2019/03/14 - 2019/03/20
1361位(同エリア2849件中)
ミズ旅撮る人さん
- ミズ旅撮る人さんTOP
- 旅行記692冊
- クチコミ161件
- Q&A回答23件
- 1,030,256アクセス
- フォロワー48人
2019年3月、ポルトガルを訪れました。
主な行程は、リスボンからロカ岬・オビドス・ナザレ・ポルト・アヴェイロ・
コインブラと周って、リスボンに戻り1日自由行動というものです。
2回目は、リスボンの郊外観光です。
リスボンの中心地から少し西に離れたベレン地区には、
大航海時代の記念碑が集まっています。
「ベレンの塔」は、テージョ川を監視する要塞であり、
税関・灯台の役目をしていました。
すぐそばにある「発見のモニュメント」は、
エンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられました。
「ジェロニモス修道院」は、大航海時代にもたらされた富をつぎ込んで建てられました。
ジェロニモス修道院とセットで覚えておきたいのが、「パステイス・デ・ベレン」です。
ここは、修道院のレシピを受け継ぐパステル・デ・ナタの老舗です。
郊外の観光の後、リスボン中心部バイシャ地区の散策をしました。
今回も、盛りだくさんで行きます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
リスボンのカイス・ド・ソドレ駅付近にあるリベイラ市場から
バスは出発して、西を目指します。
その道中、素晴らしい壁画に出会いました。
落書きの類が多い街だとは思っていたのですが、これはすごいです。
右上にSTYLERとあります。
誰かの作品なのでしょうか。 -
次に現れたのがカラフルなキツネです。
これよく見ると、絵だけではなく、雑多なものが張り付けてあるんです。
顔の一部などは、窓なので、背後の青空が見えています。
建物は既に廃墟となっているようですが、
このキツネが健在である限り、取り壊しは出来ないでしょう。
絶対に壊さないで欲しいです。このキツネを残して! -
「4月25日橋(Ponte 25 de Abril)」です。
テージョ川を渡る巨大な橋です。
1966年に開通した橋は全長2,277m。
上は車、下は鉄道が走っています。
開通時は独裁者サラザールの名前が付けられていましたが、
1974年4月25日のクーデターによって新政府が発足したため、
「リスボンの春」を祝して橋の名前を「4月25日橋」としました。
いい角度だったのに、バスのシールが悔しい・・・4月25日橋 建造物
-
ベレンの塔の隣にあるボン・スセッソ要塞(Forte do Bom Sucesso)
及び戦闘博物館です。
戦没者記念碑には火が灯され、衛兵交代が行われるそうです。
ポルトガルはアフリカに植民地を持っており、
その独立に伴って起こった戦闘による死者の氏名が記されています。ポルトガル軍博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
ベレンの塔に行く途中には、飛行機のモニュメントがあります。
1922年に2人のポルトガル人飛行士ガゴコウチーニョ(Gago Coutinho)とサカドゥーラカブラル(Sacadura Cabral)によって行われた
南大西洋の最初の横断飛行を記念しています。
飛行機はイギリスの複葉機、フェアリーIIIです。Sacadura Cabral and Gago Coutinho Monument モニュメント・記念碑
-
リスボンから飛び立ち、南大西洋上空を飛行して、
ブラジルのリオデジャネイロに至りました。
(地図の右上に大きくあるのがアフリカ大陸で、
その上の出発点がポルトガルのあるイベリア半島。
左下が南米のブラジルです)
ブラジルは南米に於けるポルトガルの唯一の植民地でした。
1494年にスペインとポルトガルが領土の境界線を協議し、
ローマ教皇が決めた子午線を元に、世界を二分して西をスペイン、
東をポルトガルの領土とするトリデシリャス条約を結びました。
1506年に教皇の認可を受けた際には、
既にブラジルにポルトガルのカブラルが到達していたため、
ポルトガルの領土として残りました。 -
観光用のトゥクトゥクの車体が、アズレージョ(ポルトガルの青タイル)で飾られています。
乗り込んで記念写真を撮りたくなりますね。 -
自転車漕ぎ式、生ジュース屋さん。
焼き栗の屋台もありました。焼き栗は10~3月で、
その他はアイスクリーム屋さんに代わるそうです。 -
「ベレンの塔」に辿り着きました。
1515年マヌエル1世により建設、1520年完成。
司馬遼太郎が「テージョ川の貴婦人」と称した
マヌエル様式の優美な砦です。ベレンの塔 建造物
-
「ベレンの塔」は、1520年にテージョ川を守る要塞として
完成しました。
その後、船の通関手続きをしたり、灯台としての役割も果たしました。 -
「ベレンの塔」を川から見るとこんな風です。
世界遺産に付き物の模型です。
地下の堡塁部分は水牢・火薬庫・砲台があります。
テラス部分には聖母マリア像が置かれています。
(真ん中の一段低くなった部分の一番手前にある
チェスの駒のようなものです)
1階は司令官の部屋、2階は国王の間、3階は謁見の間、
4階は礼拝堂になっています。
模型を見ると、2階の国王の間にだけルネッサンス様式の
バルコニーがあるのがわかります。
残念ながら、ツアーは外観だけの見学でした。 -
河畔には様々なパフォーマーが集(つど)っています。
ポルトガルの音楽と言うと、悲哀を含んだファドが有名ですが、
もちろん明るい曲もガンガンやってます。 -
テージョ川の観光船が走っています。
リスボンのあるこちら側のベレンと、
対岸のポルトプランダンを結ぶフェリーもあります。
対岸へは、先程見た「4月25日橋」で渡れますが、
それより上流の橋と言うと、リスボンよりはるか上流にある
ヴァスコ・ダ・ガマ橋までないので、
フェリーは無くてはならない存在なのでしょう。
同様のフェリーは、カイス・ド・ソドレ駅のそばや、
コメルシオ広場からも出ています。
フェリー通勤の人も多いのでしょうね。 -
「ベレンの塔」から「発見のモニュメント」は
同じ河畔の道沿いに見えています。
しかし、意外と距離があって、このヨットハーバーを迂回して
行かなくてはなりません。
私達のツアーは、一旦バスに戻ってバスで移動しました。
右端の白い建物は、「ベラルド現代近代美術館」です。 -
「発見のモニュメント」は、1960年にエンリケ航海王子の
500回忌を記念して建造されました。 -
モニュメントに至る広場のモザイクも白と黒のリスボンの
シンボルカラーになっています。 -
広場には、大理石で描かれた世界地図があります。
団体で見学していると、常に人の影があって、
結構写真を撮るのが難しいです。 -
ポルトガルには国章が描かれています。Rの上あたりがリスボンです。
左下に「1427ACORES」とあるのは、ポルトガルが1427年にアゾレス諸島に到達したことを示しています。
アゾレス諸島はモロッコ沖のマデイラ諸島と共に、
現在でもポルトガル領です。
マデイラ諸島の南にあるカナリア諸島はスペイン領で、
こういう点から大航海時代の名残を感じられます。 -
太平洋です。
ちょっと丸っこいけれど、意外に正確な日本列島がありました。
1541年とあるのは、ポルトガル船が大分県に漂着した年
(天文10)だそうです。
1548(天文17)年にキリシタン大名として
有名な藩主大友宗麟の元、ポルトガルとの貿易が始まりました。
この時、ポルトガルの使節がカンボジア産の南瓜を日本に伝えました。
カボチャって、カンボジアから来た名前だったんですね
(諸説あるそうです)。 -
こちらの地球儀では、
将来世界を股にかけて飛び回る卵たちが遊んでいます。 -
「発見のモニュメント」は、
なんとエレベーターで屋上に上れるんだそうです。
高さ52m。広場の世界地図も正に「一望の下」でしょう。
大航海時代を代表する人々の群像ですが、最後から2番目で跪き、
合掌しているのがフランシスコ・ザビエルです。
1549年に日本にキリスト教を伝播し、
2年半布教活動をしてインドのゴアに戻ります。
1552年に布教先の中国の上川島で亡くなった後、
ゴアに埋葬されました。
ゴアの遺骸は10年に一度、御開帳されているそうです。
2014年11月22日~2015年1月4日まで公開されました。
右腕下部はローマに運ばれ、ジェズ教会に安置されています。
右腕上部はマカオに安置されています。
1622年に列聖されて聖人となったので、
遺体も分骨されていて、なんだか気の毒・・・
ザビエルの3人先で、身体は後ろ向きで
上半身をこちらにひねっているのが、
1488年に喜望峰を初めて回ったバルトロメウ・ディアスです。 -
真ん中で、輪っかのようなものを持っているのが、世界一周航海を
果たしたマゼラン(フェルナン・デ・マガリャインス)。
その先が先程「ベレンの塔」で見た飛行機でブラジルに到達した
ペドロ・アルヴァレス・カブレラ。
その先が、インド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマ。 -
イチオシ
そして、先端にいるのがエンリケ航海王子。
太陽をバックに舞台背景もバッチリです。
ポルトガルの大航海時代は、
アヴィス王朝時代(1385~1580)に迎えました。
ペストの流行と、度重なる隣国カスティーリャ王国との戦闘で
疲弊していた国のために、ジョアン1世がアフリカ大陸への進出で
起死回生を図ったのが始まりです。
1415年に現在のモロッコにあったマリーン朝に進攻し、
アフリカへの第一歩を記しました。
エンリケ航海王子はジョアン1世の三男です。
彼が持っているカラベル船(Caravel)は、3ないし4本のマストを持つ小型の帆船であり、高い操舵性から探検活動が盛んとなった15世紀に
主にポルトガル人とスペイン人の探検家たちに愛用されました。
エンリケの隣が「アフリカ王」と呼ばれるアフォンソ5世です。 -
西側には有名人は少ないです。東側は航海士が中心なのに対し、
西側は天文学者・数学者・作家・神学者らが並ぶためです。
何故か、左から2番目にはジョアン1世の王妃、エンリケ航海王子の
母であるドナ・フィリパ・デ・レンカストレも刻まれています。
彼女はイギリス・ランカスター朝の初代王ヘンリー4世の姉です。
ポルトガルはカスティーリャと対抗するため、
イングランドと手を結んでいました。 -
こちら側から見ると、エンリケ航海王子は
今度は月を戴(いただ)いています。
なかなかいいタイミングで訪れました。 -
「発見のモニュメント」を出発すると、
民家の庭に枇杷がたわわに実っていました。
まだ色付いてはいないけれど、
ちょっと生らせ過ぎなくらい実っています。
その向こうにはアーモンドのピンク色の花も見えます。 -
ジェロニモス修道院に来ました。右端の白いドームが聖マリア教会です。
手前の入り口からは、海洋博物館に入れます。
ここには、「ベレンの塔」にあったブラジル初飛行の飛行機の実物が
展示されています。 -
修道院の長い建物の中央には国立考古学博物館があります。
国立考古学博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
観光地にはこうした看板が建てられています。
考古学博物館には、古代ローマの彫刻などの他、
エジプトのミイラまであるそうです。 -
ジェロニモス修道院として有名なので、修道院に入るのかと思ったら、
修道院の東側に付属している聖マリア教会がメインでした。 -
中に入る前に、まずここを見ておかなくてはなりません。
南門です。スペイン人の建築家ジョアン・デ・カスティーリョが
1518年に造りました。
扉と扉の間には、エンリケ航海王子の像があります。 -
聖母マリアの像を中心に24人の聖人たちが取り囲んでいます。
-
右側。
-
左側。
-
扉の上部。右は磔刑像ですが、左は弟子の誰かのようです。
-
とても16世紀初めに建てられたとは思えないほど、綺麗です。
世界遺産に登録された時にでも修復されたのかな? -
さて、西門から入ります。真っすぐ先には食堂があり、
アズレージョが見られるそうです。
右手が西門ですが、ここから左側にずっと続く西棟は、
19世紀に増築されたもので、
以来、西門は屋内のようになってしまいました。
東棟が16世紀のもので、聖マリア教会と
その裏にある中庭を囲む回廊があります。
この回廊は、マヌエル様式の最高傑作と言われるそうですが、
ツアーでは見学しませんでした。 -
西門は、フランス人のニコラ・シャントレーヌの彫刻で覆われています。
中央はキリストの誕生、左は受胎告知、右は東方三賢人。 -
膝まづいているのがマヌエル1世。
彼が1502年にジェロニモス修道院を着工させました。 -
こちらが王妃マリア。
この二人のモチーフは、教会内のあちらこちらで見られます。 -
豪華な祭壇。インド航路の開拓により、胡椒貿易で得た巨額の富を
ここに注ぎ込んだのです。 -
西門を入ってすぐの頭の上には、聖歌隊席があります。
この天井の上です。 -
聖マリア教会の最大の特徴は、天井に向かって伸びる柱の風景です。
椰子の木をイメージしたそうで、
海をモチーフにした彫刻が施されています。
ポルトガルがアフリカやアジアに進出し、
繁栄したことを表しているのです。 -
4本の柱が、天井の高さを強調します。
ジェロニモス修道院は、マヌエル様式の代表です。 -
柱に描かれている海のモチーフ。
なんだかあまりよくわかりません。サンゴなのかな? -
カモンイスの石棺。カモンイスは、ポルトガル最大の詩人です。
棺には筆と竪琴が描かれています。 -
天井の浮き彫り。ちょっと無骨な造りにも見えますが、
建築が16世紀ですから技術的な限界なのでしょう。 -
外から見たより天井は高いです。その天井を柱で支える技術しかない
としても、この眺めはそれなりに神秘的に見えます。 -
ポルトガルはヨーロッパの西の端であり、中心から離れた場所なだけに、
他国からの影響が強くないようで、独自の様式を持っています。
フランス・ドイツ・イタリアに飽きたら、
ポルトガルというのは結構いいと思います。 -
ステンドグラス。色彩は華やかですが、
手の造作などが無骨で発展途上に思えます。 -
やがて窓が大きくなり、ステンドグラスも大きくなるのでしょうが、
ポルトガルの繁栄はその頃までは持ちませんでした。 -
王冠を被ったマリア像。ここは聖マリア教会でしたね。
-
内陣の手前にパイプオルガンがあります。
-
右側の翼廊。
-
パイプオルガンの後ろにある祭壇。ぷっくりしたマリア様が珍しい。
-
普通はこのタイプ。
-
主祭壇です。この板絵は、宮廷画家ローレンソの作品。
-
天井までは絵を描けなかったんでしょうか?
側面のアーチの下には王族の棺が納められています。
左にはマヌエル1世と王妃マリア、
右には息子のジョアン3世と王妃カタリナです。
この内陣は、王家の墓所にもなっているのです。
大抵は床または地下室だと思うのですが、ポルトガル特有なのかな? -
最奥に置かれているこれは何だろう?
-
内陣側から、入り口方向を見ます。聖歌隊席が見えます。
その頭上には磔刑像が吊り下げられています。 -
これが聖歌隊席の磔刑像です。
聖歌隊席には上がれるようですが、
上がり口がどこだかわかりませんでした。 -
右の翼廊。普通ならステンドグラスが嵌め込まれている筈の丸窓には
何もありません。 -
衣装が素晴らしいです。ひょっとしてたまにお召替えするのかな?
-
左の翼廊。こちらも墓所になっています。
ポルトガルの棺は独特の形をしています。 -
このステンドグラスは随分細かい描写がされています。
少し年代が新しいのかな?
柱の模様が、この聖マリア教会の柱と同じになっています。 -
ちょっと顔が怖いけど、海洋国家らしい絵柄の聖母子です。
-
きっとこれは王妃マリアなのでしょうね。
-
インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマの石棺。
カラベル船が刻まれています。 -
装飾が逆巻きになっています。教会の中に何カ所かあるそうで、
見つけるといいことがある・・だったかな?
たくさんの人に触られて、色が変わってしまっています。 -
さて、ジェロニモス修道院の見学を終えて、おやつタイムです。
すぐ近くにポルトガルで一番有名なお菓子パステル・デ・ナタの
修道院のレシピを受け継いでいるという老舗菓子舗
「パステイス・デ・ベレン」です。
いつでもこうして大行列なんだそうです。パステラリア パステイス デ ベレン パン屋
-
店頭が混んでいるのは持ち帰りカウンターだけ。
-
店内はこんな感じ。奥にあるトイレを使わせてもらいました。
-
店内では、パステル・デ・ナタをどんどん作っています。
-
エッグタルトと訳されますが、厳密に言うとちょっと違うなあ。
そもそもタルトじゃないし。
上はチーズ濃厚のクリームで漕げているのがミソ。
生地はしっとりしたパイ生地です。お菓子というより、菓子パンに近い?
世界最高のエッグタルトは、香港の泰昌餅家の
出来立てふるふるのだと思います。
さっきお昼にもリベイラ市場で食べたから、本日2つ目! -
ジェロニモス修道院の前を走るトラム。
先程から見ている市電と同じなんですが、
このような新型車両も走っていて、古い車輛は市電、
新しい車輛はなんとなくトラムと言ってしまいます。
15番の市電は、中心街のバイシャ地区にあるフィゲイラ広場から
南下してコメルシオ広場に突き当たると西に向かい、
カイス・ド・ソドレ駅経由でベレン地区に来ます。 -
4月25日橋の下部を電車が走っています。
なんだか瀬戸大橋を走る瀬戸大橋線のようです。
与島PAに立ち寄った時、アンパンマン列車が通りました。
みんなで手を振るのって楽しいですね。 -
エストレーラ大聖堂(Basilica da Estrela)。
リスボンの西方の郊外にあるネオ・クラシック様式の大聖堂です。
1760年、ドナ・マリア1世(当時は王位継承者)は、
叔父であるペドロ3世と結婚し、翌年長男のジョゼが生まれました。
これを記念して建てられました。
内部はバロック調の装飾になっています。
1777年、ジョゼがドナ・マリアの妹と結婚した直後に
父であるジョゼ1世が死去し、
ドナ・マリア1世として即位します。
ジョゼ王太子は、天然痘で1788年に急逝します。
この頃からドナ・マリア1世は精神異常をきたし、
母・夫も相次いで亡くなったため、
完全に狂気の世界に入ってしまいました。
このため、3男のジョアンが摂政となりました。
1801年ナポレオンがスペインに進攻し、リスボンを占領しました。
ポルトガルは同盟を結んでいたイギリスの援助で
ブラジルに宮廷を移設します。
ドナ・マリア1世はブラジルのリオデジャネイロで、
1816年に亡くなりました。
その遺体はポルトガルが本国に戻った時に一緒に移され、
この大聖堂に埋葬されました。
ジョアン王太子はリオでジョアン6世として即位します。
イギリスが駐留していたポルトガルでは
「1820年自由主義革命」が起こって、イギリスが撤退し、
1822年にようやくジョアン6世は
ポルトガルに帰国することが出来ました。
この時ブラジルに摂政として残された王太子のドン・ペドロは、
1822年にブラジル帝国の独立宣言を行い、
ベドロ1世として即位します。
彼の息子ペドロ2世が1831年に即位し、
ブラジルの近代化に尽力します。
このブラジル帝国は、
1889年にクーデターにより共和国になりました。エストレーラ聖堂 寺院・教会
-
エストレーラ庭園(Jardim da Estrela)です。
エストレーラ大聖堂の正面に広がる広大な公園です。 -
再びこの美しいプロムナードに戻って来ました。
リベルダーデ通りです。 -
ケーブルカーのグロリア線が見えます。
ビルとビルの間をゴトゴトと登って行きます。
あの先はどうなっているんだろう。
ビッカ線は真っすぐだったけど、グロリア線は大きく曲がります。
これは、ずっと後のお楽しみ。ケーブルカーグロリア線 その他の交通機関
-
レスタウラドーレス(Restauradores)広場でバスを降ります。
ここからリスボンのミニ散策です。
目の前に5つ星のホテル 「アベニーダ パレス( Avenida Palace)」が
見えます。
手前にある赤地に白い「M」の看板が
地下鉄ブルーラインのレスタウラドーレス駅の入り口です。レスタウラドレス駅 駅
-
レスタウラドーレス広場にはオベリスクがあります。
1578年に国王セバスチャン1世がモロッコ遠征中に戦死。
後を継いだエンリケも翌年急逝し、
ポルトガルのアヴィス朝は断絶しました。
セバスチャン1世は、スペイン王カルロス1世
(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の娘を母に持ち、
父方の祖母はカルロス1世の妹でした。
このため1580年、スペインのフェリペ2世が王位継承権を主張し、
合同王国となりました。
1640年に独立し、ジョアン4世がブランガンサ朝を始めました。
この60年間を「スペインに支配された屈辱の60年間」として、
レスタウラドーレス(「復興者たち」の意)広場には、
勝利と独立の精神を表す、オベリスクが立てられました。レスタウラドーレス広場 広場・公園
-
レスタウラドーレス広場の舗道には、
帆船と2羽のカラスが描かれています。
これは、リベイラ市場の入り口に描かれていたのと同じです。
ここのモチーフを踏襲したのでしょう。 -
レスタウラドーレス広場の南端からは
西日の当たったサンジョルジョ城が良く見えます。 -
アベニーダ・パレスホテルの横を通って行くと、
国鉄のロシオ(Rossio)駅があります。
ロシオ駅自体は4階にあるので、建物に入ったら
エスカレーターでひたすら上がって行くことになります。
リスボンは地形の高低差が激しいため、
すべての路線が集まる中央駅がありません。
お昼に見たカイス・ド・ソドレ駅も、
このロシオ駅もどん詰まりの駅です。
そのため、宿泊しているホテルの場所によってバイシャ地区への
アクセスが変わり、行先によって出発する駅が異なります。
シントラへは、ロシオ駅発でなくとも行かれるので、
路線をよく調べておきましょう。
ロシオ駅舎は工事中だったので、窓3つ分しか写っていませんが、
右の工事部分が中央で、その向こうにまた窓3つ分があるので、
ずっと大きな駅舎です。こちらの建物もマヌエル様式です。 -
ロシオ広場に来ました。やはり波打つ白と黒のモザイク模様です。
バイシャ地区には大きな広場が近接して3つあります。
勘違いしないように注意しましょう。ロシオ広場 (ペドロ4世広場) 広場・公園
-
ロシオ広場の北辺には、ドナ・マリア2世国立劇場があります。
ドナ・マリア2世は、狂気の1世の孫、
ブラジル皇帝ペドロ1世の娘です。
1826年ポルトガルのジョアン6世が亡くなり、
その息子である父ペドロ1世に王位が回って来ましたが、
当時7歳だったマリアに譲られ、マリア2世として即位しました。
しかし、父ペドロ1世の弟ミゲルがポルトガル国王を宣言し、
ポルトガルには二人の国王が存在することになりました。
怒ったブラジル皇帝ペドロ1世はリスボンに攻め入り、
ポルトガル内戦が勃発します。
1834年にペドロが勝利を治め、マリア2世の統治が確立します。
マリア2世は、1853年に亡くなっています。
国立劇場は、エスタウス宮殿のあった場所に建てられました。
1450年に建設されたエスタウス宮殿は迎賓館として使用され、
1755年のリスボン大地震では無事だったものの、
1836年に火事で全焼しました。 -
ロシオ広場は「公共広場」という意味で、
正式にはドン・ペドロ4世広場(Praca Dom Pedro IV)といいます。
ペドロ4世とは、ブラジル皇帝ペドロ1世のことで、
ポルトガル国王としては、ペドロ4世なのです。
父ジョアン6世から一旦ポルトガル国王を引き継ぎ、
ドン・ペドロ4世となってから、
娘のドナ・マリア2世に譲位しています。ロシオ広場 (ペドロ4世広場) 広場・公園
-
ロシオ広場の南端です。
前方のホテルと書かれた建物の右側アウグスタ通り(Rua Augusta)に入って行きます。 -
アウグスタ通りは突き当りに凱旋門(Arco da Rua Augusta)が
あります。
その向こうはコメルシオ広場とテージョ川です。アウグスタ通り 散歩・街歩き
-
パステル・デ・ナタを売る店発見。右側の一番下の棚がそれです。
入り口の右側にも斜めに「パステル・デ・ナタ6個で5.5ユーロ」と
書いてあります。パステラリア カーサ ブラジル カフェ
-
リスボン最大の有名観光地「サンタ・ジュスタのエレベーター」です。
エレベーターの全景を撮るには、真下のアウレア通りより、
2本離れたアウグスタ通りから見る方がいいです。
エッフェル塔で有名なエッフェルの弟子の建築家ラウル・メスニエルが
設計しました。
1902年に市民の足として、中心地バイシャ地区と高度のある
シアード地区を結ぶエレベーターが建設されました。
あの高さに上の町があるのはわかるのですが、
垂直に上がって後はどうなるんだろう?
正面から見ただけではよくわかりません。最終日までお預けの?です。サンタ ジュスタのエレベーター アクティビティ・乗り物体験
-
「熊猫食堂」中華料理店なのかな?
こんなに大人しい中華屋さんは初めて見た。 -
ぐるっと回って、フィゲイラ広場に来ました。
バイシャ地区はリスボン大地震の時に壊滅した町並みを、
ポンバル公爵が再建しました。
その時に碁盤の目に区画整理が行われたので、
方向を失うことはありません。 -
フィゲイラ広場(Praca da Figueira)には、
ドン・ジョアン1世の騎馬像があります。
ドン・ジョアン1世は、アヴィス朝を開いた国王です。
1383年ポルトガル国王フェルナンド1世が亡くなり、
娘のベアトリスが即位しました。
隣国カスティーリャの王フアン1世がポルトガルの王座を狙って、
わずか11歳のベアトリスと政略結婚しました。
そして翌年生まれたミゲルの王位継承を主張したのです。
これに怒ったフェルナンド1世の異母弟ジョアンが反乱を起こして、
対立しました。
1384年、カスティーリャ王フアン1世はポルトガルに進攻し、敗退。
1385年ベアトリスは退位して、ジョアンがアヴィス朝を開き
ジョアン1世となりました。
フランスを後ろ盾とするカスティーリャに対抗して、
イングランドと結び、イングランド王エドワード3世の孫娘と結婚、
たくさんの優秀な子供を設けました。
中でも有名なのがエンリケ航海王子です。
彼女が「発見のモニュメント」に刻まれていた女性です。
この像は、1971年に設置されました。 -
午後6時。3月ですが夕陽が強烈です。
フィゲイラ広場から東側を見ています。
丘の上にサン・ジョルジェ城が見えます。
道路に輝く線路が弧を描いています。
フィゲイラ広場は、市電12・15番の始発駅です。
15番はベレン地区に向かいますが、
12番はこのバイシャ地区をくるっと周って戻って来る環状線です。
最初に12番に乗って見ると、市電や街の様子がわかります。
だいたい一周30分程度です。 -
ミニ散歩観光が終わり、フィゲイラ広場からリベルダーデ通りへと
歩いて行きます。
アウグスタ通りには、白いドレスの男性がじっと座っています。
ストリートパフォーマーです。 -
ロシオ広場には花屋さんの出店がありました。
色鮮やかで大きなガーベラが多くて、
その他にバラ・ユリ・アルストロメリア・フリージア・チューリップ、
胡蝶蘭にジャスミンまでありました。 -
ロシオ広場から目線を上げるとサンタ・ジュスタのエレベーターの屋上が見えます。
屋上はエレベーターとは別料金で上がります。
右側の屋根のない教会がカルモ教会です。
リスボン大地震で倒壊したまま保存されています。 -
チボリ劇場(Teatro Tivoli BBVA)
真ん前に地下鉄ブルーラインのアヴェニーダ(Avenida)駅があります。 -
リスボンの町の上を頻繁に航空機が飛び交います。
リスボンの北に空港が位置するため、
テージョ川から進入して来る航空機は、リスボン市街から良く見えます。
航空機ファンにも楽しい街です。 -
それでは、ポルトガルの初日を終わります。
今回の観光はわずか4日間しかありません。
それなのに、内容が濃過ぎて、先行き不安です。
ゆっくりのんびり、そしてじっくり歩いて行きましょうね。
明日はリスボンを出発して、ロカ岬に行き、
北上してオビドスに向かいます。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
ポルトガル周遊
-
前の旅行記
ポルトガルの首都リスボン (リベイラ市場とビッカ線)
2019/03/14~
リスボン
-
次の旅行記
ヨーロッパの最西端・ロカ岬と大西洋に臨む リゾート地ナザレ
2019/03/14~
ナザレ
-
ポルトガルの首都リスボン (リベイラ市場とビッカ線)
2019/03/14~
リスボン
-
ポルトガルの首都リスボン (ベレンの塔・発見のモニュメント・ジェロニモス修道院)
2019/03/14~
リスボン
-
ヨーロッパの最西端・ロカ岬と大西洋に臨む リゾート地ナザレ
2019/03/14~
ナザレ
-
ポルトガルの城塞都市オビドス
2019/03/14~
オビドス
-
ポルトガル第二の都市ポルト (1) 橋と夜景とメトロ見学
2019/03/14~
ポルト
-
ポルトガル第二の都市ポルト (2) アズレージョの駅とドン・ルイス1世橋の上
2019/03/14~
ポルト
-
ポルトガル第二の都市ポルト (3) 市電と共にアズレージョの教会巡り
2019/03/14~
ポルト
-
ポルトガルの運河の町アヴェイロの、アズレージョを纏った旧駅舎
2019/03/14~
アヴェイロ
-
ポルトガル王家の避暑地シントラ(1) ペナ宮殿 -前編-
2019/03/14~
シントラ
-
ポルトガル王家の避暑地シントラ(2) ペナ宮殿 -後編-
2019/03/14~
シントラ
-
ポルトガル王家の避暑地シントラ(3) シントラ王宮
2019/03/14~
シントラ
-
ポルトガル王家の避暑地シントラ(4) レガレイラ宮殿
2019/03/14~
シントラ
-
ポルトガル王家の避暑地シントラ(5) モンセラーテ宮殿
2019/03/14~
シントラ
-
リスボンのケーブルカー・グロリア線と市電12番、そして夕暮れ散策
2019/03/14~
リスボン
-
ポルトガルの首都リスボン 最後の朝は市電28番制覇
2019/03/14~
リスボン
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (2)
-
- ももであさん 2020/05/05 16:27:37
- 遅ればせながら
- ミズ旅撮る人先生
リスボン 相変わらず詳しい♪
ポルトガルはカスティーリャと対抗していたのですか。
その割にカステラの元祖やってるんですね。
そー言えば、天竺のシェカワティ地方を旅する際に
参照させていただきました。
ありがとうございますm(_ _)m
- ミズ旅撮る人さん からの返信 2020/05/05 16:44:25
- RE: 遅ればせながら
- はじめまして、ももであさん。
>
> リスボン 相変わらず詳しい♪
> ポルトガルはカスティーリャと対抗していたのですか。
詳しいという訳ではないので、必死で調べまくってます。
ポルトガルのことって日本ではあまり教わらないので、知らないことだらけです。
ポルトガルは1143年にカスティーリャから分離独立した国なので、カスティーリャにしてみれば「のどに刺さった骨」みたいなものでしょうね。
だから、しょっちゅう争いが絶えない。かと言って、没交渉にも出来ないから政略結婚もあって、それ故に王位継承権争いが起こる。
隣国が大国なのでポルトガルは苦労しっぱなしだったでしょうね。
ヨーロッパの歴史は調べれば調べるほどおもしろいけど、ドツボにはまって、旅行記が長くなってしまいます。
>
> そー言えば、天竺のシェカワティ地方を旅する際に
> 参照させていただきました。
> ありがとうございますm(_ _)m
私の旅行記がお役に立てて、嬉しいです。
書き込み、ありがとうございました。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
リスボン(ポルトガル) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
リスボン(ポルトガル) の人気ホテル
ポルトガルで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ポルトガル最安
488円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
旅行記グループ ポルトガル周遊
2
102