2020/10/08 - 2020/10/08
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キートンさん
この旅行記スケジュールを元に
長崎は日本の中でも特殊な歴史をもっている。
南蛮貿易と朱印船貿易の拠点、鎖国中の西洋に開かれた唯一の窓口、キリスト教の広がりと迫害そして信徒発見の奇跡、日本の産業革命を牽引し幕末・明治維新の志士たちが活動した地、そして世界に2つしかない被爆都市・・・
16世紀に西洋との交流が始まって以来、日本列島の西の端の地方都市でありながら常に重要な役割を果たしてきた。
決して大きくはないこの街には、日本の激動の歴史の多くが凝縮されている。
なぜか未踏だった長崎に、ようやく訪れる機会がやってきた。
10月からGOTOトラベルに地域共通クーポンが加わり、国内旅行にお得感が一段と増した。
仕事の折り合いと台風情報・天気予報をチェックして10月8日出発2泊3日のツアーを予約。
予約した数日後台風14号発生、しかも進路予測が困難で、西寄りのコースをとれば直撃もありうる状況に・・・
またもや天気予報に翻弄される旅となるのか?
最悪の事態は回避できるか・・・
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス スカイマーク 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- エイチ・アイ・エス
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往路は、10月8日神戸空港9:15発長崎空港行きSKY141便。
出発の朝、関西は雨。
飛行機は雨雲の上を飛ぶ。
長崎に向かうにつれ雨雲は消えていくのだろうか・・・ -
諫早市有喜町上空で旋回し、着陸態勢に入る。
どうやら雨は降っていないようだ。 -
定刻通り10:30前に長崎空港に到着。
さすがスカイマーク、定時運航率3年連続日本一の安定感。
空港で機内モードをオフにすると、衝撃の知らせが・・・
軍艦島コンシェルジュから、「9日(金)全便欠航」のショートメールが届いていた。
本日午後のクルーズは欠航が決まっていたので、昨日に9日の午前便をネット予約していたのだが、この知らせで10日(土)の午前便が最後の望みとなった。
台風9号10号による損傷の復旧工事中ということで、軍艦島上陸はほぼ絶望的なのはわかっていたが、周遊のクルーズすらできないとなると、今回の旅の最大の目的が失われてしまう・・・ -
長崎市街地行きのリムジンバスは、ターミナルの自販機できっぷ購入。
片道1000円。
10:50発のリムジンバスを待つ。 -
リムジンバスに乗って約40分、新地バスターミナルに到着。
バスターミナルで長崎バスの1日乗車券を購入。
バス乗り放題で500円。
今日は10月8日なので、月の10と日の8を削る。
最初に乗車したバスを降りる時に、右下角の三角部分をちぎって渡し、2回目以降は降車時に見せるだけでよい。
左の路線図の黄色の停留所が1日乗車券が利用できる範囲。
市街地の主なみどころにはたいてい行けそうだ。
伊王島や長崎ペンギン水族館などは遠いので、この1日乗車券では行けない。 -
30番バスに乗って小菅町のバス停で下車。
ここには小菅修船場跡がある。 -
小菅修船場跡は常時開放されているようだ。
長崎最初の観光はややマイナーなスポットだが、ここは世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産のひとつになっている。 -
小菅修船場跡は、日本最古の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を整備した洋式スリップドッグ(船を陸上で修理するドッグ)である。
薩摩藩と英国商人トーマス・グラバーが計画し、1869年(明治元年)に完成した。
曳揚げ機械やレールなど一切の設備はグラバーが英国から輸入した。
コンニャクレンガと呼ばれる扁平なレンガを用いた曳揚げ小屋は、日本最古のレンガ造建造物だという。(建物内部は見学不可)小菅修船場跡 名所・史跡
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曳揚げるレールについた船架がソロバンのように見えたため、「ソロバンドッグ」とも呼ばれた。
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曳揚げ小屋、曳揚げ機械、レール、石垣などドッグの主要部のほとんどが原形をとどめている、我が国の近代造船技術導入を示す重要な遺構である。
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イチオシ
1887年(明治20年)に三菱の所有となり、船の大型化などの理由により小型船舶の修理専用へと変わったが、1953年(昭和28年)閉鎖された。
小菅修船場は日本の近代造船所発祥の地ともいえ、国指定史跡となっている。 -
小菅町からバスでグラバー園入口バス停まで戻ると、交差点角に3階建の石造の洋館がある。
長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館(長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム)
建物は1904年(明治37年)に完成したもので、2階と3階がミュージアムになっているようだ。
ミュージアムの入場料は300円。
ここはスルーしたが、1階部分だけでも入ってみればよかった。 -
近くのコンビニで軽く腹ごしらえした後、12:40頃グラバー園に到着。
入場料は620円、開園時間は8:00~18:00。 -
第1ゲートから入場し、動く歩道を乗り継いで奥の最上部へと移動する。
園内には、トーマス・グラバーをはじめとする日本の産業に貢献した偉人たちの旧邸や歴史的な洋風建築がある。 -
グラバー園の最上部に建つのは、旧三菱第2ドッグハウス。
船を修理している間、船員たちが宿泊した施設で、1896年(明治29年)に建てられた。 -
内と外の2重になった観音開きの玄関。
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先ほど訪れた小菅修船場跡の古写真。
室内展示では、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」で登録された構成資産を、長崎市内にあるものを中心に解説している。
上記の世界遺産は東北から九州までの8県に23施設が分布しているが、長崎市内では8箇所(小菅修船場跡、三菱長崎造船所・第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、長崎造船所・旧木型場、占勝閣、高島炭坑、、端島炭鉱、旧グラバー住宅)と最も多く登録されている。 -
2階には、主に大航海時代以降の帆船の模型が展示されている。
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イチオシ
2階のベランダに出て見ると、素晴らしい眺めが待っていた。
台風14号の影響か、風が結構強い。グラバー園 名所・史跡
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左(南西)方向には、細長い湾の入口に架かる女神大橋が望める。
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正面にはコイが泳ぐ池、細長い湾の向こうに稲佐山を望む。
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右(北)方向は、長崎市街の中心部や立山を望む。
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イチオシ
市街の中心地をズームアップ。
浦上川河口に架かる赤い橋は旭大橋。
その右の8階建てのビルは長崎県庁舎。 -
順路に従って行くと、右側に旧長崎地方裁判所長官舎。
明治16年頃、長崎市上町に建てられたもので、外国人居留地以外に建てられた洋風の官庁建築として唯一残る建物。
現在は「レトロ写真館」になっている。
多数のレトロ衣装から好きな1着を選んで、室内撮影(15分)で1000円、園内散策(30分)2000円。(いずれも税込) -
旧長崎地方裁判所長官舎の向かいに建つ、旧ウォーカー住宅。
こちらは裏の勝手口から入る。 -
イギリス人実業家ロバート・ニール・ウォーカーは1898年(明治31年)にR.N.ウォーカー商会を設立し、1904年にバンザイ清涼飲料水工場を開業、後に息子のロバート・ウォーカー・ジュニアを責任者とした。
日本で初めて大量生産された清涼飲料水「バンザイサイダー」をヒットさせた。
この住宅はウォーカー・ジュニアが暮らした邸宅で、ここに移築された他にも、台所や和室があったという。グラバー園 名所・史跡
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玄間側から見た旧ウォーカー住宅。
移築されなかった部分もあるせいか、他の住宅に比べると小ぶりである。 -
旧リンガー住宅は、トーマス・グラバーの弟アレキサンダーが1868年(明治元年)に建てたもので、フレデリック・リンガーが結婚を機に1883年(明治16年)から自邸とした。
木造に外壁を石造とし、3方を囲うベランダはウラジオストックから運んだ御影石を敷いている。 -
旧グラバー住宅が現在工事中なので、旧リンガー住宅でグラバー特設展が開催されている。
トーマス・ブレーク・グラバーは、1859年(安政6年)に英国から21歳で来日し、2年後グラバー商会を設立し、主に茶や生糸の輸出を行った。
幕末の動乱の中、武器、弾薬、軍艦などの購入の仲介を行って倒幕派を支援した。
長州藩の伊藤博文や井上馨ら5名、さらに薩摩藩の五代友厚ら19名の欧州視察・留学にも尽力した。
1865年(慶応元年)には大浦海岸通りに約500mのレールを敷き、客車をつけた蒸気機関車を日本で初めて走らせた。
1870年(明治3年)、国内の動乱が短期間で収束し、武器が売れなくなってグラバー商会は倒産。
グラバーの手腕を高く評価していた岩崎弥太郎は、グラバーを三菱の顧問に迎えた。
小菅修船場の建設、高島炭鉱開設などで近代技術を導入し、横浜にあった醸造所を購入して、キリンビールの前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立するなど、日本の近代化に多大な功績を残した。
グラバーの子、倉場富三郎は、英国から深紅丸を輸入し日本にトロール漁業を導入するなど、実業界で活躍した。 -
フレデリック・リンガーは、1865年から茶の貿易の監督官としてグラバー商会に勤務し、3年後ホーム・リンガー商会を設立。
製茶業、製粉会社、漁業、ガス会社、発電所、英字新聞社など幅広い事業の経営や取引を行った。グラバー園 名所・史跡
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19世紀末、長崎は石炭や物資の貿易港、外国商船や軍艦の休憩地点として、ホテルの需要度が高まった。
国際貿易港として栄えた長崎の黄金時代の最も豪華なホテルは、リンガー率いる投資グループにより1898年(明治31年)に建てられたナガサキホテルである。
各部屋に電話を備えるなど、世界に誇る最新の設備がそろっていたが、日露戦争後に長崎が国際貿易港としての繁栄が衰退していき、リンガーが英国で死去した翌年(明治41年)に閉業した。 -
旧リンガー住宅の応接室。
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旧リンガー住宅の居間。
大理石の舶来置時計、飾り燭台、有田焼大鉢、蓄音機などが見られる。 -
南側から見た旧リンガー住宅。
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旧オルト住宅は、1865年(慶応元年)頃に建てられた石造の広い洋館。
ウィリアム・オルトが1865年(慶応元年)から3年間住んだ住宅で、戦前の一時期はリンガー家の所有となったこともある。
切妻屋根のポーチがあり、その前に噴水がある。 -
旧オルト住宅の応接間。
ウィリアム・ジョン・オルトは、長崎が開港された1859年(安政6年)に来日し、オルト商会を設立。
製茶輸出業を通じて日本茶を長崎ブランドとして世界に広めた。グラバー園 名所・史跡
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旧オルト住宅の西側寝室。
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イチオシ
円柱が並ぶベランダは、イギリス領事館のパーティーが開催されたこともあるという。
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旧オルト住宅の裏には、厨房や使用人が暮らしていた部屋のある別棟がある。
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グラバー園の南端にある、旧スチイル記念学校。
1887年(明治20年)に東山手に建てられたミッション系の学校である。
学校建設に資金を寄付した宣教師W.H.スチイルの名前に由来している。 -
旧スチイル記念学校でもグラバー特設展が開催されている。
旧グラバー住宅の1/40サイズの模型。
兼地区当初から増改築を繰り返しており、明治10~20年代の間に、母屋は510.8㎡、附属屋は129.2㎡まで拡張された。 -
グラバーの業績や関わりの深かった人物などが、マンガや図解で解説している。
グラバー園 名所・史跡
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土佐藩出身の岩崎弥太郎は、日本三大財閥のひとつ三菱財閥の創始者と知られている。
三井や住友の財閥が300年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治になってから礎を築いた。
弥太郎は、開成館長崎商会及び大阪商会に勤務し、亀山社中が海援隊として土佐藩外郭機関となると経理を担当した。
海援隊の後身として九十九商会が設立されると事業監督を担当し、藩船3隻を買い受け海運業に乗りだした。
1873年(明治6年)に三菱商会と改称、明治政府の保護を受け日本上海間の定期航路を開くなど、欧米の船会社に独占されていた国内外の航路で日本の航海自主権を取り返した。
西南戦争の軍事輸送と戦後の軍事品処分で莫大な利益を得た。
政府要人との癒着や海運の独占が批判され、三井系の共同運輸会社と熾烈なダンピングを繰り広げた。
弥太郎の死後、三菱と共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、2社を合併させて日本郵船を発足させた。
弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのは、弟の岩崎弥之助である。
弥之助は三菱の事業を海から陸へと転換させ、それまで副業としていた、高島炭鉱、端島炭鉱、第百十九銀行、長崎造船所などの発展に力をそそいだ。
現在、長崎で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」に登録された8つの構成資産は、全て三菱が関連したものである。 -
旧スチイル記念学校から旧グラバー住宅へと移動する途中に、イタリアの作曲家プッチーニの像がある。
プッチーニが作曲した、オペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は、長崎を舞台に没落藩士令嬢と海軍士官との恋愛の悲劇を描いている。
蝶々夫人のモデルとなったのは、トーマス・グラバーの妻、グラバー・ツル(旧姓淡路屋)だという説が有力視されている。
プッチーニ像の近くには、世界各国で蝶々夫人を演じたソプラノ歌手、三浦環の像もある。 -
プッチーニ像の近くにある、旧自由亭。
1978年(明治11年)、草野丈吉が諏訪神社下に開業した西洋料理店。
草野丈吉は、出島のオランダ商館で西洋料理を学び、自宅を改装して「良林亭」という日本で最初の西洋料理店を開いた。
良林亭には、五代友厚、小松帯刀、伊藤博文など後に指導者となる志士たちがいた。 -
グラバー園の主役ともいうべき旧グラバー住宅は、残念ながら2021年10月末(予定)まで耐震・保存修理工事中である。
工事前の旧グラバー住宅の間取りや写真が掲示されている。
強度はともかく、間取りや外装・内装は工事前と同様に復旧させるはずだが。 -
「50年ぶりの耐震補強を含む保存修理現場を間近で見られるレアな体験ができる」ということだが、見れる部分はかなり限られている。
グラバー園 名所・史跡
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旧グラバー住宅の西側(海側)を半周するように、仮設の遊歩道が設置されている。
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その仮設の遊歩道からの眺めは、なかなかのものである。
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透明のアクリル板で工事中の旧グラバー住宅が見れるようになってはいるが、足場が多くてかなり見づらい状態である。
7年前に大天守保存修理工事中の姫路城を見学したことがあるが、規模の違いがあるとはいえ、姫路城の方が工事中の見せ方は工夫があったと思う。 -
旧グラバー住宅の北側にある展望台からの眺め。
旧三菱第2ドッグハウスのバルコニーから見た時よりは、かなり下りてきたという印象である。 -
市街の中心地方向。
柿色の球体がやけに気になるが、ドラゴンプロムナードにあるらしい。
龍に玉といえば如意宝珠、洋風にいえばドラゴンボール? -
グラバー園の順路で最後に立ち寄るのが、長崎伝統工芸館。
10月の7、8、9日に開催される長崎くんちで、奉納踊りを先導する傘鉾、曳物、龍踊りの白龍、青龍などが展示されている。
本来なら今日明日はお祭り真っ只中なのだが、今年はやはり中止。
残念な反面、ホテルも観光地もすいているというメリットもある。
長崎伝統工芸館の出口へは、土産の売店を通る。
客があまりいない土産屋を素通りするのは、奇妙な後ろめたさを感じた。
こんな気持ちになるのは、はやり病の副作用なのか?長崎伝統芸能館 美術館・博物館
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グラバー園のすぐ近くに大浦天主堂がある。
開国後、長崎の大浦海岸に外国人居留地が造られ、1864年(元治元年)末に完成したカトリック教会で、日本に現存するキリスト教建築物としては最古のものといわれる。
正式名は日本二十六聖殉教者天主堂。
入場料は1000円とかなり高い。
大浦天主堂のほか、隣に建つ旧羅典神学校と旧長崎大司教館も入場でき、28ページのパンフレットがもらえる。 -
大浦天主堂に上る階段の途中、左側に信徒発見記念碑がある。
完成して間もない1865年3月17日、浦上の住民十数名が大浦天主堂を訪れ、プティジャン神父に「私どもは神父様と同じ心であります」と告げた。
1614年に江戸幕府がキリスト教禁止令が発せられ、1637年の島原の乱を機に、絵踏みや寺請制度により潜伏キリシタンの発見と強制改教を強化していた。
約250年にも及ぶ徹底した禁教政策にもかかわらず秘かに信仰を続けていた信徒の発見は、ローマ教皇にも伝えられ、「東洋の奇蹟」と呼ばれた。 -
大浦天主堂前からの風景。
正面に大浦カトリック教会、左に旧長崎大司教館がある。
大浦天主堂の内部は写真撮影不可となっている。 -
大浦天主堂内には、豊臣秀吉の命令で磔の刑に処された26人のカトリック信者「日本二十六聖人」の油絵が掲げられている。
ステンドグラスは、幾何学模様となっている。 -
大浦天主堂(右正面)と旧羅典神学校(左)。
旧羅典神学校と旧長崎大司教館は、キリシタン博物館となっている。
残念ながら、キリシタン博物館も内部撮影禁止である。 -
大浦天主堂の建設前に神父の執務室として建てられ、1915年(大正4年)に建てかえられた旧長崎大司教館。
キリシタン博物館では、我が国の「西洋との出会い」、「禁教期・潜伏期の歴史」、「信徒発見に至る日本キリシタン史」などのテーマで様々な資料が展示がされている。 -
イチオシ
15:00頃に大浦天主堂の見学を終え、なおも東山手地区の観光が続く。
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旅行記グループ
激動の歴史の舞台を巡る長崎 2020
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