回水路が両藩交互に建設された。
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柳川市は、北に筑後川、南に矢部川という2つの一級水系と有明海の三辺に囲まれた三角形。標高は0~3.5mで、堤防のみが4m以上。「水に恵まれていない水郷」と呼ばれるのは、真水を得にくい環境だから。
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掘割の一番重要な役割は、大雨の時に川の水を留め置く遊水機能。一日2回訪れる有明海の満潮時は、水位が陸地よりも高くなり、水が上手く排水されません。川の水を掘割へ迂回して、洪水と塩害を防ぎます。
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と言っても、毎日の満潮(大潮の時は海抜3mまで上昇するのが有明海)や豪雨で連日上流から流れ込む水を滞留させるには、相当の工夫が必要(地元では「もたせ」と言います)。
写真のように、掘割の橋は水路を塞ぐように狭くして、水が留まるようにしています。水面下もV字型にして抑止しています。
他にも上流から下流に向けて通じる縦割り沿いに横割を掘って、遊水機能を持たせるなど、様々な手法を駆使しています。 -
柳川市の水利施設
形状は堰・導水路・水門に分類、用途は取水・排水・防潮に分類。
塩水は城下町の遥か上流まで押し寄せるので、用水路は汐留(防潮)の堰よりも上流に設置。
二ツ川も、城下町へ真水を供給するために建設されました。取水口の底は本流の底よりも高めに設定して、水がスムーズに流れ込むようにしています。 -
排水部の水門は、二丁井樋と呼ばれます。蓋が付いているので、満潮時には逆流する海水の強い圧力で自動的に閉まり、水位が下がったら堀の真水の圧力で蓋が開いて排水される構造。オートマチックの防潮機能付き排水口です。中一で習う物理の知識を応用した優れもの。
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戦後に住民意識は低下し、昭和40年代には悪臭漂うゴミ溜めと化しました。昭和52年に市の水路係長が立ち上がり、きれいな柳川を取り戻すためにマナー啓蒙と、毎年行った溝浚いを復活させ、現在に至ります。今も毎年2月に堀の水を抜いて、ゴミ泥を掻き出し、底まで酸素が行き渡るようにしています。
※家庭排水は直接掘割に流さず「溜」(溜枡機能を持った水路)を通して、掘割へ排水します。溜に植えられた水芋等が、底土にたまった栄養分を吸収することで浄化します。 -
掘割には様々な生物が暮らし、貴重な蛋白質供給源でもあります。掘割や有明海では、くもで網等を使った独特の漁が発達しました。
掘割は住民に飲用・生活用水、水運、食料、肥料、防火、娯楽等を提供したが、上水道、車、化学肥料、消火栓、食・娯楽の多様化により掘割に頼らない暮らしが普及し、一時期瀕死に陥った。 -
掘割には、地下水涵養による地盤沈下の抑止も含まれます。
有明海周辺は、阿蘇山や雲仙の火山灰が広範に堆積し、それらが河川によって海へ運ばれます。干満差が激しい有明海では、海に堆積したものが沿岸に押し戻されます。こうして堆積した有明粘土層は地表から15~20mの厚さにおよび、成分の約7割が水分です。 -
後日訪れた久留米城址
田中家改易の後、筑後の国持ち大名になったのは、久留米藩21万石を託された有馬豊(とよ)でした。2021年は久留米入府400年でもあります。
一国一城制によれば、柳川城は取り壊されるはずですが、立花宗茂は将軍のお気に入りということで、城も天守閣も存続しました。
※有馬家への封土は1620年、実際に入府したのは1621年。 -
筑後川に面したお城で、本丸以外は大方ブリヂストンの敷地です。
ミシュラン、グッドイヤーとタイヤ業界のビッグ3を形成しています。
ミシュラン本社と博物館を訪れた旅行記は↓
https://4travel.jp/travelogue/11686582 -
そして一部が、アサヒシューズの敷地。
ブリヂストンは、1930年に日本足袋(アサヒシューズ前身)のタイヤ部として誕生し、翌年に分社化。石橋正二郎がタイヤ部、兄が日本足袋の社長でした。
現在は両社に資本関係はありません。 -
ムーンスター本社。古い世代には月星ブランドでお馴染みです。上記が久留米のゴム三社。
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筑後川沿いの水天宮(総本宮)。
東京水天宮は、ここから勧請したもので、元々は三田の久留米藩上屋敷にあった。現在の日本橋は、明治期に中屋敷跡に移転したもの。現在の有馬家当主が、東京水天宮の宮司をしています。
※年末恒例の有馬記念も、有馬氏に因んだもの。農林大臣を務めた15代当主有馬頼寧(よりやす)伯爵が、日本中央競馬会理事長を歴任した経歴に因んでいます。 -
石橋文化センターでは、春のバラ祭りの真っ最中でした。
写真で香りを伝えられないのが残念です -
やっぱりバラは素敵です。
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