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関東の続日本百名城巡りの忍城です。忍城の本丸跡には模擬御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されています。県指定記念物の旧跡に指定された続日本百名城の城跡です。

2018夏、関東の続日本百名城(9/25):8月29日(9):忍城(1):土塁、高麗門、郷土博物館

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2018/08/29 - 2018/08/30

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旅行記グループ 2018夏、関東の続百名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

関東の続日本百名城巡りの忍城です。忍城の本丸跡には模擬御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されています。県指定記念物の旧跡に指定された続日本百名城の城跡です。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 江戸城の見学を終えて、『のぼうの城』こと、『忍城(おしじょう)』に向かう途中の車中からの光景です。信号待ちの横に、『忍城址・1.4キロ』の標識がありました。もうすぐ到着です。

    江戸城の見学を終えて、『のぼうの城』こと、『忍城(おしじょう)』に向かう途中の車中からの光景です。信号待ちの横に、『忍城址・1.4キロ』の標識がありました。もうすぐ到着です。

  • 忍城に到着しました。少し離れた駐車場で観光バスを降り、歩いて行田市郷土博物館に向かいました。その途中の光景です。博物館と御三階櫓方面への矢印標識がありました。

    忍城に到着しました。少し離れた駐車場で観光バスを降り、歩いて行田市郷土博物館に向かいました。その途中の光景です。博物館と御三階櫓方面への矢印標識がありました。

  • 『忍城(おしじょう)』に残る僅かな遺跡の一つ、土塁の光景です。関東地方には土塁のお城が多く、忍城もその一つのようでした。この箇所は、『続日本百名城・公式ガイドブック』の忍城の紹介に、『本丸に残る土塁』として写真紹介されています。

    イチオシ

    『忍城(おしじょう)』に残る僅かな遺跡の一つ、土塁の光景です。関東地方には土塁のお城が多く、忍城もその一つのようでした。この箇所は、『続日本百名城・公式ガイドブック』の忍城の紹介に、『本丸に残る土塁』として写真紹介されています。

  • 同じく、夏草に覆われた本丸跡の土塁光景です。その夏草の中に、辛うじて『本丸土塁』の立看板が頭を出していました。土塁の外側は濠ではなく、沼地の池が守りになっていたようです。

    同じく、夏草に覆われた本丸跡の土塁光景です。その夏草の中に、辛うじて『本丸土塁』の立看板が頭を出していました。土塁の外側は濠ではなく、沼地の池が守りになっていたようです。

  • 夏草に覆われた『本丸土塁」の光景が続きます。先程の立看板には、『本丸西側を囲う土塁、旧状をよく残す南に二の丸、西に土蔵曲輪と橋で結ばれていた』と紹介されていました。

    夏草に覆われた『本丸土塁」の光景が続きます。先程の立看板には、『本丸西側を囲う土塁、旧状をよく残す南に二の丸、西に土蔵曲輪と橋で結ばれていた』と紹介されていました。

  • 土塁の上に長く続いた『多聞』らしい長塀の光景です。史実や文献などに基づく債権ではなく、御三階櫓などと同じ、模擬とされる造りのようです。

    土塁の上に長く続いた『多聞』らしい長塀の光景です。史実や文献などに基づく債権ではなく、御三階櫓などと同じ、模擬とされる造りのようです。

  • 行田市郷土博物館方面への入口の『高麗門』の光景です。高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門です。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施されました。

    行田市郷土博物館方面への入口の『高麗門』の光景です。高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門です。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施されました。

  • 『高麗門』の近くからの撮影です。高麗門は、江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造されて来ました。上から見ると、屋根が片仮名のコの字型に配置され、守り手側の死角が少ない門構えとされます。

    『高麗門』の近くからの撮影です。高麗門は、江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造されて来ました。上から見ると、屋根が片仮名のコの字型に配置され、守り手側の死角が少ない門構えとされます。

  • 『伝・進修館表門』のタイトルがあった立看板の光景です。少し拾い読みしますと、旧吉川家の表門が移築ものとされ、かつての藩校の『進修館の表門』だった言い伝えが残る門のようでした。

    『伝・進修館表門』のタイトルがあった立看板の光景です。少し拾い読みしますと、旧吉川家の表門が移築ものとされ、かつての藩校の『進修館の表門』だった言い伝えが残る門のようでした。

  • 内側から眺めた、『伝・進修館表門』の高麗門の光景です。先ほど紹介した立看板では、現存する行田市の唯一の武家門としての価値が高い門と紹介されていました。

    イチオシ

    内側から眺めた、『伝・進修館表門』の高麗門の光景です。先ほど紹介した立看板では、現存する行田市の唯一の武家門としての価値が高い門と紹介されていました。

  • 塀に沿って並べられた、大きさの揃った石材の光景です。『忍城櫓石垣』と紹介されていました。布積で積まれた石垣が想像される石材でしたが、高石垣は連想できない大きさでした。

    イチオシ

    塀に沿って並べられた、大きさの揃った石材の光景です。『忍城櫓石垣』と紹介されていました。布積で積まれた石垣が想像される石材でしたが、高石垣は連想できない大きさでした。

  • 『忍城櫓石垣』のタイトルがあった立看板のズームアップ光景です。『城内にあった櫓の石垣』とだけ粗油買いされ、櫓は特定されていませんでした。元禄15年(1702年)に三階櫓が1棟、二階櫓が2棟建てられ、明治6年(1873年)の廃城ですべて解体されました。

    『忍城櫓石垣』のタイトルがあった立看板のズームアップ光景です。『城内にあった櫓の石垣』とだけ粗油買いされ、櫓は特定されていませんでした。元禄15年(1702年)に三階櫓が1棟、二階櫓が2棟建てられ、明治6年(1873年)の廃城ですべて解体されました。

  • 『行田市郷土博物館』の周りの光景です。城址を象徴するような、クラシックな土塀が配置されていました。

    『行田市郷土博物館』の周りの光景です。城址を象徴するような、クラシックな土塀が配置されていました。

  • 『日本遺産・和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち・行田』のタイトルがあった説笑みパネルの光景です。地図上に主な関連施設が表示してありました。<br />

    『日本遺産・和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち・行田』のタイトルがあった説笑みパネルの光景です。地図上に主な関連施設が表示してありました。

  • 正面の立看板には、博物館と駐車場を中心とした歩行経路図が表示してありました。左側の矢印に従って、博物館に向かいました。

    正面の立看板には、博物館と駐車場を中心とした歩行経路図が表示してありました。左側の矢印に従って、博物館に向かいました。

  • 『忍城址案内図』のタイトルがあった立看板の光景です。複数カ所で目にした看板ですが、それぞれに現在位置が赤い印で表示されていました。忍城のかつての縄張り図ではなく、現況図です。

    『忍城址案内図』のタイトルがあった立看板の光景です。複数カ所で目にした看板ですが、それぞれに現在位置が赤い印で表示されていました。忍城のかつての縄張り図ではなく、現況図です。

  • タイトルは見当たりませんでしたが、行田市の広域観光案内図のようでした。その中の4箇所が写真で紹介されていました。右上から反時計回りに、古代蓮の里(4キロ)、利根堤(7キロ)、水城公園(1キロ)とさきたま古墳公園(3キロ)でした。

    タイトルは見当たりませんでしたが、行田市の広域観光案内図のようでした。その中の4箇所が写真で紹介されていました。右上から反時計回りに、古代蓮の里(4キロ)、利根堤(7キロ)、水城公園(1キロ)とさきたま古墳公園(3キロ)でした。

  • 周りがクラシックな塀で囲われ、石畳が敷かれた広場の光景です。庭木もまだ植樹されて間もないようでした。生徒さん達の集合場所に見えましたが、先程の地図に記された第二駐車場かも知れません。

    周りがクラシックな塀で囲われ、石畳が敷かれた広場の光景です。庭木もまだ植樹されて間もないようでした。生徒さん達の集合場所に見えましたが、先程の地図に記された第二駐車場かも知れません。

  • 『行田市郷土博物館』の前庭の光景です。新しい西洋風の造りのようでしたが、背後の石塀などは、忍所の本丸跡を意識したようなデザインに見えました。

    『行田市郷土博物館』の前庭の光景です。新しい西洋風の造りのようでしたが、背後の石塀などは、忍所の本丸跡を意識したようなデザインに見えました。

  • 忍城の本丸の跡地に建つ『行田市郷土博物館』の出入口方面の光景です。団体客を想定したような広い階段とその先の長い屋根の造りでした。

    忍城の本丸の跡地に建つ『行田市郷土博物館』の出入口方面の光景です。団体客を想定したような広い階段とその先の長い屋根の造りでした。

  • 忍城の本丸の跡地に建つ『行田市郷土博物館』の出入口光景です。入場の後、自由見学となりました。行田市は、足袋作りで有名で、その展示も数多くありました。『行田の足袋製造用具及び製品』の4971点は、国登録有形民俗文化財に登録されています。

    忍城の本丸の跡地に建つ『行田市郷土博物館』の出入口光景です。入場の後、自由見学となりました。行田市は、足袋作りで有名で、その展示も数多くありました。『行田の足袋製造用具及び製品』の4971点は、国登録有形民俗文化財に登録されています。

  • 先程の出入口の右側にあった、『行田市郷土博物館』の標示の光景です。充実した展示がありましたので、帰りには、お値打ちな常設展示図録を購入しました。

    先程の出入口の右側にあった、『行田市郷土博物館』の標示の光景です。充実した展示がありましたので、帰りには、お値打ちな常設展示図録を購入しました。

  • 踏み台が用意されていた、『模擬御三階櫓』の最上階の窓際から眺めた光景です。この光景は、概ね東方面になるようです。北東方面には、行田市役所などがあります。

    踏み台が用意されていた、『模擬御三階櫓』の最上階の窓際から眺めた光景です。この光景は、概ね東方面になるようです。北東方面には、行田市役所などがあります。

  • 『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた周りの光景が続きます。室内は撮影禁止の表示がありましたが、四方の窓際には、見学用の踏み台が置かれていました。この光景は、概ね北方面になるようです。忍城の北側には、東照宮や諏訪神社があります。眼下に見えているのは、城内の鐘楼のようです。

    『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた周りの光景が続きます。室内は撮影禁止の表示がありましたが、四方の窓際には、見学用の踏み台が置かれていました。この光景は、概ね北方面になるようです。忍城の北側には、東照宮や諏訪神社があります。眼下に見えているのは、城内の鐘楼のようです。

  • 同じく、『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた周りの光景です。この光景は、概ね西方面になるようです。東方面から、時計回りで見学しました。南寄りに位置する、城内の緑の光景です。

    同じく、『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた周りの光景です。この光景は、概ね西方面になるようです。東方面から、時計回りで見学しました。南寄りに位置する、城内の緑の光景です。

  • 『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた城内の光景です。この光景は、概ね西方面になるようです。城内の竹林の光景です。右手に見えている屋根は渡り廊下の屋根かも知れません。

    『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた城内の光景です。この光景は、概ね西方面になるようです。城内の竹林の光景です。右手に見えている屋根は渡り廊下の屋根かも知れません。

  • 同じく、『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた周りの光景です。この光景は、概ね南方面になるようです。東南方面には中央小学校、東南には忍中学校などが地図に記されていました。

    同じく、『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた周りの光景です。この光景は、概ね南方面になるようです。東南方面には中央小学校、東南には忍中学校などが地図に記されていました。

  • 豊臣秀吉による1590年の小田原征伐の一環となる忍城攻めは、石田三成が総大将となりました。その時の水攻めで築かれた堤防の長さは28キロ、秀吉の備中高松城水攻めの4倍以上の長さとされます。忍城の水攻めは、戦国合戦史上において最大規模とされます。当時の書簡などから、水攻めを主導したのは秀吉で、三成はその命に従ったとする説が有力なようです。

    豊臣秀吉による1590年の小田原征伐の一環となる忍城攻めは、石田三成が総大将となりました。その時の水攻めで築かれた堤防の長さは28キロ、秀吉の備中高松城水攻めの4倍以上の長さとされます。忍城の水攻めは、戦国合戦史上において最大規模とされます。当時の書簡などから、水攻めを主導したのは秀吉で、三成はその命に従ったとする説が有力なようです。

  • 『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた南東方面の光景が続きます。三成は、近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築きました。忍城の水責めは、堤防決壊により失敗し、益々攻め難い状況になりました。堤防決壊により、大きな被害を受けたのは、取り囲んだ三成軍でした。

    『模擬御三階櫓』の最上階から眺めた南東方面の光景が続きます。三成は、近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築きました。忍城の水責めは、堤防決壊により失敗し、益々攻め難い状況になりました。堤防決壊により、大きな被害を受けたのは、取り囲んだ三成軍でした。

  • 『模擬御三階櫓』の最上階からの見学を終え、行田市郷土博物館に戻って来ました。その庭の光景です。

    『模擬御三階櫓』の最上階からの見学を終え、行田市郷土博物館に戻って来ました。その庭の光景です。

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