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破城の状態のまま残された、美濃金山城の本丸跡の紹介です。1601年に破城されたとの記録がありますが、その破城された状態を、400年以上も経った今日に見学できるのも興味深いことでした。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)

2018暮、東海三県の名城(8/12):美濃金山城(3):枡形虎口、本丸、破城跡、城址碑

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2018/12/27 - 2018/12/27

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旅行記グループ 2018暮、東海3県の名城巡り

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旅人のくまさん

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破城の状態のまま残された、美濃金山城の本丸跡の紹介です。1601年に破城されたとの記録がありますが、その破城された状態を、400年以上も経った今日に見学できるのも興味深いことでした。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)

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  • 『桝形虎口(ますがたこぐち)』のタイトルの説明パネルの紹介です。右上のイラスト図が、本丸と、その周りの復元想定図、右下の拡大図が、『枡形虎口』部分です。三方を石垣で囲まれた中に敵が侵入した場合、石垣の上の多門櫓から攻撃ができる構造のようです。(同上)

    『桝形虎口(ますがたこぐち)』のタイトルの説明パネルの紹介です。右上のイラスト図が、本丸と、その周りの復元想定図、右下の拡大図が、『枡形虎口』部分です。三方を石垣で囲まれた中に敵が侵入した場合、石垣の上の多門櫓から攻撃ができる構造のようです。(同上)

  • 破城の場合には、真っ先に取り壊されてしまうのが、守備固めの虎口になるのかも知れません。石段の部分は発掘調査で姿を見せているようですが、虎口を取り巻く石垣や、徹底的に壊されたようです。先ほどの復元想像図を重ね合わせますと、最重要部は左上方面になるようです。(同上)

    破城の場合には、真っ先に取り壊されてしまうのが、守備固めの虎口になるのかも知れません。石段の部分は発掘調査で姿を見せているようですが、虎口を取り巻く石垣や、徹底的に壊されたようです。先ほどの復元想像図を重ね合わせますと、最重要部は左上方面になるようです。(同上)

  • 一部は、小山のような自然の地形を利用しているように見えますが、『枡形虎口』を取り囲む高石垣のようです。美金山城城は、『梯郭式山城』の構造を持ち、天守構造は、『複合式層塔型2重2階』だったことが記録されています。伝承として、犬山城の天守に使われたとするものがありましたが、これは犬山城天守の補修工事で、その事実がなかったことが確認されています。(同上)

    一部は、小山のような自然の地形を利用しているように見えますが、『枡形虎口』を取り囲む高石垣のようです。美金山城城は、『梯郭式山城』の構造を持ち、天守構造は、『複合式層塔型2重2階』だったことが記録されています。伝承として、犬山城の天守に使われたとするものがありましたが、これは犬山城天守の補修工事で、その事実がなかったことが確認されています。(同上)

  • 『枡形虎口』を取り囲む高石垣か、城壁の一部らしい高石垣のズームアップ光景です。『美濃金山城の天守』が、そのまま『犬山城の天守』に流用されたことは、近年の調査で否定されましたが、解体されて、天守以外の部分に資材として利用された可能性は否定されていないようです。(同上)

    『枡形虎口』を取り囲む高石垣か、城壁の一部らしい高石垣のズームアップ光景です。『美濃金山城の天守』が、そのまま『犬山城の天守』に流用されたことは、近年の調査で否定されましたが、解体されて、天守以外の部分に資材として利用された可能性は否定されていないようです。(同上)

  • 『本丸跡』の光景になるようです。本丸跡と想定されている部分は、かなり広く、その一部に『天守』が置かれた場所があったようです。『標高約277メートルの古城山の山頂に築かれ、天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭がある。(ウィキペディア)』、とも紹介されています。(同上)

    『本丸跡』の光景になるようです。本丸跡と想定されている部分は、かなり広く、その一部に『天守』が置かれた場所があったようです。『標高約277メートルの古城山の山頂に築かれ、天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭がある。(ウィキペディア)』、とも紹介されています。(同上)

  • 『天守台』があったと思われる場所には『鳥竜神社の拝殿』がありましたが、最新の発掘調査は、その神社の移設して行われたようでしたが、『天守』の礎石らしいものや、柱穴跡も見付かっていません。天守は本丸の北隅に位置し『二重二階層塔形』とも伝えられ、犬山城への移転も想定されていただけに、不思議なことです。しかし、謎が解き明かされれが、意外と単純な話かもしれません。(同上)

    『天守台』があったと思われる場所には『鳥竜神社の拝殿』がありましたが、最新の発掘調査は、その神社の移設して行われたようでしたが、『天守』の礎石らしいものや、柱穴跡も見付かっていません。天守は本丸の北隅に位置し『二重二階層塔形』とも伝えられ、犬山城への移転も想定されていただけに、不思議なことです。しかし、謎が解き明かされれが、意外と単純な話かもしれません。(同上)

  • 『天守台西南隅石』のタイトルがあった立札の紹介です。紹介文は、『長形の角石を交互に組み合わせ算木積にしたもので、これにより石垣が一層堅固になっている』、と説明されていました。算木積の一般的な説明です。その場所が、『天守台西南隅』になるこ戸を説明しているようです。『西南隅櫓の櫓台(昭和48年製作の縄張推定図)』であるとの指摘もありました。

    『天守台西南隅石』のタイトルがあった立札の紹介です。紹介文は、『長形の角石を交互に組み合わせ算木積にしたもので、これにより石垣が一層堅固になっている』、と説明されていました。算木積の一般的な説明です。その場所が、『天守台西南隅』になるこ戸を説明しているようです。『西南隅櫓の櫓台(昭和48年製作の縄張推定図)』であるとの指摘もありました。

  • 『算木積』の角石のズームアップ光景です。算木積』は、『石垣の出角部分(隅石)の積み方である。慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、城郭の石垣に見られる。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増している。(ウィキペディア)』、と解説されていました。建設時期から言っても、様式が完成した『算木積』ではなく、過渡期の石積になるようです。(同上)

    『算木積』の角石のズームアップ光景です。算木積』は、『石垣の出角部分(隅石)の積み方である。慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、城郭の石垣に見られる。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増している。(ウィキペディア)』、と解説されていました。建設時期から言っても、様式が完成した『算木積』ではなく、過渡期の石積になるようです。(同上)

  • 天守の礎石が見付からないため、謎が残る金山城の本丸ですが、『本丸御殿』は、神社建設の際に利に一部は失われましたが、礎石は残っています。それは、『本丸の中央部に存在した建物で城主の居館として使用された。本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土している。規模は東西約11メートル、南北約12.7メートルで面積約138.6平方メートル。(ウィキペディア)』、と紹介されています。(同上)

    イチオシ

    天守の礎石が見付からないため、謎が残る金山城の本丸ですが、『本丸御殿』は、神社建設の際に利に一部は失われましたが、礎石は残っています。それは、『本丸の中央部に存在した建物で城主の居館として使用された。本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土している。規模は東西約11メートル、南北約12.7メートルで面積約138.6平方メートル。(ウィキペディア)』、と紹介されています。(同上)

  • 『本丸御殿』は、『2棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在した。1953年(昭和28年)に烏竜神社再建の際に整地のために礎石を石材として転用して一部の原型を崩されてしまい、詳しい構図はよく分かっていない。(同上)』、とも紹介されています。烏竜神社の名前でも検索しましたが、何もヒットしませんでした。中国語読みでは、『ウーロン』となりますが、当初の呼び名の『烏峰城』に因むようです。(同上)

    『本丸御殿』は、『2棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在した。1953年(昭和28年)に烏竜神社再建の際に整地のために礎石を石材として転用して一部の原型を崩されてしまい、詳しい構図はよく分かっていない。(同上)』、とも紹介されています。烏竜神社の名前でも検索しましたが、何もヒットしませんでした。中国語読みでは、『ウーロン』となりますが、当初の呼び名の『烏峰城』に因むようです。(同上)

  • 本丸跡の紹介が続きます。本丸跡には、『小天守』もあったようです。その小天守は、『本丸の東隅に存在した天守の附櫓。北側で天守と、西側で柚櫓と隣接していた。小天守の床下に深さ約1.9メートルの穴蔵を有していた。(ウィキペディア)』、と紹介されていました。(同上)

    本丸跡の紹介が続きます。本丸跡には、『小天守』もあったようです。その小天守は、『本丸の東隅に存在した天守の附櫓。北側で天守と、西側で柚櫓と隣接していた。小天守の床下に深さ約1.9メートルの穴蔵を有していた。(ウィキペディア)』、と紹介されていました。(同上)

  • 更に、『小天守の東側の袖櫓の石垣に沿って穴蔵の出口の石段(3段)を設け、さらに、西側の穴蔵の仕切石垣に沿って穴蔵出口を設けている。この穴蔵の南側に東西2か所に出口を設けたことは全く他に類例のない独特な構造であって、未だに2か所の出口を設けた理由は解明されていない。周囲の石垣と礎石が現存している。(同上)』、とも紹介されていました。写真は、『小天守』の礎石とは関係ないようです。(同上)

    更に、『小天守の東側の袖櫓の石垣に沿って穴蔵の出口の石段(3段)を設け、さらに、西側の穴蔵の仕切石垣に沿って穴蔵出口を設けている。この穴蔵の南側に東西2か所に出口を設けたことは全く他に類例のない独特な構造であって、未だに2か所の出口を設けた理由は解明されていない。周囲の石垣と礎石が現存している。(同上)』、とも紹介されていました。写真は、『小天守』の礎石とは関係ないようです。(同上)

  • 写真は、本丸跡から眺めた、北西方面の光景になるようです。美濃加茂市・関市方面になるのでしょうか、関ヶ原は、岐阜市、大垣市を越えて、さらに西側になります。小天守を巡っても、『二箇所の出入口を設けた理由が、他に類例がなく全く不明』、との課題が残されているようです。小天守跡は、周囲の石垣と礎石が現存しています。謎は少しあったほうが、城歩きは楽しくなります。(同上)

    写真は、本丸跡から眺めた、北西方面の光景になるようです。美濃加茂市・関市方面になるのでしょうか、関ヶ原は、岐阜市、大垣市を越えて、さらに西側になります。小天守を巡っても、『二箇所の出入口を設けた理由が、他に類例がなく全く不明』、との課題が残されているようです。小天守跡は、周囲の石垣と礎石が現存しています。謎は少しあったほうが、城歩きは楽しくなります。(同上)

  • 写真は、眼下に見える木曽川の光景です。木曽川を高架道路が横断していました。話が脇道に入りますが、国史跡の『美濃金山城』の呼び名は、先に指定された、群馬県太田市に所在する『金山城』との混同を避けるためです。太田市の『金山城(かなやまじょう)』は、日本百名城の17番、昭和9年(1934年)に国史跡になりました。石畳の道と石垣が見事なお城です。(同上)<br />

    写真は、眼下に見える木曽川の光景です。木曽川を高架道路が横断していました。話が脇道に入りますが、国史跡の『美濃金山城』の呼び名は、先に指定された、群馬県太田市に所在する『金山城』との混同を避けるためです。太田市の『金山城(かなやまじょう)』は、日本百名城の17番、昭和9年(1934年)に国史跡になりました。石畳の道と石垣が見事なお城です。(同上)

  • 城内に視線を戻しての光景です。近くでは眺めていませんが、石碑にでも使われたらしい石材や、自然石などの面白い光景がありました。その背後は光を通さない自然林らしい光景でした。方角は確認していません。(同上)

    城内に視線を戻しての光景です。近くでは眺めていませんが、石碑にでも使われたらしい石材や、自然石などの面白い光景がありました。その背後は光を通さない自然林らしい光景でした。方角は確認していません。(同上)

  • 『史跡・金山城趾』の文字が刻まれた石標の光景です。標識は確認していませんが、『本丸』のエリアになるようです。標高276メートルの『古城山』の山頂付近になるようです。平成25年(2014年)10月17日の官報告示により国史跡になりました。岐阜県の主な城址では、岐阜城、苗木城に次いで3番目の国史跡になるようです。県指定の城址史跡では、岩村城、郡上八幡城がありますが、立派な再建天守を建てたのが災いしたのか、歴史的価値が高い大垣城は、市指定の史跡です。(同上)

    『史跡・金山城趾』の文字が刻まれた石標の光景です。標識は確認していませんが、『本丸』のエリアになるようです。標高276メートルの『古城山』の山頂付近になるようです。平成25年(2014年)10月17日の官報告示により国史跡になりました。岐阜県の主な城址では、岐阜城、苗木城に次いで3番目の国史跡になるようです。県指定の城址史跡では、岩村城、郡上八幡城がありますが、立派な再建天守を建てたのが災いしたのか、歴史的価値が高い大垣城は、市指定の史跡です。(同上)

  • 同じく、『史跡・金山城址』の文字が刻まれた石標のズームアップ光景です。1601年(慶長6年)の破城の時の様子は、『城の建造物は慶長5年(1600年)に解体され、麓の兼山湊から木曽川を通じて犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されてしまったが、犬山市の瑞泉寺に二の門が、可児市兼山に裏城戸門が移築現存している。(同上)』、と紹介されていました。1600年は1601年の誤りかも知れません。

    イチオシ

    同じく、『史跡・金山城址』の文字が刻まれた石標のズームアップ光景です。1601年(慶長6年)の破城の時の様子は、『城の建造物は慶長5年(1600年)に解体され、麓の兼山湊から木曽川を通じて犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されてしまったが、犬山市の瑞泉寺に二の門が、可児市兼山に裏城戸門が移築現存している。(同上)』、と紹介されていました。1600年は1601年の誤りかも知れません。

  • 『美濃金山城址』の北側を流れる『木曽川』の光景です。右手方向が川上になります。左手の美濃太田を経由して愛知県の犬山城の北側に至り、木曽・長良・揖斐川の三川が揃ったところで、伊勢湾に注ぎます。美濃金山城が破城になり、解体された資材は、この木曽川を左方向に、犬山城へと向かったようです。(以上)

    『美濃金山城址』の北側を流れる『木曽川』の光景です。右手方向が川上になります。左手の美濃太田を経由して愛知県の犬山城の北側に至り、木曽・長良・揖斐川の三川が揃ったところで、伊勢湾に注ぎます。美濃金山城が破城になり、解体された資材は、この木曽川を左方向に、犬山城へと向かったようです。(以上)

  • 『岐阜県指定史跡・美濃金山城・攻防の歴史』のタイトルがあった、可児市教育委員会名の説明看板の光景です。冒頭は、室町時代後期の再投資に関する記述で、その後に、織田信長の命による、1565年からの森氏による城主の時代が詳しく紹介されていました。(同上)

    『岐阜県指定史跡・美濃金山城・攻防の歴史』のタイトルがあった、可児市教育委員会名の説明看板の光景です。冒頭は、室町時代後期の再投資に関する記述で、その後に、織田信長の命による、1565年からの森氏による城主の時代が詳しく紹介されていました。(同上)

  • 『岐阜県指定史跡・美濃金山城・攻防の歴史』の説明看板のズームアップ光景です。森家の歴代城主を箇条書きで整理しておきます。(同上)<br />〇1565(永禄8)年:信長の命により、森可成(よしなり)が初代城主に。<br />〇1570(元亀元)年:可成が戦死し、次男の長可(ながよし)が城主に。<br />〇1582(天正10)年:長可が戦死し、可成の六男の忠政が城主に。1600年転出。

    『岐阜県指定史跡・美濃金山城・攻防の歴史』の説明看板のズームアップ光景です。森家の歴代城主を箇条書きで整理しておきます。(同上)
    〇1565(永禄8)年:信長の命により、森可成(よしなり)が初代城主に。
    〇1570(元亀元)年:可成が戦死し、次男の長可(ながよし)が城主に。
    〇1582(天正10)年:長可が戦死し、可成の六男の忠政が城主に。1600年転出。

  • 『本丸虎口(ほんまるこぐち)』のタイトルの説明パネルの紹介です。右上の図面が、想定復元図、右下の写真が、発掘調査で確認された『本丸虎口』の光景です。最新の発掘調査結果については、岐阜県・可児市・滋賀県立大学連盟で、2021年に『美濃金山城発掘調査結果報告書』が纏められ公刊されています。その100頁ほどの報告書は、PDF資料をネット閲覧も出来ます。(同上)

    『本丸虎口(ほんまるこぐち)』のタイトルの説明パネルの紹介です。右上の図面が、想定復元図、右下の写真が、発掘調査で確認された『本丸虎口』の光景です。最新の発掘調査結果については、岐阜県・可児市・滋賀県立大学連盟で、2021年に『美濃金山城発掘調査結果報告書』が纏められ公刊されています。その100頁ほどの報告書は、PDF資料をネット閲覧も出来ます。(同上)

  • 先ほど紹介した発掘調査報告書では、『第3節 Ⅲ区(図32~41)』として纏められていた箇所です。白い河原石の礎石2個と、壁面の鏡石が目印です。4個の礎石列(SB4)は、右側(東側)から『礎石1』~『礎石4』と呼称されていました。右端が『礎石1』です。三箇所の虎口の石垣の内『SV4』と呼ばれていた石垣には、この写真の中央付近に見える鏡石も写っていました。(同上)

    先ほど紹介した発掘調査報告書では、『第3節 Ⅲ区(図32~41)』として纏められていた箇所です。白い河原石の礎石2個と、壁面の鏡石が目印です。4個の礎石列(SB4)は、右側(東側)から『礎石1』~『礎石4』と呼称されていました。右端が『礎石1』です。三箇所の虎口の石垣の内『SV4』と呼ばれていた石垣には、この写真の中央付近に見える鏡石も写っていました。(同上)

  • 同じく、『本丸虎口』の3箇所の石垣の内の1箇所になるようです。破城の時に生じたらしい石が沢山転がっていました。最新調査の箇所の『令和元年度(第9次調査)の紹介です。『第9次調査は、第8次調査のⅠ区部分で礎石が検出されなかったため、それより西側の御殿との間部分の調査を行った。Ⅴ区は礫敷が確認された部分の拡張を行った』、と報告されていました。(同上)

    同じく、『本丸虎口』の3箇所の石垣の内の1箇所になるようです。破城の時に生じたらしい石が沢山転がっていました。最新調査の箇所の『令和元年度(第9次調査)の紹介です。『第9次調査は、第8次調査のⅠ区部分で礎石が検出されなかったため、それより西側の御殿との間部分の調査を行った。Ⅴ区は礫敷が確認された部分の拡張を行った』、と報告されていました。(同上)

  • 『第9次調査報告』の続きです。『Ⅰ区西側部分では、川原石の礎石の下層からチャートの礎石が検出され、二時期に変遷していることが確認された。御殿までは礎石があり、天守想定部分には礎石及び柱穴がないことが再確認された。Ⅴ区では、拡張を行ったが、礫敷は部分的であることが確認された』、重要部分ですから、『天守想定部分には礎石及び柱穴がないことが再確認』されました。(同上)

    『第9次調査報告』の続きです。『Ⅰ区西側部分では、川原石の礎石の下層からチャートの礎石が検出され、二時期に変遷していることが確認された。御殿までは礎石があり、天守想定部分には礎石及び柱穴がないことが再確認された。Ⅴ区では、拡張を行ったが、礫敷は部分的であることが確認された』、重要部分ですから、『天守想定部分には礎石及び柱穴がないことが再確認』されました。(同上)

  • 『第6次』~『第9次』の調査時期と担当部署の紹介です。(同上)<br />〇『第6次(平成29年9月4日~10月27日)』:滋賀大人間文化学部・可児市教育委<br />〇『第7次(平成30年8月9日~9月28日)』:(同上)<br />〇『第8次(令和元年5月13日~11月15日)』:(同上)<br />〇『第9次(令和2年2月17日~3月13日)』:(同上)

    『第6次』~『第9次』の調査時期と担当部署の紹介です。(同上)
    〇『第6次(平成29年9月4日~10月27日)』:滋賀大人間文化学部・可児市教育委
    〇『第7次(平成30年8月9日~9月28日)』:(同上)
    〇『第8次(令和元年5月13日~11月15日)』:(同上)
    〇『第9次(令和2年2月17日~3月13日)』:(同上)

  • 美濃金山城の発掘調査における石垣の変遷についての考察です。時代区分を三期に分けた、下高大輔氏の説が援用されていました。それは、豊臣氏段階の城郭石垣を発掘調査で年代が把握できるもの、築城から廃城までが短期間で尚且つ文献史料で実年代が把握できるものに限定して検討を行っている、下高氏の説(2017年)についての紹介です。(同上)

    美濃金山城の発掘調査における石垣の変遷についての考察です。時代区分を三期に分けた、下高大輔氏の説が援用されていました。それは、豊臣氏段階の城郭石垣を発掘調査で年代が把握できるもの、築城から廃城までが短期間で尚且つ文献史料で実年代が把握できるものに限定して検討を行っている、下高氏の説(2017年)についての紹介です。(同上)

  • 下高氏の三期区分の紹介です。(同上)<br />〇Ⅰ期:平らな自然面に一部粗割面を石垣面に配置(例)安土城・大坂城・聚楽第・石垣山城報告書における天正4(1574)~同18年(1590)<br />〇Ⅱ期:割面主体を石垣面に配置(例)名護屋城・機張城・西生浦城・指月伏見城<br />天正18・19(1590・1591)~文禄5年(1596)

    下高氏の三期区分の紹介です。(同上)
    〇Ⅰ期:平らな自然面に一部粗割面を石垣面に配置(例)安土城・大坂城・聚楽第・石垣山城報告書における天正4(1574)~同18年(1590)
    〇Ⅱ期:割面主体を石垣面に配置(例)名護屋城・機張城・西生浦城・指月伏見城
    天正18・19(1590・1591)~文禄5年(1596)

  • 〇Ⅲ期:平らな自然面と割面混在を石垣面に配置(例)木幡山伏見城・梁山城・蔚山城文禄5・慶長元(1596)~同5年(1600<br />*下高大輔氏についての紹介です。彦根市文化財課の職員だった下高さんは、熊本地震発生から半年後の平成28年秋、熊本城を視察しました。当時担当する彦根城の災害対策に生かすためでした。(同上)

    〇Ⅲ期:平らな自然面と割面混在を石垣面に配置(例)木幡山伏見城・梁山城・蔚山城文禄5・慶長元(1596)~同5年(1600
    *下高大輔氏についての紹介です。彦根市文化財課の職員だった下高さんは、熊本地震発生から半年後の平成28年秋、熊本城を視察しました。当時担当する彦根城の災害対策に生かすためでした。(同上)

  • 大小二つの天守の瓦は落ち、石垣の多くが崩れて足の踏み場もない。想像を遥かに超えた被害でした。転機は平成30年、熊本城調査研究センターに復旧支援のため2年間派遣されたことでした。石垣の解体調査や発掘調査を手がけ、全国の文化財専門家や石工職人等と、石垣の積直しに向けた議論を進めましたが、復旧工事前に任期が切れました。現在は、正式な熊本市職員として取り組まれています。(同上)

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    大小二つの天守の瓦は落ち、石垣の多くが崩れて足の踏み場もない。想像を遥かに超えた被害でした。転機は平成30年、熊本城調査研究センターに復旧支援のため2年間派遣されたことでした。石垣の解体調査や発掘調査を手がけ、全国の文化財専門家や石工職人等と、石垣の積直しに向けた議論を進めましたが、復旧工事前に任期が切れました。現在は、正式な熊本市職員として取り組まれています。(同上)

  • 『自然岩盤を利用した石垣と集水桝(井戸)跡』のタイトルの説明パネルの紹介です。発掘調査報告書では、破城した石垣の廃棄に関することも記されていました。城内だけでなく、崖の外に放り出された箇所もあったようです。また、破城の仕方も徳川方から指摘を受けないよう、外から見ても、目立つ部分の石垣を無くすよう気が遣われたようです。(同上)

    『自然岩盤を利用した石垣と集水桝(井戸)跡』のタイトルの説明パネルの紹介です。発掘調査報告書では、破城した石垣の廃棄に関することも記されていました。城内だけでなく、崖の外に放り出された箇所もあったようです。また、破城の仕方も徳川方から指摘を受けないよう、外から見ても、目立つ部分の石垣を無くすよう気が遣われたようです。(同上)

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