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東海三県の名城巡り、日本百名城の名古屋城本丸御殿紹介の続きです。本丸御殿の建物は、建設途中、第一期の工事が完了した時などでも見学しましたが、一応の完成を見えてからは、今回が最初になります。

2018暮、東海三県の名城(4/12):名古屋城(4):本丸御殿、上洛殿、梅之間、大天守

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2018/12/27 - 2018/12/27

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旅行記グループ 2018暮、東海3県の名城巡り

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旅人のくまさん

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東海三県の名城巡り、日本百名城の名古屋城本丸御殿紹介の続きです。本丸御殿の建物は、建設途中、第一期の工事が完了した時などでも見学しましたが、一応の完成を見えてからは、今回が最初になります。

交通手段
観光バス

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  • 本丸御殿の紹介の締め括りです。『梅之間』のタイトルがあった説明パネルの光景です。既に紹介しましたが、接待役などを兼ねた尾張藩の高位者が詰めていた部屋とされます。上洛殿が使用される時には、本丸御殿全体の要になるような場所に位置しています。(本丸御殿紹介サイト)

    本丸御殿の紹介の締め括りです。『梅之間』のタイトルがあった説明パネルの光景です。既に紹介しましたが、接待役などを兼ねた尾張藩の高位者が詰めていた部屋とされます。上洛殿が使用される時には、本丸御殿全体の要になるような場所に位置しています。(本丸御殿紹介サイト)

  • 『梅之間』の床の間に飾られた紅梅の図です。藩の高位者が詰める場所だけに、床の間の造りも格の高い装飾が施されているようでした。上洛殿の建物に数えられ、その広さは20畳です。『梅之間』は、対面所・表書院から上洛殿への通路である『鷺之廊下』の北側に寄り添う位置にあります。(同上)

    イチオシ

    『梅之間』の床の間に飾られた紅梅の図です。藩の高位者が詰める場所だけに、床の間の造りも格の高い装飾が施されているようでした。上洛殿の建物に数えられ、その広さは20畳です。『梅之間』は、対面所・表書院から上洛殿への通路である『鷺之廊下』の北側に寄り添う位置にあります。(同上)

  • 『梅之間』の床の間に向かって、右手の壁面に飾られていた壁画と思って撮影しましたが、隣の部屋の壁画だったかも知れません。先ほどの古梅樹の絵と同様、狩野派の手により描かれた壁画のようです。左上の枝には赤い梅の花が、右側には小鳥が三羽ほど描かれていました。雪景色でした。(同上)

    『梅之間』の床の間に向かって、右手の壁面に飾られていた壁画と思って撮影しましたが、隣の部屋の壁画だったかも知れません。先ほどの古梅樹の絵と同様、狩野派の手により描かれた壁画のようです。左上の枝には赤い梅の花が、右側には小鳥が三羽ほど描かれていました。雪景色でした。(同上)

  • 本丸御殿の『上御膳所(かみごぜんしょ)』です。御膳場(二之間)、上洛殿とともに増築された料理の配膳や温め直しのための場所です。上之間(一之間、21畳)と御膳場(二之間)の2室からなります。上之間には襖で区切って上段之間が設けられ、障壁画で囲まれていました。上洛殿の北側にあり、上御膳所と上洛殿は梅之間西の入側で結ばれています。(同上)

    本丸御殿の『上御膳所(かみごぜんしょ)』です。御膳場(二之間)、上洛殿とともに増築された料理の配膳や温め直しのための場所です。上之間(一之間、21畳)と御膳場(二之間)の2室からなります。上之間には襖で区切って上段之間が設けられ、障壁画で囲まれていました。上洛殿の北側にあり、上御膳所と上洛殿は梅之間西の入側で結ばれています。(同上)

  • 同じく、まだ障壁画の装飾が施されていない部屋の光景になるようです。膨大な模写の量ですから、建物が完成した後も、模写は続けられるようでした。貴重な文化財を焼失から守った、乃木倉庫の紹介です。乃木将軍が明治5年(1872)頃に名古屋に赴任したことに因んで名付けられたと伝えられています。名城の御深井丸に位置する旧陸軍の火薬庫でした。(文化財ナビ愛知)』

    同じく、まだ障壁画の装飾が施されていない部屋の光景になるようです。膨大な模写の量ですから、建物が完成した後も、模写は続けられるようでした。貴重な文化財を焼失から守った、乃木倉庫の紹介です。乃木将軍が明治5年(1872)頃に名古屋に赴任したことに因んで名付けられたと伝えられています。名城の御深井丸に位置する旧陸軍の火薬庫でした。(文化財ナビ愛知)』

  • 第二次大戦中に、障壁画の臨時の保管庫となった、『乃木倉庫』についての紹介を続けます。『明治5年(1872年)前後に建てられたもので、現在は愛知県の登録文化財にもなっています。煉瓦造の平屋建で、屋根は切妻造の桟瓦葺です。延床面積は約100平方メートル、壁厚は約60センチとされ、貴重な文化財を戦火から守り通しました。(同上)』

    第二次大戦中に、障壁画の臨時の保管庫となった、『乃木倉庫』についての紹介を続けます。『明治5年(1872年)前後に建てられたもので、現在は愛知県の登録文化財にもなっています。煉瓦造の平屋建で、屋根は切妻造の桟瓦葺です。延床面積は約100平方メートル、壁厚は約60センチとされ、貴重な文化財を戦火から守り通しました。(同上)』

  • 『乃木倉庫』の紹介の締め括りです。『床は板張ですが、床下は煉瓦造の曲面天井で支えられていて、乾燥の目的のためか、床下空間を大きくとっています。隅石は漆喰で造り出したものです。明治初期の煉瓦造建築物として名古屋市内では極めて貴重なものです。(以上)』、乃木倉庫に仕舞われ、戦災を免れた障壁画は、千枚を超えるようです。

    『乃木倉庫』の紹介の締め括りです。『床は板張ですが、床下は煉瓦造の曲面天井で支えられていて、乾燥の目的のためか、床下空間を大きくとっています。隅石は漆喰で造り出したものです。明治初期の煉瓦造建築物として名古屋市内では極めて貴重なものです。(以上)』、乃木倉庫に仕舞われ、戦災を免れた障壁画は、千枚を超えるようです。

  • 『下御膳所』のタイトルがあった説明パネルの光景です。本丸御殿の中央やや右寄り(東寄り)の北側に位置し、その拡大図が、下側に記されていました。『下御膳所は、上台所で作られた宴席に使う料理を準備するための部屋です。中央には囲炉裏が切ってあり、料理を温めるために使われていました。天井には、煙を逃がす工夫がされています。(本丸御殿紹介サイト)』

    『下御膳所』のタイトルがあった説明パネルの光景です。本丸御殿の中央やや右寄り(東寄り)の北側に位置し、その拡大図が、下側に記されていました。『下御膳所は、上台所で作られた宴席に使う料理を準備するための部屋です。中央には囲炉裏が切ってあり、料理を温めるために使われていました。天井には、煙を逃がす工夫がされています。(本丸御殿紹介サイト)』

  • 料理の最終仕上げを行う『下御膳所』の室内光景になるようですが、中央には囲炉裏があるはずです。『中庭』の北側に位置する下御膳所です。台所で調理された料理をここでお膳に並べて、お運びするところです。いろりがあるのは、温め直しのためです。宴席の状況に合わせて、料理を温めて出すなど、とおもてなしの最終仕上げをしました。(同上)

    料理の最終仕上げを行う『下御膳所』の室内光景になるようですが、中央には囲炉裏があるはずです。『中庭』の北側に位置する下御膳所です。台所で調理された料理をここでお膳に並べて、お運びするところです。いろりがあるのは、温め直しのためです。宴席の状況に合わせて、料理を温めて出すなど、とおもてなしの最終仕上げをしました。(同上)

  • 『中之口部屋』のタイトルがあった説明パネルの光景です。玄関の北側の一角を占める『中之口部屋』は、実質的な『玄関』と紹介されていました。内部は六つの部屋に分かれ、家老の詰め所にも使われたようです。その拡大図が、説明パネルの右下の図面です。(同上)

    『中之口部屋』のタイトルがあった説明パネルの光景です。玄関の北側の一角を占める『中之口部屋』は、実質的な『玄関』と紹介されていました。内部は六つの部屋に分かれ、家老の詰め所にも使われたようです。その拡大図が、説明パネルの右下の図面です。(同上)

  • これまで見掛けたことがなかった、マンホール蓋の紹介です。枠の部分に『名古屋市水道局』らしいローマ字が記してあるようでした。中央に名古屋城天守閣、その周りに名古屋市の5箇所の名所のイラストが紹介されているようでした。名所ではなく、上下水に関する施設かも知れません。

    これまで見掛けたことがなかった、マンホール蓋の紹介です。枠の部分に『名古屋市水道局』らしいローマ字が記してあるようでした。中央に名古屋城天守閣、その周りに名古屋市の5箇所の名所のイラストが紹介されているようでした。名所ではなく、上下水に関する施設かも知れません。

  • 東側から眺めた、名古屋城の城内光景です。敢て説明は要らないかも知れませんが、右から大天守(天守閣)、小天守と、先ほど見学した本丸御殿です。小天守の前を通って右(北側)に伸びているのが、『上台所』などの建物になるようです。

    東側から眺めた、名古屋城の城内光景です。敢て説明は要らないかも知れませんが、右から大天守(天守閣)、小天守と、先ほど見学した本丸御殿です。小天守の前を通って右(北側)に伸びているのが、『上台所』などの建物になるようです。

  • 『本丸北側に位置する建物光景です光景です。とっさには、建物名が思い浮かびませんでした。平面図を参照しますと、左手前の建物が、『下御膳所』がある建物、その右奥が『対面所』が入る建物のようでしたが、外れているかも知れません。

    『本丸北側に位置する建物光景です光景です。とっさには、建物名が思い浮かびませんでした。平面図を参照しますと、左手前の建物が、『下御膳所』がある建物、その右奥が『対面所』が入る建物のようでしたが、外れているかも知れません。

  • 先ほどの写真の左(東側)に繋がる建物ですが、こちらの写真も、建物名の特定ができませんでした。推定では、中央奥の建物が、『表書院』がある建物、その左(東側)が『中之口部屋』がある建物の西端のようです。(同上)

    先ほどの写真の左(東側)に繋がる建物ですが、こちらの写真も、建物名の特定ができませんでした。推定では、中央奥の建物が、『表書院』がある建物、その左(東側)が『中之口部屋』がある建物の西端のようです。(同上)

  • 左手前に見えるのが、再建工事が完了した本丸御殿の建物の一部です。本丸御殿の中間付近から北に延びる『上台所』の建物になるようです。その奥に見えるのが『小天守』、右端が『大天守』です。

    左手前に見えるのが、再建工事が完了した本丸御殿の建物の一部です。本丸御殿の中間付近から北に延びる『上台所』の建物になるようです。その奥に見えるのが『小天守』、右端が『大天守』です。

  • 天守閣の木造建築への建て替えに伴い、先行して始まった天守台の石垣調査のための足場が造られた光景です。天守閣への入城は、その前に禁止されていました。名古屋城の最も重要な歴史遺跡は、加藤清正が担当した天守台とも言われますので、この後の天守閣と天守台を巡る保存と補修工事の在り方については、引き続いて注目したいところです。

    天守閣の木造建築への建て替えに伴い、先行して始まった天守台の石垣調査のための足場が造られた光景です。天守閣への入城は、その前に禁止されていました。名古屋城の最も重要な歴史遺跡は、加藤清正が担当した天守台とも言われますので、この後の天守閣と天守台を巡る保存と補修工事の在り方については、引き続いて注目したいところです。

  • 名残惜しく、最後にもう一度紹介します名古屋城の『本丸御殿』の光景です。『本丸御殿』の表玄関の唐破風屋根を持つの玄関光景です。徳川家康の命によって建てられた、尾張徳川家の『名古屋城』、その一角をしめる本丸御殿です。(本丸御殿公式サイト)

    名残惜しく、最後にもう一度紹介します名古屋城の『本丸御殿』の光景です。『本丸御殿』の表玄関の唐破風屋根を持つの玄関光景です。徳川家康の命によって建てられた、尾張徳川家の『名古屋城』、その一角をしめる本丸御殿です。(本丸御殿公式サイト)

  • 本丸御殿から眺めた、名古屋城の天守光景です。雌雄の金シャチが撮影できる場所を選びました。天下の金シャチと、本丸御殿の破風の金箔飾りの共演であり、競演ですから、菖蒲の決着はつかないようです。(同上)

    イチオシ

    本丸御殿から眺めた、名古屋城の天守光景です。雌雄の金シャチが撮影できる場所を選びました。天下の金シャチと、本丸御殿の破風の金箔飾りの共演であり、競演ですから、菖蒲の決着はつかないようです。(同上)

  • 本丸御殿から眺めた、名古屋城の天守光景です。今度は、大天守だけでなく、小天守も一緒の写真です。右手前に伸びている甍は『表書院』、左端の建物が『上洛殿』の東側破風になるようです。『表書院』と『上洛殿』の間の建物は、右が『対面所』、左が『鷺ノ廊下』がある建物になるようです。(同上)

    本丸御殿から眺めた、名古屋城の天守光景です。今度は、大天守だけでなく、小天守も一緒の写真です。右手前に伸びている甍は『表書院』、左端の建物が『上洛殿』の東側破風になるようです。『表書院』と『上洛殿』の間の建物は、右が『対面所』、左が『鷺ノ廊下』がある建物になるようです。(同上)

  • 名古屋城の大天守と小天守が、さらに大きく見える場所からの光景です。手前の本丸御殿の建物は、左が上洛殿で、右が対面所になるようです。その間に見えているのが、『鷺ノ廊下』です。

    名古屋城の大天守と小天守が、さらに大きく見える場所からの光景です。手前の本丸御殿の建物は、左が上洛殿で、右が対面所になるようです。その間に見えているのが、『鷺ノ廊下』です。

  • 『御殿椿(根株)』のタイトルがあった説明立札の光景です。花期は、3~4月のようです。記憶が薄れましたが、花が咲いていた時に一度紹介したかもしれません。<br />(追記)2001年11月のブログで赤色と白色のツバキを紹介していました。ただし、花の散り方から、椿ではなくサザンカと誤って判断していました。立札で紹介されていたのは、『御殿椿』の名前の八重咲の白椿でした。

    『御殿椿(根株)』のタイトルがあった説明立札の光景です。花期は、3~4月のようです。記憶が薄れましたが、花が咲いていた時に一度紹介したかもしれません。
    (追記)2001年11月のブログで赤色と白色のツバキを紹介していました。ただし、花の散り方から、椿ではなくサザンカと誤って判断していました。立札で紹介されていたのは、『御殿椿』の名前の八重咲の白椿でした。

  • まだ蕾だけだった、『御殿椿(根株)』の樹木光景です。御殿椿は、『八重大輪の椿で、もともとは、本丸御殿南庭にあった尾張藩秘蔵の銘椿の「御殿椿」で、接ぎ木されて育った椿が今も花を咲かせています。(ニッポン旅マガジン)』、と紹介されていました。

    まだ蕾だけだった、『御殿椿(根株)』の樹木光景です。御殿椿は、『八重大輪の椿で、もともとは、本丸御殿南庭にあった尾張藩秘蔵の銘椿の「御殿椿」で、接ぎ木されて育った椿が今も花を咲かせています。(ニッポン旅マガジン)』、と紹介されていました。

  • 南側から眺めた、建物が折り重なった光景です。一番手前の左側が『湯殿書院』その右後ろが『小天守』、中央背後が大天守です。『湯殿書院』は、将軍専用の浴室(湯殿)と、上段之間(6畳)、一之間(10畳)、二之間(10畳)からなる風呂場で、上洛殿とともに寛永期に増築されました。風呂といっても現在のような湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸風呂でした。(本丸御殿公式サイト)

    南側から眺めた、建物が折り重なった光景です。一番手前の左側が『湯殿書院』その右後ろが『小天守』、中央背後が大天守です。『湯殿書院』は、将軍専用の浴室(湯殿)と、上段之間(6畳)、一之間(10畳)、二之間(10畳)からなる風呂場で、上洛殿とともに寛永期に増築されました。風呂といっても現在のような湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸風呂でした。(本丸御殿公式サイト)

  • 『本丸御殿』の南側から眺めた、大天守(天守閣)と小天守の光景です。小天守は、大天守の南東に位置します。手前に見える本丸御殿の建物は、右側が『上洛殿の西南側』、左端が『湯殿書院の南側』になるようです。(同上)

    『本丸御殿』の南側から眺めた、大天守(天守閣)と小天守の光景です。小天守は、大天守の南東に位置します。手前に見える本丸御殿の建物は、右側が『上洛殿の西南側』、左端が『湯殿書院の南側』になるようです。(同上)

  • 『本丸御殿』の建物光景です。右端に見えるのが左端から津木菟建物『上洛殿の南面』になるようです。右端に見えるのが『表書院の西側の破風』になるようです。寛永11年(1634年)、三代将軍家光の上洛に合わせて増築された、贅を尽くした建物ですが、その後ほとんど使われていません。(同上)

    『本丸御殿』の建物光景です。右端に見えるのが左端から津木菟建物『上洛殿の南面』になるようです。右端に見えるのが『表書院の西側の破風』になるようです。寛永11年(1634年)、三代将軍家光の上洛に合わせて増築された、贅を尽くした建物ですが、その後ほとんど使われていません。(同上)

  • ここからは、国の重要文化財の建物の『西南隅櫓』の紹介です。普段は立入ることができない建物です。今回のツアーで見学できたのは、予め西南隅櫓の公開日に合わせてツアー・スケジュールが組んであったのかも知れません。本丸御殿に比べますと、無骨な木組みが見えていました。(名古屋城公式サイト)

    ここからは、国の重要文化財の建物の『西南隅櫓』の紹介です。普段は立入ることができない建物です。今回のツアーで見学できたのは、予め西南隅櫓の公開日に合わせてツアー・スケジュールが組んであったのかも知れません。本丸御殿に比べますと、無骨な木組みが見えていました。(名古屋城公式サイト)

  • 『西南隅櫓(重要文化財)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『西南隅櫓は、本丸の西南隅に位置し、天守(戦災で焼失)とほぼ同時期の慶長17年(1612年)に建てられた』ことや、『江戸時代には未申(ヒツジサル)櫓と呼ばれ、東西約11.8メートル、南北約13.5メートル、高さ14.1メートルの大型の隅櫓』であることなどが紹介されていました。(同上)

    『西南隅櫓(重要文化財)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『西南隅櫓は、本丸の西南隅に位置し、天守(戦災で焼失)とほぼ同時期の慶長17年(1612年)に建てられた』ことや、『江戸時代には未申(ヒツジサル)櫓と呼ばれ、東西約11.8メートル、南北約13.5メートル、高さ14.1メートルの大型の隅櫓』であることなどが紹介されていました。(同上)

  • 『隅櫓と多門櫓』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『西南隅櫓には、北側と東側に、平屋造りの多門櫓が接続され、面的に主要部を防御していた』、と説明されていました。また、当時の武器では、この守りを突破することは困難だったことも解説されていました。武器庫や武者走りの機能も有していたようです。(同上)

    『隅櫓と多門櫓』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『西南隅櫓には、北側と東側に、平屋造りの多門櫓が接続され、面的に主要部を防御していた』、と説明されていました。また、当時の武器では、この守りを突破することは困難だったことも解説されていました。武器庫や武者走りの機能も有していたようです。(同上)

  • 国の重要文化財に指定されている、『西南隅櫓』の1階の内部光景です。見学時の足元を照らすことが主眼で、必要最小限の室内照明でした。先ほど紹介した多門櫓は、北側は小天守まで伸び、東側は、表二ノ門(南二ノ門)を介して、東南隅櫓まで伸びていたようです。(同上)

    国の重要文化財に指定されている、『西南隅櫓』の1階の内部光景です。見学時の足元を照らすことが主眼で、必要最小限の室内照明でした。先ほど紹介した多門櫓は、北側は小天守まで伸び、東側は、表二ノ門(南二ノ門)を介して、東南隅櫓まで伸びていたようです。(同上)

  • 同じく、『西南隅櫓』の1階の内部光景です。格子窓がある部分は明かり採りにもなっていましたが、足元には『石落とし』の設備もあったようです。宮内庁の管轄で、『離宮』になっていた時期もありましたが、宮内庁では手に負えなかった施設だったかも知れません。(同上)

    イチオシ

    同じく、『西南隅櫓』の1階の内部光景です。格子窓がある部分は明かり採りにもなっていましたが、足元には『石落とし』の設備もあったようです。宮内庁の管轄で、『離宮』になっていた時期もありましたが、宮内庁では手に負えなかった施設だったかも知れません。(同上)

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