2018/12/27 - 2018/12/27
1469位(同エリア5913件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,391,877アクセス
- フォロワー204人
今年最後の名城巡りは、バスツアーに参加しての東海三県の名城巡りです。愛知県の日本百名城の名古屋城から始まり、いずれも続日本百名城の岐阜の美濃金山城と、静岡県の浜松城の見学です。今年は日本百名城巡りの1周目が完了し、現在は2週目、続日本百名城巡りが丁度半分です。(ウィキペディア、日本百名城・属日本百名城公式ガイドブック)
- 交通手段
- 観光バス
-
現在の本丸入口の光景です。名古屋城は、2006年(平成18年)4月、財団法人日本城郭協会により、『日本100名城(44番)』に選定されました。国の特別史跡にも指定されています。全国で63箇所が国の特別史跡に指定されていますが、愛知県ではこの名古屋城だけです。(同上)
-
『特別史跡・名古屋城』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。特別史跡の理由として、御三家筆頭の尾張徳川家の初代藩主に家康公の九男の義直公が就き、家康公自らが築城に関わったことが理由として窺われました。(同上)
-
『特別史跡・名古屋城』のタイトルのカラーの平面図です。工事中の箇所が、いくつも記されていました。主な工事箇所は、天守石垣、本丸北東のお堀に面した一帯、御深井丸、西の丸北西部一帯などです。(同上)
-
名古屋城の西南隅櫓の光景です。明治24年(1891年)の濃尾大地震で石垣とともに崩壊しました。それから32年後、当時、離宮として管理していた宮内省が、大正12年(1923年)に修復・復元したとされます。現在は国の重要文化財です。かつては、『未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)』と呼ばれていました。(同上)
-
南西側から眺めた名古屋城本丸の光景です。金シャチが載る天守としても有名です。1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1610年(慶長15年)、大坂の豊臣方への備えとして、名古屋城の築城を開始しました。築城を命じられたのは、加藤清正、福島正則など、豊臣家に従ってきた西国大名20家で、天下普請(てんかぶしん)と呼ばれました。この時の天守は昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失しましたので、現在の建物は鉄筋コンクリート造りです。耐震強度が不足するため、立替が不可避なようですが、その工事方法を巡って難航しているようです。(同上)
-
イチオシ
左手前の西南隅櫓と、左手奥に見える本丸櫓の光景です。名古屋城の北西エリアの『御深井丸(おふけまる)』と呼ばれる場所の北西隅には、『戌亥隅櫓(西北隅櫓)』が現存していますが、3重3階の大きな櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3mあります。『清洲櫓』とも呼ばれ、1611年(慶長16年)に清洲城天守または小天守を移築したものと伝えられています。(同上)
-
真新しい『重要文化財・西南隅櫓』の立札とその右手に見える『西南隅櫓』の光景です。現在の名古屋城には、三つの隅櫓が現存し、いずれも国の重要文化財に指定されています。1612年(慶長17)頃に建造されました。大正期、当時の管理者だった宮内省により修復されたため、菊紋の鬼瓦、棟瓦が用いられています。(同上)
-
『重要文化財・西南隅櫓』のズームアップ光景です。建物は大きく、東西約11.8m、南北約13.5m、高さ約14.1mです。一重目の屋根を付けていないため、外から見ると二重櫓に見えますが、内部は三階櫓となっていて、非常に珍しい形式です。屋根は上下四方に屋根や庇を設けた入母屋造、平瓦と丸瓦を組み合わせた本瓦葺きで、二階西面と南面には、千鳥破風と石落としを持ちます。(同上)
-
右端に見えるのは、『重要文化財・東南隅櫓』のようです。本丸の南東隅に位置し、1612年(慶長17)頃に建造されました。鬼瓦などには徳川家の家紋である葵紋が用いられています。別名、辰巳隅櫓とも呼ばれます。西南隅櫓と同じく、外観二重、内部三階の構造で、千鳥破風や持ちます。(同上)
-
『本丸表一之門』があった付近の石垣光景です。古写真を見ますと、『本丸表一之門』は、この写真の中央より右寄りの立札の位置から、通路を遮って張り出していた、本丸大手の主門として機能した入母屋造り、本瓦葺きの2階建ての『本丸表一之門』でした。鏡石は、その門の引き立て役だったようです。(同上)
-
『本丸表一之門跡』のタイトルの立札の光景です。櫓門の本丸表一之門は、慶長17年(1612年)頃に建てられたようですが、第二次世界大戦の空襲で焼失したことが紹介されていました。古名は『南一之門』で、枡形を形成していた主門になります。焼失前の門の姿は、公式サイトのネット写真等で目にすることが出来ます。(同上)
-
『本丸表一の門跡』の鏡石のズームアップ光景です。本丸東二之門を入った正面には、この鏡石より大きな、大きさ約八畳敷、重さ推定10トンとされる名古屋城の石垣で最大の巨石があります。その石を清正が運んだという伝承があり「清正石」と呼ばれています。石垣の施工大名は黒田長政と特定されていますから、説話として残ったようです。(同上)
-
『本丸表一の門跡』のタイトルの説明パネルです、本丸の大手(正門)に当たる枡形門が、本丸表二之門と本丸表一之門です。表二之門は現存していますが(国の重要文化財)、表二之門を潜った先は、本丸表一之門跡として、石垣のみが現存しています。(同上)
-
本丸の東南角に位置する『東南隅櫓』の光景です。早速今回の主眼の本丸御殿の紹介です。徳川家康の命によって建てられた、尾張徳川家の名古屋城は、『その一角をしめる本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として1615年(慶長20)に完成しました。御殿の内部は障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、江戸時代の先端技術を注いだ近世城郭御殿の最高傑作と讃えられるほどでした』(同上)
-
『名古屋城本丸御殿とは』のタイトルがあった説明パネルです。右側のモノクロ写真は、昭和20年に戦災で焼失する以前に撮影された本丸天守と、本丸御殿です。幸い歴史的文化遺産である城郭の史料がこれほど多く残されている例は、全国的にもほとんどないとされ、本丸御殿は各分野の専門家の協力を得て、これらの史料をもとにした実証的な復元を実現。400年前の華麗な佇まいを蘇らせました。(同上)
-
イチオシ
写真は玄関の衝立の『竹林豹虎(ちくりんひょうこ)図』です。『1930年(昭和5)には、城郭では天守閣とともに国宝第一号に指定。建築・絵画・美術工芸史にその名を刻んだ本丸御殿でしたが、1945年(昭和20)、空襲により残念ながら焼失し、永らく復元が待ち望まれてきました。幸いなことに、江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図、古写真などが残されていました』(同上)
-
『竹林豹虎図』の左半分の虎図のズームアップ光景です。『2009年(平成21)から復元工事を開始。第一級の史料をもとに、他では類を見ない正確さで忠実に復元を進めてきました。2018年(平成30)には、江戸幕府将軍家光の宿泊のために建造された最も格式が高い「上洛殿」や「湯殿書院」が完成し、その優美な姿を公開しています』(同上)
-
『竹林豹虎図』の右半分の豹図のズームアップ光景です。『1945年(昭和20)の空襲により、名古屋城は本丸御殿をはじめとする多くの貴重な建物を失いました。しかし、幸運にも先人たちが記録してきた第一級の史料が残され、他ではなし得ない忠実な復元の礎となりました』(同上)
-
『たとえば、戦時中に取り外され、大切に保管されてきた襖絵(ふすまえ)・天井板絵など1049面もの障壁画。そのうち1047面が重要文化財に指定されています。また、昭和初期の調査・計測によって残された309枚の実測図、戦前に撮影された約700枚の写真、約2000個の礎石などが、ありし日の本丸御殿をいきいきと伝えてくれます』(同上)
-
『貴重な史料をもとにした障壁画の復元模写作品も、本丸御殿の見どころです。戦前まで本丸御殿は、狩野貞信(かのうさだのぶ:1597~1623年)や狩野探幽(かのうたんゆう:1602~1674年)など日本画史上最大の画派「狩野派」の絵師たちが、部屋ごとに異なる題材で描いた床の間絵や襖絵(ふすまえ)などにより華麗に彩られていました』(同上)
-
『焼失を逃れた障壁画のうち1047面は国の重要文化財に指定され、現在も大切に保管されています。また、多くの写真資料も現存するため、描かれた当時の色彩を忠実に再現する復元模写という方法を選択することができました。(同上)』、本丸御殿の障壁画は、復元模写による展示になるようです。(同上)
-
表書院の『上段之間』の光景です。写真の左側には、大きな松の図があります。『上段之間は、藩主の徳川義直が座る部屋で、床(とこ)と違棚(ちがいだな)、廊下側に張り出した出窓のような付書院(つけしょいん)、華麗な襖絵(ふすまえ)からなる帳台構(ちょうだいがまえ)といった正式の座敷飾りを揃えています』(同上)
-
『玄関・大廊下』のタイトルがあった説明パネルです。右上の図面が、本丸御殿全体の平面図、その右下に『玄関・大廊下』が表示してありました。右下の図面が、その『玄関・大廊下』の拡大平面図です。(同上)
-
『本丸御殿の復元手法』のタイトルの説明パネルです。写真は、表書院の『上段之間』のようです。『名古屋城本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作として、天守ともに、1930年(昭和5)に『旧国宝第1号』に指定されていました。江戸時代の図面など第一級の史料をもとに、2009年(平成21年)から復元整備がはじまりました』(同上)
-
『復元方針』は、『本丸御殿の歴史的意義を踏まえ、焼失前と同等の文化的価値を有するとともに広く市民が活用でき、世界的な市民の財産となるように、工期を3期10年で総事業費約150億円をかけて本丸御殿を復元するものとします』、と立案されました。(同上)
-
イチオシ
『復元手法』は、『焼失前の本丸御殿と同等の歴史的文化的価値を有する建物を再現するよう、原則として旧来の材料・工法による、旧状再現を図るものとします。なお、現代の技術や生産事情、活用方法や維持管理も考慮して取り組むこととします』、と決められました。(同上)
-
『復元時代設定』は、『将軍の上洛に伴う上洛殿が増築されることにより本丸御殿の格式が最も高まった寛永期(1624-1644)とします。(公式サイト)』と決められ、建築概要は、①構造・階数:木造平屋建(書院造)、②延べ面積:約3,100平方メートル、③建築面積:約3,600平方メートル、とされました』(同上)
-
主な障壁画は、次の通りです。
〇玄関(御殿への正式な入口、謁見者の控えの間):障壁画「竹林豹虎図」等
〇表書院(武家の正殿、外客応接の場):「桜花雉子図」等
〇対面所(内臣対面の場):障壁画「風俗図」等
〇上洛殿( 将軍上洛時の宿舎) :障壁画「帝鑑図」等 (同上) -
『復元を支えた資料(その1)』:『本丸御殿は日本を代表する書院造の建造物で、総面積約3,000平方メートル、高さ約12.7メートル、30を超える部屋を備えていました。室内は、虎や豹、花鳥風月などを画材とした障壁画や飾金具などで豪華絢爛に飾られ、建物・絵画・美術工芸史においても高く評価される存在でした』(同上)』
-
『復元を支えた資料(その2):『残念ながら、御殿そのものは戦災により失われましたが、幸いなことに襖絵・天井板絵など1,049面もの障壁画は、戦時中に取り外されて大切に保管されてきました。また、江戸時代の藩士が記録した詳細な図面や、明治から昭和にかけての多くの写真、実測図など、第一級の史料が数多く残され、これらをもとにした史実に忠実な復元が可能となったのです』(同上)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2018暮、東海3県の名城巡り
-
2018暮、東海三県の名城(1/12):名古屋城(1):西南隅櫓、天守閣、東南隅櫓、本丸御殿
2018/12/27~
名古屋
-
2018暮、東海三県の名城(2/12):名古屋城(2):本丸御殿、表書院、対面所、上段之間
2018/12/27~
名古屋
-
2018暮、東海三県の名城(3/12):名古屋城(3):本丸御殿、上洛殿、二重折上天井
2018/12/27~
名古屋
-
2018暮、東海三県の名城(4/12):名古屋城(4):本丸御殿、上洛殿、梅之間、大天守
2018/12/27~
名古屋
-
2018暮、東海三県の名城(5/12):名古屋城(5):西南隅櫓、隅櫓の眺望、本丸御殿と天守閣
2018/12/27~
名古屋
-
2018暮、東海三県の名城(6/12):美濃金山城(1):美濃金山城へ、森蘭丸産湯の井戸、出丸
2018/12/27~
可児
-
2018暮、東海三県の名城(7/12):美濃金山城(2):出丸、三の丸門、二の丸門、大手枡形
2018/12/27~
可児
-
2018暮、東海三県の名城(8/12):美濃金山城(3):枡形虎口、本丸、破城跡、城址碑
2018/12/27~
可児
-
2018暮、東海三県の名城(9/12):美濃金山城(4):搦手道、瓦破片、米蔵、観光交流館
2018/12/27~
可児
-
2018暮、東海三県の名城(10/12):浜松城(1):八幡台、天守台、復興天守、城内展示品
2018/12/27~
浜松
-
2018暮、東海三県の名城(11/12):浜松城(2):天守台、復興天守、城内展示、地下の井戸
2018/12/27~
浜松
-
2018暮、東海三県の名城(12/12):浜松城(3):本丸、天守門、天守台、天守曲輪、庭園
2018/12/27~
浜松
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2018暮、東海3県の名城巡り
0
30