2019/09/13 - 2019/09/22
835位(同エリア1567件中)
かるあみるくさん
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この旅行記のスケジュール
2019/09/20
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徒歩での移動
徒歩で海岸を見ながらピリタ通りを移動
この旅行記スケジュールを元に
エストニア旅行記パート36!です。
カドリオルク公園、ルサルカ像の観光のあとピリタ街道沿いにある歌の原Lauluväljakに向かいました。エストニアの民族意識を高めるのに役立った音楽は、ソビエトからの独立回復が「歌う革命」とも呼ばれた様に1988年9月11日には30万人を越す人々がこの会場に集まり、エストニアの歌を口々に歌い合ったことも独立回復へ大きな力となりました。
現在でこそ自由な国家のエストニアですが30年ほど前まではソビエト体制に組み込まれ自由はほとんどなく、その中で数年に一度開かれた音楽祭はエストニア人の民族意識に大きな影響を与えたそうです。
その後ピリタ街道を徒歩で北上し、マーリヤマエ宮殿にあるエストニア歴史博物館でエストニア史についていろいろと学びました。そして日露戦争でエストニア人ロシア兵が持ち帰った短刀や脇差し、大相撲の把瑠都の化粧まわしなど日本に由来のある物も展示されていました。
宮殿の外にはソビエト時代に各地に展示されていた銅像やモニュメントが展示されていて少し微妙な気分になりながら見学・・・。
そしてこの時期のタリンらしくまた雨が降り出した・・・ってところまでがこの旅行記です!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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これから歌の原へ入っていきます。イベントを行っているときはここでチケット販売があるようですがそれ以外の時は自由に入れるみたいです。何カ所かゲートがありここは「Mere Varav」海ゲートです。
エストニアでは5年毎に音楽祭を行っていて旅行直前の2019年7月に行われていました。なので次は2024年です。ラトビアとリトアニアでも音楽祭を行っていて次回は2023年になっています。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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奥に見えるのが音楽祭の会場になっている場所です。大きい建物なので結構遠くからでもはっきり見えますが意外と距離があります。
エストニア人の民族意識と音楽は密接に関わっています。帝政ロシアの一地方だったエストランド(エストニア北部)、リヴォニア(エストニア南部とラトビア)の人々の1800年代半ばに民族意識が向上し当時の文化人の呼びかけで音楽祭が始まりました。上流社会ではロシア語やドイツ語が使われる一方、庶民はエストニア語を利用していましたが、横の繋がりは少なく民族という意識はあまりなかったものがこのイベントで「エストニア人」というものを意識するようになったと言われています。
第一回はアレクサンドル2世の治世の元で民族意識が芽生えたエストニア人がリヴォニア県の農奴解放50周年を記念してタルトゥで開催したのが始まりで、当初はロシア帝国の何らかの記念に合わせ開催されていました。1~5回は第3回をタリンで開催した以外はタルトゥで行われ、第6回以降はこの場所で行われています。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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この歌の原、音楽祭会場なわけですがとにかく広い。これだけ広くても現在5年に一度行われている音楽祭では人があふれんばかりだそうです。
クリスマスマーケットや小規模な音楽祭なども行われますが、イベントが何もないときは自由に散策することが出来るようです。イベントの無いときは人がいないのですごく広く感じますね。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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下の写真を撮影した場所でMere Varavを振り返るとこんな感じになっています。
海がかなり遠くに見えます。
アレクサンドル2世の暗殺後は中央集権体制に戻りますがなんとか開催を続け、1923年には独立後最初の第8回音楽祭が13年ぶりに開かれ、1928年からは現在地での開催が続いています。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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これが音楽堂の背部です。大きいです、そして綺麗です。
実はこの建物、ソビエト占領下の1959年に建設されたものです。ソビエト占領下でも音楽祭は続けられていました。名目としてソ連には「各民族の権利を尊重する」という方針がありましたし、あくまで敵はブルジョアという建前でした。その為旧国旗や旧国歌などは当然歌えず、ソビエト国歌やインターナショナルの演奏、ソビエトの指導者への感謝を述べるなど、体制に寄り添う形ではありましたが、1946年以降も音楽祭は続けられてきました。
建物は2018年に大規模な改装が行われた為ピカピカでした。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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子供達の書いたような絵が展示されていましたが・・・。
左の絵はエルロンの車両の後ろ側がにんじんの様な少し気になる絵・・・。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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ステージの表側に行ってみます。この出入り口みたいなところから観客席へと向かうことが出来ます。
右手の建物は放送・無線設備塔だそうで、エストニアだけでなくヨーロッパ各国から訪れる報道陣用の報道センターや、国内にテレビ・ラジオで流すための設備です。
ヨーロッパでもバルト三国の音楽祭は有名な他、ソビエト占領体制で西側諸国へ亡命したエストニア人にとっても祖国を思い出す大事なイベントです。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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巨大なアーチ型の屋根と段状になった大きな舞台。2019年の音楽祭の総勢出演者は35000人を超え、その10倍以上の観衆が来訪したそうです。舞台手前に数人の観光客がいますが、その人の身長と比べてもこの舞台の大きさがわかると思います。正直写真だとわかりにくいですけどね・・・。
圧倒される大きさがありました。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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先ほどの地図の時も広いと書きましたが、この広さです。
この芝生一面に音楽祭の時には人が埋め尽くされ身動きも取れないほどの群衆が押し寄せるそうです。すごいですね。
ちなみにタリンの人口が42万人、エストニアの人口が133万人ですから、相当な数の人が来ていることになります。
エストニアは観光立国ですが、毎回音楽祭の際にはホテルがまったく取れなくなり値段も相当上がるそうです。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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先ほど歌の原に入るときに通った門の横にあった放送・無線設備塔です。遠くから見ると小さく見えました。
屋上にはエストニア国旗が誇らしく3枚なびいていました。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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右手にあるのは聖火を灯す聖火塔だそうです。いかにもソ連っぽい発想の建物ですが、今でも聖火は音楽祭の度に点火されているそうです。
高さがかなりあり、ステージの屋根よりも大きかったです。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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この像はグスタフ・エルネサクスという戦間期からソビエト占領下で活躍した作詞家・作曲家・指揮者です。この像は2004年に作成されています。
エストニア社会主義共和国の国歌を作詞するなど共産政権下に協力せざるを得なかった人でレーニン賞すが、ソビエト占領下でも続けることが出来た音楽祭では毎回閉会前にメロディーを変えたMu isamaa, mu õnn ja rõõmの指揮を行い参加者とともに歌い続けました。
歌う革命から独立回復へと結ぶ付いたのを見届けたあと1993年にタリンで永眠されました。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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グスタフ・エルネサクスが眺める歌の原の会場。決してエストニアが自由であったとは言えない時代に活躍した彼の像が見守る歌の原でいつまでもエストニアの自由の象徴の音楽祭が続いていくことを願っています。
歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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見学を追えてピリタ通りに戻り次の目的地、マーリヤマエ宮殿にあるエストニア歴史博物館に向かいます。
歌の原、敷地が広いので上の写真からここまで8分かかっています。
ゲートの向こうにはフェリーが見えますね。巨大だ・・・。歌う革命の原動力になった会場 by かるあみるくさん歌の原 (歌の広場) 劇場・ホール・ショー
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ピリタ街道から少し奥に入った道を北に向けて進んでいきます・・・。左手に見えるピリタ街道は結構な車通りですが、この道は閑散としていて歩道も歩きやすいです。
歌の原に居るときから気にはなっていたけど嫌な雲が出てきたなあ・・・。 -
ピリタ通りを歩いていくとすぐにこんな建物がありました。旗を見るとアゼルバイジャン国旗で、アゼルバイジャン大使館でした。
同じ旧ソ連の構成国ですが距離も離れていて、向こうは産油国として経済発展著しくイスラム教国、カスピ海に面する国とイメージは随分と違います。
首都バクーは高層ビルも建ち並び地下鉄もある近代的な街だそうです。 -
ピリタ街道でタリン港に停泊するフェリーや出航するタリンクを眺めている人たちがいました。なんかすごくいい絵だったので撮影。
この時は次に来るときはヘルシンキからちょっとしたクルーズ気分で入国するのもいいなあなんて思っていました。今はフェリーに乗るのはリスクを考えるとって思いますし、次海外に行けるのはいつになるのか、という状況。
いつか新型コロナウイルスが終息し再び2019年以前の世界に戻ることを願っています。 -
タリンからヘルシンキへ向けて出航したタリンクのSilja Europa。6万トン近い排水量を誇り1152室に3013人の乗客を乗せることが出来るフェリーです。
1993年にフィンランドのシリヤラインのフェリーとして就航。ヘルシンキ-ストックホルム間に就航していた1994年9月にエストニア号の遭難信号を最初に受信した船でもあります。2006年にシリヤラインがタリンクに買収された為タリンクの船として活躍しています。
ちなみにバイキングラインの船として発注され、既に塗装もされた状態でバイキングラインの経営難になったため急遽シリヤラインに納入されたという逸話もあつ船です。 -
歌の原を出てゆっくりとピリタ通りを進み15分程で次の目的地に到着しました。EESTI AJALOOMUUSEUM、エストニア歴史博物館という施設です。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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エストニア歴史博物館はマーリヤマエ宮殿というマナーハウスを利用しています。17世紀後半にタリンのバルト貴族により建てられ、その後はロシア帝国の貴族の夏季別荘として利用され、独立後はホテルや空軍学校として使用されました。
ソビエト占領下では将校達の居住区として利用されるも次第に利用され、ホールはソビエト風に改修されました。独立回復間近の1987年に歴史博物館としてオープンし、独立回復後に展示をソビエトの歴史観からエストニアの本来の歴史観に戻した物にリニューアルしたそうです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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エストニアの国章である獅子をデザインした噴水がマナーハウス前に設置されていました。いつ頃設置したのか調べてもわかりませんが、この獅子の国章はかなり古くから使われていた様なので、スウェーデン統治下に出来たものかもしれません。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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奥には映像博物館がありそちらもタリンカードで無料です。内容としてはエストニア映画についてと、映像技術についてがメインの様です。時間を考えて今回は歴史博物館だけにしました。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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三枚上の宮殿の写真を撮影した場所の横にブースがあって、そこがチケット売り場らしいのですが誰もいなかったので宮殿に入ったら1階にチケット売り場とお土産屋がありましたのでそこでタリンカードを提示して入場。
入場するとすぐのところに昔の車が置いてありました。車について詳細は書かれていませんでしたが、車に乗って写真撮影が行えるようになっていました。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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ソビエト風に改修されたホールです。普段は普通のソビエト風ホールなんですが、1時間に1回だかソビエト風の壁画が浮かび上がる仕様になっています。
たぶん社交場として利用されたんでしょうね。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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出入り口側の壁にはソビエト連邦とソビエト構成各共和国の国旗が出ていました・・・。
赤い・・・ですね。
こんな時代が二度と来ないよう願います。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1階はホール以外は展示はなく主な展示は2階になります。2階へ上がっていく階段の途中でこの様な感じでわかりやすくエストニア共和国の国土割合、年齢、男女比、人種比などが描かれていました。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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現在のエストニアの人口構成です。エストニア人が69%、ロシア人が25%、ウクライナ人が2%、ベラルーシ人が1%、その他が3%だそうです。
1920年の時点では圧倒的にエストニア人が多い国家でしたが、ソビエト時代にロシア人が多く移住したことでバランスは大きく変わっています。タリンはエストニア人とロシア人でだいたい半々です。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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様々な統計が記されています。興味深いのが男女比が47:53で女性が多いことや18~64歳人口が割と多いことですかね。
他にもエストニア内の人口分布やこの博物館を訪れた人の数までいろいろなデーターがありました。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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Tanto(左)とWakizashi(右)で日本の伝統的な短剣と紹介されていました。
日露戦争時のエストニアはまだロシア帝国領でエストニア人もロシア軍として陸海ともに日本と戦いました。またバルト海の艦艇から引き抜いて結成した第2・第3太平洋艦隊(通称バルティック艦隊)も出港地がリバウ(現リエパヤ)と言われることが多いですが、リバウ以外にもパラジスキーやタリンからも出航しているので、日本海海戦で犠牲になったロシア水兵の中にはエストニア人もいたと思います。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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エストニア独立戦争時にエストニア軍が使用していた軍旗です。青色の部分の文字は読み取れないのですが、黒色の部分は「エストニア軍人」、白色には「団結」と記されています。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1918年2月23日にパルヌで宣言されたエストニア独立宣言”全てのエストニア人への約束”の写しです。翌2月24日にタリンで公布され、ピョートル大帝広場(現ワバドゥセ広場)で祝賀式典とパレードが行われました。
当時の内容としてはかなり先進的なものだったようです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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独立戦争時に使用された野砲が展示されていました。
後ろの写真は歴史上初めて結成されたエストニア軍の部隊の集合写真です。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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コンスタンティン・パッツ元大統領の写真もありました。戦間期の政治家の一人で、ヨハン・ライドネル将軍やヤーン・テニソン外務大臣などと同様非常に影響力のあった人物です。
独立までは新聞社経営の一方独立運動で投獄と潜伏を繰り返し、エストニア知事になった後も占領したドイツ軍に投獄などもされました。
独立後はソビエトとドイツという大国に挟まれたエストニアで独立を維持しようとし強権的な政治を行う一方、国内の発展に尽力しました。
ソビエト占領後はロシアのウファに軟禁され、その後政治犯として強制労働・収監されました。一時的にせよエストニアの地を踏むことは出来ましたが、民族運動に繋がることを警戒した当局によりロシアへ戻され、そこで生涯を終えるということになりました。 -
装甲列車、戦争博物館、タルトゥ市博物館とこの地図を目にする機会はあったのですが、どうやら旅行記にアップするのは初めてになるみたいですね。タルトゥ条約で領土が確定したエストニアの戦間期の地図です。
ナルヴァ東方のヤーニリン地区と、ペチェリ(ロシア名ペチョールイ)などの所属するセトマー県がエストニア領なのが現在のエストニアと違う所です。
縮小した写真なのでわかりにくいですが、赤の波線がロシア帝国時代のエストニア領、黒の波線の外側を水色で囲っているのがタルトゥ条約でのエストニア領、エストニア領の中の赤の実線は当時の県の区切りです。現在東西で別れているヴィル県は一つですし、セトマー県が存在しています。
セトマーは名前の通りセト人の土地ということで、エストニアに居住するセト語を話す人たちが多く住んでいました。セト人を少数民族とするかはエストニアとロシアで考え方が異なっていますが、セト語は南エストニア方言に近い言葉です。 -
1920年代のエストニアの絵地図と各都市の様子を描いた陶器の皿の展示です。
一つ一つの皿を見ていくと約100年前のエストニアの都市の様子が見て取れます。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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エストニアの民族衣装などが展示されていました。
右上の真っ二つにされている像は今となってはすごく気になるのですが、当時は気付かなかったのかアップの写真や解説文を撮影していなく詳細不明・・・(´・ω・`)。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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上の写真の左下に写っている端末ですが、あなたの名前をエストニア風にする、というものです。自分の名前を入れると日本人的にはなんかすごく笑ってしまう感じになりました(笑。
エストニアと民族的に近いフィンランドは人口比で考えると非常に多い苗字を持つ国ですが、エストニアはどうなんでしょうね。ちなみにフィンランド観光局のサイトには同じように名前をフィンランド語に変換してくれるページがあります。
https://www.visitfinland.com/campaigns/finngenerator/public/ja/ -
1920年のタルトゥ条約から1946年まではナルヴァ近辺のエストニアとソビエトの国境はナルヴァ川ではなく川から9キロほど東にあったコマロフカ村の東側に国境がありました。エストニアはソビエトを世界でもっとも早く承認した国の一つではありましたが、かつての宗主国の継承国家であり仮想敵国だったので国境も厳重に管理されていました。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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戦間期の生活や軍人の装備などが展示されていました。
スペースは少ないですが展示の仕方などにエストニア人の誇りを感じます。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1940年6月21日、ソビエト軍がエストニアに進駐しエストニア軍の武装解除を強制的に勧める中、タリンのワバドゥセ広場にはエストニア共産党が動員した2000人ほどがエストニア共和国のソビエト加盟を求めるデモを行います。最終的に「エストニア政府の加盟申請に応じ」1940年8月6日にエストニア・ソビエト社会主義共和国はソ連に加盟することになります。
一方いくつかの西側諸国はこれを認めず(一方ソ連に対し強い処置は執らず)エストニア共和国を独立政府として冷戦中承認し続けました。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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第二次世界大戦期にエストニアで使われた武器、軍服、携行品などが展示されていました。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1945年から1987年のエストニアについてのコーナーです。独立回復は91年ですが、88年にはゴルバチョフにより守旧派のヴァイノが解任され改革派のヴァリャス第一書記が就任し次々にエストニア独自の政策を行い、89年には国名をエストニア共和国に変更し国旗も戻すなど事実上独立の状態にと向かっていきます。そのためエストニアではソビエト占領下の時代を表すときは87年で区切ることが多いです。
この看板はロシア語部分が消えていてわかりにくいですが、海岸への接近禁止などが書かれています。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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ソビエト占領下の様子とレーニンの写真の有る壺、いかにもソビエトっぽいプロパガンダの少年少女がハトを放つ様子などソビエト感満載のコーナーでした(´・ω・`)。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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エストニア・ソビエト社会主義共和国の国旗と国章です。
この国旗は1953年から1990年5月まで利用され、それ以前は赤旗の左上に鎌と槌が配置されその下にENSVと国名のエストニア語の略称が入ったものを、1990年5月以降は現在と同じ1940年以前の物が復活しました。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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ガスマスク姿の人形。
冷戦の片方の主役、ソビエトに占領され事実上最前線にされたエストニアでは有事の際の対応が出来るようにこの様なものが支給されていたそうです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1987年から本格的に始まったエストニアの独立回復運動。最初は環境保護運動として当局の開発への反対運動、それが成功すると徐々に占領当初に行われた弾圧に対する名誉回復を求める運動、民族運動へと高まっていき、人民戦線の発足、歌う革命、ヴァイノ第一書記の解任と改革派のヴァリャス第一書記の就任へと次々に革命は進行していきました。
このシャツはエストニアの独立回復を訴えて学生デモで着用されたものだそうです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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3つ上の写真に出ている旗がソビエト・エストニア社会主義共和国の旗なのですが、独立運動が高まる中でその旗の中央中程の波を表す部分をエストニア国旗を当てはめて独立を主張している新聞記事がありました。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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長く日本の角界で活躍し2012年には優勝をした元大関把瑠都の化粧まわしが展示されていました。引退後も日本でタレントとして活躍しユニークなキャラで人気でしたね。2019年3月総選挙でエストニア中央党から立候補し当選して現在はリーギコグの議員として活躍しています。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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タリンのエストニア共産党本部(現在のエストニア外務省ビル)前にあったレーニン像が独立回復後に撤去される動画を流していました。
丁寧に解体ではなくて、首と枠に鋼鉄のロープ引っかけて無理矢理クレーンで引っ張り台座から引きはがす形でした。
それだけソ連に対する恨みがわかる映像でした。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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リフラの記念碑と呼ばれる、ドイツ軍として赤軍と戦ったエストニア人に対する祈念碑のニュースです。第二次世界大戦中エストニア人はソ連側、ドイツ側で戦うことになりますが、ドイツ側で戦ったエストニア人はソビエト連邦から独立を取り戻す為、という信念で戦った人も多くそれを祈念するモニュメントが2004年の独立回復記念日にリフラというパルヌ県の村に設置されたというニュース映像です。
当然のことながら賛否両論が巻き起こり、また国際社会の圧力もありリフラからは撤去され、現在はタリン近郊のラジェディという村に設置されているそうです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1991年にエストニア政府が発行したパスポートになります。エストニア語と何故かフランス語で国名が記載されています。
現在はデザインと色が変更され日本と同じような色の表紙のものになっています。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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独立回復直後、資本主義経済が導入されたエストニアでは1990年代前半は治安が相当に悪化し犯罪が多数起きました。その頃に警察に押収された武器類だそうです。
その後経済の回復もあり現在では世界屈指の治安の良さを誇る国になりましたが独立直後は相当な混乱もあったそうです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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宮殿の屋上には近年設置されたと思われる小さな展望台が設置されていて360°眺めることが出来ます。が、博物館を見学していた最中に雨が降り出していました。まだポツポツだけどエストニアに1週間居て経験的にわかることは・・・「このあとかなりの土砂降り!」です。雲もやばいなあ。
この写真は南側を写していて方向的には歌の原やカドリオルク公園方面です。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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少しアップして撮影してみました。中央の円盤みたいなものは歌の原のステージの円形の屋根、その左型のものはステージ向かって右手にあった塔ですね。左の端の方にはラスナマエの団地が、右の端にはT1モールタリンの観覧車が見えました。
中央のマンションも変わった形をしています。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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タリン湾の方をみてみると湾の外は晴れて居るんですよね。テレビ塔に行ったときもそうですが、タリン近郊は雨でも郊外は晴れ、ということが結構あるようです。
街並みはすごく綺麗なんですが、雨や曇りが多いのはちょっと残念です。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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説明不要でしょう、ご存じレーニン像です。このポーズも一般的ですね。ソビエトの創設者の一人ですが、ソビエトロシアを設立し内戦を勝ち抜いた頃には病気により統治能力を事実上失っていました。その頃エストニアは独立戦争を勝ち抜きソビエト支配下には置かれなかったのでレーニンから直接弾圧を受けたと言うことはないです。
この像はタルトゥにある現在のエストニア国防大学の前に設置されていました。その時は全然知りませんでしたが旅行4日目に訪れた場所ですね。
下の旅行記の一番上の写真で紹介しています。
Tere Eesti 2019年9月エストニア7泊10日の旅-27
https://4travel.jp/travelogue/11584067歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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ユフヴィのカルチャーセンターに展示されていたレーニンの頭部像だそうです。撤去時に酷い扱いをして頭部だけが残ったわけではなく、この形でホールに展示されていたそうです。
まるでさらし首・・・と思ったのはその後の歴史を知ってしまっているからでしょうか。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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エストニア中部のラプラ県にあるVana-Vigalaという村に置かれていたMihkel Aitsamというエストニア人革命家の頭部像だそうです。1976年に生誕100周年を祝い造られたそうです。この人は1905年革命に参加した活動家だそうですが、同名の作家が居たりして少し調べるのに苦労しました。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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サーレマー島にあるクレッサーレ出身のボリシェヴィキ、ヴィクトル・キンギセップの像です。エストニア出身のボリシェビキで、エストニア共産党による政権を打ち立てようと地下活動を行っていましたが、当局に発見され処刑され遺体はバルト海に捨てられました。この像一瞬レーニンに見えました。
この像はワバドゥセ広場の側のハリュマギ広場に設置されていましたが、1991年に撤去されました。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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これもキンギセップのモニュメントだそうです。
ちなみに現在エストニアではスターリンと同じくらい嫌われているボリシェビキです。理由はいうまでもなくエストニア人のボリシェビキだからですね。
クレッサーレはソビエト占領下では1988年まで彼の名前にちなんだキンギセパという名前の街に変更されており、そのキンギセパ市役所前に置かれていたそうです。ちなみにナルヴァの東方にあるロシア領の街、キンギセップも彼の名前にちなみキンギセップと名乗っていますが、ソビエト政権が崩壊し資本主義国家となり、またエストニアが独立を回復した現在でも救命のヤムブルクに戻すことなくキンギセップのままです。何故・・・。まあヤムブルクがドイツ名って事もあるんでしょうけど。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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この首が取れた銅像ですが、ヤブゲニー・ニコラフという21歳で亡くなった水兵のものでした。彼はソビエト海軍として任務に当たっていた最中にタリン南部のハルクでドイツ軍に捕らえられ、拷問を受けながらも情報を渡さず生きたまま焼き殺されたと言われています。死後ソ連邦英雄の称号を受け、亡くなった地がエストニアだった為にカドリオルク公園にこの像が建てられました。
独立回復後に他のソビエトのモニュメント共々撤去されましたが、やはり扱いが酷かったために頭部が取れてしまった様です。その後長い間放置されるもこの博物館入りが決まりました。
レーニンやスターリン、その他ソビエト幹部がエストニアに行った事を考えると独立回復後のゴミの様な扱いはまあ納得いくんですが、こういう一兵卒の像まで壊されしかも頭部が無くなってしまっているというのはちょっと悲しいなあと。
まあ数が少なかった様なので、レーニンやスターリンなどの様に五体満足の像が無かったんだと思いますが(レーニンなどの多くは壊され方は相当なものです)歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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ヘレン・カルマンというソ連側で防諜活動を行った女性のモニュメントです。タルトゥ出身でレニングラード近郊のクロンシュタットで訓練を受けた後ナチス占領下のタルトゥで防諜活動を行うもゲシュタポに逮捕され拷問の末23歳で処刑されたと言われています(逃走をしようとして射殺、戦後も西ドイツで生存説もあり)。拷問を受けても情報を漏らさなかったとして、ソ連邦英雄に死後列せられています。
歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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1924年12月1日のクーデターの失敗とその後のエストニア共産党への弾圧を祈念するモニュメントとしてクーデターの中心の戦場になったバルト駅に近いトームパークのシュネリ池の側に設置された像だそうです。
ホテルの目の前なのでシュネリ池近辺はなんとなくわかりましたが、今は自然の公園という雰囲気ですが、こんなでかいモニュメントがあったんですね。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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説明不要、スターリン像です。
1950年にトームペアから見下ろせるトームパークに建てられましたが、スターリン批判にともない1960年代には撤去されたそうです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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ミハイル・カリーニンの像です。右腕が取れていますね。撤去されたときに折られたのでしょうか。撤去される前はタリンのトルニデ広場に置かれていたそうです。
オールドボリシェヴィキとして数少ない大粛正を生き延びた人物で実権のない名目的な元首である最高会議幹部会議長議長を努めましたが、実権はなく粛正におびえる日々だったと言われています。妻のカタリーナはロシア帝国時代のエストニアのパイデ出身で革命後ソビエトで生活していましたが、大粛正期の後半に失脚し強制収容所送りになっています。
旧東プロイセンのケーニッキブルクがカリーニングラードに改称されたり、名前は有名ですが1930年代以降は不遇の日々を送りました。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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広場に並べられたソビエト政治家や共産主義者の像達。
無理矢理組み込んだエストニアでソビエト政権崩壊後の現在この様にさらし者の様に並べられていることを彼らはどうおもうのでしょうか。
ボリシェビキ構成員の最初の理想は高かったのかもしれないですが・・・。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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大祖国戦争(ロシアで言う第二次世界大戦)を勝ち抜いたソビエトの兵士とソビエトの力を記念してヴィリヤンディに設置されていた「ソビエト兵」という像だそうです。特に誰かの像と言うわけではないようです(モデルはあるのかもしれないですが)。
言うまでもなく独立回復直後に引き倒され放置されました。恐らくその時に折れたのだと思いますが、左前腕が欠損しています。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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宮殿裏のソビエト像を撮影していたらどんどん雨脚が強くなってきてしまいました。
到着したときに同じアングルで撮影をしていますが天気が違いすぎる・・・。
本当にエストニアの天気は変わりやすいです。歴史博物館として利用されています。 by かるあみるくさんマーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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道路を渡ってバス停で中心部に行くバスを待機中です。信号のない横断歩道だったのですが、片側2車線の道路でも待っているとすぐに泊まってくれます。エストニアでこれに慣れすぎて帰国直後跳ねられそうになりました・・・。エストニアは総じて運転マナーは良いです。郊外だとぶっ飛ばす人多いですけどね。
ちなみに右手に見える尖ったオリベスクは1960年にソビエトが建てた物で大祖国戦争の戦勝記念碑です。現在は老朽化で立ち入り禁止になっており、すぐ側に共産主義の犠牲者への祈念碑が2018年に建設されました。
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