2018/12/27 - 2018/12/27
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旅人のくまさんさん
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ツアーに参加しての東海三県の名城巡りです。その最初の名古屋城見学の締め括りです。九男の藩主のために、徳川家康が格別の肝いりで拵えたお城です。天下の名城の中でも屈指の名城として名を知られました。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイドブック)
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『西南隅櫓』の上階から眺めた、名古屋城内の光景です。眼下に見えるのは、西南隅櫓の南側の大通りのようです。松林の先に、金鯱横丁らしい建物の姿が見えました。『東南隅櫓』は上ったことがありましたが、『西南隅櫓』は初めてでした。(同上)
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『西南隅櫓』の室内光景です。平成22年(2010年)から半解体修理が進められ、平成26年(2014年)改修工事が終了しました。外観は二階建てですが、内部は三階建ての珍しい造りの建物です。(同上)
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『窓の水抜き』のタイトルがあった説明パネルの光景です。写真は二階南面の唐破風の下の格子窓です。その下に小さく見えるのが、水抜きのための銅筒です。説明がなければ、見落としてしまいそうな造作です。(同上)
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イチオシ
『西南隅櫓』の内部を巡る、上階の廊下の光景です。なかなか立派な造りは、戦時用というより、日常の居住性も十分に考慮されているように見えました。使用されている柱は全体に丈夫そうでした。(同上)
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『西南隅櫓の倒壊、再建、修理』のタイトルがあった説明パネルの光景です。明治後期から大正10年(1921年)にかけての経年劣化により石垣ごと倒壊し、大正12年(1923年)に当時管理していた宮内省により、債権・修理されたことが紹介されていました。(同上)
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西南隅櫓の上階から眺めた、大天守の光景です。木造への建替え工事のため、既に入城禁止になっています。耐震性が低いことに対応するため、現在は閉館しています。大天守は戦後の外観模擬の造りですが、基礎となる天守台は『加藤清正(1562~1612年)』が築いた歴史的価値が高いものです。家康から天守閣の大工棟梁を命じられたのは、側近の中井正清でした。作事奉行には小堀政一が任命されました。ふたりは駿府城の築城も務めた実績のあるベテランコンビでした。小堀政一(1579~1647)』は、『小堀遠州』の呼び名でも知られる大名で、茶人、建築家、作庭家、書家でもありました。(同上)
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西南隅櫓の上階から眺めた、大天守のズームアップ光景です。昭和20年(1945年)の空襲により、名古屋城が灰じんに帰してから10有余年後の、昭和34年(1959年)10月に再建された天守閣です。外観は、観光のために窓は大きくしてあるようですが、堂々とした銅葺き瓦に金シャチが載せられています。正確な資料は残されていませんが、古い資料によると、檜2,815本、欅角物408本、松角物9,796本、タタミ1,759畳が使われたといわれます。檜をぜいたくに使った天守は、松や杉で建てられた他の城と比べて格別な豪華さでした。天守閣は、1612年(慶長17)にほぼ完成しました。先ほど紹介出来なかった、天守閣の大工棟梁の『中井正清(1565~1619年)』は、寺社の建築監理に加え、小堀遠州の知己を得て茶道を修めた人です。江戸幕府の初代京都大工頭(だいくがしら)とも呼ばれます。(同上)
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左が大天守、その手前が屋根の向きが90度異なる小天守の建物光景です。この小天守は、大天守の東南に位置しますが、大天守の西北付近にも小天守が造られたことが古文書等で知られ、天守台上部には通路跡らしい痕跡がありました。(同上)
(追記):文化庁の指示で発掘調査が行われ、2021年3月に発掘調査結果が公表されました。発掘調査で内堀内に小天守跡らしい建物基礎跡も確認されました。 -
西南隅櫓の上階から眺めた、城内外の光景です。城内では西の丸辺りで発掘調査が行われているようでした。写真の右奥に見える建物は、名古屋城の西側に隣接する、旧ウェスティンナゴヤキャッスルです。経営母体が変わり、現在の名称は『ホテルナゴヤキャッスル』のようです。(同上)
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西南隅櫓の甍越しに眺めた、高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅方面の市街光景です。写真の中央奥に見える城内の建物が、現在の名古屋城正門です。西南隅櫓からの西南方角の遠望になります。(同上)
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西南隅櫓の甍越しに眺めた、城内の松林光景です。概ね西側方面になるようでした。西南隅櫓は、慶長17(1614年)頃に造られ、現存する隅櫓の一つで、国の重要文化財に指定されています。もとは東と北に『多聞櫓(たもんやぐら)』が付属していましたが、近代に撤去されています。(同上)
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西南隅櫓の甍越しに眺め名古屋城内城内と、名古屋駅方面の超高層ビル群の光景です。1891年(明治24年)10月28日に発生した濃尾地震で、甚大な被害を受けたこともあり、復旧や解体修理を経て構造材には新材も多いですが、規模や形態は建造当初に復原されています。
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少しズームアップした、西南隅櫓の甍越しに眺めた、名古屋駅方面の超高層ビル群の光景です。さきほど紹介した1891年の濃尾地震は、濃尾地方で発生した巨大地震であり、M8.0の日本史上最大の内陸地殻内地震(直下型地震)です。『美濃・尾張地震(みの・おわりじしん)』とも呼ばれています。辛卯の年に発生したことから『辛卯震災』と呼んでいる報告書もあります。(同上)
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西南隅櫓の甍越しに眺めた、名古屋駅方面の超高層ビル群の光景です。観測史上最大の直下型地震の『濃尾地震』の紹介の締め括りです。濃尾地震の震源は、岐阜県本巣郡西根尾村(現・本巣市)と考えられています。北北西~南南東方向に総延長約76kmの断層が出現し、水平変位は最大で7.6mを記録しました。断層の一部は根尾谷地震断層観察館で、垂直変位の6メートルを観察できます。(同上)
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『西南隅櫓の菊紋瓦』のタイトルがあった説明パネルの光景です。離宮として、宮内庁管轄だった時代があり、その時の大正12年(1923年)の改修工事の際には、できる限り古材が使用されましたが、鬼瓦には、皇室の菊のご紋が入ったものが使われました。(同上)
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『御窓台(おまどだい)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。19世紀に編纂された名古屋城の記録集成の『金城温故録』を基にした解説でした。『天守閣5階の四方に御窓台が置かれ、藩主が遠くを見る時に使われた』、と解説されていました。その内の1台のようです。(同上)
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片隅に片付けられていた、『御窓台(おまどだい)』の光景です。先程の説明文によれば、天守最上階の四隅に置かれていた、藩主が景色を眺めるための踏み台の一つが、東南隅櫓に移されたようです。(同上)
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本丸御殿の側面光景です。真新しい黄金飾りの破風の光景です。推測になりますが、『上洛殿』の破風と建物光景になるようです。もし、間違いでしたら、『表書院』の西面になります。そうすれば、左上に見えている軒先が『上洛殿』です。(同上)
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イチオシ
真新しい黄金飾りの破風のズームアップ光景です。破風の飾りの最上部に『三つ葉葵の紋』がありました。『上洛殿』の積りでの撮影でしたが、『表書院』かも知れません。その下にも、要所に『三つ葉葵の紋』がありました。(同上)
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イチオシ
本丸御殿の建物の間から見えていた、手前の小天守と、その奥の大天守の光景です。推測になりますが、この景観が眺められるよう、本丸御殿の建物配置が計画されていたのかも知れません。現在は、撮影スポットになっていました。左手前の建物が、『上洛殿』の東面になるようです。(同上)
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本丸御殿の南側の側面光景です。その右側の先端部分に見えているのが、唐風の屋根の造りの玄関です。唐風の屋根の玄関は、本丸御殿の東南に位置します。その背後に、松の木立が行儀よく並んでいました。(同上)
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『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣で固められた、表二之門の枡形虎口の光景です。『打ち込み接ぎ』は、石の表面や石が接する部分を打って、石同士の隙間が小さくなるよう加工したものです。 それでも隙間ができますので、『野面積み(のずらつみ)』と同様に間詰石(まづめいし)で丁寧に隙間を埋めてつくられています。 表面も真っ平らではなくて、凹凸があります。(同上)
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同じく、『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣で固められた、表二之門の枡形虎口の光景です。写真の左端が表二之門です。『打込み接ぎ』は、急な勾配で高く石を積み上げられることが長所の一つとされますが、『打込み接ぎ』の弱点として排水性が劣ることがあり、対策として水抜き穴などが設けられます。(同上)
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内堀の外側から眺めた本丸石垣の光景です。その左端に見えるのが、今回入城できた重要文化財の西南隅櫓です。高くて長い石垣の上の松の木が、それぞれ大樹に育っていました。(同上)
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右が西南隅櫓、その左後方だ大天守の建物光景です。後方に大天守が控えていますから、大きくは見えませんが、普通の御城でしたら、天守閣の大きさを持った隅櫓です。徳川御三家の筆頭のお城ですから、このような豪勢な造りもできたようです。家康公の指揮の下での築城ですから、横槍が入るはずがありません。(同上)
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国の重要文化財の『西南角櫓』の光景です。老朽化が進んだため、平成22年(2010年)から半解体修理が進められ、平成26年(2014年)に工事終了したばかりの建物です。修理前はモルタル塗りでしたが、本来の白漆喰塗に戻されました。下階の二重になった屋根飾りがお洒落な建物ですが、大掛かりな石落とし構造になっていました。(同上)
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内側から眺めた、名古屋城正門の光景です。明治43年(1910年)に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年(1959年)、天守閣と共に再建された建物です。『蓮池門(れんちもん)』は、明治4年(1871年)に『蜷川式胤(1835~1882年)』が指揮して撮影した『旧江戸城写真帖(六十四枚)』の1枚として、国の重要文化財に登録(東京国立博物館蔵)されています。(同上)
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現在工事中の一角に姿を見せた建物光景です。推測になりますが、新しく建設が始まった飲食店街の『金シャチ横丁』の建物か、西の丸御蔵城宝館かも知れません。『金シャチ横丁』は、定番・老舗のなごやめしが集結した「義直ゾーン」と、新興の店舗が軒を連ねる「宗春ゾーン」の二つのエリアです。この建物は、西の丸御蔵城宝館のようでした。(同上)
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『名古屋城西南隅櫓について』のタイトルがあった説明パンフレットの紹介です。今回の西南隅櫓の入城見学の際に入手できました。名古屋城に現存する三つの隅櫓の一つで、慶長17年(1612年)頃に建てられました。江戸時代には、『未申(ひつじさる)櫓』と呼ばれていたことなどが紹介されていました。正面図と壁面図が添えられていました。(同上)
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今回参加した3箇所のお城巡りのバスツアーには、『名古屋城・浜松城・美濃金山城跡・3つの来場記念賞・城御朱印巡り』のツアータイトルが付けられていました。それに因む名古屋城の御朱印です。字配りが立派な揮毫で、その中央に徳川家の家紋を表す、三つ葉葵の御朱印が押されていました。(同上)
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