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東海三県の名城巡りです。愛知県に続いて岐阜県の名城の見学ですが、岐阜県には日本百名城の岩村城をはじめ、今回見学の続日本百名城の美濃金山城と苗木城と、山城の名城が揃っています。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)<br />

2018暮、東海三県の名城(7/12):美濃金山城(2):出丸、三の丸門、二の丸門、大手枡形

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2018/12/27 - 2018/12/27

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旅行記グループ 2018暮、東海3県の名城巡り

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旅人のくまさん

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東海三県の名城巡りです。愛知県に続いて岐阜県の名城の見学ですが、岐阜県には日本百名城の岩村城をはじめ、今回見学の続日本百名城の美濃金山城と苗木城と、山城の名城が揃っています。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)

交通手段
観光バス

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  • 『美濃金山城址』の遺構紹介の続きです。写真は、出丸櫓跡付近からの光景です。<br />〇東腰曲輪:本丸の東隣に位置している郭です。北側には東西約10メートル、高さ約3メートルの石垣を構築し、石積手法は野面積で出丸の石垣とともに城内で最も古いといわれています。面積は東西約21メートルの330平方メートルで天守台の石垣の隣に天水井戸が設けられていました。(同上)

    イチオシ

    『美濃金山城址』の遺構紹介の続きです。写真は、出丸櫓跡付近からの光景です。
    〇東腰曲輪:本丸の東隣に位置している郭です。北側には東西約10メートル、高さ約3メートルの石垣を構築し、石積手法は野面積で出丸の石垣とともに城内で最も古いといわれています。面積は東西約21メートルの330平方メートルで天守台の石垣の隣に天水井戸が設けられていました。(同上)

  • 〇天水井戸:東腰曲輪の西側に存在した井戸。山頂にあることから雨水を貯めていた井戸と考えられています。終戦前まで完全に現存していましたが、戦後に何者かによって破壊されてしまいました。規模は深さ約1.4メートル、幅1.5メートル、長さ約2.5メートルありました。(同上)<br />

    〇天水井戸:東腰曲輪の西側に存在した井戸。山頂にあることから雨水を貯めていた井戸と考えられています。終戦前まで完全に現存していましたが、戦後に何者かによって破壊されてしまいました。規模は深さ約1.4メートル、幅1.5メートル、長さ約2.5メートルありました。(同上)

  • 〇帯曲輪:本丸の南側に位置している郭です。南東隅に搦手門が設けられていました。規模は長さ約20メートル、幅約5.6メートルです。<br />〇搦手門:東腰曲輪の南東隅に存在した門です。本丸から左近屋敷へ向かう途中に置かれていました。現在は礎石が残るだけです。(同上)<br />*写真は、城址から眺めた麓の光景です。

    〇帯曲輪:本丸の南側に位置している郭です。南東隅に搦手門が設けられていました。規模は長さ約20メートル、幅約5.6メートルです。
    〇搦手門:東腰曲輪の南東隅に存在した門です。本丸から左近屋敷へ向かう途中に置かれていました。現在は礎石が残るだけです。(同上)
    *写真は、城址から眺めた麓の光景です。

  • 〇北方物見櫓:兼山城の北端にある北方物見台に存在した二重の櫓です。北方物見櫓は質素で簡単な造りでした。北方物見台は二段に分かれ、上段に櫓を設け下段に敵を遮断するための高塀を廻らせていました。上段と下段を合わせて東西約14メートル、南北約10メートル、まし本丸のすぐ北側の下にあり、かつては本丸と大手枡形への連絡通路が存在した。現在は西腰曲輪からの連絡通路しか残っていません。(同上)

    〇北方物見櫓:兼山城の北端にある北方物見台に存在した二重の櫓です。北方物見櫓は質素で簡単な造りでした。北方物見台は二段に分かれ、上段に櫓を設け下段に敵を遮断するための高塀を廻らせていました。上段と下段を合わせて東西約14メートル、南北約10メートル、まし本丸のすぐ北側の下にあり、かつては本丸と大手枡形への連絡通路が存在した。現在は西腰曲輪からの連絡通路しか残っていません。(同上)

  • 〇左近屋敷:古城山の中腹に存在した居館です。森氏の家老だった細野左近の館で、南東側で物見台と隣接しています。屋敷は削平にした東西約14メートル、南北約15メートルの台地上の東端に存在しますた。屋敷の門の礎石と、建物の礎石が現存しています。(同上)

    〇左近屋敷:古城山の中腹に存在した居館です。森氏の家老だった細野左近の館で、南東側で物見台と隣接しています。屋敷は削平にした東西約14メートル、南北約15メートルの台地上の東端に存在しますた。屋敷の門の礎石と、建物の礎石が現存しています。(同上)

  • 〇南東方物見櫓:左近屋敷の南側にある物見台に存在した櫓です。約6メートル四方の台地上に置かれました。<br />〇水の手:水の手は兼山城の北西側に存在した湧水です。水手門の先にある水の手道とよばれる道を通って城兵はここまで飲料水を汲みに来ました。東腰曲輪にも天水井戸がありますが、飲料用ではありません。(以上)

    〇南東方物見櫓:左近屋敷の南側にある物見台に存在した櫓です。約6メートル四方の台地上に置かれました。
    〇水の手:水の手は兼山城の北西側に存在した湧水です。水手門の先にある水の手道とよばれる道を通って城兵はここまで飲料水を汲みに来ました。東腰曲輪にも天水井戸がありますが、飲料用ではありません。(以上)

  • 登り口に『美濃金山城址』の文字と紋所が記された幟があった場所の光景です。金山城主だった森氏は、清和源氏の一流、河内源氏の流れをくむ武家とされます。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となり、森冠者を名乗ったようです。森氏の紋所は『鶴丸』です。(同上)

    登り口に『美濃金山城址』の文字と紋所が記された幟があった場所の光景です。金山城主だった森氏は、清和源氏の一流、河内源氏の流れをくむ武家とされます。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となり、森冠者を名乗ったようです。森氏の紋所は『鶴丸』です。(同上)

  • 『三の丸門跡』のタイトルがあった立札の紹介です。既に紹介した、遺構解説文を再掲しますと、『三の丸門:三の丸の南側に存在した門です。両側とも土塀と隣接し、正面から見て左側に門番がいたと考えられています。礎石が他の門よりも大きいことから大きい規模の門であったようです。礎石だけが現存しています。』、と大きな規模の門だったようです。(同上)

    『三の丸門跡』のタイトルがあった立札の紹介です。既に紹介した、遺構解説文を再掲しますと、『三の丸門:三の丸の南側に存在した門です。両側とも土塀と隣接し、正面から見て左側に門番がいたと考えられています。礎石が他の門よりも大きいことから大きい規模の門であったようです。礎石だけが現存しています。』、と大きな規模の門だったようです。(同上)

  • 『破城の痕跡』のタイトルがあった写真入りの説明パネルです。文化庁のデータ・ベースからの紹介です。『美濃金山城跡は石垣や瓦を使用した織豊系城郭の特徴をよくとどめており、元和以前の慶長期の破城の状況とともに、山城の変遷を考えるうえで重要な遺跡である』、として、『破城』の痕跡が重要な登録要件の一つに挙げられていました。(同上)

    『破城の痕跡』のタイトルがあった写真入りの説明パネルです。文化庁のデータ・ベースからの紹介です。『美濃金山城跡は石垣や瓦を使用した織豊系城郭の特徴をよくとどめており、元和以前の慶長期の破城の状況とともに、山城の変遷を考えるうえで重要な遺跡である』、として、『破城』の痕跡が重要な登録要件の一つに挙げられていました。(同上)

  • 『三の丸門跡』の立札の紹介文です。『礎石が他の門よりも大きいことから大きい規模の門であったよう』、と紹介されていましたが、その礎石の光景になるようです。この礎石は、大きさだけでなくほぼ六角形に整形されていました。門柱の中でも重要な部分を支えたのかも知れません。(同上)

    『三の丸門跡』の立札の紹介文です。『礎石が他の門よりも大きいことから大きい規模の門であったよう』、と紹介されていましたが、その礎石の光景になるようです。この礎石は、大きさだけでなくほぼ六角形に整形されていました。門柱の中でも重要な部分を支えたのかも知れません。(同上)

  • こちらも『三の丸門跡』の大きな礎石の一つになるよす。まるで、近代のベースボールのホーム・ベースを思わせる形でした。推測ですが、この礎石は、建物が分岐した場所に使われたのかも知れません。どちらの礎石も、礎石上部は丁寧に平面加工がされていました。(同上)

    こちらも『三の丸門跡』の大きな礎石の一つになるよす。まるで、近代のベースボールのホーム・ベースを思わせる形でした。推測ですが、この礎石は、建物が分岐した場所に使われたのかも知れません。どちらの礎石も、礎石上部は丁寧に平面加工がされていました。(同上)

  • 破城された時の石材が転がった光景です。『破城』された時の状況を確認するのも重要なことですから、転がった石を勝手に運んだり、積み上げたりするのもご法度のようです。城址に限らず、遺跡見学の際のマナーでもあるようです。小さな欠片でも、持ち去るのはいけません。(同上)

    破城された時の石材が転がった光景です。『破城』された時の状況を確認するのも重要なことですから、転がった石を勝手に運んだり、積み上げたりするのもご法度のようです。城址に限らず、遺跡見学の際のマナーでもあるようです。小さな欠片でも、持ち去るのはいけません。(同上)

  • 同じく、破城された時の石材が転がった光景です。おそらく4百年の間、その状態を保ってきたようです。立入禁止のロープが張られているのは、危険防止の目的のようです。石垣の内部まで長く伸びた石材が使われているようですから、強度の面でもなかなかの石垣だったようです。(同上)

    同じく、破城された時の石材が転がった光景です。おそらく4百年の間、その状態を保ってきたようです。立入禁止のロープが張られているのは、危険防止の目的のようです。石垣の内部まで長く伸びた石材が使われているようですから、強度の面でもなかなかの石垣だったようです。(同上)

  • 『水の手(みずのて)』のタイトルがあった説明立札の紹介です。既に紹介した『水手門』の解説の再掲です。『水手門は西腰曲輪と三の丸見張櫓の間に存在した門です。通称は水の手門です。水の手へ向かう入口の役割を果たした』、と紹介していました。(同上)

    『水の手(みずのて)』のタイトルがあった説明立札の紹介です。既に紹介した『水手門』の解説の再掲です。『水手門は西腰曲輪と三の丸見張櫓の間に存在した門です。通称は水の手門です。水の手へ向かう入口の役割を果たした』、と紹介していました。(同上)

  • 『水の手』については、『水の手:水の手は兼山城の北西側に存在した湧水です。水手門の先にある水の手道とよばれる道を通って城兵はここまで飲料水を汲みに来ました。東腰曲輪にも天水井戸がありますが、飲料用ではありません』、ともしょうかいしました。山城の生命線の一つが水の確保にあったようです。(以上)

    『水の手』については、『水の手:水の手は兼山城の北西側に存在した湧水です。水手門の先にある水の手道とよばれる道を通って城兵はここまで飲料水を汲みに来ました。東腰曲輪にも天水井戸がありますが、飲料用ではありません』、ともしょうかいしました。山城の生命線の一つが水の確保にあったようです。(以上)

  • 『虎口(ここう、こぐち)』のタイトルがあった写真入りの説明パネルです。お城が好きな方ですと、繰り返し目にした説明と現場光景になるようです。城郭およびそれを構成する郭(くるわ)の入り口です。小口(こぐち)とも書きます。名前の由来には、城郭の最も重要な部分を虎の牙に例えて虎口としたとする説と、狭く小さなものがよいので小口としたという二つの説があります。(同上)

    『虎口(ここう、こぐち)』のタイトルがあった写真入りの説明パネルです。お城が好きな方ですと、繰り返し目にした説明と現場光景になるようです。城郭およびそれを構成する郭(くるわ)の入り口です。小口(こぐち)とも書きます。名前の由来には、城郭の最も重要な部分を虎の牙に例えて虎口としたとする説と、狭く小さなものがよいので小口としたという二つの説があります。(同上)

  • 『虎口』の説明看板があった付近の光景です。中央奥に見える小高い部分は、石積みで囲われているようでした。勝手な推測ですが、手前に見える部分や、石積みで囲われた高台には、見張り小屋か、櫓があったかも知れません。右手前方に綱が張られているのは、崖の危険防止のためのようです。(同上)

    『虎口』の説明看板があった付近の光景です。中央奥に見える小高い部分は、石積みで囲われているようでした。勝手な推測ですが、手前に見える部分や、石積みで囲われた高台には、見張り小屋か、櫓があったかも知れません。右手前方に綱が張られているのは、崖の危険防止のためのようです。(同上)

  • 登山道でしょうか、あるいは『水の手』への通路かも知れません。この辺りは平らですが、前方は崖になっているような気配でした。最近整備されたような様子も伺えました。(同上)

    登山道でしょうか、あるいは『水の手』への通路かも知れません。この辺りは平らですが、前方は崖になっているような気配でした。最近整備されたような様子も伺えました。(同上)

  • 『古城山払下げ記念碑』の光景です。『古城山』は、金山城址があるこの山のことです、江戸時代にこの地を治めた尾張藩の『留山(とめやま)』になっていて、地元民の立ち入りが禁止されていたことから説明が始まっていました。古城山の払下げは、地元民の長い間の念願だったようです。(同上)

    『古城山払下げ記念碑』の光景です。『古城山』は、金山城址があるこの山のことです、江戸時代にこの地を治めた尾張藩の『留山(とめやま)』になっていて、地元民の立ち入りが禁止されていたことから説明が始まっていました。古城山の払下げは、地元民の長い間の念願だったようです。(同上)

  • 地元の要望により、『古城山』が払下げられたのは、昭和28年(1953年)、この碑はその翌年に建てられたことが記されていました。明治時代には、皇室の御料地になっていたと伝えられ、昭和20年(1945年)以降は、国有地だったようです。推測ですが、大きな石畳の通路は、『金山城』の破城の石のリサイクルのように見えました。周りにも、有り余るほどの大石の姿がありました。現在は国史跡の石ですから、石を動かすにも手続きが大変だったかも知れませんが、国の史跡になる前の建設のようです。(同上)

    地元の要望により、『古城山』が払下げられたのは、昭和28年(1953年)、この碑はその翌年に建てられたことが記されていました。明治時代には、皇室の御料地になっていたと伝えられ、昭和20年(1945年)以降は、国有地だったようです。推測ですが、大きな石畳の通路は、『金山城』の破城の石のリサイクルのように見えました。周りにも、有り余るほどの大石の姿がありました。現在は国史跡の石ですから、石を動かすにも手続きが大変だったかも知れませんが、国の史跡になる前の建設のようです。(同上)

  • 『古城山拂(払)下記念碑』のズームアップ光景です。裏側までは眺めていませんが、施設年月などが記されていたかも知れません。この城との比較で、信長が初めて手掛けた城の『小牧山城』て紹介します。(同上)<br />〇永禄6(1563)年に清須から居城を移した織田信長によって、小牧山に城が築かれたことから始まります。小牧山城は、石を多用した画期的な城でした。<br />〇仇敵の今川義元を永禄3(1561年)に桶狭間で破り、京への上洛の通過地点となる美濃の併合に向けて、『そのためには美濃を攻める拠点が必要だ』と考えました。<br />〇広大な濃尾平野の中に位置する小高い小牧山、信長は、永禄6(1563)年6月、築城の名手・丹羽長秀に命じて築城を開始しました。<br />〇信長が当初表明したのは、犬山の二ノ宮でしたが、それより近い小牧山に変更されたことで、藩内の反対論はたちまち収まったようです。

    『古城山拂(払)下記念碑』のズームアップ光景です。裏側までは眺めていませんが、施設年月などが記されていたかも知れません。この城との比較で、信長が初めて手掛けた城の『小牧山城』て紹介します。(同上)
    〇永禄6(1563)年に清須から居城を移した織田信長によって、小牧山に城が築かれたことから始まります。小牧山城は、石を多用した画期的な城でした。
    〇仇敵の今川義元を永禄3(1561年)に桶狭間で破り、京への上洛の通過地点となる美濃の併合に向けて、『そのためには美濃を攻める拠点が必要だ』と考えました。
    〇広大な濃尾平野の中に位置する小高い小牧山、信長は、永禄6(1563)年6月、築城の名手・丹羽長秀に命じて築城を開始しました。
    〇信長が当初表明したのは、犬山の二ノ宮でしたが、それより近い小牧山に変更されたことで、藩内の反対論はたちまち収まったようです。

  • 〇1563年、小牧山城は、山全体(約21ヘクタール)を城域とし、山頂の天守を始め六つの曲輪などで構成されました。現在も発掘作業が続いています。<br />〇特に麓の東部帯曲輪地区は信長の下屋敷と考えられている南西隅の一際大きな曲輪を始め、反時計回りに重臣の屋敷と考えられる方形の曲輪が取り囲んでいます。<br />〇本丸へのアプローチは、南に設けられた大手口から上がり、大手道は直線的に中腹まで登っており、そこから折れて本丸に入る構造を取っています。<br />〇この縄張りは、この姿が後の安土城の姿に酷似していることから、安土城に先行する城の姿として信長の意識が表れているといわれています。(同上)<br />*写真は青銅製の芳名簿のようですが、詳細は不明です。

    〇1563年、小牧山城は、山全体(約21ヘクタール)を城域とし、山頂の天守を始め六つの曲輪などで構成されました。現在も発掘作業が続いています。
    〇特に麓の東部帯曲輪地区は信長の下屋敷と考えられている南西隅の一際大きな曲輪を始め、反時計回りに重臣の屋敷と考えられる方形の曲輪が取り囲んでいます。
    〇本丸へのアプローチは、南に設けられた大手口から上がり、大手道は直線的に中腹まで登っており、そこから折れて本丸に入る構造を取っています。
    〇この縄張りは、この姿が後の安土城の姿に酷似していることから、安土城に先行する城の姿として信長の意識が表れているといわれています。(同上)
    *写真は青銅製の芳名簿のようですが、詳細は不明です。

  • 〇信長は、生涯に10回ほど花押を変えたようです。小牧山城と岐阜城の初めの時代、『麒麟の花押』を使っていましたので、小牧山城は、『麒麟の城』とも呼ばれます。<br />〇信長は、小牧山城を築くのと同時に、城の南側に城下町の整備をしました。<br />〇築城から4年後の永禄10(1567)年、信長が岐阜に居城を移したことで小牧山城は廃城となり、家臣団や城下に住む多くの商工業者が城下町を後にしました。(同上)

    〇信長は、生涯に10回ほど花押を変えたようです。小牧山城と岐阜城の初めの時代、『麒麟の花押』を使っていましたので、小牧山城は、『麒麟の城』とも呼ばれます。
    〇信長は、小牧山城を築くのと同時に、城の南側に城下町の整備をしました。
    〇築城から4年後の永禄10(1567)年、信長が岐阜に居城を移したことで小牧山城は廃城となり、家臣団や城下に住む多くの商工業者が城下町を後にしました。(同上)

  • 『二の丸跡』のタイトルの立看板の紹介です。説明文をそのまま紹介します。『石段を上って二の丸へ入る周囲は、土塁囲いらしく二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの諸施設があった』、と解説されていました。発掘調査でも礎石などが確認された遺跡の数々のようです。(同上)

    『二の丸跡』のタイトルの立看板の紹介です。説明文をそのまま紹介します。『石段を上って二の丸へ入る周囲は、土塁囲いらしく二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの諸施設があった』、と解説されていました。発掘調査でも礎石などが確認された遺跡の数々のようです。(同上)

  • 小牧山城の歴史紹介に戻ります。写真は、破城の光景です。<br />〇廃城から17年後の天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで、織田信雄・徳川家康連合軍が小牧山城跡を改修し、陣を築きました。濃尾平野随一の地の利の場所です。<br />〇ところが、改修から一年も経たないうちに和睦が成立したことにより、小牧山城は再び廃城となりました。(同上)

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    小牧山城の歴史紹介に戻ります。写真は、破城の光景です。
    〇廃城から17年後の天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで、織田信雄・徳川家康連合軍が小牧山城跡を改修し、陣を築きました。濃尾平野随一の地の利の場所です。
    〇ところが、改修から一年も経たないうちに和睦が成立したことにより、小牧山城は再び廃城となりました。(同上)

  • 〇江戸時代には、尾張徳川家の所領となり、小牧山城跡は、家康公所縁の『御勝利・御開運の御陣跡』として、一般の立ち入りを禁止し、特別の場所となりました。<br />〇明治2(1869)年、版籍奉還により、官有地となりました。<br />〇明治6(1873)年、県が小牧公園として、一般に開放されました。<br />〇明治22(1889)年、尾張徳川家の所有となり、一般の立入り禁止。(同上)

    〇江戸時代には、尾張徳川家の所領となり、小牧山城跡は、家康公所縁の『御勝利・御開運の御陣跡』として、一般の立ち入りを禁止し、特別の場所となりました。
    〇明治2(1869)年、版籍奉還により、官有地となりました。
    〇明治6(1873)年、県が小牧公園として、一般に開放されました。
    〇明治22(1889)年、尾張徳川家の所有となり、一般の立入り禁止。(同上)

  • 〇昭和2(1927)年、国の史跡に指定されました。<br />〇昭和5(1930年)、尾張徳川家から、小牧町に寄贈されました。<br />〇昭和43(1968)年、小牧市歴史館(模擬天守)が開館しました。<br />〇昭和61(1986)年、発掘調査が始まる。<br />〇平成29(2017年)、日本城郭協会により続日本百名城(149番)に登録。(同上)

    〇昭和2(1927)年、国の史跡に指定されました。
    〇昭和5(1930年)、尾張徳川家から、小牧町に寄贈されました。
    〇昭和43(1968)年、小牧市歴史館(模擬天守)が開館しました。
    〇昭和61(1986)年、発掘調査が始まる。
    〇平成29(2017年)、日本城郭協会により続日本百名城(149番)に登録。(同上)

  • 小牧山城は、標高約86メートルの小牧山の東西約600メートル、南北約400メートルの山全体を城域としたもので、従来は、美濃攻めのための一時的なお城と考えられていましたが、発掘調査が進んだことで、主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な造りの城郭あることが判明しました。江戸時代に一般の立ち入りが禁止されたことが、城域の保護につながったようです。(以上)

    小牧山城は、標高約86メートルの小牧山の東西約600メートル、南北約400メートルの山全体を城域としたもので、従来は、美濃攻めのための一時的なお城と考えられていましたが、発掘調査が進んだことで、主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な造りの城郭あることが判明しました。江戸時代に一般の立ち入りが禁止されたことが、城域の保護につながったようです。(以上)

  • 『大手枡形』のタイトルがあった説明立札の紹介です。枡形の略構造も図面で示されていました。既に紹介した『大手枡形』の説明文です。『大手枡形:二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた空間です。南側正面に大手門、大手門を過ぎて右手の石段「3段」の上に二の門が設けられていました。規模は南北約9メートル、東西約12メートルです』(同上)

    『大手枡形』のタイトルがあった説明立札の紹介です。枡形の略構造も図面で示されていました。既に紹介した『大手枡形』の説明文です。『大手枡形:二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた空間です。南側正面に大手門、大手門を過ぎて右手の石段「3段」の上に二の門が設けられていました。規模は南北約9メートル、東西約12メートルです』(同上)

  • 『普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していました』、写真は、石垣遺構が残る『大手枡形』の光景です。枡形も、破城の対象になり、主要な部分は壊されたり、高さを減じられたのかも知れません。看板の中の図面の下側が『一の門』、右側が『二の門』になります。(同上)

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    『普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していました』、写真は、石垣遺構が残る『大手枡形』の光景です。枡形も、破城の対象になり、主要な部分は壊されたり、高さを減じられたのかも知れません。看板の中の図面の下側が『一の門』、右側が『二の門』になります。(同上)

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