チビチリガマ
名所・史跡
3.31
クチコミ・評判
1~10件(全10件中)
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読谷村の戦争遺跡(ガマ)
- 3.0
- 旅行時期:2024/06(約2年前)
- 0
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集団自決のガマなので気が重い
- 4.0
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
- 0
チビチリガマへ
場所は分かりやすいんです。
数台停められる駐車場に、トイレもありますし
近くにシムクガマがありま... 続きを読むすが、
そちらは投降をし、1000名近くの住民が助かったガマです。
ほんの数百メートルしか離れていないのに・・・運命を分けた2つのガマ。
とんでもなく気が重いなぁ~
このガマの上になかなかの交通量の道が走ってましてね。
ガマの上を車で通っていたのかぁ~
ガマの右側にあるのが平和の像
その左下にあるガマの入口には多くの千羽鶴などが飾られ、
案内板がひとつ
詳細はコチラに…
https://ameblo.jp/kamizoh/entry-12774584736.html 閉じる投稿日:2022/12/21
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あまりにも悲惨で悲しい場所 沖縄を知るうえで戦跡も行くべき
- 5.0
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 1
読谷といえば沖縄戦、最初にアメリカ兵が上陸した場所という印象が強かった
前から気になっていた凄惨な集団自決のあったガマ
... 続きを読む
チビチリガマ
コロナの影響で修学旅行生が平和学習で来なくなり
静まり返っている。
その隠された緑の向こうから
無念に亡くなった死者の叫びが聞こえるようだった
改めて思う。
正しい情報は必要だということ
悲しくも自決という形で命を失ってしまった人たちは
日本軍の誤った情報により
苦しみながら死を急いでしまった
すぐ近くにあるシムクガマ
生きようという強い意志をもった英語のわかるリーダーがいた。
そのために助かった。
チビチリガマには軍部の影響を受けた元兵士や元従軍看護婦の
判断を信じた住民たちが自決を選んだ
正しい情報を自分で見極め
生き抜く力を持つことは
ここで考えさせられることでもあった 閉じる投稿日:2022/04/02
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怖さと憤りで冷静な気持ちではいられません
- 4.0
- 旅行時期:2020/06(約6年前)
- 0
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なぜ?がまた増えました。
- 5.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
- 11
沖縄戦初期に集団自決があったチビチリガマ。2年前のガマ内部の損壊事件の影響を確認する意味も含めて再訪しました。
自分... 続きを読む達の商売のために時間を優先して2組のツアー客がバッティングした状況ではゆっくりと考える余裕もなく一度退散し時間をずらして再訪しました。
なぜ少年達は聖地を破壊するに至ったのか?と考える前によくこの場所でそんなことができたなと感心にも似た気持ちになりました。また多くの者が思想犯による仕業としていたのがウチナーの少年だったと言う事実に対し、保護観察処分となる課程に於いて作った多数の地蔵尊。その一体感のなさにこれで解決に至るのかと不思議な感覚に襲われました。
肝試しのレベルとは到底考えられないガマ内部の破壊行為。SNS受けを狙っただけとしか私には思えません。
反省だけならサルでもできる。取り返しのつかないことをした犯罪者にあまりにも甘過ぎる処分だと思えて仕方がありません。犠牲者は三度殺されました。四回目が絶対に起こらないようにするには何が必要か?真摯に受け止めて考えなければ命を絶った80余名の御霊の安住の地とする価値はないように思えてなりませんでした。 閉じる投稿日:2019/07/06
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言葉にならない
- 5.0
- 旅行時期:2018/12(約7年前)
- 0
沖縄戦で多くの住民が集団自決したガマです。
わかりにくく容易に辿り着くことができませんでした。
静かな県道を少し入った... 続きを読むところ。
狭くて急な階段を降りて行くと、亜熱帯特有の草木が生い茂るジャングルが現れます。
そこには小川が流れています。
県道からは想像がつかない光景、初めて目にするガマ。
驚き、怖さ、憤りなどいろんな感情が押し寄せてきましたがどう表現したら良いのか。
あまりの衝撃に言葉がみつかりません。
平和の像も印象的でした。
作った方のお話を動画で見たことがあります。
平和の像は鬱蒼としたこの場所の救いとなっています。
この場所が荒らされた事件は記憶に新しいのですが、その少年たちが彫った観音様もガマ周辺に置かれていました。
沖縄には木や草に覆われてしまって見つけられないガマがたくさんあるそうです。 閉じる投稿日:2019/02/23
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リアルな「生」の想い
- 5.0
- 旅行時期:2016/09(約9年前)
- 4
ここで起こった“事件”は正に阿鼻叫喚の地獄絵図。
投稿を迫る米軍を前に、捕虜になるくらいなら死を選べという軍属の言葉に触... 続きを読む発された住民たちが殺し合いを始め・・・
しかし、最近になってわかってきた「真実」は、これまで語られてきた「住民同士の殺し合い」によるものではなく、誰かが火をつけた布団の不完全燃焼による煙が壕内に立ち込め、多くの人が「窒息死」したというもの。
ただし、これは「死因」がこれまで語られてきたこととは異なると言うだけであり、集団自決が行われようとしたことは事実であり、ガスが充満するガマから脱出せずに「自死」を選んだ思想的背景は、同じ。
さらに、チビチリガマの悲劇は戦後も続き、「平和の像」が右翼によって破壊されました。
単なる“鎮魂”では済まされない、このガマで起こった出来事、そして遺族の想い・・・
それは平和の像の台座の中をのぞけばよく理解することができます。
じっくり、感じながら拝観してほしい場所です。 閉じる投稿日:2016/11/06
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避難民140名中85名が集団自決により亡くなった場所です。
- 5.0
- 旅行時期:2015/06(約11年前)
- 12
国道58号線から残波岬へと向かう県道を少し北上したところにあるチビチリガマは、昭和20(1945)年4月2日、前日に北谷や... 続きを読む読谷村に無血上陸を果たした米兵がやって来た際、リーダー不在の民間人からなる避難民の中で起こった集団自決により85名が亡くなった場所になります。集落で身内同様の付き合いをしていた住人同士が殺し合いをした凄惨な模様は、戦後生存者によって語ることすらタブー視されていたため長きに渡り、その様子がわかりませんでした。
戦後38年を迎えた頃ようやくその模様が語り出され、惨たらしい様子が表に出ることになります。そして事件後42年が経った昭和63年4月2日に、チビチリガマ世代を結ぶ平和の像が建立されましたが、心無いものに破壊されます。一時は再建に消極的だった遺族会も世界各国からの支援を受け、1995年4月2日の事件後50年の節目の年に再建されました。今では静かに歴史の生き証人として、チビチリガマという聖地を見守っています。 閉じる投稿日:2015/09/27
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冷静な気持ちではいられませんでした
- 4.0
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
- 1
読谷村にある石灰岩の自然洞窟で、チビチリガマは、「尻切れ洞」という意味だそうです。
1945年の沖縄戦で、チビチリガ... 続きを読むマへ避難していた住民約140名中、83名が“集団自決”を強いられたという悲惨な歴史を刻むところです。
場所が少しわかりにくいところにあります。国道58号線の“伊良皆”の信号から、県道6号線に入り、車で10分足らずのところに“大当”の信号があります。そこから、県道をそれて、真北に間道を500mほど走ると右手に赤瓦の小さな建物(トイレ)があり、そのすぐそばにチビチリガマがあります。車が数台停めるスペースがあります。
道路から階段を降りていくと、薄暗く水が沸いている洞窟(ガマ)があり、その前に『これから先は墓なので立ち入らないように・・・。参拝は平和の像で』ということが書かれた遺族会による注意板と“平和の像”があります。
当時の様子を想像してみてとても冷静な気持ちではいられませんでした。ここで起こった歴史を受け止め、静かに“平和の像”に手を合わせてガマを後にしました。
ガマから先、400mほどのところに沖縄戦の悲しみを歌った「さとうきび畑(作詞作曲 故・寺島尚彦さん)」の歌碑があるので、あわせてお参りされれば良いでしょう。 閉じる投稿日:2015/06/08
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歴史に翻弄された史跡
- 5.0
- 旅行時期:2010/09(約15年前)
- 3
国道58で読谷に向かい、伊良皆の交差点から県道6号線に入る。4kmほど走ると「波平」の交差点に当たる。これを県道から逸れる... 続きを読む形で直進。両側が畑の道を500mほど行った右手に小綺麗な建物(実はトイレ)があり、その前がチビチリガマへの入口である。
駐車スペースは3台程度。
ガマの入口へは道路から階段を降りていく。
茂った樹木がちょうど屋根のようになっている小さな広場、そこにガマの入り口がある。
1945年4月3日、ここに避難していた波平地区の住民約140名中、83名が『集団自決』をした。
避難民に混じって軍属がいた。彼らはサイパンの集団自決を見、中国大陸での自軍の捕虜虐待・虐殺を見てきた。これらの経験から「米軍に捕虜になれば辱めを受け、殺される」「日本人として潔く死ね」と住民たちに説いてまわった。従軍看護婦だった女性は毒薬を配った。
3日目の4月3日、殺してと頼まれ、母親が実の娘の頸動脈を切った。既にパニック状態が限界に達していた壕の中は、これを契機に酸鼻を極めた修羅場と化して行く。
武器も持たず、自殺用の毒薬も人数分があるわけもなく、住民たちは鎌で首を切る、包丁で刺す、首を絞める、石を頭に叩きつけるといった方法で、『集団自決』と言う名の殺し合いを始めたのである。
結局死に切れなかった人たちは奇跡的に米軍に救出された。生きて残った人たちが幸運であるわけもない。家族や近所の人たちが絶命していくのを間近に見、もしくはそれに手を貸したかもしれない。
彼らが一様に固く口を閉ざし、ここで起こったことは戦後40数年間、明らかにされなかった。そして今もその詳細は明らかになっていない…。
さらに悲惨なのは83名のうち約6割が18歳以下の子供達だったという。
皮肉なことに、ここから1kmほどのシムクガマでは、英語を話せる日本人がいたおかげで、1000名というはるかに大勢の避難民が全員生還できたのである。
しかしこのシムクガマの生還者たちも沈黙を守ったままだ。
ここで起こった事実はしっかりと受け止め、後世に伝えていくべきだろう。 閉じる投稿日:2013/05/14
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