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岐阜県可児市にある美濃金山(みのかねやま)城の紹介です。続日本百名城の143番に選定された山城です。織田信長の寵臣だった、『森蘭丸(成利)』の産湯の井戸が伝わるお城です。蘭丸は、二人の弟とともに、1582年2月の本能寺の変で討ち死にしました。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)

2018暮、東海三県の名城(6/12):美濃金山城(1):美濃金山城へ、森蘭丸産湯の井戸、出丸

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2018/12/27 - 2018/12/27

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旅行記グループ 2018暮、東海3県の名城巡り

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旅人のくまさん

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岐阜県可児市にある美濃金山(みのかねやま)城の紹介です。続日本百名城の143番に選定された山城です。織田信長の寵臣だった、『森蘭丸(成利)』の産湯の井戸が伝わるお城です。蘭丸は、二人の弟とともに、1582年2月の本能寺の変で討ち死にしました。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)

交通手段
観光バス
  • 『蘭丸ふる里の森』のタイトルがあった説明看板です。『蘭丸ふる里の森は古城山に広がる自然豊かな公園で、桜や紫陽花、紅葉と、四季をお楽しみいただけます。春には、山の斜面に桜の絨毯が広がり、展望台から見下ろす千本桜はまさに絶景!可児市随一のお花見ポイントです。(岐阜の旅ガイド)』、と紹介されていました。(同上)

    『蘭丸ふる里の森』のタイトルがあった説明看板です。『蘭丸ふる里の森は古城山に広がる自然豊かな公園で、桜や紫陽花、紅葉と、四季をお楽しみいただけます。春には、山の斜面に桜の絨毯が広がり、展望台から見下ろす千本桜はまさに絶景!可児市随一のお花見ポイントです。(岐阜の旅ガイド)』、と紹介されていました。(同上)

  • 『美濃金山城跡案内図』のタイトルがあった案内パネルの光景です。麓からの複数の道案内や、金山城址の主な場所などがイラストで紹介されていました。『美濃金山城 (かねやまじょう)』は、現在の岐阜県可児市にあたる美濃国可児郡兼山に存在した日本の城(山城)です。日本城郭協会の続日本百名城(143番)に選ばれました。岐阜県で選ばれたのは、大垣城、苗木城、郡上八幡城を含め4城でした。(同上)

    『美濃金山城跡案内図』のタイトルがあった案内パネルの光景です。麓からの複数の道案内や、金山城址の主な場所などがイラストで紹介されていました。『美濃金山城 (かねやまじょう)』は、現在の岐阜県可児市にあたる美濃国可児郡兼山に存在した日本の城(山城)です。日本城郭協会の続日本百名城(143番)に選ばれました。岐阜県で選ばれたのは、大垣城、苗木城、郡上八幡城を含め4城でした。(同上)

  • 『美濃金山城跡』への登り口の石段光景です。ここで、『美濃金山城(かねやまじょう)』の歴史などについて簡単に紹介しておきます。城郭の形式は梯郭式山城で、『兼山城』と表記されることが多く、標高約277メートルの古城山の山頂に築かれました。1967年(昭和42年)に岐阜県指定史跡に指定され、2013年(平成25年)に国の史跡に指定されました。(同上)

    『美濃金山城跡』への登り口の石段光景です。ここで、『美濃金山城(かねやまじょう)』の歴史などについて簡単に紹介しておきます。城郭の形式は梯郭式山城で、『兼山城』と表記されることが多く、標高約277メートルの古城山の山頂に築かれました。1967年(昭和42年)に岐阜県指定史跡に指定され、2013年(平成25年)に国の史跡に指定されました。(同上)

  • 天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭があります。天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため、斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、『烏峰城(うほうじょう)』と名付けました。『烏ヶ峰城(からすがみねじょう)』の別名を持ちます。(同上)

    天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭があります。天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため、斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、『烏峰城(うほうじょう)』と名付けました。『烏ヶ峰城(からすがみねじょう)』の別名を持ちます。(同上)

  • しかし、『斎藤正義(1516~1548年)』は、天文17年(1548年)に近隣の久々利(くくり)城主の『土岐康貞(悪五郎:生年不詳~1584年)』に久々利城へ招待された際に討たれ、烏峰城主が一時不在となりました。その後、織田信長が美濃国を領地としたことに伴い、永禄8年(1565年)に家臣の『森可成(よしなり:1523~1570年)』が城主となり、『兼山城』と改称しました。(同上)

    しかし、『斎藤正義(1516~1548年)』は、天文17年(1548年)に近隣の久々利(くくり)城主の『土岐康貞(悪五郎:生年不詳~1584年)』に久々利城へ招待された際に討たれ、烏峰城主が一時不在となりました。その後、織田信長が美濃国を領地としたことに伴い、永禄8年(1565年)に家臣の『森可成(よしなり:1523~1570年)』が城主となり、『兼山城』と改称しました。(同上)

  • 道案内標識には、左上を向いた矢印で『出丸』の表示がありました。そのまま直進です。久々利城だまし討ちされた、『斎藤正義』について少し紹介しておきます。関白近衛稙家の庶子に生まれ、13歳の時、父稙家に家臣の瀬田左京を付けられて、比叡山横川恵心院に出家させられました。美濃国可児郡瀬田村出身と言われる左京の姉の縁で、道三を頼ってその養子となりました。武事を好んだ人とされます。(同上)

    道案内標識には、左上を向いた矢印で『出丸』の表示がありました。そのまま直進です。久々利城だまし討ちされた、『斎藤正義』について少し紹介しておきます。関白近衛稙家の庶子に生まれ、13歳の時、父稙家に家臣の瀬田左京を付けられて、比叡山横川恵心院に出家させられました。美濃国可児郡瀬田村出身と言われる左京の姉の縁で、道三を頼ってその養子となりました。武事を好んだ人とされます。(同上)

  •  元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで森可成が戦死し、その直前に長男の『可隆(よしたか:1552~1570年)』も天筒山城で討ち死にしたため、次男の『長可(ながなり:1558~1584年)』があとを継いで兼山城主となりました。僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し『勝蔵・長可』を名乗りました。(同上)

    元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで森可成が戦死し、その直前に長男の『可隆(よしたか:1552~1570年)』も天筒山城で討ち死にしたため、次男の『長可(ながなり:1558~1584年)』があとを継いで兼山城主となりました。僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し『勝蔵・長可』を名乗りました。(同上)

  • 家督を継いだ森長可は、元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しています。15歳にして既に他の重臣らと同じように活動していたようです。元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣し、稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ、信長よりその働きを称されました。(同上)

    家督を継いだ森長可は、元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しています。15歳にして既に他の重臣らと同じように活動していたようです。元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣し、稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ、信長よりその働きを称されました。(同上)

  • 天正10年(1582年)、森長可が信濃国川中島に転封されると、弟の森成利(蘭丸)が入りますが、成利は同年中に本能寺の変により弟達とともに討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可になりました。天正12年(1584年)、長可が小牧・長久手の戦いで戦死しますと、可成の六男の忠政が兼山城主となったようです。(同上)

    天正10年(1582年)、森長可が信濃国川中島に転封されると、弟の森成利(蘭丸)が入りますが、成利は同年中に本能寺の変により弟達とともに討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可になりました。天正12年(1584年)、長可が小牧・長久手の戦いで戦死しますと、可成の六男の忠政が兼山城主となったようです。(同上)

  • 森忠政((1570~1634年)は、可成の六男ですが、5人の兄は、全て戦死しました。幼名は仙千代(千丸)で、母は林通安の娘・えい(妙向禅尼)です。兼山城主だった父の可成(なりよし)は、十文字槍の使い手で『攻めの三左』と呼ばれた人ですが、生まれた忠政の顔を見ること無く亡くなったようです。忠政のエピソードは、もう少し紹介します。(同上)

    森忠政((1570~1634年)は、可成の六男ですが、5人の兄は、全て戦死しました。幼名は仙千代(千丸)で、母は林通安の娘・えい(妙向禅尼)です。兼山城主だった父の可成(なりよし)は、十文字槍の使い手で『攻めの三左』と呼ばれた人ですが、生まれた忠政の顔を見ること無く亡くなったようです。忠政のエピソードは、もう少し紹介します。(同上)

  • 本能寺の変の時の『忠政』のエピソードです。13歳になった森千丸(森忠政)も、1582年に小姓として織田信長の側に仕えましたが、3月に同僚の梁田河内守と、織田信長の前でケンカとなり「まだ13歳で幼すぎると」返されていたため母のもとに返されていたため難を逃れています。(同上)

    イチオシ

    本能寺の変の時の『忠政』のエピソードです。13歳になった森千丸(森忠政)も、1582年に小姓として織田信長の側に仕えましたが、3月に同僚の梁田河内守と、織田信長の前でケンカとなり「まだ13歳で幼すぎると」返されていたため母のもとに返されていたため難を逃れています。(同上)

  • 本能寺の変の後、織田家宿老による清洲会議は1582年6月に開かれました。岐阜城主となって美濃を治めた織田信孝への人質として、森千丸(森忠政)が送られていたようです。その時点で森家の唯一の跡取りである人質の森千丸を救出するために、父の森長可は、自ら岐阜城に忍び込んで千丸を救出したと言います。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死し、忠政が兼山城主となりました。(同上)

    本能寺の変の後、織田家宿老による清洲会議は1582年6月に開かれました。岐阜城主となって美濃を治めた織田信孝への人質として、森千丸(森忠政)が送られていたようです。その時点で森家の唯一の跡取りである人質の森千丸を救出するために、父の森長可は、自ら岐阜城に忍び込んで千丸を救出したと言います。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死し、忠政が兼山城主となりました。(同上)

  • 慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると城は石川貞清の所有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたといいます。兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承がありましたが、1961年(昭和36年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されています。(同上)

    慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると城は石川貞清の所有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたといいます。兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承がありましたが、1961年(昭和36年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されています。(同上)

  • 2006年(平成18年)、可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行い、茶碗や瓦等の多くの遺物が出土しました。遺構には曲輪、土塁、井戸、堀、石垣などの一部が残り、本丸には石碑が建てられています。城の建造物は慶長5年(1600年)に解体され、麓の兼山湊から木曽川を通じて犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されましたが、犬山市の瑞泉寺に二の門が、可児市兼山に裏城戸門が移築現存しています。(同上)

    2006年(平成18年)、可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行い、茶碗や瓦等の多くの遺物が出土しました。遺構には曲輪、土塁、井戸、堀、石垣などの一部が残り、本丸には石碑が建てられています。城の建造物は慶長5年(1600年)に解体され、麓の兼山湊から木曽川を通じて犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されましたが、犬山市の瑞泉寺に二の門が、可児市兼山に裏城戸門が移築現存しています。(同上)

  • この後は、かつての金山城の遺構の紹介です。<br />〇本丸(天守台):古城山の山頂部に位置し、兼山城の中枢となっていました。周囲は土塀に囲まれ、北側に天守を設け、隣接して南東側に小天守、さらに小天守の南西側に袖櫓が隣接していました。そして、中央部に本丸御殿、南西側に西南隅櫓を設けていました。(同上)

    この後は、かつての金山城の遺構の紹介です。
    〇本丸(天守台):古城山の山頂部に位置し、兼山城の中枢となっていました。周囲は土塀に囲まれ、北側に天守を設け、隣接して南東側に小天守、さらに小天守の南西側に袖櫓が隣接していました。そして、中央部に本丸御殿、南西側に西南隅櫓を設けていました。(同上)

  • 〇本丸(天守台):(続き)天守と本丸御殿の間に建物の礎石が見つかっていますが、詳細は不明です。現在は鳥竜神社となり、本丸の北西側には石碑が建てられています。<br />〇天守:本丸の北隅に存在した2重2階層塔型の櫓です。天守と小天守の複合式で、南東側で小天守と隣接、安土城の天守とほぼ同時期の建設です。かつては金山城の天守が犬山城に移築されたとの説がありましたが、その痕跡はありません。(同上)

    イチオシ

    〇本丸(天守台):(続き)天守と本丸御殿の間に建物の礎石が見つかっていますが、詳細は不明です。現在は鳥竜神社となり、本丸の北西側には石碑が建てられています。
    〇天守:本丸の北隅に存在した2重2階層塔型の櫓です。天守と小天守の複合式で、南東側で小天守と隣接、安土城の天守とほぼ同時期の建設です。かつては金山城の天守が犬山城に移築されたとの説がありましたが、その痕跡はありません。(同上)

  • 『伝・蘭丸産湯の井戸』のタイトルがあった説明立札の光景です。『永禄8年(1565年)秋、蘭丸がこの山頂にある金山城跡で生まれる。城には井戸がなく、ここから汲み上げて産湯に使ったと伝えられる』、と紹介されていました。金山城の遺構紹介に戻ります。<br />〇小天守:本丸の東隅に存在した天守の附櫓。北側で天守と、西側で柚櫓と隣接していました。小天守の床下に深さ約1.9メートルの穴蔵を有していました。小天守の東側の袖櫓の石垣に沿って穴蔵の出口の石段(3段)を設け、さらに、西側の穴蔵の仕切石垣に沿って穴蔵出口を設けていました。この穴蔵の南側に東西2か所に出口を設けたことは全く他に類例のない独特な構造とされ、未だに2か所の出口を設けた理由は解明されていません。周囲の石垣と礎石が現存しています。(同上)

    『伝・蘭丸産湯の井戸』のタイトルがあった説明立札の光景です。『永禄8年(1565年)秋、蘭丸がこの山頂にある金山城跡で生まれる。城には井戸がなく、ここから汲み上げて産湯に使ったと伝えられる』、と紹介されていました。金山城の遺構紹介に戻ります。
    〇小天守:本丸の東隅に存在した天守の附櫓。北側で天守と、西側で柚櫓と隣接していました。小天守の床下に深さ約1.9メートルの穴蔵を有していました。小天守の東側の袖櫓の石垣に沿って穴蔵の出口の石段(3段)を設け、さらに、西側の穴蔵の仕切石垣に沿って穴蔵出口を設けていました。この穴蔵の南側に東西2か所に出口を設けたことは全く他に類例のない独特な構造とされ、未だに2か所の出口を設けた理由は解明されていません。周囲の石垣と礎石が現存しています。(同上)

  • 〇袖櫓(そでやぐら):本丸の南側に存在した建物。小天守と東側で隣接して、建物の北西側に出入り口が設けられていました。現在は礎石が残るのみです。<br />〇本丸御殿:本丸の中央部に存在した建物で城主の居館として使用されました。本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土しています。(同上)

    〇袖櫓(そでやぐら):本丸の南側に存在した建物。小天守と東側で隣接して、建物の北西側に出入り口が設けられていました。現在は礎石が残るのみです。
    〇本丸御殿:本丸の中央部に存在した建物で城主の居館として使用されました。本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土しています。(同上)

  • 〇本丸御殿:規模は東西約11メートル、南北約12.7メートルで、面積約138.6平方メートルです。2棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在しました。礎石の一部が現存します。1953年(昭和28年)に鳥竜神社再建の際に整地のために礎石を石材として転用して一部の原型を崩されてしまいました。このため、詳しい構図はよく分かっていません。(同上)

    〇本丸御殿:規模は東西約11メートル、南北約12.7メートルで、面積約138.6平方メートルです。2棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在しました。礎石の一部が現存します。1953年(昭和28年)に鳥竜神社再建の際に整地のために礎石を石材として転用して一部の原型を崩されてしまいました。このため、詳しい構図はよく分かっていません。(同上)

  • 〇西南隅櫓(坤櫓):本丸の南西隅に存在した二層の隅櫓です。規模は南北約9メートル、東西約8メートル、6個の礎石が現存するのみです。隅櫓跡から古瓦片などが出土しています。<br />〇仕切門:本丸の中央部に存在した門です。礎石だけが現存しています。(同上)<br />

    〇西南隅櫓(坤櫓):本丸の南西隅に存在した二層の隅櫓です。規模は南北約9メートル、東西約8メートル、6個の礎石が現存するのみです。隅櫓跡から古瓦片などが出土しています。
    〇仕切門:本丸の中央部に存在した門です。礎石だけが現存しています。(同上)

  • 〇大手枡形:二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた空間です。南側正面に大手門、大手門を過ぎて右手の石段「3段」の上に二の門が設けられていました。規模は南北約9メートル、東西約12メートルです。普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していました。(同上)

    〇大手枡形:二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた空間です。南側正面に大手門、大手門を過ぎて右手の石段「3段」の上に二の門が設けられていました。規模は南北約9メートル、東西約12メートルです。普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していました。(同上)

  • 〇大手門:大手枡形の南側に存在した門です。通称:追手門、一の門、表門。門の両脇に潜り門とし、更に両脇に袖塀をつけていました。慶長5年(1600年)に犬山城へ移築されて内田御門に使用されました。その後、同市にある瑞泉寺に移築されました。江戸時代後期に老朽化のため新造されて現在に至ります。その門の土台の間隔は兼山城大手門の礎石の寸法と一致したといいます。(同上)

    〇大手門:大手枡形の南側に存在した門です。通称:追手門、一の門、表門。門の両脇に潜り門とし、更に両脇に袖塀をつけていました。慶長5年(1600年)に犬山城へ移築されて内田御門に使用されました。その後、同市にある瑞泉寺に移築されました。江戸時代後期に老朽化のため新造されて現在に至ります。その門の土台の間隔は兼山城大手門の礎石の寸法と一致したといいます。(同上)

  • 今年(2018年)に亡くなった、『金子兜太(とうた:1919~2018年)』の句碑です。『城山に人の暮しは青あらし』の一句です。埼玉県出身の俳人で、現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員だった俳諧の重鎮でした。1941年に東京帝大経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事しました。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られます。(同上)

    今年(2018年)に亡くなった、『金子兜太(とうた:1919~2018年)』の句碑です。『城山に人の暮しは青あらし』の一句です。埼玉県出身の俳人で、現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員だった俳諧の重鎮でした。1941年に東京帝大経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事しました。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られます。(同上)

  • 『蘭丸ふる里の森』の石標の光景です。金山城の遺構紹介に戻ります。<br />〇二の門:大手枡形の東側に存在した門です。通称は裏門、出口門です。慶長5年(1600年)に大手門と同様に犬山城へ移築されて高麗門に使用されましたが、その後、同市にある瑞泉寺に移築されました。二の門は現存していますが、老朽化が激しいとされます。(同上)

    『蘭丸ふる里の森』の石標の光景です。金山城の遺構紹介に戻ります。
    〇二の門:大手枡形の東側に存在した門です。通称は裏門、出口門です。慶長5年(1600年)に大手門と同様に犬山城へ移築されて高麗門に使用されましたが、その後、同市にある瑞泉寺に移築されました。二の門は現存していますが、老朽化が激しいとされます。(同上)

  • 〇二の丸:南腰曲輪の南側に位置する郭です。家臣団の屋敷(侍屋敷)が設けられ、南側に見張櫓、北側に二の丸門が設けられていました。<br />〇二の丸見張櫓:二の丸の南側に存在した二層の櫓ですまし。2棟の建物から形成された。天守台に匹敵する広さで、櫓からは城の東側周囲を見渡すことができ、兼山城の敵勢監視をするために重要な櫓でした。(同上)

    〇二の丸:南腰曲輪の南側に位置する郭です。家臣団の屋敷(侍屋敷)が設けられ、南側に見張櫓、北側に二の丸門が設けられていました。
    〇二の丸見張櫓:二の丸の南側に存在した二層の櫓ですまし。2棟の建物から形成された。天守台に匹敵する広さで、櫓からは城の東側周囲を見渡すことができ、兼山城の敵勢監視をするために重要な櫓でした。(同上)

  • 〇二の丸門:二の丸の北側に存在した門です。両側とも土塀と隣接していました。現在は礎石が残るのみです。<br />〇三の丸:西腰曲輪の南側に位置している郭です。厩などが設けられていたと考えられていて、中央部に見張櫓、南側に三の丸門が設けられていました。(同上)<br />

    〇二の丸門:二の丸の北側に存在した門です。両側とも土塀と隣接していました。現在は礎石が残るのみです。
    〇三の丸:西腰曲輪の南側に位置している郭です。厩などが設けられていたと考えられていて、中央部に見張櫓、南側に三の丸門が設けられていました。(同上)

  • 〇三の丸見張櫓:三の丸の中央部に存在した二層の櫓です。ここは三の丸、二の丸、西腰曲輪、北方物見櫓へ通ずる要所で兼山城の最重要箇所でした。東西約6.5メートル、南北約5.5メートルの台地上に建てられました。1954年(昭和29年)に古城山払下記念碑の建設などが相次いで行われ、原型は崩されて礎石や石垣などの残石がそのままの状態で西腰曲輪などに散乱しています。(同上)

    イチオシ

    〇三の丸見張櫓:三の丸の中央部に存在した二層の櫓です。ここは三の丸、二の丸、西腰曲輪、北方物見櫓へ通ずる要所で兼山城の最重要箇所でした。東西約6.5メートル、南北約5.5メートルの台地上に建てられました。1954年(昭和29年)に古城山払下記念碑の建設などが相次いで行われ、原型は崩されて礎石や石垣などの残石がそのままの状態で西腰曲輪などに散乱しています。(同上)

  • 〇三の丸門:三の丸の南側に存在した門です。両側とも土塀と隣接し、正面から見て左側に門番がいたと考えられています。礎石が他の門よりも大きいことから大きい規模の門であったようです。礎石だけが現存しています。<br />〇出丸:兼山城の第一防衛線のため大手口に築かれた曲輪です。城内で唯一独立している郭で、規模は東西約50メートル、南北約43メートルで城内で最も広い曲輪です。北側は高さ約3メートルの土塁で築かれ、南側は高さは約3.4メートルの石垣で築造されています。出丸の石垣は城内で現存する石垣の中で最も古いといわれています。現在は近くに駐車場があるため他の郭と比べて比較的整備されています。<br />〇出丸櫓:出丸の南東隅に存在した二重の櫓です。櫓の東側に山麓と通じる大手道があります。礎石だけが現存しています。<br />〇出丸表門:出丸の東側に存在した門です。礎石だけが現存しています。(同上)<br />*写真は、出丸櫓跡付近の石垣です。

    〇三の丸門:三の丸の南側に存在した門です。両側とも土塀と隣接し、正面から見て左側に門番がいたと考えられています。礎石が他の門よりも大きいことから大きい規模の門であったようです。礎石だけが現存しています。
    〇出丸:兼山城の第一防衛線のため大手口に築かれた曲輪です。城内で唯一独立している郭で、規模は東西約50メートル、南北約43メートルで城内で最も広い曲輪です。北側は高さ約3メートルの土塁で築かれ、南側は高さは約3.4メートルの石垣で築造されています。出丸の石垣は城内で現存する石垣の中で最も古いといわれています。現在は近くに駐車場があるため他の郭と比べて比較的整備されています。
    〇出丸櫓:出丸の南東隅に存在した二重の櫓です。櫓の東側に山麓と通じる大手道があります。礎石だけが現存しています。
    〇出丸表門:出丸の東側に存在した門です。礎石だけが現存しています。(同上)
    *写真は、出丸櫓跡付近の石垣です。

  • 〇南腰曲輪:本丸の南側に位置している郭です。規模は320平方メートルで中央部に武器櫓が設けられていました。現在、南側に共同アンテナが建てられています。<br />〇武器櫓:南腰曲輪の中央部に存在した一重の櫓です。3棟の建物から形成され、北側の中央部に出入り口が存在しました。櫓跡から平瓦の破片が出土したことから、建物は瓦葺であったことが確認できました。礎石が現存しています。(同上)

    〇南腰曲輪:本丸の南側に位置している郭です。規模は320平方メートルで中央部に武器櫓が設けられていました。現在、南側に共同アンテナが建てられています。
    〇武器櫓:南腰曲輪の中央部に存在した一重の櫓です。3棟の建物から形成され、北側の中央部に出入り口が存在しました。櫓跡から平瓦の破片が出土したことから、建物は瓦葺であったことが確認できました。礎石が現存しています。(同上)

  • 〇西腰曲輪:三の丸の北東側に位置している郭です。規模は約265平方メートルで三の丸見張櫓の石垣の残石などが散乱していますまし。三の丸見張櫓との間に水手門が存在しました。<br />〇水手門:水手門は西腰曲輪と三の丸見張櫓の間に存在した門です。通称は水の手門です。水の手へ向かう入口の役割を果たしていました。(同上)

    〇西腰曲輪:三の丸の北東側に位置している郭です。規模は約265平方メートルで三の丸見張櫓の石垣の残石などが散乱していますまし。三の丸見張櫓との間に水手門が存在しました。
    〇水手門:水手門は西腰曲輪と三の丸見張櫓の間に存在した門です。通称は水の手門です。水の手へ向かう入口の役割を果たしていました。(同上)

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2018暮、東海3県の名城巡り

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