2018/08/29 - 2018/08/30
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旅人のくまさんさん
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関東の6カ所続日本百名城巡り最後、小机城の紹介です。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、無傷のまま落城しました。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城となりました。 (ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)
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本丸広場側かな見下ろした、二の丸広場方面の光景です。かなりの段差がありました。二の丸広場は、本丸跡とする説もあるようですが、その説では、この段差の説明が難しそうです。現地の『小机城想定図』には、本丸広場が、『本丸』、二の丸広場が『二の丸』と想定されていました。(同上)
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竹林の中に続く『本丸広場』と『二の丸広場』を繋ぐ通路の光景です。道の両脇の木の柵が、通路の範囲を示していました。(同上)
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道案内標識の光景です。右の面の右向きの矢印が『二の丸広場』、その反対側の矢印が『本丸広場』と記されていました。左の面には、『二の丸広場』のほか、右向きの矢印で『根古谷』が記されていました。登り始めの麓付近にあった場所です。(同上)
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『二の丸広場』の西側の出入口付近の光景です。左端に見える標識には『井楼(せいろう)』の表示がありました。『井楼(せいろう)』は、敵陣を偵察するために、木材を井桁に組み立てた物見櫓のことです。正面奥に見えるのが、櫓台への登り階段です。(同上)
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同じく、『二の丸広場』の西側の出入口付近の光景です。まだ新しい標識には、『二の丸広場(にのまるひろば)』の表示がありました。(同上)
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『櫓台(やぐらだい)』のタイトルがあった説明立札の光景です。元々は土塁と連続した場所にあったようですが、土塁の方は取り去られたと紹介されていました。元々は、井楼跡から二の丸に通じる散策路の上に土塁が築かれていたようです。(同上)
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櫓台の上から見下ろした、櫓台への登り階段の光景です。目測ですが、高さは5~6メートルといったところでした。(同上)
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『櫓台(やぐらだい)』の上から眺めた『二の丸広場』の光景です。本丸広場より広いことや、帯曲輪、櫓台などがあることなどが本丸跡と推定される理由かもしれません。(同上)
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『櫓台(やぐらだい)』への登り口は2箇所ありました。こちらは最初に登った階段の反対側にありました。いずれも、現在の『二の丸広場』に通じていましたが、周りの土塁が取り去られていることから、オリジナルの登り口ではないかも知れません。(同上)
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『本丸広場』より広かった『二の丸広場』の光景です。『本丸』や『二の丸』の呼び方も、文献や考古学的な調査に基づくものではないようです。(同上)
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同じく、広々とした『二の丸広場』の光景です。昭和39年(1964年)に行われた第1次の本丸調査では、現在の『本丸広場』の一部だけにトレンチが設けられたようです。現在の『本丸広場』は『本丸西郭』、『二の丸広場』が『本丸東郭』と呼ばれていたようです。(同上)
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『二の丸広場』の中に置かれていた、休憩用のベンチと腰掛の光景です。その周りには、モグラさんが掘ったらしい土の山がありました。(同上)
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『二の丸広場』のコーナー付近に建てられていた道案内標識の光景です。『井楼跡』と『本丸広場』の方面の表示でした。『本丸広場』は二面に記されていましたが、同じ道の表示でした。(同上)
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竹林の中を歩きながら、小机城の歴史の紹介です。小机城は、永享の乱(1438~1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされますが、正確な築城年代は不明です。永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発します。室町幕府6代将軍足利義教の時代の戦いです。 (同上)
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小机城が歴史に登場したのは、1478年(文明10年)に起きた長尾景春の乱とされます。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こしました。この戦いで景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立て籠もり、敵方の太田道灌(1432~1486年)が攻撃をしました。江戸城築城で有名な道灌です。(同上)
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小机城を攻めた太田道灌は、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月をかけて小机城を落城させました。道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、『小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる』と詠み、味方を鼓舞しました。その時の松は『硯松』と伝えられ、横浜市神奈川区羽沢町に三代目が現存します。(同上)
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孟宗竹の林越しに眺めた、土塁の情報の光景です。この辺りは、土塁というより、自然の地形、斜面を利用した箇所に見えました。孟宗竹の竹林は、十分に間引きがされ、手入れが行き届いているようでした。竹の子栽培の孟宗竹林は10アール(10m×100m)当り200本程度とし、明るく風通しの良い竹林にされます。『番傘を差して竹林内を自由に歩ける程度』が目安とされます。(同上)
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イチオシ
前方に見えてきた三差路の光景です。現地ガイドさんに先導された先頭が、左側の階段を登りはじめるようでした。この後に紹介しますが、左折が『井楼跡』の方面、右折が『本丸広場』方面でした。竹林越しに、正面に小高い部分が見えました。道潅により落城させられた小机城は廃城となりましたが、この地域が後北条氏の勢力下に入ると、北条氏綱により修復されました。(同上)
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『本丸広場』、『井楼跡』と『二の丸広場』方面への三叉路付近に設置されていた道案内標識の光景です。やって来た道が左下向きの矢印の『二の丸広場』、右方向の矢印が『本丸広場』への登り階段でした。向かったのは、『井楼跡』への登り階段です。(同上)
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下から見上げた、『井楼(せいろう)跡』への登り階段の光景です。地道の上に、孟宗竹や樹木の落葉が降り積もっていました。照明器具などは一切なく、夜は真っ暗になってしまいそうな一帯でした。(同上)
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『土塁(どるい)』のタイトルがあった説明立札の光景です。少し拾い読みしますと、土塁の基底幅は5メートル、上底幅が2.5メートル、深さが2メートルと紹介されていました。間守には、柵、塀や逆茂木が併用されていたようです。(同上)
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小机城の歴史紹介の続きです。この地域が後北条氏の勢力下に入ると、北条氏綱の家臣の笠原信為が城主として配置され、小机衆が組織されました。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなど、城下の整備に力を注いだようです。江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいました。(同上)
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『空堀(からぼり)』のタイトルがあった説明立札の光景です。少し拾い読みしますと、土塁と一体となった防御施設で、人工的に彫られたものと、自然の地形を利用したものがあることが紹介されていました。(同上)
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先程の立看板で説明されていた、『空堀(からぼり)』の光景です。空堀の急勾配は、時として、水を湛えた水濠よりも防御性に優れることがあるようです。(同上)
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イチオシ
聖地された囲いの中にひっそりと祀られた、小さな祠の光景です。この一角が聖地された時に建てられたものでしょうか、二段のコンクリート製の基壇の上に置かれていました。祠の名前は記されていなかったようです。(同上)
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通路の右手下に見えていた、赤い鳥居と小さな祠の光景です。先程の祠とあまり変わらない大きさでした。先程の祠は木製でしたが、こちらはコンクリート製にみえました。(同上)
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オレンジ色の花を咲かせた、『ノウゼンカズラ(凌霄花)』の光景です。ノウゼンカズラ科ノウゼンカズラ属の落葉性のつる性木本です。中国原産で、日本へは平安時代に渡来したようです。(同上)
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現地ガイドさんが最後に案内してくれた、新横浜公園にある日産スタジアムの光景です。来年度のラグビーワールドカップ2019の開催予定地とされます。日本最大規模の72,327席の観客収容能力を誇る屋外多目的競技場です。(同上)
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新横浜公園にある日産スタジアムへのアプローチ道路の上から眺めた西空の光景です。夕焼に染まり始めていました。日産スタジアムでは、2002FIFAワールドカップ決勝戦が開催されました。(同上)
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これで、関東の続日本百名城巡りの紹介はお終いです。日本百名城の江戸城をはじめ、2日間で効率よく六つの続日本百名城を巡ることができました。往きは名古屋から東京駅まで新幹線を利用しましたが、帰りは、横浜駅から乗車しました。(同上)
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