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東海三県の名城巡り、名古屋城紹介の続きです。数多くの資料が残されていたおかげで、申し分のない本丸御殿の再建された姿を見ることが出来ました。名古屋城の、そして名古屋の新名所になって欲しいものです。(ウィキペディア、日本百名城・属日本百名城公式ガイドブック)

2018暮、東海三県の名城(3/12):名古屋城(3):本丸御殿、上洛殿、二重折上天井

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2018/12/27 - 2018/12/27

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旅行記グループ 2018暮、東海3県の名城巡り

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旅人のくまさん

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東海三県の名城巡り、名古屋城紹介の続きです。数多くの資料が残されていたおかげで、申し分のない本丸御殿の再建された姿を見ることが出来ました。名古屋城の、そして名古屋の新名所になって欲しいものです。(ウィキペディア、日本百名城・属日本百名城公式ガイドブック)

交通手段
観光バス
  • 『上洛殿』のタイトルの説明パネルの紹介です。1634年(寛永11)、三代将軍家光が京都に向かう途中、名古屋城に宿泊します。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な『上洛殿』です。家光の部屋となった上段之間(15畳)をはじめ、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)からなります。(同上)

    『上洛殿』のタイトルの説明パネルの紹介です。1634年(寛永11)、三代将軍家光が京都に向かう途中、名古屋城に宿泊します。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な『上洛殿』です。家光の部屋となった上段之間(15畳)をはじめ、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)からなります。(同上)

  • 『上洛殿』の室内の装飾は、『狩野派(かのうは)』による襖絵(ふすまえ)・天井板絵、きらびやかな彫刻欄間、飾金具など、細部まで贅の限りが尽くされました。中でも、当時(寛永11年)33歳の『狩野探幽(かのうたんゆう)』によって描かれた『帝鑑図(ていかんず)』や『雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)』などは、傑作とされています。(同上)

    『上洛殿』の室内の装飾は、『狩野派(かのうは)』による襖絵(ふすまえ)・天井板絵、きらびやかな彫刻欄間、飾金具など、細部まで贅の限りが尽くされました。中でも、当時(寛永11年)33歳の『狩野探幽(かのうたんゆう)』によって描かれた『帝鑑図(ていかんず)』や『雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)』などは、傑作とされています。(同上)

  • 名古屋城築城と、初代城主(藩主)の徳川義直公誕生までの略史の紹介です。(同上)<br />〇1600年(慶長5年):関ヶ原の戦いで徳川家康の勝利、義直公誕生。<br />〇1603年(慶長8年):家康、征夷大将軍となる(江戸幕府)。<br />〇1607年(慶長12年):義直、清須城主に。<br />〇1609年(慶長14年):家康、名古屋遷府を命令、清須から名古屋へ遷府を決定。

    名古屋城築城と、初代城主(藩主)の徳川義直公誕生までの略史の紹介です。(同上)
    〇1600年(慶長5年):関ヶ原の戦いで徳川家康の勝利、義直公誕生。
    〇1603年(慶長8年):家康、征夷大将軍となる(江戸幕府)。
    〇1607年(慶長12年):義直、清須城主に。
    〇1609年(慶長14年):家康、名古屋遷府を命令、清須から名古屋へ遷府を決定。

  • 〇1609年(慶長14年):家康、名古屋城の築城を命じる。(天下普請)<br />〇1610年(慶長15年):義直の居城として名古屋城の築城が始まる。<br />〇1610年(慶長15年):本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣が完成。<br />〇1611年(慶長16年):堀川の掘削完成。<br />〇1612年(慶長17年):天守閣が竣工し、名古屋城がほぼ完成。

    〇1609年(慶長14年):家康、名古屋城の築城を命じる。(天下普請)
    〇1610年(慶長15年):義直の居城として名古屋城の築城が始まる。
    〇1610年(慶長15年):本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣が完成。
    〇1611年(慶長16年):堀川の掘削完成。
    〇1612年(慶長17年):天守閣が竣工し、名古屋城がほぼ完成。

  • 〇1613年(慶長18年):清州越しがほぼ完了、城下町が整い始める。<br />〇1614年(慶長19年):義直、大坂冬の陣へ出陣。<br />〇1615年(慶長20年):本丸御殿完成。義直と春姫の婚儀。<br />〇1615年(慶長20年/元和元年):義直、大坂夏の陣へ出陣。<br />〇1616年(元和2年):家康、75歳で逝去。(駿府城)

    〇1613年(慶長18年):清州越しがほぼ完了、城下町が整い始める。
    〇1614年(慶長19年):義直、大坂冬の陣へ出陣。
    〇1615年(慶長20年):本丸御殿完成。義直と春姫の婚儀。
    〇1615年(慶長20年/元和元年):義直、大坂夏の陣へ出陣。
    〇1616年(元和2年):家康、75歳で逝去。(駿府城)

  • 〇1617年(元和3年):二の丸御殿完成。<br />〇1619年(元和5年):御深井丸に西北隅櫓完成。<br />〇1620年(元和6年):義直、二之丸御殿へ越す。<br />〇1633年(寛永10年):本丸御殿に、上洛殿、御湯殿書院などの増築に着手。<br />〇1634年(寛永11年):三代将軍・徳川家光上洛に際し上洛殿に宿泊。

    〇1617年(元和3年):二の丸御殿完成。
    〇1619年(元和5年):御深井丸に西北隅櫓完成。
    〇1620年(元和6年):義直、二之丸御殿へ越す。
    〇1633年(寛永10年):本丸御殿に、上洛殿、御湯殿書院などの増築に着手。
    〇1634年(寛永11年):三代将軍・徳川家光上洛に際し上洛殿に宿泊。

  • 義直は、三代将軍の家光に直接話が出来た人とされます。家光公の略歴です。(同上)<br />〇1604年(慶長9年):二代将軍の徳川秀忠の次男として江戸城の西の丸で誕生。母は太閤・豊臣秀吉の養女・江(浅井長政の三女)。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母に。<br />〇1605年(慶長10年):家康、秀忠に将軍職を譲位して大御所に。

    イチオシ

    義直は、三代将軍の家光に直接話が出来た人とされます。家光公の略歴です。(同上)
    〇1604年(慶長9年):二代将軍の徳川秀忠の次男として江戸城の西の丸で誕生。母は太閤・豊臣秀吉の養女・江(浅井長政の三女)。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母に。
    〇1605年(慶長10年):家康、秀忠に将軍職を譲位して大御所に。

  • 〇1616年(元和2年):守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が年寄に。<br />〇1618年(元和4年):朝廷の勅使を迎える公式の場に出席。<br />〇1620年(元和6年):家康の死去で延期されていた元服を済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官。<br />〇1622年(元和8年):鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明。(以上)

    〇1616年(元和2年):守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が年寄に。
    〇1618年(元和4年):朝廷の勅使を迎える公式の場に出席。
    〇1620年(元和6年):家康の死去で延期されていた元服を済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官。
    〇1622年(元和8年):鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明。(以上)

  • 『上洛殿』の『上段之間』の天井光景です。『黒漆塗二重折上げ蒔絵付格天井』と呼ばれています。天井板絵だけでなく、さらに仕上げに蒔絵が施されています。最高の格式の天井配された鏡板には、水墨で山水を描いた『楼閣山水図』や墨の輪郭線に淡彩を加えた花鳥図の余白に細かい金箔を散らした絵図も見られます。これらの天井画の画筆者は、狩野探幽一門の門弟たちと推定されています。(同上)

    イチオシ

    『上洛殿』の『上段之間』の天井光景です。『黒漆塗二重折上げ蒔絵付格天井』と呼ばれています。天井板絵だけでなく、さらに仕上げに蒔絵が施されています。最高の格式の天井配された鏡板には、水墨で山水を描いた『楼閣山水図』や墨の輪郭線に淡彩を加えた花鳥図の余白に細かい金箔を散らした絵図も見られます。これらの天井画の画筆者は、狩野探幽一門の門弟たちと推定されています。(同上)

  • 左手の襖の奥に見えているのが、『上洛殿』の『上段之間』の『武者隠し』です。『帝鑑図』の『不用利口(ふようりこう)』の図が描かれています。『帝鑑図』は、中国 明代に編述された中国皇帝の政治を解説した『帝鑑図説』を参考に訓戒画にした書物であり、江戸幕府の将軍や大名の行動規範にもなりました。中国歴代帝王の善行81や悪行36の逸話が収録されています。(同上)

    左手の襖の奥に見えているのが、『上洛殿』の『上段之間』の『武者隠し』です。『帝鑑図』の『不用利口(ふようりこう)』の図が描かれています。『帝鑑図』は、中国 明代に編述された中国皇帝の政治を解説した『帝鑑図説』を参考に訓戒画にした書物であり、江戸幕府の将軍や大名の行動規範にもなりました。中国歴代帝王の善行81や悪行36の逸話が収録されています。(同上)

  • 『不用利口』の図の紹介です。これは漢の文帝にまつわる説話です。文帝が上林苑に行った際、帝が役人に質問したところ、役人は直ぐに答えられませんでした。そこで文帝は、饒舌に質問に答えた傍の農夫を重用しようとしました。すると張釈之が、「徳のある者は、みだりに饒舌を用いない。この農夫に官位を与えれば、皆が饒舌を用いてばかりで真実を語らなくなる」と帝を諌めたという話です。(同上)

    イチオシ

    『不用利口』の図の紹介です。これは漢の文帝にまつわる説話です。文帝が上林苑に行った際、帝が役人に質問したところ、役人は直ぐに答えられませんでした。そこで文帝は、饒舌に質問に答えた傍の農夫を重用しようとしました。すると張釈之が、「徳のある者は、みだりに饒舌を用いない。この農夫に官位を与えれば、皆が饒舌を用いてばかりで真実を語らなくなる」と帝を諌めたという話です。(同上)

  • 『上洛殿・上段之間』の光景です。上洛殿の障壁画は「余白の価値」を発見した天才絵師 狩野探幽の筆になります。探幽は、「余白の多い減筆体で描かれた瀟洒淡麗な画風」を確立しました。彼が33歳の時に上洛殿に描いた中国の皇帝の故事を描いた『帝鑑図』や『雪中梅竹鳥図』は、狩野派障壁画の白眉と称されるほどです。左の床の間の絵が『帝鑑図』です。(同上)

    『上洛殿・上段之間』の光景です。上洛殿の障壁画は「余白の価値」を発見した天才絵師 狩野探幽の筆になります。探幽は、「余白の多い減筆体で描かれた瀟洒淡麗な画風」を確立しました。彼が33歳の時に上洛殿に描いた中国の皇帝の故事を描いた『帝鑑図』や『雪中梅竹鳥図』は、狩野派障壁画の白眉と称されるほどです。左の床の間の絵が『帝鑑図』です。(同上)

  • 『帝鑑図』のズームアップ光景です。『帝鑑図』は、上洛殿の中でも最高格式の上段之間と一之間に配置されています。昔の中国の皇帝の善政や悪政を題材に、為政者の模範として描かれた8タイトル29面が、すべて復元されています。ここが本丸御殿最高の部屋です。ただし、付け書院はありません。江戸時代は御書院(ごしょいん)・御白書院(おしろしょいん)と呼ばれました。(同上)

    『帝鑑図』のズームアップ光景です。『帝鑑図』は、上洛殿の中でも最高格式の上段之間と一之間に配置されています。昔の中国の皇帝の善政や悪政を題材に、為政者の模範として描かれた8タイトル29面が、すべて復元されています。ここが本丸御殿最高の部屋です。ただし、付け書院はありません。江戸時代は御書院(ごしょいん)・御白書院(おしろしょいん)と呼ばれました。(同上)

  • 『上洛殿・一之間』の光景です。探幽筆『帝鑑図』は、『帝鑑図説』の挿絵から主要なモチーフを抜き出し、一画面に一画題を描いています。これは、訓戒の意味を正確に伝えるために採った手段とされます。また、水墨の輪郭に緑青や群青、胡粉などで品よく鮮やかに彩色しています。尚、一之間と二之間境の2間の彫刻欄間は「竹と梅に鶏」です。欄間の表は格の高い一之間側に向けられています。(同上)

    『上洛殿・一之間』の光景です。探幽筆『帝鑑図』は、『帝鑑図説』の挿絵から主要なモチーフを抜き出し、一画面に一画題を描いています。これは、訓戒の意味を正確に伝えるために採った手段とされます。また、水墨の輪郭に緑青や群青、胡粉などで品よく鮮やかに彩色しています。尚、一之間と二之間境の2間の彫刻欄間は「竹と梅に鶏」です。欄間の表は格の高い一之間側に向けられています。(同上)

  • 『上洛殿・一之間』と、そこから眺めた『上段の間』の光景です。『一之間』にある『帝鑑図』は、東面「褒奨守令」、西面「蒲輪徴賢」、南面「高士」、北面「明弁詐書」の4図からなります。探幽が描いた初期の作品は「余白の美」と称されますが、それに加えて襖絵特有の「隠現効果」なる仕掛けも見所です。襖絵特有の襖4枚は引き戸のため、襖を開けた際には2枚分の面が隠れます。(同上)

    『上洛殿・一之間』と、そこから眺めた『上段の間』の光景です。『一之間』にある『帝鑑図』は、東面「褒奨守令」、西面「蒲輪徴賢」、南面「高士」、北面「明弁詐書」の4図からなります。探幽が描いた初期の作品は「余白の美」と称されますが、それに加えて襖絵特有の「隠現効果」なる仕掛けも見所です。襖絵特有の襖4枚は引き戸のため、襖を開けた際には2枚分の面が隠れます。(同上)

  • このため、主要モチーフが常に前面にくるように場所を選んで描いています。例えば、上段之間の南面には「露台惜費」を、一之間の北面には「明弁詐書」を描いていますが、これらの絵は同じ襖の表裏です。襖を開けた際、「露台惜費」が描かれた上段之間では中心の2枚が表面になるのに対し、「明弁詐書」が描かれた一之間では左右の2枚が表面になります。(同上)

    このため、主要モチーフが常に前面にくるように場所を選んで描いています。例えば、上段之間の南面には「露台惜費」を、一之間の北面には「明弁詐書」を描いていますが、これらの絵は同じ襖の表裏です。襖を開けた際、「露台惜費」が描かれた上段之間では中心の2枚が表面になるのに対し、「明弁詐書」が描かれた一之間では左右の2枚が表面になります。(同上)

  • この東面の襖に描かれた『帝鑑図』のテーマは、『褒奨守令(ほうしょうしゅれい)』のようです。『優れた地方官を惜しみなく厚遇する話』と紹介されていました。前漢9代皇帝の『宣帝(在位:前74~前49年)』に因む話のようです。(同上)

    この東面の襖に描かれた『帝鑑図』のテーマは、『褒奨守令(ほうしょうしゅれい)』のようです。『優れた地方官を惜しみなく厚遇する話』と紹介されていました。前漢9代皇帝の『宣帝(在位:前74~前49年)』に因む話のようです。(同上)

  • 江戸時代における狩野派の地位を不動のものにした、『狩野探幽(1602~1674年)』についての紹介です。桃山後期から江戸初期の画家で、『狩野孝信(たかのぶ)』の長子として京都に生まれました。次弟が『尚信(なおのぶ)』、末弟が『安信』です。名は『守信』、初め『采女(うねめ)』と称しました。幼くして画才を発揮し、13歳のとき、第二代将軍の徳川秀忠に謁見しました。(同上)

    江戸時代における狩野派の地位を不動のものにした、『狩野探幽(1602~1674年)』についての紹介です。桃山後期から江戸初期の画家で、『狩野孝信(たかのぶ)』の長子として京都に生まれました。次弟が『尚信(なおのぶ)』、末弟が『安信』です。名は『守信』、初め『采女(うねめ)』と称しました。幼くして画才を発揮し、13歳のとき、第二代将軍の徳川秀忠に謁見しました。(同上)

  • 探幽は謁見の時、『海棠(かいどう)に猫』の席画を描き、永徳の再来と賞賛されます。1617年(元和3年)、幕府の御用絵師となり、その4年後には、江戸城鍛冶橋門外に屋敷と所領200石を拝領、鍛冶橋狩野家を開きました。宗家の『貞信(さだのぶ)』の没後は名実ともに狩野家の中心的存在となり、1626年(寛永3)の二条城行幸殿の障壁画制作では、一門を率いて活躍しました。(同上)、写真は、『二之間』です。

    探幽は謁見の時、『海棠(かいどう)に猫』の席画を描き、永徳の再来と賞賛されます。1617年(元和3年)、幕府の御用絵師となり、その4年後には、江戸城鍛冶橋門外に屋敷と所領200石を拝領、鍛冶橋狩野家を開きました。宗家の『貞信(さだのぶ)』の没後は名実ともに狩野家の中心的存在となり、1626年(寛永3)の二条城行幸殿の障壁画制作では、一門を率いて活躍しました。(同上)、写真は、『二之間』です。

  • その後、名古屋城、江戸城、京都御所、日光東照宮などの障壁画を制作、幕府の重要な絵事に健筆を振るいました。1635年入道して探幽と号し、3年後には法眼(ほうげん)に、ついで1662年(寛文2)には宮内卿(くないきょう)法印にまで叙せられます。その画歴は、(1)采女時代、(2)剃髪後の探幽斎時代、(3)法印叙任前後より晩年に至る、画面に揮毫時の年齢を書き入れた「行年書き」時代、に分かれます。(同上)

    その後、名古屋城、江戸城、京都御所、日光東照宮などの障壁画を制作、幕府の重要な絵事に健筆を振るいました。1635年入道して探幽と号し、3年後には法眼(ほうげん)に、ついで1662年(寛文2)には宮内卿(くないきょう)法印にまで叙せられます。その画歴は、(1)采女時代、(2)剃髪後の探幽斎時代、(3)法印叙任前後より晩年に至る、画面に揮毫時の年齢を書き入れた「行年書き」時代、に分かれます。(同上)

  • 探幽の余白を生かした瀟洒で端正な新様式は、江戸狩野様式と称せられ、以後の狩野派の規範として受け継がれていきました。また彼は、幕府の権力機構に相応して一門の組織整備にも腐心し、奥絵師を頂点に、表絵師、諸大名のお抱え絵師、町狩野と広範な裾野を有したヒエラルキー(階層組織)をつくりあげ、幕府内での狩野派の地位を不動のものとしました。(同上)

    探幽の余白を生かした瀟洒で端正な新様式は、江戸狩野様式と称せられ、以後の狩野派の規範として受け継がれていきました。また彼は、幕府の権力機構に相応して一門の組織整備にも腐心し、奥絵師を頂点に、表絵師、諸大名のお抱え絵師、町狩野と広範な裾野を有したヒエラルキー(階層組織)をつくりあげ、幕府内での狩野派の地位を不動のものとしました。(同上)

  • 狩野探幽は、延宝(えんぽう)2年10月7日没しました。法名玄徳院日道、池上本門寺に眠ります。代表作に『名古屋城上洛殿障壁画』、『二条城二の丸御殿障壁画』、『鵜飼図屏風(うかいびょうぶ)』(東京・大倉集古館)、『東照宮縁起絵巻』(日光東照宮)などがあります。元資料:『武田恒夫著『日本美術絵画全集15 狩野探幽』(1980・集英社)』、写真は、『三之間』です。(同上)

    狩野探幽は、延宝(えんぽう)2年10月7日没しました。法名玄徳院日道、池上本門寺に眠ります。代表作に『名古屋城上洛殿障壁画』、『二条城二の丸御殿障壁画』、『鵜飼図屏風(うかいびょうぶ)』(東京・大倉集古館)、『東照宮縁起絵巻』(日光東照宮)などがあります。元資料:『武田恒夫著『日本美術絵画全集15 狩野探幽』(1980・集英社)』、写真は、『三之間』です。(同上)

  • 『上洛殿』の『二之間』の障壁画と欄間の彫刻の紹介です。二之間は、障壁画『琴棋書画図』は、東面「棋」、西面「琴」、南面「書画」、北面床貼付「書」の4図からなります。囲碁や琴、画書、書の4芸は、往時の中国では文人や高士が身に付けるべきものとされ、こうした芸能を嗜んだとされます。写真は、二之間と一之間との境の襖で、「琴」をモチーフにしています。(同上)、写真は『三之間』です。(同上)

    『上洛殿』の『二之間』の障壁画と欄間の彫刻の紹介です。二之間は、障壁画『琴棋書画図』は、東面「棋」、西面「琴」、南面「書画」、北面床貼付「書」の4図からなります。囲碁や琴、画書、書の4芸は、往時の中国では文人や高士が身に付けるべきものとされ、こうした芸能を嗜んだとされます。写真は、二之間と一之間との境の襖で、「琴」をモチーフにしています。(同上)、写真は『三之間』です。(同上)

  •  二之間と三之間を仕切る襖の上にある彫刻欄間は裏と表で図柄を違えていて、二之間から見ると「唐松と牡丹に錦鶏」、格の低い三之間からは「松の実」がモチーフとなります。確かに、お隣の三之間から見る彫刻欄間の鳥は後姿ですが、二之間から見ると正面を向いています。このような細かい部分にも、格式の違いを表現しています。(同上)、写真は『三之間』です。

    二之間と三之間を仕切る襖の上にある彫刻欄間は裏と表で図柄を違えていて、二之間から見ると「唐松と牡丹に錦鶏」、格の低い三之間からは「松の実」がモチーフとなります。確かに、お隣の三之間から見る彫刻欄間の鳥は後姿ですが、二之間から見ると正面を向いています。このような細かい部分にも、格式の違いを表現しています。(同上)、写真は『三之間』です。

  • 欄間と障壁画を主体にした光景です。その上下は、畳敷きと、格子模様の天井です。欄間が一番派手な装飾ですが、全体としてはバランスが取れて、『雪中梅竹鳥図』がじっくりと鑑賞できる雰囲気になっているように見えました。(同上)

    欄間と障壁画を主体にした光景です。その上下は、畳敷きと、格子模様の天井です。欄間が一番派手な装飾ですが、全体としてはバランスが取れて、『雪中梅竹鳥図』がじっくりと鑑賞できる雰囲気になっているように見えました。(同上)

  • 畳の部分を取り去り、上から少し広くなった格子模様の天井、欄間と『雪中梅竹鳥図』の障壁の光景です。個人的には、畳も入れた室内光景の方が落ち着く雰囲気に見えました。什器類は何もいらない部屋のデザインにも見えました。(同上)

    畳の部分を取り去り、上から少し広くなった格子模様の天井、欄間と『雪中梅竹鳥図』の障壁の光景です。個人的には、畳も入れた室内光景の方が落ち着く雰囲気に見えました。什器類は何もいらない部屋のデザインにも見えました。(同上)

  • 上洛殿・三之間の天井光景です。天井画は『七宝繋四弁花紋』が繰り返し描かれているようです。推測ですが、この部屋の主題は、水墨画の『雪中梅竹鳥図』ですから、控え目の天井装飾のようにも見えました。一見地味にも見える『雪中梅竹鳥図』ですから、その鑑賞を妨げるものではいけません。(同上)

    上洛殿・三之間の天井光景です。天井画は『七宝繋四弁花紋』が繰り返し描かれているようです。推測ですが、この部屋の主題は、水墨画の『雪中梅竹鳥図』ですから、控え目の天井装飾のようにも見えました。一見地味にも見える『雪中梅竹鳥図』ですから、その鑑賞を妨げるものではいけません。(同上)

  • 上洛殿・三之間の北面は「早春」を表した水墨画『雪中梅竹鳥図(重文)』です。この襖絵は、この時代の寵児、探幽の画風が極まった傑作と称されています。背景を金の切箔や金泥、薄墨でぼかしてそこに何が描かれているかは観る者に委ね、雪景色の中に浮かぶ老梅の枝と尾長鳥を際立たせ、中央右には羽を休める雉が存在感を顕にします。(同上)

    上洛殿・三之間の北面は「早春」を表した水墨画『雪中梅竹鳥図(重文)』です。この襖絵は、この時代の寵児、探幽の画風が極まった傑作と称されています。背景を金の切箔や金泥、薄墨でぼかしてそこに何が描かれているかは観る者に委ね、雪景色の中に浮かぶ老梅の枝と尾長鳥を際立たせ、中央右には羽を休める雉が存在感を顕にします。(同上)

  • 先ほどの『雪中梅竹鳥図(重文)』の紹介の続きです。滑らかながら力強い筆墨と画面を塗り残すことで表現した、雪の積もる梅の枝や幹、繊細な筆致で描かれた細い枝先に舞う尾長鳥など、筆遣いひとつにも探幽の拘りが窺えます。この写真の絵は、同じ『三之間』の壁画です。(同上)

    先ほどの『雪中梅竹鳥図(重文)』の紹介の続きです。滑らかながら力強い筆墨と画面を塗り残すことで表現した、雪の積もる梅の枝や幹、繊細な筆致で描かれた細い枝先に舞う尾長鳥など、筆遣いひとつにも探幽の拘りが窺えます。この写真の絵は、同じ『三之間』の壁画です。(同上)

  • 本丸御殿の上洛殿の『梅之間』の光景です。金色に包まれた大広間です。梅の木の直下は一面床の間になっています。将軍をもてなす役に任じられた尾張藩上級家臣の控えの間として使われた部屋とされ、家臣を大切にしていたことが窺えます。描かれているのは金地著色の花鳥図『雪中之梅』です。赤い梅の花が咲き誇り、金箔押しの金碧障壁画が眩しいほどです。採光が北面になり、薄暗い印象です。(同上)

    本丸御殿の上洛殿の『梅之間』の光景です。金色に包まれた大広間です。梅の木の直下は一面床の間になっています。将軍をもてなす役に任じられた尾張藩上級家臣の控えの間として使われた部屋とされ、家臣を大切にしていたことが窺えます。描かれているのは金地著色の花鳥図『雪中之梅』です。赤い梅の花が咲き誇り、金箔押しの金碧障壁画が眩しいほどです。採光が北面になり、薄暗い印象です。(同上)

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2018暮、東海3県の名城巡り

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