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関東の続百名城巡り、滝山城跡の紹介です。1521年(永正18年)、山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったとされる城です。後に、北条氏康の三男の氏照が娘婿に入り、城を大改修しました。

2018夏、関東の続日本百名城(20/25):8月30日(10):滝山城(1):大手口、天野坂、虎口

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2018/08/29 - 2018/08/30

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旅行記グループ 2018夏、関東の続百名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

関東の続百名城巡り、滝山城跡の紹介です。1521年(永正18年)、山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったとされる城です。後に、北条氏康の三男の氏照が娘婿に入り、城を大改修しました。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • バス駐車場のフェンスに設置してあった『ようこそ滝山城跡へ』のタイトルがあった案内看板の光景です。バックのイラストは、カラフルに描かれた滝山城の縄張図でした。

    バス駐車場のフェンスに設置してあった『ようこそ滝山城跡へ』のタイトルがあった案内看板の光景です。バックのイラストは、カラフルに描かれた滝山城の縄張図でした。

  • 同じく、バス駐車場のフェンス近くに設置してあった大きな石碑の光景です。『道路開通記念・思う一念中央を貫く』の文字が刻まれていました。昭和39年秋(1964年)に建立されたものでした。

    同じく、バス駐車場のフェンス近くに設置してあった大きな石碑の光景です。『道路開通記念・思う一念中央を貫く』の文字が刻まれていました。昭和39年秋(1964年)に建立されたものでした。

  • 滝山城の続日本百名城のスタンプが置いてあった、加住市民センターの建物光景です。駐車場から歩いて5分ほどの距離でしたから、滝山城の見学の前にスタンプを押しに立寄りました。

    滝山城の続日本百名城のスタンプが置いてあった、加住市民センターの建物光景です。駐車場から歩いて5分ほどの距離でしたから、滝山城の見学の前にスタンプを押しに立寄りました。

  • 『滝山三城・観光エリアマップ』のタイトルがあった案内看板の光景です。滝山三城は、滝山城、高月城と根小屋城(戸吹城)の三つです。この日見学したのは、滝山城だけです。高月(たかつき)城は、大石氏の城で、滝山城のルーツとなった城とされます。

    『滝山三城・観光エリアマップ』のタイトルがあった案内看板の光景です。滝山三城は、滝山城、高月城と根小屋城(戸吹城)の三つです。この日見学したのは、滝山城だけです。高月(たかつき)城は、大石氏の城で、滝山城のルーツとなった城とされます。

  • 『ARアプリで蘇る・滝山城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。『ARアプリ』は、デジタル機器、主にスマートフォン上で、カメラなどを用い取り込んだ現実の物や空間に情報を付加提示し、利便性・エンターテイメント性などを与えるアプリケーションのことです。

    『ARアプリで蘇る・滝山城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。『ARアプリ』は、デジタル機器、主にスマートフォン上で、カメラなどを用い取り込んだ現実の物や空間に情報を付加提示し、利便性・エンターテイメント性などを与えるアプリケーションのことです。

  • 『戦国の名城・滝山城跡入口』の表示があった道案内看板の光景です。『滝山城跡文化協会』名での設置看板でした。大石氏の城だった滝山城は、後北条氏の勢力下に入り、北条氏照の時代に八王子城が築かれ、廃城となりました。廃城年は、永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃とされます。

    『戦国の名城・滝山城跡入口』の表示があった道案内看板の光景です。『滝山城跡文化協会』名での設置看板でした。大石氏の城だった滝山城は、後北条氏の勢力下に入り、北条氏照の時代に八王子城が築かれ、廃城となりました。廃城年は、永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃とされます。

  • 『都立・滝山公園』のタイトルがあった説明看板の光景です。多摩川と秋川の合流地点の南側に位置する自然公園であることなどが紹介されていました。桜の名所として知られ、滝山城跡も公園の一部になります。

    『都立・滝山公園』のタイトルがあった説明看板の光景です。多摩川と秋川の合流地点の南側に位置する自然公園であることなどが紹介されていました。桜の名所として知られ、滝山城跡も公園の一部になります。

  • 駐車場の脇から眺めた山側の光景です。滝山城は、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害とされ、かつては関東随一の規模を誇りました。<br />

    駐車場の脇から眺めた山側の光景です。滝山城は、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害とされ、かつては関東随一の規模を誇りました。

  • 壊れてしまった看板ですが、『滝山城址入口』の文字が見えました。現地ガイドさんの説明によれば、大手口の入口だった場所のようです。

    壊れてしまった看板ですが、『滝山城址入口』の文字が見えました。現地ガイドさんの説明によれば、大手口の入口だった場所のようです。

  • 『滝山城址入口』の看板の先は、両側から竹が覆い被さる山道の始まりでした。孟宗竹のようです。『モウソウチク(孟宗竹)』は、アジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種です。種名は冬に母のために寒中筍を掘り採った、三国時代の呉の人物、孟宗に因みます。

    『滝山城址入口』の看板の先は、両側から竹が覆い被さる山道の始まりでした。孟宗竹のようです。『モウソウチク(孟宗竹)』は、アジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種です。種名は冬に母のために寒中筍を掘り採った、三国時代の呉の人物、孟宗に因みます。

  • 通路脇の竹林の中にあった、『史蹟』の文字が刻まれた石標の光景です。『滝山城址』を示しているようでした。孟宗竹は、日本のタケ類の中で最大で、高さ25メートルに達するものもあります。タケノコは大型で肉厚で柔らかく、えぐみが少ないため食用に供されます。

    イチオシ

    通路脇の竹林の中にあった、『史蹟』の文字が刻まれた石標の光景です。『滝山城址』を示しているようでした。孟宗竹は、日本のタケ類の中で最大で、高さ25メートルに達するものもあります。タケノコは大型で肉厚で柔らかく、えぐみが少ないため食用に供されます。

  • 現地ガイドさんが2名でしたから、2班に分かれての杉山城見学となりました。開始早々、中々、骨が折れる急坂登りとなりました。暫くは両側が孟宗竹の間を進みました。<br />

    現地ガイドさんが2名でしたから、2班に分かれての杉山城見学となりました。開始早々、中々、骨が折れる急坂登りとなりました。暫くは両側が孟宗竹の間を進みました。

  • 登山道は舗装道路でしたが、切り立った両側の土手の様相から判断して、元々あった大手道が、観光用に舗装されたもののようでした。

    登山道は舗装道路でしたが、切り立った両側の土手の様相から判断して、元々あった大手道が、観光用に舗装されたもののようでした。

  • 1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が、滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し後北条方は廿里で迎撃しましたが一蹴されました。現在は廿里古戦場と呼ばれる場所です。十十里原古戦場、十々里古戦場とも記されます。

    1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が、滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し後北条方は廿里で迎撃しましたが一蹴されました。現在は廿里古戦場と呼ばれる場所です。十十里原古戦場、十々里古戦場とも記されます。

  • 1569年(永禄12年)10月の戦いでは、後北条軍は廿里防塁跡で武田軍の小山田軍を迎撃しましたが、待ち伏せの奇計を謀った小山田隊に敗北を喫したとされます。この後、武田軍により、滝山城は三の丸まで攻め込まれましたが、辛うじて落城は免れました。後北条方は小仏峠からの侵入を予想していなかったとされ、意表をつかれたようです。

    1569年(永禄12年)10月の戦いでは、後北条軍は廿里防塁跡で武田軍の小山田軍を迎撃しましたが、待ち伏せの奇計を謀った小山田隊に敗北を喫したとされます。この後、武田軍により、滝山城は三の丸まで攻め込まれましたが、辛うじて落城は免れました。後北条方は小仏峠からの侵入を予想していなかったとされ、意表をつかれたようです。

  • かつての防御施設跡らしい場所の光景です。通路の西側が『小宮曲輪』、東側が『三の丸』となる場所付近のようです。1569年(永禄12年)10月の戦いでは、武田軍を辛うじて凌いだものの、北条氏照は、加住丘陵を利用した滝山城は、南からの攻撃に弱点があることを悟ったようです。

    かつての防御施設跡らしい場所の光景です。通路の西側が『小宮曲輪』、東側が『三の丸』となる場所付近のようです。1569年(永禄12年)10月の戦いでは、武田軍を辛うじて凌いだものの、北条氏照は、加住丘陵を利用した滝山城は、南からの攻撃に弱点があることを悟ったようです。

  • 土塁跡らしい小高い場所のズームアップ光景です。北条氏照は、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急ぎ、急峻な深沢山に八王子城を築き、本拠を滝山城から移転しました。その八王子城は、豊臣秀吉の天下取りの前に、1590年(天正18年)の小田原城の戦いの前哨戦で落城しました。その時点で、八王子城はまだ完成していなかったとする説もあります。

    土塁跡らしい小高い場所のズームアップ光景です。北条氏照は、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急ぎ、急峻な深沢山に八王子城を築き、本拠を滝山城から移転しました。その八王子城は、豊臣秀吉の天下取りの前に、1590年(天正18年)の小田原城の戦いの前哨戦で落城しました。その時点で、八王子城はまだ完成していなかったとする説もあります。

  • 険しい登り道が続きます。今年、日本百名城の八王子城を見学しましたが、滝山城はその城跡から見下ろせる場所にありました。八王子城に北条氏照が入ったあとの滝山城主には、家臣の中山家範が城主となったようです。

    険しい登り道が続きます。今年、日本百名城の八王子城を見学しましたが、滝山城はその城跡から見下ろせる場所にありました。八王子城に北条氏照が入ったあとの滝山城主には、家臣の中山家範が城主となったようです。

  • 前方に見えてきた、虎口のような防御施設の遺跡光景です。戦国時代の城ですから、まだ石垣は使われていない虎口のようでした。攻め入る側にとっては、恐怖を覚える難所の一つが見えてきたようです。

    前方に見えてきた、虎口のような防御施設の遺跡光景です。戦国時代の城ですから、まだ石垣は使われていない虎口のようでした。攻め入る側にとっては、恐怖を覚える難所の一つが見えてきたようです。

  • 通路の右手方面に見えていた土塁跡だったようです。先程の縄張り図の拡大図によれば、三の丸の南西面を護る土塁と空堀のようでした。樹木が成長している分は、昔の光景と異なっているようでしたが、保存状態の良い土塁のように見えました。

    通路の右手方面に見えていた土塁跡だったようです。先程の縄張り図の拡大図によれば、三の丸の南西面を護る土塁と空堀のようでした。樹木が成長している分は、昔の光景と異なっているようでしたが、保存状態の良い土塁のように見えました。

  • 『天野坂(あまのざか)から桝形虎口(ますがたこぐち)へ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左の図面が滝山城縄張り図、右がその拡大図です。大手口とされる天野坂の周りの守備施設についての解説でした。拡大図の下には、『城道は現在の園路とは少し違う箇所がある』と紹介されていました。

    『天野坂(あまのざか)から桝形虎口(ますがたこぐち)へ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左の図面が滝山城縄張り図、右がその拡大図です。大手口とされる天野坂の周りの守備施設についての解説でした。拡大図の下には、『城道は現在の園路とは少し違う箇所がある』と紹介されていました。

  • ここで現地ガイドさんは大手道を進まず、土塁下の堀底道を右に曲がって案内されました。滝山城のかつての防御の仕組みが、より分かりやすく見学できるコースのようでした。現地のパンフレットを見ても、『濠底道』の定義がはっきりしませんでしたから、かつての空堀跡で、通路になった場所をすべてを『濠底道』と呼ぶことにしました。

    イチオシ

    ここで現地ガイドさんは大手道を進まず、土塁下の堀底道を右に曲がって案内されました。滝山城のかつての防御の仕組みが、より分かりやすく見学できるコースのようでした。現地のパンフレットを見ても、『濠底道』の定義がはっきりしませんでしたから、かつての空堀跡で、通路になった場所をすべてを『濠底道』と呼ぶことにしました。

  • 現地ガイドさんの先導で、三の丸の周りの堀底道を進む、城巡りツアーに参加の皆さん達です。両手をフリーにするために傘は使えない山道ですから、全員が雨合羽を持参していましたが、幸い、その必要はありませんでした。

    現地ガイドさんの先導で、三の丸の周りの堀底道を進む、城巡りツアーに参加の皆さん達です。両手をフリーにするために傘は使えない山道ですから、全員が雨合羽を持参していましたが、幸い、その必要はありませんでした。

  • 堀底道から見上げた三の丸辺りのの土塁光景です。今は斜面にも樹木の姿がありますが、手掛かりがない状態では、登るのは難しそうな急勾配の土塁でした。確認はできませんでしたが、関東ローム層ならなおさらです。

    堀底道から見上げた三の丸辺りのの土塁光景です。今は斜面にも樹木の姿がありますが、手掛かりがない状態では、登るのは難しそうな急勾配の土塁でした。確認はできませんでしたが、関東ローム層ならなおさらです。

  • 左手が三の丸、その周りの土塁と堀跡の光景です。空堀は少し埋まっているらしく、現在は見学路の一部として使用されているようでした。整備された道ではなく、文字通り山道です。

    イチオシ

    左手が三の丸、その周りの土塁と堀跡の光景です。空堀は少し埋まっているらしく、現在は見学路の一部として使用されているようでした。整備された道ではなく、文字通り山道です。

  • 濠底道の光景が続きます。先程の縄張り図を参照しますと、三の丸から千畳敷の横を通って、二の丸方面に向かうことができるようでした。縄張図を参照しても、どの辺りを歩いているのかは、中々判断が付きませんでした。前方に、直進を妨げるような土塁が見えて来ました。

    濠底道の光景が続きます。先程の縄張り図を参照しますと、三の丸から千畳敷の横を通って、二の丸方面に向かうことができるようでした。縄張図を参照しても、どの辺りを歩いているのかは、中々判断が付きませんでした。前方に、直進を妨げるような土塁が見えて来ました。

  • 堀底道から見上げた、左手の土塁の光景です。堀はすべて『空堀(からぼり)』のようでしたから、パンフレットなども『濠』の文字は使わず『堀』に統一されていました。『空堀』と『水濠』の使い分けのようでした。

    堀底道から見上げた、左手の土塁の光景です。堀はすべて『空堀(からぼり)』のようでしたから、パンフレットなども『濠』の文字は使わず『堀』に統一されていました。『空堀』と『水濠』の使い分けのようでした。

  • 滝山城の遺構としては、本丸、中の丸、千畳敷などの曲輪跡をはじめ、空堀などが保存状態の良い状態で残されています。このため、国史跡に指定されたのは昭和26年(1951年)6月、平成29年(2017年)に続日本百名城の123番に選ばれました。

    滝山城の遺構としては、本丸、中の丸、千畳敷などの曲輪跡をはじめ、空堀などが保存状態の良い状態で残されています。このため、国史跡に指定されたのは昭和26年(1951年)6月、平成29年(2017年)に続日本百名城の123番に選ばれました。

  • 先ほど正面に見えていた土塁が、近くに見えてきました。左側の土塁を三の丸としますと、三の丸の東で、千畳敷の南に位置する曲輪のようでしたが、縄張り図には、名前は記されていませんでした。

    先ほど正面に見えていた土塁が、近くに見えてきました。左側の土塁を三の丸としますと、三の丸の東で、千畳敷の南に位置する曲輪のようでしたが、縄張り図には、名前は記されていませんでした。

  • 濠底道から見上げた周りの土塁の光景です。戦国時代には、守備側からの弓を用いた攻撃の的になった濠底道のようでした。

    濠底道から見上げた周りの土塁の光景です。戦国時代には、守備側からの弓を用いた攻撃の的になった濠底道のようでした。

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