2018/12/27 - 2018/12/27
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東海三県の名城巡りの浜松城の紹介です。1570年に浜松城を築いたのは家康公ですが、1590年(天正18年)の小田原の陣の後、江戸に移り、その代わりに豊臣秀吉の重臣だった堀尾吉晴が新たな城主となりました。吉晴は、それまでの土造りの城を改め、高い石垣を備え、瓦葺の建物をもつ姿に浜松城を大改修しました。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)
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『中輪五三桐紋入角型酒樽(一対)』(寄贈品)
〇平成27年2月19日に報道発表された寄贈品です。火縄式銃砲2丁とともに寄贈されました。
〇寄贈されたのは浜松市紺屋町・心造寺の横山住職。珍しい角型の酒樽です。(同上) -
〇手前の展示品:『燭台』
紅白の蝋燭がセットされた、金属製の燭台のようです。
〇奥の展示品:『火鉢』
金属製のように見えた丸い火鉢です。(同上) -
大刀と小刀の展示です。
〇最上段の展示品:『二條城勤番者外拵』の表示があった大小の二振りです。
〇中段の展示品の上側:脇差、葵の御紋が入った大刀の鞘と並んでいました。
〇最下段の展示品:脇差と鞘。(同上) -
〇右端の展示品:陣羽織
〇中央の展示品:頭巾(ずきん)
〇左端の展示品:陣羽織
*年代は表示されていませんでしたが、いずれも江戸時代の品のようです。(同上) -
『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた・にまいどうぐそく)』と呼ばれる鎧の展示品です。室町時代末期以降に登場した、具足の『当世具足』のようです。汚れや傷が見当たりませんから、レプリカのようです。(同上)
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金地に赤い日の丸が描かれた『軍扇』の展示品です。武将が陣中で指揮に用いた扇子です。実際に使われた品のようでした。(同上)
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写真に撮った説明札の文字が読み取れなかったのが残念ですが、かなりの長さの大太刀の展示です。感覚的な判断ですが、よほどの腕の者でなければ、使いこなすことは難しそうです。説明札の末尾の『日本刀』の部分だけ読み取れました。(同上)
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イチオシ
『徳川家康と十六神将』の図です。その内の徳川四天王は、酒井忠次(1527~1596年)、本多忠勝(1548~1610年)、榊原康政(1548~1606年)、井伊直政(1561~1602年)になります。十六神将は、徳川家康(1543~1616年)に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称です。本多、榊原、井伊の3人は、三傑とも呼ばれます。(同上)
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十六神将は、大部分は三河時代からの家臣で、家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちとされます。この図は、盛装した十六神将図です。先に紹介した四人以外は、松平康忠(1545~1618年)または松平家忠(1555~ 1600年)、平岩親吉(1542~1611年)、鳥居元忠(1539~1600年)、鳥居忠広(? - 1573年)、大久保忠世(1532~1594年)、大久保忠佐(1537~1613年)、内藤正成(1528~1602年)、服部正成(1542~1596年)、高木清秀(1526~1610年)、米津常春(1524~1612年)、渡辺守綱(1542~1620年)、蜂屋貞次(1539~1564年)または植村家存(家政)(1541~1577年)の十二名です。(同上)
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イチオシ
すでに何度か触れた『しかめつらの家康公像』です。この像の贈呈式で、徳川宗家18代、徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏は、「負け戦をステップにして次へ進んだ姿であり、像の意義を子供たちに話してもらえるとうれしいです」、と語ったそうです。家康公が未曽有の大敗北を反省し、敗れた自分の惨めな姿を描かせて、終生身近に置き、座右の銘としました。後代の創作説もありますが、家康公の遺訓のなかの『勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る』という思想を連想させてくれますし、失敗の中から反省と学びを忘れない、家康公の人間性が感じ取れます。(同上)
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よく知られた、家康公の遺訓の紹介です。
〇人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
〇不自由を常と思へば不足なし。
〇心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
〇堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。(同上) -
イチオシ
〇勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば害その身にいたる。
〇己を責めて人を責むるな。
〇及ばざるは過ぎたるよりまされり。
*遺訓は、家康公が征夷大将軍の職を辞する時の談話とされます。目撃者には本多正純(1565~1637年)等がいます。(同上)、写真は本丸の井戸のようです。 -
『浜松城の水利について』のタイトルがあった説明パネルの光説明文の紹介文の大意の紹介です。『安政元年(1854年)、東海道沖を震源とする安政の大地震が発生し、浜松城も大きな被害を受けました。その被害箇所を記した絵図が作成され、その中に井戸が記されています。緯度の数は合計で10箇所、そのほかに清水曲輪に清水が湧出する箇所が2箇所記されていたようです。(同上)
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『浜松城の井戸について』のタイトルがあった説明パネルの光景です。説明文には、『浜松城の天守台には、穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には、石組井戸がある』ことが説明されていました。その石組井戸は、『穴の周りを石組で囲んで崩れないようにしたもの』で、この時代の城では、『名古屋城、松江城』などに同様の井戸があることが紹介されていました。籠城戦の場合の最後の拠点となる天守内部やその近くに設けられたようです。(同上)
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『歯朶具足(しだ・ぐそく)』と呼ばれる鎧です。家康公が夢に出た鎧を作らせたもので、多くの将軍により複製されました。そのレプリカです。家康公が天下統一を果たす大きな節目となった関ヶ原の戦い、そこで身につけていたとされるのが漆黒の甲冑、歯朶具足です。戦国時代、戦場での武功を示すために色鮮やかできらびやかな甲冑が主流だったなか、漆黒の色は天下人、家康の象徴ともいわれ、国の重要文化財に指定されています。白っぽく見える兜の飾りが、『歯朶(しだ)』をデザインしたものです。(同上)
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『金陀美具足(きんだび・ぐそく)』と呼ばれる、金箔を貼った鎧です。家康公が関が原の合戦で着用したものとされます。そのレプリカのようです。家康は今川義元の命で岡崎衆を率いて鈴木重辰を攻めました。これが家康の初陣であり17才でした。その時着用していたのが、『金陀美具足』とされます。この当時の家康は、松平元康の名で今川家の人質の身分でした。(同上)
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〇右の展示品:井桁紋の軒丸瓦です。老中になった20代の井上正経(在位:1758~1766年)か、25代の井上正春(1845~1847年)の時代の軒丸瓦です。
〇左の展示品:丸に九つの釘抜きの紋です。第二代城主の松平資俊(在位:1602~1623年)の時代の軒丸瓦、あるいは、第18代の松平資訓(在位:1649~1652年)か19代の松平資昌 (在位:1652~1658年)の時代の軒丸瓦かも知れません。(同上) -
第2代の太田備中守(在位:1644~1671年)の時代の軒丸瓦です。
〇右の展示品:5枚の花弁を持つ花模様の紋です。
〇左の展示品:5枚の花弁を持つ花模様の紋です。
太田資宗(すけむね)は、慶長11年(1606年)7歳にして徳川家康に拝謁し、慶長15年(1610年)に500石の家督を継ぎ、浜松城主の時には3万5千石でした。(同上) -
出土品らしい、軒丸瓦の展示品紹介です。三つ巴の紋がありました。浜松城第3代城主、堀尾義春(在位:1590~1599年)の時代の軒丸瓦の表示がありました。堀尾吉晴は、豊臣政権では五大老と五奉行の間を取り持つ三中老に任命された人で、関ヶ原の戦い後に堀尾家は出雲国富田24万石となりました。武勇に加え、温和で誠実な面を持ち合わせて「仏の茂助」と呼ばれて人望を集めた武将です。(同上)
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稲荷社の赤い鳥居光景です。鳥居の先にあった朱塗りの稲荷社が見えています。家康公所縁の浜松城内の稲荷社にしては、随分と小さいような感じがしました。正式名は、『白龍神伏見太郎稲荷』と呼ぶようです。稲荷神社は、元々は京都一帯の渡来系の豪族の秦氏の氏神です。神社を通じて、現代まで影響力が残ったようです。多分、日本で一番多い神社です。(同上)
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浜松城の石畳の道と石垣の光景です。浜松城の見所の一つが、野面積の石垣です。1570年(元亀元年)に浜松城を築いたのは家康ですが、1590年(天正18年)の小田原の陣の後、徳川家康は江戸に移り、その代わりに豊臣秀吉の重臣だった堀尾吉晴が新たな城主となりました。吉晴は、それまでの土造りの城を改め、高い石垣を備え、瓦葺の建物をもつ姿に浜松城を大改修しました。(同上)
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確かな記録はありませんが、この時に天守も建てられたとする説が有力なようです。2018年(平成30年)に実施された発掘調査によって、この時期の浜松城の天守曲輪には高さ3mを超える石塁が廻っていたことが判明しました。これまでの想像を超える特徴をもつ織豊期の城郭の実態が明らかになりました。また、石塁には、後の時代に厚さ2m以上にわたり盛り土が確認されました。(同上)
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この造成土からは堀尾氏在城期(1590~1600年)とみられる瓦が大量に出土しました。出土遺物の時期がまとまっていることから、天守曲輪の造成は安土桃山時代末から江戸時代初め頃に行われたことが窺えます。堀尾氏は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、東軍で軍功をあげ、ほどなく壮大な天守を持つ、松江城を築きました。その松江城が、浜松城をモデルにしたとする説が熱を帯びてきたようです。(同上)
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天守台よりかなり小さな天守ですが、天守台から石を落とす、『石落し』はきちんと設備してありました。本来は天守の四方に設けるものでしょうが、代表してこの石垣の角の周りに設けてありました。復元天守ではなく、復興天守か、模擬天守の範疇になるようです。何しろ現存天守は全国に12箇所か残っていません。(同上)
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浜松城の見所とされるのが、天守台を始めとする石垣の『野面積』です。自然石の表面を加工せずに、そのまま積み上げた、野性的な雰囲気がある石垣です。一見、雑そうに見える石積ですが、その耐久力は歴史的にも証明されています。隙間は沢山ありますので、水抜きの施設は必要ありません。(同上)
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野面積のこちらには、『鏡石』のような見せる石も積まれていました。『鏡石』を引き立てるためか、その周りは入念に詰め石がされ、表面もできる限り平らに積み上げられていました。『鏡石(かがみいし)』とは、本丸や二の丸などの『虎口』等の目立ちやすい場所に設置される権力誇示の大石です。これはまだ、可愛らしいクラスの大きさです。(同上)
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浜松城天守は、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートで建てられたもので、望楼型の3重天守です。望楼型は、安土・桃山時代から江戸時代のごく初期に建てられた古風な様式とされます。天守台のサイズから見て、5重天守の規模と推測されていますが、資料が失われてしまい、予算の都合などで、三重の現在の規模になったようです。(同上)
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大きさが釣り合っていない天守台と天守の光景です。なんとなく、居心地が悪そうに見える天守の光景です。天守に関する資料が失われてしまっていますので、止む無く三重天守になってしまったようです。江戸時代には天守は存在しなかったらしく、絵図にも記載がなく、本丸にあった二重櫓が天守代用とされていました。(同上)
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木脇で囲い、屋根も設けてあった『銀明水』と呼ばれる『井戸』の光景です。天守曲輪の一角で、『埋門』の近くに位置します。今は深さ1メートル程で、井戸の機能は失われているようです。(同上)
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『井戸』のタイトルがあった案内立看板の光景です。『銀明水』と呼ばれるこの井戸をはじめ、場内には10本の井戸が掘られていたことが紹介されていました。その10本は、天守台に一つ、天守曲輪の埋門の傍に一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、と紹介されていました(同上)
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