2018/12/27 - 2018/12/27
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旅人のくまさんさん
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東海三県の名城巡り最後の浜松城です。徳川家康公の出世のお城としても有名です。永正年間(1504~1521年)に今川氏が築いた城を、徳川家康が凋落し、元亀元年(1570年)に岡崎城から移った城です。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)
*桜満開の時の浜松城紹介はこちらです。(2009年)
https://4travel.jp/travelogue/10323011
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『八幡台』と呼ばれる高石垣の光景です。不思議なことに、浜松城の天守の近くに位置する、天守台より高い石垣です。その名前の由来は、武家の信仰が篤い『八幡大菩薩』を祀ったことにあるようです。奈良時代に始る『神仏習合』から起った称号で、仏教に守られる八幡神の意とされます。阿弥陀如来を本地とする説が多く、10世紀初頭から釈迦如来を本地とする信仰も生まれました。(同上)
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『八幡台』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。八幡台は、浜松城の天守台の北西隣にある、天守台よりも高い石垣です。その規模は、5段の石垣で高さが41.9メートル、広さが12坪(約41平方メートル)と紹介されていました。明治初頭に神道と仏教という日本に根付いた宗教を分離する目的で『神仏分離令』が出され、こんにちに至っていますが、本題を外れますので、ここでは言及をしません。(同上)
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桜の冬木立越しに眺めた、浜松城の模擬天守の光景です。最初に浜松城の簡単な歴史から紹介しておきます。浜松城の前身は、15世紀頃に築城された曳馬城とされますが、築城時の城主は不明です。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分とされ、現在の元城町東照宮付近に位置します。(同上)
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徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称しました。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。家康在城時の浜松城の具体像は不明確ですが、古文書や出土遺物から、現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺えます。また、家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされます。(同上) *写真は写真は野面積の天守台の光景です。
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イチオシ
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から豊臣色は失われます。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められました。堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが伝わります。(同上)
*写真は天守台と大きさがアンバランスな復興天守の光景です。 -
天守門が浜松城の最高所に位置する建造物といえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であったことが窺えます。明治6年(1873年)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、三の丸、二の丸の宅地化が進行しました。国レベルの出来事でした。天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、昭和25年(1950年)の浜松城公園開設に至りました。(同上)
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『東側方面の写真パネル』の光景です。ここを起点に反時計回りで東→北→西→南の順で紹介しま東側方面の中央には本丸跡跡、二の丸跡、二の丸裏門跡が並び、右手前に天守門、右端には鉄門跡、菱櫓跡、二の丸表門跡が並びます。左側の列が、富士見櫓跡、本丸裏門跡、引馬城跡が並びます。左寄りの後方には、富士山が見えています。(同上)
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『北側方面の写真パネル』の光景です。正面から左に掛けて、林の中に『空堀跡』が線引きされていました。中央奥には、『三方ヶ原古戦場』が記されていました。その左(西側)が『犀ケ崖』、さらに左が『作左曲輪跡』の表示でした。『三方ヶ原古戦場』は、遠江国敷知郡・三方ヶ原(現在の浜松市北区三方原町)に位置します。家康が苦敗を喫した場所です。(同上)
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イチオシ
ズームアップされた、『北側方面の写真パネル』の光景です。正面の『三方ヶ原古戦場』は、1573年(元亀4年)、甲斐の武田信玄が、織田信長・徳川家康連合軍に圧勝した戦いです。この苦い教訓を生涯忘れないように、家康公は『しかめ面の像』を作らせたようです。その精神力には、感心せざるを得ません。岡崎城で画像をもとにしたらしい石像を目にしました。(同上)
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信長包囲網に参加のため上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川・織田の連合軍が迎え撃った『三方ヶ原の戦い』です。当時最強の『武田信玄(1521~1573年)』に対し、まだ30歳の『徳川家康(1543~1616年)』が挑みました。『甲陽軍鑑』によれば、三方原合戦後に武田氏は正式に信長と断交しました。この戦いに勝利した信玄は、同年の1573(元亀4)年5月に病状が悪化し、亡くなりました。(同上)
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『西側方面の写真パネル』の光景です。中央やや右手奥に、『作左曲輪跡』と『空堀跡』が表示されていました。中央やや左寄りの表示が『埋門跡』、その左が『西端城曲輪跡』の表示でした。『埋門跡』から半円状に伸びた表示は、土塁か石垣でしょうか、その左端付近に『端城門跡』が記されていました。左奥方面に『浜名湖』が表示されていました。(同上)
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『南側方面の写真パネル』の光景です。現在は浜松市の市街地になっているようでした右から順に10か所の遺跡名を紹介します。『鉄(?)櫓跡』、『空堀跡』、『清水曲輪跡』、『天守曲輪跡』、『出丸跡』、『大手門跡』、『鉄門跡』、『菱櫓跡』、『二丸跡』、『本丸跡』の10箇所です。(同上)
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左端に見えている建物は『浜松市役所』のようですから、概ね南側方面の光景になるようです。手前に見える広場の周りには、連続して幟が建てられていますから、『浜松城』のエリア境になるようです。その先には、浜松市の市街地が展開していました。東海道53次は、お城の南を通り、江戸時末期の天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされます。(同上)
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市街地が密集していますので、この光景も概ね南側になるようです。市街地以外には、南側の遠州灘までの視界を妨げる山並みなどは、地図上には見当たりません。冬に偏西風が強まりますと、浜松名物の『空っ風』になります。遠州灘添いは、その『空っ風』を遮るものが見当たらないようです。(同上)
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推測ですが、北方面から西方面にかけての光景になるようです。お城の近くには、林が広がっていました。現在の地図で確認しますと、浜松城の周りは、概ね四方が市街化しているようでした。その市街地の外には、東に天竜川が流れ、西には浜名湖が迫っています、(同上)
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ここからは、模擬天守の中に展示してあった品々の紹介です。最初は『火縄式鉄砲コーナーの紹介紹介です。背後の壁には、『鉄砲の伝来と長篠の戦い』の説明パネルがありました。一番手前の火縄銃は、説明パネルの中にもあった鉄砲のようです。『前田式』の表示がありました。(同上)
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「浜松城」の模型です。製作者は、学校らしい4施設の人達、略称で記してありました。左から、『18普連、11戦大、11施中、11普中』の表示でした。関係者でないと読み解けないようです。(同上)
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右が『軍配』、左が文字は見えませんでしたが、金色の『軍扇』の展示、その下には、槍らしいものが3本見えました。『軍扇』は軍配団扇(ぐんばいうちわ)の1種で、武将が戦場の指揮具として用いた扇です。形式は時代によって異なるようです。(同上)
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手前に展示された3本の薙刀(なぎなた)です。上の2本の薙刀には、『屋外用』の表示がありましたから、一番下の少し短い薙刀が『屋内用』になるようです。周りには陣笠がいくつも展示してありました。左端の棚の上の品が、先ほど紹介した『軍配』と『軍扇』です。(同上)
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イチオシ
二つ並んだ陣羽織と陣笠の展示光景です。右側の赤い陣羽織のセットは、陣傘はレプリカか、未使用の新品のように見えました。陣笠の家紋は、梅鉢紋のようです。左側の陣羽織は、レプリカではなく、実際に使われた物の雰囲気がありました。家康の浜松城時代は1570~1586年、その後の城主では、5人の老中や大阪城代、京都所司代、奏者番などを輩出しています。(同上)
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二つ並んだ陣羽織の前に展示してあった、乗馬鞍の展示です。使い古された品の雰囲気でした。説明札は、『上級武士の乗馬鞍・鐙(あぶみ)』でした。陣羽織との関連はなさそうでした。(同上)
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『大名・道中用荷役馬・鞍』の表示があった展示品です。この鞍も、実際に使用されたもののようです。大名行列用らしい、重量感がある凝った造りの鞍でした。強度と摩耗性を考慮して、皮が多く使用されているように見えました。(同上)
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最初の文字の『定』以外は、全く読み取れなかった立札の紹介です。推測になりますが、この後に紹介するレプリカの立札のオリジナルになるようです。最後の文字の『奉行』も、墨の色は消えていましたが、板面に文字の凹凸が残っていました。(同上)
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キリシタン禁令に関する『定』の紹介です。このレプリカの立札に解説文が付いていました。正徳元年(1711年)5月・奉行名のお触書の立札です。正徳年間(1711~1716年)は、この時代の天皇は中御門天皇、江戸幕府将軍は徳川家宣(在位:1709~1712年)、徳川家継(在位:1713~1716年)でした。家継が亡くなったのは6歳、史上最年少の征夷大将軍でした。(同上)
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『宿場町浜松』のタイトルがあった展示の光景です。右下の絵図面には、『浜松御城下略絵図(浜松市中央図書館蔵)』の付記がありました。城下町浜松は、江戸品川宿から29番目の宿場町でもあったことから紹介が始まっていました。53次の29番目ですから、少しだけ京都に近いようです。日本橋から始まり、最初の宿が品川、最後の宿が大津、そして三条大橋が終点です。(同上)
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〇右手前の展示:『手鏡(てかがみ)』
江戸時代(中期作)
〇左手前の展示:『十手(じゅって)』
〇奥の展示:『れいてん』
ごく少量の物を測る道具 (同上) -
〇左の展示品:『衣装盆』
三つ葉葵絵入(江戸時代)
〇右の展示品:『文箱』
三つ葉葵入紋付漆塗(江戸時代中期) (同上) -
古文書の展示です。2009年の見学の時にも紹介しましたが、『端午の御祝儀に対するお礼状です。松平伊豆守の花押がありました。浜松城二代城主に松平伊豆守信復(1719~1768年)がいます。左上に記された下間少進(しもつま・しょうしん)の名前は、能役者のようです』、と紹介しました。(同上)
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左から『三つ葉葵紋入りの重箱』、『朱漆の高坏(たかつき)とおひら(御平?)』、『白地に青絵の茶器(名札表示なし)』の展示光景です。重箱と高坏は、城主用に使われた品のようでした。(同上)
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『行器(ほかい)』の表示があった展示品です。『外居』とも表記され、中世から近世の日本において、儀礼の際に食物を運搬する目的で用いられた容器です。名称の「ほかい」は「ほかう」(祝う)の名詞形で、元来は神仏に食物を捧げる行為を意味し、 神饌を盛り付ける器でした。 時代が下るにつれて供物以外にも、野遊びなどハレの行事の折に食物を持ち運ぶ用途にも用いられました。(同上)
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