2020/10/09 - 2020/10/09
400位(同エリア3733件中)
キートンさん
この旅行記スケジュールを元に
長崎は日本の中でも特殊な歴史をもつ。
南蛮貿易・朱印船貿易の拠点、鎖国中の西洋に開かれた唯一の窓口、キリスト教の広がりと迫害そして信徒発見の奇跡、日本の産業革命を牽引し幕末・明治維新の志士たちが活動した地、そして世界に2つしかない被爆都市・・・
16世紀に西洋との交流が始まって以来、日本列島の西の端の地方都市でありながら常に重要な役割を果たしてきた。
2日目は中日なので丸1日観光できる。
当初の予定では午前中に軍艦島クルーズのはずだったが欠航が決まり、急きょ予定を組み直した。
平和公園周辺と外海(そとめ)地区まで足を延ばして出津文化村を観光した後、後編では長崎市街地まで戻っての観光。
鎖国政策を行った江戸時代、西洋との唯一の窓口になっていた出島。
長崎観光では外せない出島と稲佐山に次ぐ夜景スポットの鍋冠山を訪れ、昨日観光済みのあそこにも再訪問します。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- スカイマーク 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- エイチ・アイ・エス
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出津の近くの高平のバス停から桜の里ターミナルを経由して、出島表門橋に14:45頃に到着。
天候は下り坂なのか、残念ながら曇ってきた。
中島川の対岸にはノスタルジックな建物が並ぶ。 -
橋を渡った表門には、マスクをした門番。
門番を恐れることはない、入場料520円を支払えば。
開場時間は8:00~21:00年中無休、開場時間が長いのは観光客にとってありがたい。 -
緩やかにカーブした通りの両側に江戸時代の出島の街並が復元されている。
残念なのは、その先に現代のビルがドーンと建っていること。
都市計画で高さ制限を設けるなどして、景観に配慮してほしいところである。 -
出島全体案内図で見学前に場内の施設配置を把握しておくとよい。
(かなり適当に見学してしまったので、写真は西側出入口付近で撮影したもの)
鎖国期(1820年頃)の復元建物、幕末(1860年代)の復元建物、明治期の洋風建物と、主に3つの時代のエリアに分けられそうだ。
中でも中央部から右側(西側)にかけての、鎖国期(1820年頃)の復元建物が出島ならではの見どころといえそうだ。
鎖国期(1820年頃)の復元建物は、第Ⅰ期2000年(平成12年)、第Ⅱ期2006年(平成18年)、第Ⅲ期2016年(平成28年)と、比較的最近復元されたものである。 -
筆者蘭人部屋(Ⅲ-2)
出島が貿易や文化交流を通じて世界とつながっていた様子を紹介している。
有田を中心とする肥前磁器はヨーロッパや中東に輸出され、富と異国趣味の象徴として王侯貴族や富裕層を魅了した。
18世紀初頭以降、ヨーロッパではこのような東洋磁器の模倣品が製作された。 -
17世紀後半に製作された肥前・有田の華やかなケンディ。
ケンディとは、もともと東南アジア向けの水飲み用の容器。 -
拝礼筆者蘭人部屋(Ⅱ-2)
オランダ商館の首席事務員の住居で、エレキテルや顕微鏡などの西洋から伝わった器具が展示されている。 -
蘭学を発展させた人々として、日本初の銅版画家・司馬江漢と3人の蘭学者が挙げられている。
平賀源内
江戸中期の本草学者、戯作者、発明家。
讃岐出身で長崎に留学後、江戸で本草学び、数々の発明、油絵、浄瑠璃の執筆と多方面で才能を発揮した。
オランダで発明された起電器エレキテルを復元したことで知られる。
杉田玄白
江戸中期から後期の蘭学医。
死刑囚の解剖を見学し、オランダの医書「ターヘル・アナトミア」が極めて正確なのを知る。前野良沢らと翻訳し「解体新書」を完成させた。
大槻玄沢
江戸後期の蘭学医。
杉田玄白・前野良沢の弟子で、名は師である2人から一文字ずつもらったものといわれる。
長崎に留学後、江戸で私塾・芝蘭堂を開き、蘭学の入門書「蘭学階梯」をはじめ、多くの著書を残した。 -
江戸時代に出島に来日して、科学的・文化的交流の面で大きな役割を果たした出島三学者。
ヨーロッパとはオランダのみの交易のはずだったが、不思議のことに3人ともオランダ人ではなかった。
エンゲルベルト・ケンペル
1690年から1692年まで滞在し、長崎商館医を務めたドイツ人医師・博物学者。
植物学を中心に博物学研究を行い、出島に薬草園を作った。
カール・ツュンベリー
1775年から1776年まで滞在し、長崎商館医を務めたスウェーデン人医師・植物学者。
多数の植物標本を持ち帰り学名を付けた。
通詞や蘭学者に医学・薬学・植物学を教えた。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
1823年から1829年まで滞在したドイツ人医師・博物学者。
長崎商館医に着任し、鳴滝塾を開いて日本人に医学・博物学の指導を行った。
日本についての資料を多数収集し、帰国する際に国外持ち出し禁止の日本地図が見つかり国外追放となった。(シーボルト事件)
1859年オランダ商事会社顧問として再来日した。 -
イチオシ
「瘍医図」模型
出島の一室で、商館医が治療している様子。
ソファに横になった患者の左腕にできた腫瘍をメスで切開している。
長崎の絵師・石崎融思によって描かれた、「蛮館図」の瘍医図をもとに、模型で再現されたもの。 -
カピタン部屋(Ⅱ-3)
オランダ商館長(カピタン)の住まいであると同時に、商館事務所や客をもてなす場だった。
出島で最大の建物で一番の見どころでもある。
前面にある両側から2階に上がる三角屋根の階段が特徴的。 -
17.5畳の部屋
玄間脇に位置し、商館の主要な事務を執る場所だったと考えられている。
1817年12月に行われた、前任の商館長ドゥーフから新任のブロムホフへの引き継ぎ時を再現している。 -
玄間の間
他の部屋との位置関係からホールとして使われていたと考えられる31.5畳の間。
部屋の中央に「玉突台」と書かれた記録があり、ビリヤード・テーブルが設置されていた。
照明器具には鳩の装飾が付いている。 -
「射玉為賭図」模型
出島の商館員がビリヤードを行っている様子。
石崎融思によって描かれた、「蛮館図」をもとに、模型で再現されたもの。 -
イチオシ
大広間
出島の商館員たちは、昼夕の2回、カピタン部屋に集まって皆で食事をとる習慣になっていた。
カピタン部屋の中で35畳と最も広く格式を備えていて、応接や饗応の場として重要な間であった。
ここでは、クリスマスを祝ったとされる「阿蘭陀冬至」の祝宴風景を再現している。 -
大広間の晩餐の模型
東南アジア系の給仕と演奏家たち、二人の芸者、そして犬・・・
解説を写真に撮っておくのを忘れたので、あとはご想像におまかせ。 -
大広間の隣の客間の窓越しに見た風景。
左に手前から、玄間の間、居間、図書室と並んでいる。
右は乙名(おとな)部屋、正面遠くには旧長崎内外クラブが見える。 -
カピタン部屋の南西側のバルコニーからは、かつて長崎港と停泊するオランダ船を眺めることができた。(写真左側参照)
しかし明治以降、出島周辺は埋立てが進み、出島は島ではなくなった。(写真右上の薄い青の範囲が埋立地)
そして現在は右下写真のような状況となった。 -
江戸令和交流の図
江戸時代の番人と令和の小学生が戯れている様子。
(※模型ではありません) -
カピタン部屋の三角屋根の階段から見た出島の街並。
遠足の小学生以外の観光客は少なく、寂しいくらい。 -
三番蔵(Ⅱ-1)
長崎の食文化に欠かせない砂糖を保管していた蔵。
日本ではほとんど用いられていなかった砂糖は、ポルトガル船が初めて来港して以来、東南アジアなどから輸入されるようになった。
多くの砂糖が運ばれた長崎から小倉までの長崎街道周辺では、気候風土や好みに合わせて砂糖を使った食文化が発展した。
ここでは、カステラ(長崎)、桃カステラ(長崎)、おこし(諫早)、大村寿司(大村)、カスドース(平戸)、寿賀鯛金花糖(嬉野)、甘納豆(武雄)、小城羊羹(小城)、丸ボーロ(佐賀)、千鳥饅頭(飯塚)、八幡饅頭(北九州)が紹介されている。 -
二番蔵(Ⅰ-3)
染料の原料となる蘇木などが収蔵されていた蔵。
出島で取引されていた貿易品の展示、貿易の仕組みが紹介されている。 -
「検使鑑貨図」模型
出島に陸揚げされた輸入品を、検使(役人)が立ち合い、各種目利たちが検品している様子。
左の方ではオランダ製の計量器で砂糖の目方を量っている。
石崎融思によって描かれた、「蛮館図」の検使鑑貨図をもとに、模型で再現されたもの。 -
一番船船頭部屋(Ⅰ-1)
1階は倉庫、2階はオランダ船船長やオランダ商館員が暮らしていた部屋を再現している。
一番船船長の部屋は、19世紀初頭の出島で夏に来航するオランダの貿易船のうち、最初に到着する一番船の船長が、出航する11月頃まで滞在した部屋。 -
オランダ商館員の部屋は、オランダ商館の事務官が暮らしていた居間と寝室。
-
ヘトル部屋(Ⅰ-4)
商館長次席(ヘトル)の住まいとなっていた建物。
内部はミュージアムショップやトイレなどの施設として利用されている。 -
料理部屋(Ⅰ-5)
出島の商館員たちが昼夕の2回、カピタン部屋に集まってとる食事を調理する部屋。
出島内で栽培した野菜も用いて、東南アジアの人や日本人の使用人が調理していた。 -
乙名(おとな)部屋(Ⅱ-4)
出島の貿易事務一切を行うとともに、オランダ商館員の監視役でもあった出島乙名が、貿易期間中のみ使っていた建物。 -
銅蔵(Ⅲ-6)
1階には輸出用の棹銅が保管され、2階には輸入用の鮫皮が収められていた。
半斤(300g)の棹銅200本が統一された大きさの木箱に納められ、銅蔵に互い違いに積み上げられ保管されていた。 -
乙名(おとな)詰所(Ⅲ-4)
表門から出入りする人を監視するため、管理者である乙名が詰めていた。
乙名詰所の部屋は、華やかな柄のふすまが張られていたようだ。 -
出島の建物の内装で使用されている壁紙やふすまの柄。
特にカピタン部屋では色々な柄の壁紙が見られた。 -
旧石倉(B-1)
旧石倉は、安政の開国後に建てられた石造倉庫の西側半分を、古写真などをもとに復元したもの。
出島の土層の中やごみを捨てた穴などから見つかった出土品の数々が展示されている。 -
旧石倉の2階には、輸入された西洋磁器や東洋磁器が展示されている。
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旧長崎内外クラブ(M-2)
1903年(明治36年)、トーマス・ブレーク・グラバーの子、倉場富三郎の尽力により、長崎の外国人と日本人の社交場として建てられた。 -
旧出島神学校(M-1)
1878年(明治11年)に建てられた、現存する日本最古のプロテスタント神学校。
1階が売店や休憩所となっている。 -
出島の東端の中島川側には、1/15スケールのミニ出島がある。
川原慶賀が描いたといわれる「長崎出島之図」をもとに、1820年頃を復元したもの。
現在の出島は、1888年の中島川変流工事で北側(写真左側)が約18m(概ね建物1列分)が削られてしまっている。 -
2時間ちょっと出島を見学した後、路面電車の5号系統で石橋まで移動。
そこから南へ歩いて、17:20頃にグラバースカイロード(斜行エレベーター)の乗降口に到着。 -
斜行エレベーターを降りたところからの眺め。
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さらに垂直エレベーターで上ったところからの眺め。
日没は近い、急がねば。 -
道路に出たところ(グラバー園第2ゲート付近)に、鍋冠山公園展望台へと続く徒歩ルートの入口がある。
近年このルートは改修工事されてわかりやすくなっている。 -
住宅地の中の細い道を200~300m進むと、右の階段の方へ行く。
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視界が開け、振り返ると長崎港から市街地が見える小径を進む。
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ここからが最後のがんばり。
すでに照明が灯っている。 -
17:40前、鍋冠山公園展望台に到着。
この鍋冠山公園展望台は2017年4月にリニューアルオープンした。
やや急いで歩いて、グラバー園第2ゲートからここまで約10分だった。 -
鍋冠山公園展望台から、長崎の中心部を望む。
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日没直前、雲の切れ間から差した夕日を浴びる市街地。
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東側の丘陵地に広がる住宅地。
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鍋冠山公園展望台と西に沈みゆく太陽。
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細長い湾を挟んで対岸には、長崎随一の夜景スポット稲佐山がある。
標高333mの稲佐山に対して、この鍋冠山は約半分の標高169m。
ここから海岸までは500m弱で、海に近い。 -
その左は、三菱重工業のドックなどの施設群、女神大橋、伊王島などが見渡せる。
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曇った東の空に、なぜか虹がかかっていた。
くっきり鮮やかではなく、写真ではわかりにくいが・・・ -
三菱重工業の施設群の中に、三菱長崎造船所・第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、長崎造船所・旧木型場、占勝閣と世界文化遺産に登録された4つの構成資産がある。
第三船渠は、入り江状の地形を利用し、背後の崖を削って1905年(明治38年)に完成した、当時としては東洋最大のドックである。
100年以上経った今でも稼働している施設。
そのすぐ右には、迎賓館として利用された占勝閣があるが、ここからではほんの一部しか見えない。
どちらも非公開となっていて、見学不可である。 -
鍋冠山公園展望台の眺望の解説板。
このパノラマ写真で180°弱の範囲。
反対方向の約180°は、主に丘陵地の住宅地と標高数百mまでの山々である。鍋冠山公園 公園・植物園
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18:00前、西の空に広がる雲が赤く染まってきた。
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イチオシ
不完全な夕焼けの空に、女神大橋、伊王島、西の山のシルエット。
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イチオシ
18:00を過ぎると、街の灯が目立ってきた。
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市街地をクロスフィルターで撮ってみた。
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昨日に続き、残念ながらブルーモーメントの空とはならなかった。
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今日はまだ予定が残っている。
真っ暗になる前に鍋冠山公園展望台をあとにして、来た道を引き返す。
近年整備されただけあって、照明も適度の間隔である。 -
女性のひとり歩きはあまりお勧めしないが、夜景を見ながら下って行くなかなか良いルートだ。
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昨日見学したグラバー園に、第2ゲートから入場。
季節によって異なるが、グラバー園は夜間もオープンしている日がある。
今日は21:30までオープンの日。
当然2度目でも入場料620円かかる。
ライトアップされた洋館など、昼間とは違った趣きがあるだろうと期待しての再訪である。 -
旧三菱第2ドッグハウス前の池からの流れも、ライトで浮かびあがっている。
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イチオシ
早速、旧三菱第2ドッグハウスのベランダへ。
北側には長崎の市街地の夜景が広がっている。
日中の景色もさることながら、手軽に来れる夜景スポットとしてもポイント高し。 -
ライトに照らされた池と泳ぐコイ。
幻想的な夜のグラバー園の向こうに、対岸の街灯りと稲佐山展望台の灯りが浮かんでいる。 -
西の彼方には今日最後のわずかな残照。
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ライトアップされた旧ウォーカー住宅。
建物内や展示物は昨日見学済なので、さらっと流す。 -
金曜日の18:40頃。
来園者に出会うことも少なく、寂しいほどひっそりしている。
ふいに人と出会うと、ドキッとしてしまうほど。 -
花壇から見た夜の旧リンガー住宅。
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イチオシ
さらに奥にある旧オルト住宅。
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切妻屋根のポーチ前にある噴水は夜停止しているが、なぜか昼間より存在感が増している。
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昨日は部屋の写真を建物内からばかり撮っていたが、再び来てみて外から窓越しに撮ってみた。
昼と夜とでは外からの自然光が入るか否かの違いがあるせいか、雰囲気が変わるよね。 -
今回は昼と夜の2度に分けたが、日没前に入場して夕暮れを挟んで2周すると、1度の入場で昼と夜の両方を楽しむことができる。
一粒で二度おいしいグラバー園の楽しみ方。 -
旧オルト住宅の裏の別棟にある厨房。
ここも昼と夜とではかなり違った雰囲気となっている。 -
ライトアップされた旧自由亭。
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長崎の夜景を見ながら特設展望デッキを下って行く。
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工事中の旧グラバー住宅も夜は静まり返っている。
旧グラバー住宅工事中、コロナ禍、台風接近とネガティブ要因が重なったせいか、夜のグラバー園はあまりにも入場者が少なく、のびのび散策できた。 -
闇夜に浮かぶ大浦天主堂。
通りに並ぶ土産屋はすでに閉店、人と通りもまばら。
通常の金曜日の夜とは思えない寂しさ。 -
てくてく歩いて長崎新地中華街へ。
西門から見た中華街の通りは派手な電飾が灯っているが、あまりにも活気がない。
まだ20:00前だというのに・・・ -
飲食店は北門近くに数軒が開いているくらいだった。
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ルークプラザホテルまで帰るのに、バスに乗ろうと大波止まで歩く途中、出島の前を通った。
出島表門橋公園では「出島宵市」なるナイトマーケットが行われていた。
台風が接近中の割にはその影響も少なく、観光には全く支障なかった。
明日の焦点は、この2日間欠航となっていた軍艦島クルーズが催行されるかどうか・・・その1点のみだ。
明日は旅の最終日、ラストチャンスでこの旅最大の目的は達せられるのか・・・
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旅行記グループ 激動の歴史の舞台を巡る長崎 2020
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