2018/12/27 - 2018/12/27
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東海三県の名城巡りの浜松城紹介の締め括りです。次々と幕閣の要職の老中を輩出した浜松城です。天守は堀尾氏が治めた16世紀末に創建されたとみられますが、江戸時代初期には失われ、以降再建されていません。同じ堀尾氏が治めた松江城は、創建時の浜松城天守を参考に設計されたとする説があり、両者の関係が注目されています。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)
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紹介は前後しますが、浜松城の構造について紹介です。
〇天守曲輪:天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっています。東西56m・南北68mのいびつな多角形で、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されてます。(同上)
*写真は、下部に出入口が見える、天守門の光景です。 -
〇天守曲輪(続き):周囲を鉢巻石垣と土塀で囲み、土塀には屏風折などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性の高い設計です。創建時には籠城戦を想定した場所だったと考えられています。16世紀末に築かれた天守台が残存するほか、昭和33年に復興天守が建設され、2014年に天守門と付近の土塀が復元されました。(同上)
*天守門櫓の光景です。天守門の上部になります。 -
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〇天守:天守は堀尾氏が治めた16世紀末に創建されたとみられますが、江戸時代初期には失われ、以降再建されていません。当時の天守の姿を伝える資料は残されていませんが、同じ堀尾氏が治めた城で当時の天守が残る松江城は創建時の浜松城天守を参考に設計されたと考えられていて、両者の関係が注目されています。(同上)
*天守門櫓の内部光景です。 -
〇天守(続き):野面積みによる天守創建時の天守台が残されています。1辺約21mのややいびつな四角形で、西側に八幡台と呼ばれる突出部と、東側に付櫓と呼ばれる張り出し部分があります。 天守台上部は安政の大地震後と復興天守建設時に積み直されたとみられますが、創建当時の姿がよく残されているようです。(同上)
*写真は、天守門櫓の入口から、振り返って眺めた光景です。 -
〇天守(続き):現在天守台に建てられている建物は、昭和33年(1958年)4月26日に完成した鉄筋コンクリート造の復興天守で、地上3階地下1階建です。復興天守は名古屋工業大学で名誉教授を勤めた城戸久による設計で、丸岡城天守がモデルとされています。天守台に対し2/3程度の大きさで建てられました。(同上)
*写真は、野面積の天守台と、その上に建つ復興天守の光景です。 -
〇天守門:天守門は天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で、天守曲輪の東側に位置します。改修・改築が行われながらも、廃城時まで存続しました。江戸時代初期に天守が失われて以降は浜松城で最も高い位置にあり、江戸時代を通して浜松城を代表する建物でした。発掘調査の結果をもとに、2014年に復原されました。(同上)
*写真は、野面積の天守台のズームアップ光景です。 -
〇埋門:埋門は天守曲輪の西側に位置し、西端城曲輪とを結びました。浜松市は「遺構が残存していることが明らかであるため、他の遺構の調査と整備の進捗状況により、歴史的検証に基づいた復原計画を検討する」としています。(同上)
*写真は、野面積の天守台の積石のズームアップ光景です。 -
〇本丸:天守曲輪の東側の一段低い場所に位置し、土塁と鉢巻石垣に囲まれていました。北側には富士見櫓、東側には本丸裏門、南東の隅には菱櫓、南側には鉄門と多聞櫓がありました。江戸時代初期には徳川将軍家専用の御成御殿があったとみられますが、江戸中期には姿を消したと考えられています。(同上)
*写真は、復興天守のズームアップ光景です。 -
〇本丸(続き):廃城後、本丸の西半分は浜松城公園となり富士見櫓の石垣などの遺構が残されていますが、東半分は1960年代に本丸の地形を削り取る形で造成が行われたため姿を留めていません。本丸の裏門・菱櫓・鉄門・多門櫓の遺構も失われました。跡地は道路と市役所となっています。(同上)
*写真は、桜の冬木立越しに眺めた天守光景です。 -
〇富士見櫓:富士見櫓は本丸の北側に位置する櫓で、現在は石垣と礎石の一部がります。櫓の北側は厚い土壁を持たずに柱を見せた構造を持ち、前方に玉砂利の敷かれた御殿風の建物であり、17世紀中~後半に建てられたと推定されています。18世紀後半以降の改修を経て、比較的長期間にわたり使用されています。(同上)
*写真は、天守上階のズームアップ光景です。 -
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〇多聞櫓:多聞櫓は、本丸と清水曲輪の間に位置し、東西に長い平屋の長屋で、東側には本丸への正門である鉄門が設けられていました。 廃城後に櫓と石垣の大部分が失われましたが、2014年に園路擁壁の内側から堀尾氏時代の石垣の一部が発見され、2020年の本丸南広場の整備に合わせて公開されています。(同上)
*写真は、曲輪越しに眺めた復興天守の光景です。 -
〇清水曲輪:清水曲輪は天守曲輪の南側を細長く囲んだ帯曲輪で、天守曲輪を守るため中土手を持つ空堀があり、東側に清水門がありました。北側は浜松城公園になっていますが、清水門跡を含む南側は市街化されています。
〇西端城曲輪:西端城曲輪は天守曲輪の西側に位置する曲輪で、土塁と土塀に囲まれ、外端城曲輪に接続する端城門がありました。現在は浜松城公園です。(同上) -
〇二の丸:二の丸は本丸の東側に位置し、藩主が政務や日常生活を営む二の丸御殿があったほか、東側に二の丸裏門、南側に本丸表門がありました。二の丸の跡は旧元城小学校敷地と市役所敷地の北半分にあたります。
〇二の丸御殿:二の丸御殿は払い下げによって解体されましたが、詳細な絵図面が残されており、詳しい様子をうかがうことができます。(同上) -
〇三の丸:二の丸の南東側に位置し、周囲を土塁と堀で囲まれ、重臣の屋敷が立ち並んでいました。三の丸の南側に浜松城の正門である大手門がありました。廃城後は土塁の撤去と堀の埋め立てが進み、完全に市街地化されています。大手門は現在の連尺交差点付近にありました。(同上)
*写真は、本丸から眺めた、浜松市役所当たりになるようです。 -
次は浜松城の簡単な歴史紹介です。
〇浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城ですが、築城時の城主は不明です。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたります。ここからは、浜松城からの帰路の光景です。(同上) -
〇徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城に改称しました。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。家康在城時における浜松城の具体像は不明確ですが、古文書や出土遺物から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺えます。また、家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされます。(同上)
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〇慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から豊臣色は失われます。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められました。堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが残りました。(同上)
*写真は、サザンカか、ツバキの赤い花のようです。 -
〇明治6年(1873年)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、三の丸、二の丸の宅地化が進行しました。天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、昭和25年(1950年)の浜松城公園開設となりました。(同上)
*写真は、浜松城天守閣と、作左(さくざ)山の谷間を利用して造園された日本庭園の説明です。昭和の末に伊藤邦衛氏により作庭されました。 -
〇今川氏・吉良氏・飯尾氏時代:浜松城以前は曳馬城(引馬城、引間城)が浜松の拠点でした。築城者については諸説ありますが、今川貞相(さだすけ:生没年不室町初期初期~中期)が初めて築城したようです。ただし、室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していたことが判明しています。(同上)
*写真は、上から見下ろした、池泉式の日本庭園の光景です。 -
〇斯波氏と今川氏が抗争しますと、吉良氏の家臣団の中で斯波氏に味方する大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、斯波氏が今川氏に敗れると吉良氏も浜松の支配権を失いました。永正11年(1514年)、今川氏親から曳馬城を与えられた飯尾氏は正式に今川氏の家臣となりました。(同上)
*写真は、日本庭園の紅葉の楓のズームアップ光景です。 -
〇飯尾乗連(いのお・のりつら:生年不明~永禄3年(1560年)?)は、今川氏に引き続き仕え、桶狭間の戦いにも参加しました。桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川氏の衰退が始まりますが、この時期に飯尾氏の当主も乗連から子の連竜(つらたつ:生年不詳~1566年)へと移り変わります。(同上)
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〇今川氏の衰退後、城主飯尾連竜が今川氏真(うじざね:1538~1616年)に反旗の疑惑をもたれ、永禄8年(1565年)に今川軍に攻囲され多大な損害を被りますが、陥落は免れました。この時今川からの和議勧告を受諾した連竜は、戦後に今川氏再属のため駿府への大赦御礼に出向きましたが、和議は謀略で、連竜は殺されました。飯尾氏(漢族系三善朝臣)最後の当主となりました。(同上)
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〇以後の曳馬城は、連竜の家老の江間氏によって守られるも、城内は徳川派と武田派に分裂して内紛が起きていたため徳川家康によって早期攻略されました。一説ではその後、連竜の未亡人・お田鶴の方を中心とした飯尾氏の残党によって守られますが、家康が永禄11年(1568年)12月にお田鶴の方に使者を送り、降伏を促すもお田鶴の方が拒否し続けたため、家康が攻め込み、お田鶴の方は討死にしました。(同上)
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〇家康時代:元亀元年(1570年)に家康は武田信玄の侵攻に備へ、本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移しました。岡崎城は嫡男・信康に譲られました。当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に築城する積りでしたが、籠城戦になった際、天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張しました。(同上)
*写真は、『天守』方面への近道になる石段のようです。 -
〇その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで、城名・地名とも『浜松』と改めました。元亀3年(1573年)、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら、これを無視するような行軍をして家康を挑発しました。家康は浜松城から打って出ましたが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫しました(三方ヶ原の戦い)。(同上)
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〇 三方ヶ原の戦いでは、徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められましたが、敵を欺く身代わりの犠牲も出し、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ帰還しました。この敗走は、1582年の本能寺の変の時の伊賀越えと並んで、人生最大の危機でした。(同上)
*写真は、通路脇にあった『天守閣』への道案内標識です。 -
〇浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行います。湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われます。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされます。浜松城まで追撃してきた武田軍の山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ、城内に突入することを躊躇し、思い直して、そのまま引き上げたとされます。(同上)
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〇浜松城の拡張・改修は天正10年(1582年)頃に大体終了しましたが、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移すことになりました。家康公の浜松城・在城期間は、29歳から45歳までの17年になります。
〇家康公以後の時代:天正18年(1590年)からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城し、関ヶ原の戦いの功績で移封になりました。(同上) -
〇以後は、一時期を除いて、譜代大名各家が次々に入りました。近世には天守は存在しなかったらしく、本丸にあった二重櫓が天守代用とされていたようです。
〇浜松城は明治維新後に廃城となり破壊されました。城址は昭和25年(1950年)に「浜松城公園」となり、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート製の復興天守が再建されました。昭和34年(1959年)に浜松市の史跡に指定されました。(同上) -
現在の天守閣は資料館として使われ、城の周辺は緑が溢れ、桜の名所としても名高く、シーズンには花見客で溢れます。明治維新後の明治27年(1894年)に井上延陵によって東照宮が創建され、太平洋戦争中の昭和20年(1945年)に焼失しましたが、昭和34年(1959年)に再建されました。2017年(平成29年)、続日本100名城(148番)に選定されました。(以上)
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