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高野山は空海が開いた真言密教の聖地。今回は三度目か四度目かの訪問ですが、いずれにしても前回の訪問からはかなりしばらくぶり。以前、比叡山の旅では空海と最澄のことに思いを馳せて、日本の仏教史における両巨頭の存在の大きさを改めて感じましたが、ここらでそろそろ高野山でもその思いをもう一度総括してみたいと思った次第。<br />(参考まで:https://4travel.jp/travelogue/11008018)<br /><br /> ただ、正直言えば高野山は、今回も意外に思いを馳せる手がかりが少なかったかなというのが結論。観光地というよりも、まじめな宗教都市といった印象の方が勝っていて、ちょっとさみしい。その感覚はこれまでの高野山の記憶とあまり大きくは違わなかったような気がします。<br /><br /> 例えば、一方の四国霊場巡りと比べるとどうでしょうか。ひたすら八十八か所を訪ねる旅は、意識するしないにかかわらず、「同行二人」に象徴されるように常に空海の存在を感じながらの旅になる。そのあたりがとても自然で楽しい思いになってくるんですけどね。<br /> ところで、密教とはもともと顕教と違って、文字を読んで理解したりするのではなく感じるものとされています。手がかりがないのはその辺りが関係するのかしないのか。拙い知識ですが、少し言わせてもらうと。。<br /> 空海が密教を学んだのは密教がもてはやされていた唐の時代の中国。そのルーツはインドですが、ヒンズー教に圧迫を受けた仏教がヒンズー教の要素を取り入れて仏教の中興を図ったものと言われています。それは、悟りを開くための厳しい修行に象徴される内面的な志向から、生身の人間が生きていくことに対する積極的な肯定。加持祈祷とか即身成仏とか。現世利益の要素が大きいのはそれを色濃く反映しています。<br /> 一方で、それまでの奈良仏教が得意中の得意であった世界観についても、すべての基、究極の存在は大日如来であるとし、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼陀羅によって物質世界と精神世界の関係まで説き示そうとする壮大なもの。特に、それを悟り自分のものとすることで超常現象も思いのままという主張はそれまでの奈良仏教では考えられもしないことだったでしょう。<br /> そして、壮大な世界観に基づく現世利益の実現も最後は感じるべきものとして包み込んでしまうという神秘性。さらには、その密教の力を借りて具体的な奇跡を起こした空海という巨大で圧倒的な存在が、神秘のベールに包まれた密教の真実性をしっかりと担保している。それが真言密教のイメージなんですね。<br /> 空海は、密教に限らず、土木工事や書なども伝説的。遣唐使の一員ではあっても書生という位置づけでしかなかった立場から、唐の密教の第一人者であった長安青龍寺の恵果和尚から灌頂を受けるといったことはまさに奇跡の人としか言いようがない。空海の生涯からは感じるなと言ってもそっちの方が無理なくらいです。<br /> とはいえ、空海は密教を日本に持ち込む際、密教の教えが受け入れられるためには、それなりの荘厳な装置も必要だと自覚していました。東寺の立体曼荼羅もそれを現したもの。密教の世界を広く感じてもらうためにはこうした工夫もなくてはならないものとしていたのですね。<br /><br /> では、始めのモヤモヤに戻ると。たぶん、我々が楽しく感じるのは空海を思う時であって、密教そのものを考えて楽しくなるということではないでしょう。敢えて言ってしまうと、高野山は密教を学び考えるところ。四国霊場は空海を思うところ。こうした違いがあるのではないでしょうか。聖徳太子なんかも同じようなところがあって、我々は聖徳太子が受け入れようとした仏教はどういうものだったのかというより、聖徳太子の人物の方に目が向いてしまいます。聖徳太子信仰が盛んになるのは、こうした人情に負うところが大きいでしょう。蛇足ですが、例えば思想よりも個人崇拝で人々を縛る北朝鮮も、そういった人間の心をよく分かっているのかもしれません。<br /><br /> なお、高野山の荘厳な装置の中心は壇上伽藍。根本大塔を含め金堂など19の建造物が集まる一段高くなったエリア。弘法大師御廟のある奥の院と並ぶ高野山の二大聖地です。根本大塔の内部は有料ですが、それ以外は自由に拝観可。それぞれのお堂等には案内板もあるので、一つ一つチェックしてみたいと思います。 <br /><br />

渥美半島の田原祭りから岸和田のだんぢり祭りと高野山の旅(三日目完)~空海の開いた天空の宗教都市。今でも色あせることのない真言密教の聖地です~

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2018/09/17 - 2018/09/17

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たびたび

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2018/09/17

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高野山は空海が開いた真言密教の聖地。今回は三度目か四度目かの訪問ですが、いずれにしても前回の訪問からはかなりしばらくぶり。以前、比叡山の旅では空海と最澄のことに思いを馳せて、日本の仏教史における両巨頭の存在の大きさを改めて感じましたが、ここらでそろそろ高野山でもその思いをもう一度総括してみたいと思った次第。
(参考まで:https://4travel.jp/travelogue/11008018

 ただ、正直言えば高野山は、今回も意外に思いを馳せる手がかりが少なかったかなというのが結論。観光地というよりも、まじめな宗教都市といった印象の方が勝っていて、ちょっとさみしい。その感覚はこれまでの高野山の記憶とあまり大きくは違わなかったような気がします。

 例えば、一方の四国霊場巡りと比べるとどうでしょうか。ひたすら八十八か所を訪ねる旅は、意識するしないにかかわらず、「同行二人」に象徴されるように常に空海の存在を感じながらの旅になる。そのあたりがとても自然で楽しい思いになってくるんですけどね。
 ところで、密教とはもともと顕教と違って、文字を読んで理解したりするのではなく感じるものとされています。手がかりがないのはその辺りが関係するのかしないのか。拙い知識ですが、少し言わせてもらうと。。
 空海が密教を学んだのは密教がもてはやされていた唐の時代の中国。そのルーツはインドですが、ヒンズー教に圧迫を受けた仏教がヒンズー教の要素を取り入れて仏教の中興を図ったものと言われています。それは、悟りを開くための厳しい修行に象徴される内面的な志向から、生身の人間が生きていくことに対する積極的な肯定。加持祈祷とか即身成仏とか。現世利益の要素が大きいのはそれを色濃く反映しています。
 一方で、それまでの奈良仏教が得意中の得意であった世界観についても、すべての基、究極の存在は大日如来であるとし、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼陀羅によって物質世界と精神世界の関係まで説き示そうとする壮大なもの。特に、それを悟り自分のものとすることで超常現象も思いのままという主張はそれまでの奈良仏教では考えられもしないことだったでしょう。
 そして、壮大な世界観に基づく現世利益の実現も最後は感じるべきものとして包み込んでしまうという神秘性。さらには、その密教の力を借りて具体的な奇跡を起こした空海という巨大で圧倒的な存在が、神秘のベールに包まれた密教の真実性をしっかりと担保している。それが真言密教のイメージなんですね。
 空海は、密教に限らず、土木工事や書なども伝説的。遣唐使の一員ではあっても書生という位置づけでしかなかった立場から、唐の密教の第一人者であった長安青龍寺の恵果和尚から灌頂を受けるといったことはまさに奇跡の人としか言いようがない。空海の生涯からは感じるなと言ってもそっちの方が無理なくらいです。
 とはいえ、空海は密教を日本に持ち込む際、密教の教えが受け入れられるためには、それなりの荘厳な装置も必要だと自覚していました。東寺の立体曼荼羅もそれを現したもの。密教の世界を広く感じてもらうためにはこうした工夫もなくてはならないものとしていたのですね。

 では、始めのモヤモヤに戻ると。たぶん、我々が楽しく感じるのは空海を思う時であって、密教そのものを考えて楽しくなるということではないでしょう。敢えて言ってしまうと、高野山は密教を学び考えるところ。四国霊場は空海を思うところ。こうした違いがあるのではないでしょうか。聖徳太子なんかも同じようなところがあって、我々は聖徳太子が受け入れようとした仏教はどういうものだったのかというより、聖徳太子の人物の方に目が向いてしまいます。聖徳太子信仰が盛んになるのは、こうした人情に負うところが大きいでしょう。蛇足ですが、例えば思想よりも個人崇拝で人々を縛る北朝鮮も、そういった人間の心をよく分かっているのかもしれません。

 なお、高野山の荘厳な装置の中心は壇上伽藍。根本大塔を含め金堂など19の建造物が集まる一段高くなったエリア。弘法大師御廟のある奥の院と並ぶ高野山の二大聖地です。根本大塔の内部は有料ですが、それ以外は自由に拝観可。それぞれのお堂等には案内板もあるので、一つ一つチェックしてみたいと思います。 

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  • 今回の高野山観光では九度山に前泊しました。夜のうちに高野山に入るのも考えたんですが、時間的にはここまで来るのがやっとなんですよね。<br />宿はくどやま旅館玉川亭。九度山駅からは歩いて数分ですが、夜だと分かりにくいだろうということで、九度山駅に宿の人が迎えに来てくれていました。

    今回の高野山観光では九度山に前泊しました。夜のうちに高野山に入るのも考えたんですが、時間的にはここまで来るのがやっとなんですよね。
    宿はくどやま旅館玉川亭。九度山駅からは歩いて数分ですが、夜だと分かりにくいだろうということで、九度山駅に宿の人が迎えに来てくれていました。

  • 古民家をそのまま利用したような宿で、ご主人に鍵を渡されて、誰もいない家屋で一人就寝。いろんな宿がありますけど、なかなかない体験ですね。広間に悠々と言う感じでしたが、部屋の隅の方にはほこりがたまっているし、気になる人からするととんでもないかも。その辺りはもう少し改善した方がいいかなと思います。

    古民家をそのまま利用したような宿で、ご主人に鍵を渡されて、誰もいない家屋で一人就寝。いろんな宿がありますけど、なかなかない体験ですね。広間に悠々と言う感じでしたが、部屋の隅の方にはほこりがたまっているし、気になる人からするととんでもないかも。その辺りはもう少し改善した方がいいかなと思います。

  • 翌朝の玉川亭。鍵を置いて、このまま出発です。

    翌朝の玉川亭。鍵を置いて、このまま出発です。

  • 九度山駅から高野山に向かいたいところなんですが、実は、直近の暴風雨で鉄道は不通になっている。橋本駅まで帰って、そこから臨時のバス便で向かうことになりました。<br />7月は洪水にも見舞われて、今度は暴風雨。この辺りは散々な目に合っています。

    九度山駅から高野山に向かいたいところなんですが、実は、直近の暴風雨で鉄道は不通になっている。橋本駅まで帰って、そこから臨時のバス便で向かうことになりました。
    7月は洪水にも見舞われて、今度は暴風雨。この辺りは散々な目に合っています。

  • 橋本からの臨時バスで高野山駅へ。そこでバスを乗り換えて、奥の院に到着です。<br />中の橋駐車場は、バス停、奥の院前の正面。かなり広い駐車場です。ここに駐車して奥の院に向かうのが一番近いんですが、その後の散策だと、一の橋の方に抜けて、そのまま金剛峰寺の方まで歩きたいところ。そこから高野山山内バスでここまで帰ってくれば効率的だと思います。

    橋本からの臨時バスで高野山駅へ。そこでバスを乗り換えて、奥の院に到着です。
    中の橋駐車場は、バス停、奥の院前の正面。かなり広い駐車場です。ここに駐車して奥の院に向かうのが一番近いんですが、その後の散策だと、一の橋の方に抜けて、そのまま金剛峰寺の方まで歩きたいところ。そこから高野山山内バスでここまで帰ってくれば効率的だと思います。

  • 私は、高野山奥の院へはここから歩きます。<br />一の橋からだと2キロくらいあるので、このルートが一番の近道でしょう。<br />

    私は、高野山奥の院へはここから歩きます。
    一の橋からだと2キロくらいあるので、このルートが一番の近道でしょう。

  • 例の杉並木を抜けて、弘法大師御廟に向かうのですが、最初はこんな感じ。

    例の杉並木を抜けて、弘法大師御廟に向かうのですが、最初はこんな感じ。

  • 石畳の広くて歩きやすい道路です。

    石畳の広くて歩きやすい道路です。

  • ほどなく、これは英霊殿。<br />この赤い社殿のような建物は、大東亜戦争の犠牲者を祀る施設。高野山はそうでなくても墓だらけの場所ですが、やはりこの戦争の犠牲者の数はけた違い。特別な施設を作るべきと考えるのは当然だと思います。

    ほどなく、これは英霊殿。
    この赤い社殿のような建物は、大東亜戦争の犠牲者を祀る施設。高野山はそうでなくても墓だらけの場所ですが、やはりこの戦争の犠牲者の数はけた違い。特別な施設を作るべきと考えるのは当然だと思います。

  • さて、杉並木の道に入ってきました。今日は天気が良くて、いい雰囲気なんですが、昨日の祭りでカメラが壊れたので、こんなピンボケ写真しか撮れません。うーん、残念。

    さて、杉並木の道に入ってきました。今日は天気が良くて、いい雰囲気なんですが、昨日の祭りでカメラが壊れたので、こんなピンボケ写真しか撮れません。うーん、残念。

  • 大名の大きな墓石の迫力もすごいんですけどね。

    イチオシ

    大名の大きな墓石の迫力もすごいんですけどね。

  • 直前の暴風雨の跡がやっぱりひどくて、こんな光景も。爪痕が想像以上に深くて、ちょっと異常な感じ。これも地球温暖化の影響なんでしょうか。

    直前の暴風雨の跡がやっぱりひどくて、こんな光景も。爪痕が想像以上に深くて、ちょっと異常な感じ。これも地球温暖化の影響なんでしょうか。

  • 奥の院に到着したようですね。

    奥の院に到着したようですね。

  • 頌徳殿は、奥の院の弘法大師御廟の手前のエリア。

    頌徳殿は、奥の院の弘法大師御廟の手前のエリア。

  • 中には長椅子がいくつか置かれていて、休憩所として使えるありがたい場所。とっても静かです。<br />一方で、ここでは法話も行われるよう。それを目当てというのは難しいかもしれませんが、やっていれば聞いてみるくらいの感じでいいかもしれません。

    中には長椅子がいくつか置かれていて、休憩所として使えるありがたい場所。とっても静かです。
    一方で、ここでは法話も行われるよう。それを目当てというのは難しいかもしれませんが、やっていれば聞いてみるくらいの感じでいいかもしれません。

  • これは、水向け地蔵。御廟橋のたもとです。<br />並んでいるのは地蔵様だけではなくて、観音や不動なんかもいらっしゃいますね。お供所で水向塔婆を求めてここの納めるんだそう。ひしゃくがいっぱい並んでいますが、ただ、このひしゃくはその塔婆に水をかけるためのもので地蔵にかけるためではないようです。念のため。

    これは、水向け地蔵。御廟橋のたもとです。
    並んでいるのは地蔵様だけではなくて、観音や不動なんかもいらっしゃいますね。お供所で水向塔婆を求めてここの納めるんだそう。ひしゃくがいっぱい並んでいますが、ただ、このひしゃくはその塔婆に水をかけるためのもので地蔵にかけるためではないようです。念のため。

  • この御廟橋は、弘法大師廟所に向かう手前の最後の橋です。石造りの橋はまだ新しい感じなので橋自体に迫力はないのですが、がっちりと精巧に作られたことは窺えます。表面はなめらかだし、渡るのに苦もない。あくまで廟所に導くための機能重視の橋でしょう。<br />奥にチラリと見えているのは弘法大師御廟。弘法大師空海のお墓であり、奥の院の中心です。御廟橋を渡ると撮影禁止のエリアになるので、御廟橋の手前から写真を撮る。これがギリギリの線でしょう。<br />ちなみに、廟所の中は薄暗いですが、奥には灯籠に照らされた空間があって、弘法大師がまだそこで修業をしているといったことなんでしょうか。厳かな雰囲気でいっぱいの聖域。延暦寺にも不滅の法灯というのがあって、似たような雰囲気があるのですが、やっぱり本家はこっちの方ではないかなと思います。<br />

    この御廟橋は、弘法大師廟所に向かう手前の最後の橋です。石造りの橋はまだ新しい感じなので橋自体に迫力はないのですが、がっちりと精巧に作られたことは窺えます。表面はなめらかだし、渡るのに苦もない。あくまで廟所に導くための機能重視の橋でしょう。
    奥にチラリと見えているのは弘法大師御廟。弘法大師空海のお墓であり、奥の院の中心です。御廟橋を渡ると撮影禁止のエリアになるので、御廟橋の手前から写真を撮る。これがギリギリの線でしょう。
    ちなみに、廟所の中は薄暗いですが、奥には灯籠に照らされた空間があって、弘法大師がまだそこで修業をしているといったことなんでしょうか。厳かな雰囲気でいっぱいの聖域。延暦寺にも不滅の法灯というのがあって、似たような雰囲気があるのですが、やっぱり本家はこっちの方ではないかなと思います。

  • ここから一の橋の方に戻りましょう。<br />奥の院への参道は、一の橋から中の橋を通って行くこっちのルートが正式なルートですからね。<br />中の橋は、そのルートのちょうど中間あたり。コンクリートの橋ですから、御廟橋のようにお金をかけたものではないと思います。

    ここから一の橋の方に戻りましょう。
    奥の院への参道は、一の橋から中の橋を通って行くこっちのルートが正式なルートですからね。
    中の橋は、そのルートのちょうど中間あたり。コンクリートの橋ですから、御廟橋のようにお金をかけたものではないと思います。

  • 傍らに汗かき地蔵のお堂が建っていて。。<br />汗かきというのは、人々の苦しみの身代わりになって、一身に受けているので、汗をかいているということなんだそう。傍らに姿見の井戸というのもあって、こちらはこの井戸を覗いて自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうという井戸。セットで説明板がありました。

    傍らに汗かき地蔵のお堂が建っていて。。
    汗かきというのは、人々の苦しみの身代わりになって、一身に受けているので、汗をかいているということなんだそう。傍らに姿見の井戸というのもあって、こちらはこの井戸を覗いて自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうという井戸。セットで説明板がありました。

  • 高野山町石道は、高野山へ向かう七つの街道を言うようですが、道しるべとなる町石が見どころ。<br />町石は一町ごとに建てられていて、あちこちで見れると思ったのですが、結局、壇上伽藍の南側ともう一つは一の橋から奥の院に向かう途中のこの町石しか分かりませんでした。道しるべとしての高さがしっかりあるのと異様に苔むしている姿が印象的です。

    高野山町石道は、高野山へ向かう七つの街道を言うようですが、道しるべとなる町石が見どころ。
    町石は一町ごとに建てられていて、あちこちで見れると思ったのですが、結局、壇上伽藍の南側ともう一つは一の橋から奥の院に向かう途中のこの町石しか分かりませんでした。道しるべとしての高さがしっかりあるのと異様に苔むしている姿が印象的です。

  • 一の橋に出てきました。<br />車の通りからすぐのところに架かっています。参道の出発点といった位置づけでしから、幅も広いし、石造りのしっかりした構造。表玄関の顔というに相応しい立派な橋です。

    一の橋に出てきました。
    車の通りからすぐのところに架かっています。参道の出発点といった位置づけでしから、幅も広いし、石造りのしっかりした構造。表玄関の顔というに相応しい立派な橋です。

  • ここから高野山の市街を散策します。<br />ということで、まずは宝善院から。<br />山門から入って奥の方にどんどん入って行くと

    ここから高野山の市街を散策します。
    ということで、まずは宝善院から。
    山門から入って奥の方にどんどん入って行くと

  • 日本庭園が現れまして、それが小堀遠州作と伝えられる庭。限られたスペースに造られていますが、池を中心に蓬莱山と鶴島亀島を配して、コンパクトにまとまっています。池を囲む立石がしっかりしているのも見どころです。

    イチオシ

    日本庭園が現れまして、それが小堀遠州作と伝えられる庭。限られたスペースに造られていますが、池を中心に蓬莱山と鶴島亀島を配して、コンパクトにまとまっています。池を囲む立石がしっかりしているのも見どころです。

  • 続いては、熊谷寺。その名から分かる通り、熊谷直実ゆかりの寺。

    続いては、熊谷寺。その名から分かる通り、熊谷直実ゆかりの寺。

  • 一の谷の戦いで討った平敦盛の7回忌の追善法要をここで営み、石碑を収めたということです。<br />山門手前に七福神の一つ、恵比寿のお堂があって、

    一の谷の戦いで討った平敦盛の7回忌の追善法要をここで営み、石碑を収めたということです。
    山門手前に七福神の一つ、恵比寿のお堂があって、

  • その前に熊谷直実の僧姿の石像が建っています。

    その前に熊谷直実の僧姿の石像が建っています。

  • 山門から入ると奥へと順路があって、山の上に少し上がると本堂です。こちらは特にどうということはありません。

    山門から入ると奥へと順路があって、山の上に少し上がると本堂です。こちらは特にどうということはありません。

  • 苅萱堂は、高野山では人気上位のスポット。<br />出家した武士、苅萱道心とその息子石道丸にまつわる物語は、歌舞伎や浄瑠璃でも演じられたほど。

    苅萱堂は、高野山では人気上位のスポット。
    出家した武士、苅萱道心とその息子石道丸にまつわる物語は、歌舞伎や浄瑠璃でも演じられたほど。

  • 堂内にはその場面場面を描いた絵が並んでいて、物語の概要を紹介しています。<br />正妻と妾の争いから世を捨てた苅萱道心。親を慕って高野山を訪ねてきた息子に対し、出家の誓いから、親であることの名乗りができないまま、息子石道丸を弟子に迎え、共に仏に仕える物語は、しかし、何を教えるものなのでしょうか。少し、現代人にとっては分かりにくい点がないことはないのですが、親子の情の深さ、せつなさとかは十分に理解できるように思いました。

    イチオシ

    堂内にはその場面場面を描いた絵が並んでいて、物語の概要を紹介しています。
    正妻と妾の争いから世を捨てた苅萱道心。親を慕って高野山を訪ねてきた息子に対し、出家の誓いから、親であることの名乗りができないまま、息子石道丸を弟子に迎え、共に仏に仕える物語は、しかし、何を教えるものなのでしょうか。少し、現代人にとっては分かりにくい点がないことはないのですが、親子の情の深さ、せつなさとかは十分に理解できるように思いました。

  • 朝早くからやっているこちらは、麩善。<br />一個からでもOKということで、

    朝早くからやっているこちらは、麩善。
    一個からでもOKということで、

  • 店内の腰掛に座って、出来立ての麩饅頭をいただきました。ちょっと小ぶりで、つるんとした食感。甘さはちょっと控えめですが、その分、生麩のおいしさがストレートに伝わってきます。

    店内の腰掛に座って、出来立ての麩饅頭をいただきました。ちょっと小ぶりで、つるんとした食感。甘さはちょっと控えめですが、その分、生麩のおいしさがストレートに伝わってきます。

  • 再び高野山のメインストリートを進んで。これは、成福院 摩尼宝塔。八角形の端正な建物がけっこう目立っています。<br />

    再び高野山のメインストリートを進んで。これは、成福院 摩尼宝塔。八角形の端正な建物がけっこう目立っています。

  • 内部は自由拝観可。資料館となっていて、展示品は太平洋戦争におけるビルマ戦線の遺品。ビルマのインパール作戦は、太平洋戦争の中でも屈指の無謀な作戦であり、多くの悲劇を生んだ戦い。一人の作戦立案者が強引に進めたことが分かっているのですが、その暴走を止められなかった軍の構造、人間関係なども大いに反省すべき点とされています。牟田口廉也中将というのですが、作戦遂行のためには兵士が何人死のうが関係ないという狂った感覚。それでいて、戦後、その罪をきちんとはあがなってはいない。こういう人物こそ厳しく処断されるべきだったんですが。。<br />美しい仏画などもあって、一見穏やかな風ですが、その伝えんとする内容はとても重たいものです。

    内部は自由拝観可。資料館となっていて、展示品は太平洋戦争におけるビルマ戦線の遺品。ビルマのインパール作戦は、太平洋戦争の中でも屈指の無謀な作戦であり、多くの悲劇を生んだ戦い。一人の作戦立案者が強引に進めたことが分かっているのですが、その暴走を止められなかった軍の構造、人間関係なども大いに反省すべき点とされています。牟田口廉也中将というのですが、作戦遂行のためには兵士が何人死のうが関係ないという狂った感覚。それでいて、戦後、その罪をきちんとはあがなってはいない。こういう人物こそ厳しく処断されるべきだったんですが。。
    美しい仏画などもあって、一見穏やかな風ですが、その伝えんとする内容はとても重たいものです。

  • 高野山の市街に建つ大円院の境内。

    高野山の市街に建つ大円院の境内。

  • 山門を入ってすぐのところに横笛鶯梅の井というのがあって、石の標識とその井戸がありました。これが横笛の恋塚の関係だと思います。<br />

    山門を入ってすぐのところに横笛鶯梅の井というのがあって、石の標識とその井戸がありました。これが横笛の恋塚の関係だと思います。

  • ちなみに、大円院は、宿坊。建物の中には、たぶんこれも横笛の関係の美しい障壁画が見えてとても気になりました。是非見せてもらいたかったのですが、それは宿泊者だけに見せているということでした。

    ちなみに、大円院は、宿坊。建物の中には、たぶんこれも横笛の関係の美しい障壁画が見えてとても気になりました。是非見せてもらいたかったのですが、それは宿泊者だけに見せているということでした。

  • ちょっと気分を変えて、ここから少しグルメチェック。<br />かさ國というよりもみろく石のお店。大通りに面した大きな店舗です。看板商品の「みろく石」は奥の院にある石で持ち上げて軽く感じると願いが叶うというような石のようです。

    ちょっと気分を変えて、ここから少しグルメチェック。
    かさ國というよりもみろく石のお店。大通りに面した大きな店舗です。看板商品の「みろく石」は奥の院にある石で持ち上げて軽く感じると願いが叶うというような石のようです。

  • このお菓子も見た目は石の形風。しっかり焼いた皮に餡子の甘わいさが水飴のような何か隠し味がよく効いた艶やかな味。店内にはゆったりセルフサービスのお茶が飲める休憩スペースもあります。

    このお菓子も見た目は石の形風。しっかり焼いた皮に餡子の甘わいさが水飴のような何か隠し味がよく効いた艶やかな味。店内にはゆったりセルフサービスのお茶が飲める休憩スペースもあります。

  • 濱田屋は、大通りから脇道に入って奥まった場所にあるごまどうふのお店。ちょっと気が付きにくい場所にあるのですが、皆さんよく御存じですね。<br />

    濱田屋は、大通りから脇道に入って奥まった場所にあるごまどうふのお店。ちょっと気が付きにくい場所にあるのですが、皆さんよく御存じですね。

  • 店内でわさび醤油の一皿をいただきました。ごまどうふは白ごまをよくすりつぶして吉野葛でかためたもの。正直、これ自体おいしいというものではないのですが、体にはとってもよさそうです。

    店内でわさび醤油の一皿をいただきました。ごまどうふは白ごまをよくすりつぶして吉野葛でかためたもの。正直、これ自体おいしいというものではないのですが、体にはとってもよさそうです。

  • 森下商店総本舗は、千手院橋交差点にもほど近い賑やかな場所。ゴマ豆腐の専門店です。ゴマ豆腐はゴマのエキスを葛で固めたもの。精進料理とかでは定番だし、高野山の名物です。<br />ただ、ここはテイクアウトだけ。ちょこっと食べてみるのはできないので、それをするならさっきの濱田屋の方をお勧めします。

    森下商店総本舗は、千手院橋交差点にもほど近い賑やかな場所。ゴマ豆腐の専門店です。ゴマ豆腐はゴマのエキスを葛で固めたもの。精進料理とかでは定番だし、高野山の名物です。
    ただ、ここはテイクアウトだけ。ちょこっと食べてみるのはできないので、それをするならさっきの濱田屋の方をお勧めします。

  • 高野山宿坊協会は、千手院橋交差点角。宿坊の紹介だけじゃなくて、観光案内もちょこっとやっていて、私は高野山山内バスの時刻表をもらいました。時間を有効に使うためには必須アイテム。大門前から高野山駅まで帰るのに時間が分かっているので安心して観光ができました。

    高野山宿坊協会は、千手院橋交差点角。宿坊の紹介だけじゃなくて、観光案内もちょこっとやっていて、私は高野山山内バスの時刻表をもらいました。時間を有効に使うためには必須アイテム。大門前から高野山駅まで帰るのに時間が分かっているので安心して観光ができました。

  • ここから女人堂の方に向かいます。<br />浪切不動尊は、その途中。

    ここから女人堂の方に向かいます。
    浪切不動尊は、その途中。

  • 弘法大師が自ら彫ったと伝わるる浪切不動明王が本尊です。境内は悠々とした広さ。本尊は普段は非公開ですが、

    弘法大師が自ら彫ったと伝わるる浪切不動明王が本尊です。境内は悠々とした広さ。本尊は普段は非公開ですが、

  • 本堂に上がってすぐの天井に龍の絵が描かれてけっこう見事。それを拝ませてもらって、ちょっと納得しました。

    本堂に上がってすぐの天井に龍の絵が描かれてけっこう見事。それを拝ませてもらって、ちょっと納得しました。

  • さらに進んで、これは徳川家霊台。バス道路から少し脇道に入ります。<br />

    さらに進んで、これは徳川家霊台。バス道路から少し脇道に入ります。

  • ここは、珍しく有料の施設。がっちりした石垣を登った先に徳川家康と徳川秀忠を祀る霊廟が二つ建っていました。

    ここは、珍しく有料の施設。がっちりした石垣を登った先に徳川家康と徳川秀忠を祀る霊廟が二つ建っていました。

  • 少し古びていますが、豪華な意匠は日光にも匹敵するような。

    イチオシ

    少し古びていますが、豪華な意匠は日光にも匹敵するような。

  • あまり有名ではないかもしれませんが、時間が合えば見る価値はあるかなと思います。

    あまり有名ではないかもしれませんが、時間が合えば見る価値はあるかなと思います。

  • さて、女人堂に到着です。<br />高野山には七つの登り口があり、それが高野七口(こうやななくち)。明治5年に女人禁制が解かれるまでは、女性の立ち入りはできなかったので、そのために、各登り口には女性のための参籠所が設けられていました。それが女人堂。その女人堂で唯一残っているのがこれなんですね。<br />けっこう参拝者が多くて、線香の煙も絶えません。

    さて、女人堂に到着です。
    高野山には七つの登り口があり、それが高野七口(こうやななくち)。明治5年に女人禁制が解かれるまでは、女性の立ち入りはできなかったので、そのために、各登り口には女性のための参籠所が設けられていました。それが女人堂。その女人堂で唯一残っているのがこれなんですね。
    けっこう参拝者が多くて、線香の煙も絶えません。

  • 裏側には、高野七口の雰囲気の残る小道があって、

    裏側には、高野七口の雰囲気の残る小道があって、

  • 向かいには、お竹地蔵尊。山の斜面の中腹に建つ大きなお地蔵様です。<br />建てたのが横山竹さんというおばあさんで、名前はそこから。年期奉公して蓄えたお金で、安政の大地震で亡くなられた人々のために建てられたということです。青銅色がちょっと美しい。今でも光を失っていないように感じます。

    向かいには、お竹地蔵尊。山の斜面の中腹に建つ大きなお地蔵様です。
    建てたのが横山竹さんというおばあさんで、名前はそこから。年期奉公して蓄えたお金で、安政の大地震で亡くなられた人々のために建てられたということです。青銅色がちょっと美しい。今でも光を失っていないように感じます。

  • さて、再び中心部に帰ってきました。<br />お昼は、花菱へ。

    さて、再び中心部に帰ってきました。
    お昼は、花菱へ。

  • 大通り沿いのちょっと雰囲気のある精進料理のお店です。<br />

    大通り沿いのちょっと雰囲気のある精進料理のお店です。

  • いただいたのは「日々好日弁当」2000円。精進料理と言っても、肉や魚も入っていて、現代版ほどほどの精進料理。食前に小さなおひがしが出てきて、これも心がほっこり安らぎました。

    イチオシ

    いただいたのは「日々好日弁当」2000円。精進料理と言っても、肉や魚も入っていて、現代版ほどほどの精進料理。食前に小さなおひがしが出てきて、これも心がほっこり安らぎました。

  • ここから、金剛峯寺の周辺へ。<br />天徳院は、金剛峯寺の南側。前田利常の正室、珠姫。徳川秀忠の二女の菩提寺です。

    ここから、金剛峯寺の周辺へ。
    天徳院は、金剛峯寺の南側。前田利常の正室、珠姫。徳川秀忠の二女の菩提寺です。

  • その庭園は小堀遠州が手がけた庭園で、国の名勝にも指定されているのですが、拝観を申し込むと宿坊の利用者にだけ見せているのだそう。名勝であれば、もっと広く公開する義務があると思うのですが、そこは仕方がないんでしょうかね。境内は悠々と広くて、庭園の方も期待が持てそうな感じはしました。

    その庭園は小堀遠州が手がけた庭園で、国の名勝にも指定されているのですが、拝観を申し込むと宿坊の利用者にだけ見せているのだそう。名勝であれば、もっと広く公開する義務があると思うのですが、そこは仕方がないんでしょうかね。境内は悠々と広くて、庭園の方も期待が持てそうな感じはしました。

  • 六時の鐘は、金剛峰寺前の駐車場からよく見える場所。ただ、高い石垣の上にあるので、鐘楼ははっきり分かりますが、鐘はよくみえません。<br />これは福島正則が両親の菩提を弔うために建立したもの。今も現役で、午前6時から午後10時までの偶数時に時刻を知らせます。

    六時の鐘は、金剛峰寺前の駐車場からよく見える場所。ただ、高い石垣の上にあるので、鐘楼ははっきり分かりますが、鐘はよくみえません。
    これは福島正則が両親の菩提を弔うために建立したもの。今も現役で、午前6時から午後10時までの偶数時に時刻を知らせます。

  • ここから金剛峰寺に入ります。

    ここから金剛峰寺に入ります。

  • 金剛峯寺は、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜り、この山に真言密教の道場を開いたもの。高野山真言宗の総本山です。

    金剛峯寺は、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜り、この山に真言密教の道場を開いたもの。高野山真言宗の総本山です。

  • 高野山は、標高約800m。そこに100か寺以上の寺院が密集する、今でも現役の宗教都市なのですが、その中心にあって高野山全体と同じ意味も表わします。

    高野山は、標高約800m。そこに100か寺以上の寺院が密集する、今でも現役の宗教都市なのですが、その中心にあって高野山全体と同じ意味も表わします。

  • 現在の建物は、文禄2年、豊臣秀吉が母親の菩提のため建立したもの。

    現在の建物は、文禄2年、豊臣秀吉が母親の菩提のため建立したもの。

  • 何度か見ていたはずなんですが、こんなに大きかったかなあ。改めて、その豪壮な構えの当方もない大きさに気が付きました。

    イチオシ

    何度か見ていたはずなんですが、こんなに大きかったかなあ。改めて、その豪壮な構えの当方もない大きさに気が付きました。

  • いくつかの見どころがあるのですが、その一つ蟠龍庭は、金剛峰寺の裏手。<br />

    いくつかの見どころがあるのですが、その一つ蟠龍庭は、金剛峰寺の裏手。

  • 奥殿を囲むように造られ、その広さ5000坪。勅使門の左右に雄龍と雌龍を配する枯山水の庭園です。

    イチオシ

    奥殿を囲むように造られ、その広さ5000坪。勅使門の左右に雄龍と雌龍を配する枯山水の庭園です。

  • 日本最大級という規模の大きさがウリのようですが、金剛峰寺はすべてが大きいので、この庭だけが特に巨大とは感じない。むしろ、この規模によってやっと全体としてのバランスが取れたということかと思います。

    日本最大級という規模の大きさがウリのようですが、金剛峰寺はすべてが大きいので、この庭だけが特に巨大とは感じない。むしろ、この規模によってやっと全体としてのバランスが取れたということかと思います。

  • そして、前回と同じく、拝観者が休憩できる大広間で、お茶と干菓子をいただいたり。

    そして、前回と同じく、拝観者が休憩できる大広間で、お茶と干菓子をいただいたり。

  • 皆さん思い思いに体を休ませていらっしゃいます。<br />いつもながら、こうした立派な施設が惜しげもなく参詣者に提供されて、おもてなしの心を感じます。

    皆さん思い思いに体を休ませていらっしゃいます。
    いつもながら、こうした立派な施設が惜しげもなく参詣者に提供されて、おもてなしの心を感じます。

  • 金剛峰寺を終えて。<br />常喜院の入口は、金剛峰寺前の駐車場に面する位置。地蔵堂の地蔵仏は国宝のはずなんですが、ここは宿坊。

    金剛峰寺を終えて。
    常喜院の入口は、金剛峰寺前の駐車場に面する位置。地蔵堂の地蔵仏は国宝のはずなんですが、ここは宿坊。

  • 宿泊者が出入りしていましたが、ちょっと拝観を申し込むような雰囲気ではない。山門から玄関、境内の奥の方に向けてはきれいに掃き清められているといった感じがあるだけ。寺の雰囲気を確認して退散しました。

    宿泊者が出入りしていましたが、ちょっと拝観を申し込むような雰囲気ではない。山門から玄関、境内の奥の方に向けてはきれいに掃き清められているといった感じがあるだけ。寺の雰囲気を確認して退散しました。

  • 少し進んで、高野山大師教会。門から奥を眺めると新興宗教のような巨大な建物が見えます。

    少し進んで、高野山大師教会。門から奥を眺めると新興宗教のような巨大な建物が見えます。

  • 祈祷をお願いするところのようですが、私はセット券を買っていたので拝観のみ。

    祈祷をお願いするところのようですが、私はセット券を買っていたので拝観のみ。

  • 祈祷を行う本堂のような建物の中に入って、その悠々とした広さを楽しみました。

    祈祷を行う本堂のような建物の中に入って、その悠々とした広さを楽しみました。

  • そして、これは高野山霊宝館。高野山に伝わる文化財を収めた博物館。所蔵は、国宝21件、重要文化財142件という充実度です。<br />圧倒的に人気なのは、国宝「木造八大童子立像」。この八大童子は、不動明王に使える使者。不動明王より出生し、仏の智恵である四智と、金剛界大日如来の周りを取り囲む四波羅蜜菩薩の役割を司るとされています。八体あるのですが、全てを揃ってみることはなかなかできません。<br />ずいぶん昔ですが、大阪で開かれた展覧会で見たことがあり、その後、前回ここに来た時は1体。恵喜(えき)童子を拝観しました。八大童子は鎌倉時代運慶の作。先般、東京国立博物館でまた拝顔しましたが、改めてその素晴らしさに感じ入りました。<br />ちなみに、今回、八大童子の展示はなし。残念だったのですが、この日のメインは絹本著色五大力菩薩像。密教の絵画らしいパワーを感じる仏画。インドでもない、中国でもない、これもやっぱり高野山の気風なのかなと思いました。

    そして、これは高野山霊宝館。高野山に伝わる文化財を収めた博物館。所蔵は、国宝21件、重要文化財142件という充実度です。
    圧倒的に人気なのは、国宝「木造八大童子立像」。この八大童子は、不動明王に使える使者。不動明王より出生し、仏の智恵である四智と、金剛界大日如来の周りを取り囲む四波羅蜜菩薩の役割を司るとされています。八体あるのですが、全てを揃ってみることはなかなかできません。
    ずいぶん昔ですが、大阪で開かれた展覧会で見たことがあり、その後、前回ここに来た時は1体。恵喜(えき)童子を拝観しました。八大童子は鎌倉時代運慶の作。先般、東京国立博物館でまた拝顔しましたが、改めてその素晴らしさに感じ入りました。
    ちなみに、今回、八大童子の展示はなし。残念だったのですが、この日のメインは絹本著色五大力菩薩像。密教の絵画らしいパワーを感じる仏画。インドでもない、中国でもない、これもやっぱり高野山の気風なのかなと思いました。

  • さて、ここから壇上伽藍に向かいます。<br />蓮池は、壇上伽藍の東側。中門に向かう右手の方にあって、どうかするとお堀のような感じでしょうか。<br />池には赤い橋で渡れる島があって、そこには善女龍王社という祠。江戸時代の中ごろ、干ばつに対して、雨乞いの法が修されたということです。雨乞いも密教にはつきものですよね。

    さて、ここから壇上伽藍に向かいます。
    蓮池は、壇上伽藍の東側。中門に向かう右手の方にあって、どうかするとお堀のような感じでしょうか。
    池には赤い橋で渡れる島があって、そこには善女龍王社という祠。江戸時代の中ごろ、干ばつに対して、雨乞いの法が修されたということです。雨乞いも密教にはつきものですよね。

  • そのまま壇上伽藍の根本大塔の東側に入って。<br />不動堂は、縋破風(すがるはふ)と檜皮葺の屋根の曲線がとても美しい。同じく国宝建築である宇治上神社の姿とダブりました。<br />創建は、鳥羽天皇の皇女、八條女院の発願で、鎌倉時代初めの建久9年(1198年)。本尊は不動明王ですが、運慶の八大童子像ももともとはここにあったというのも驚きです。

    イチオシ

    そのまま壇上伽藍の根本大塔の東側に入って。
    不動堂は、縋破風(すがるはふ)と檜皮葺の屋根の曲線がとても美しい。同じく国宝建築である宇治上神社の姿とダブりました。
    創建は、鳥羽天皇の皇女、八條女院の発願で、鎌倉時代初めの建久9年(1198年)。本尊は不動明王ですが、運慶の八大童子像ももともとはここにあったというのも驚きです。

  • はす向かいの大会堂は、鳥羽法皇の皇女、五辻斎院の発願で、安元元年(1175年)、父親である鳥羽天皇をお祀りするために造営されました。現在の建物は江戸の後期に再建されたもの。壇上伽藍で大法会が催される時に大人数を収容する集会所として使われたことから、大会堂と呼ばれるようになっています。<br />デザインとしては、二重垂木ほかの意匠はあってもシンプルなもの。本尊は阿弥陀如来ですが、建物を外から拝見するしかありません。

    はす向かいの大会堂は、鳥羽法皇の皇女、五辻斎院の発願で、安元元年(1175年)、父親である鳥羽天皇をお祀りするために造営されました。現在の建物は江戸の後期に再建されたもの。壇上伽藍で大法会が催される時に大人数を収容する集会所として使われたことから、大会堂と呼ばれるようになっています。
    デザインとしては、二重垂木ほかの意匠はあってもシンプルなもの。本尊は阿弥陀如来ですが、建物を外から拝見するしかありません。

  • ここからは、その並び。いくつかの建物が一直線に配置されています。<br />東塔は、白河法皇の発願で大治2年(1127年)に落慶。中尊は尊勝仏頂、脇仏は不動と隆三世両明王とありました。端正な多宝塔ですが、小さな塔なので壇上伽藍の中での存在感はほとんどないかも。現在の塔は、昭和58年に再建されたものです。

    ここからは、その並び。いくつかの建物が一直線に配置されています。
    東塔は、白河法皇の発願で大治2年(1127年)に落慶。中尊は尊勝仏頂、脇仏は不動と隆三世両明王とありました。端正な多宝塔ですが、小さな塔なので壇上伽藍の中での存在感はほとんどないかも。現在の塔は、昭和58年に再建されたものです。

  • 三昧堂は、金剛峯寺第6代目の座主、済高が、このお堂で「理趣三昧(りしゅざんまい)」という儀式をしていたことから三昧堂。<br />延長7年(929年)に建立されたものですが、現在の建物は文化13年(1816年)に再建されたもの。方形造りの正面の白い障子がアクセント。独特の美しさとなっています。

    三昧堂は、金剛峯寺第6代目の座主、済高が、このお堂で「理趣三昧(りしゅざんまい)」という儀式をしていたことから三昧堂。
    延長7年(929年)に建立されたものですが、現在の建物は文化13年(1816年)に再建されたもの。方形造りの正面の白い障子がアクセント。独特の美しさとなっています。

  • 愛染堂は、後醍醐天皇が新政を始めた直後の建武元年(1334年)に建てたお堂で、祀られた愛染明王は、後醍醐天皇の等身大と言われます。正面の障子から中を覗くことができますが、愛染明王まではよくわかりません。

    愛染堂は、後醍醐天皇が新政を始めた直後の建武元年(1334年)に建てたお堂で、祀られた愛染明王は、後醍醐天皇の等身大と言われます。正面の障子から中を覗くことができますが、愛染明王まではよくわかりません。

  • そして、壇上伽藍の中心は、高野山の根本大塔です。

    そして、壇上伽藍の中心は、高野山の根本大塔です。

  • 堂々とした巨大な構えは、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたという意味で、根本大塔と呼ばれます。本来は、講堂の東西に多宝塔を配置する計画があって、これは東側の塔にあたるものだったようですが、いずれにしても多宝塔様式としては日本初のもの。<br />現在の建物は昭和12年に再建された鉄筋コンクリート造ですが、いずれにしても、鮮やかな赤い建物の美しさは健在だし、宗教的な価値は変わらないでしょう。中に入ると、太い柱に支えられた巨大な空間に、これも巨大な本尊の胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲みます。

    堂々とした巨大な構えは、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたという意味で、根本大塔と呼ばれます。本来は、講堂の東西に多宝塔を配置する計画があって、これは東側の塔にあたるものだったようですが、いずれにしても多宝塔様式としては日本初のもの。
    現在の建物は昭和12年に再建された鉄筋コンクリート造ですが、いずれにしても、鮮やかな赤い建物の美しさは健在だし、宗教的な価値は変わらないでしょう。中に入ると、太い柱に支えられた巨大な空間に、これも巨大な本尊の胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲みます。

  • 大塔の鐘は、根本大塔の向かい側。<br />まず、青い屋根の下の部分はすべて白い漆喰という奇抜なデザインの鐘楼が目を引きます。鐘は、弘法大師の発願。高野山第二世真然大徳の時代に完成したのですが、現在の鐘は天文16年(1547年)に再興したもので、直径2.12m、高さ2.5mの大きさ法会などの儀式の合図として鳴らされるそうです。

    大塔の鐘は、根本大塔の向かい側。
    まず、青い屋根の下の部分はすべて白い漆喰という奇抜なデザインの鐘楼が目を引きます。鐘は、弘法大師の発願。高野山第二世真然大徳の時代に完成したのですが、現在の鐘は天文16年(1547年)に再興したもので、直径2.12m、高さ2.5mの大きさ法会などの儀式の合図として鳴らされるそうです。

  • ここから大塔の西側へ。<br />金堂は、壇上伽藍に置いては本堂といった位置づけ。もともとは弘仁7年(816年)に建てられたものですが、現在の建物は8代目。昭和9年に再建された鉄筋コンクリート造です。<br />ただ、外観も整った意匠だし、脇侍の金剛王菩薩坐像、降三世明王立像、虚空蔵菩薩坐像、普賢延命菩薩坐像、不動明王坐像、金剛薩?券坐像の六体も復元されて、それなりの威容を保っていると思います。

    ここから大塔の西側へ。
    金堂は、壇上伽藍に置いては本堂といった位置づけ。もともとは弘仁7年(816年)に建てられたものですが、現在の建物は8代目。昭和9年に再建された鉄筋コンクリート造です。
    ただ、外観も整った意匠だし、脇侍の金剛王菩薩坐像、降三世明王立像、虚空蔵菩薩坐像、普賢延命菩薩坐像、不動明王坐像、金剛薩?券坐像の六体も復元されて、それなりの威容を保っていると思います。

  • 御影堂は、壇上伽藍の中でも比較的大きな建物。<br />もともとは弘法大師の持仏堂として建立されたものですが、後に、真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことで御影堂と呼ばれるようになりました。軒下にはぐるりと金色の燈籠が下がっているのが特徴的なので、すぐにそれと分かります。

    御影堂は、壇上伽藍の中でも比較的大きな建物。
    もともとは弘法大師の持仏堂として建立されたものですが、後に、真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことで御影堂と呼ばれるようになりました。軒下にはぐるりと金色の燈籠が下がっているのが特徴的なので、すぐにそれと分かります。

  • 三鈷の松は、壇上伽藍の金堂と御影堂の間。<br />唐で密教を学び、師、恵果から、三鈷杵を授かった空海。帰国する際に、それを空に投げると三鈷杵は飛び去り、この松の枝にあったという言い伝え。高野山が密教の聖地となることは必然だったということを示した松ということです。ただ、松はそこまで目立つほどの大木ではない。何代か目の松だとは思います。

    三鈷の松は、壇上伽藍の金堂と御影堂の間。
    唐で密教を学び、師、恵果から、三鈷杵を授かった空海。帰国する際に、それを空に投げると三鈷杵は飛び去り、この松の枝にあったという言い伝え。高野山が密教の聖地となることは必然だったということを示した松ということです。ただ、松はそこまで目立つほどの大木ではない。何代か目の松だとは思います。

  • 准胝堂からは、少し小ぶり。<br />名前の由来は、本尊の准胝観音から。ルーツはインドの神様のようです。<br />修業者の守護として崇敬されていたところから、平安時代には安産祈願の観音様とも。<br />現在の建物は明治16年の再建。名前も難しいし、シンプルな意匠であまり目立っていないと思います。

    准胝堂からは、少し小ぶり。
    名前の由来は、本尊の准胝観音から。ルーツはインドの神様のようです。
    修業者の守護として崇敬されていたところから、平安時代には安産祈願の観音様とも。
    現在の建物は明治16年の再建。名前も難しいし、シンプルな意匠であまり目立っていないと思います。

  • 孔雀堂は、准胝堂と並んで建っていますが、正直言えば、どちらも地味。かつ、こちらも昭和58年の再建です。<br />ただ、かつて、快慶作の孔雀明王像が奉納されていたお堂。そういう想像力を働かせてみないと楽しさはないかもしれません。

    孔雀堂は、准胝堂と並んで建っていますが、正直言えば、どちらも地味。かつ、こちらも昭和58年の再建です。
    ただ、かつて、快慶作の孔雀明王像が奉納されていたお堂。そういう想像力を働かせてみないと楽しさはないかもしれません。

  • さらに進んで、西塔です。さっきの東塔は小さなものでしたが、こちらの方は高さが27.27m、四辺が約10mともう少し大きい。江戸時代後期の天保5年(1834年)の再建で、すべてが緻密な木造りというのも迫力を感じます。

    さらに進んで、西塔です。さっきの東塔は小さなものでしたが、こちらの方は高さが27.27m、四辺が約10mともう少し大きい。江戸時代後期の天保5年(1834年)の再建で、すべてが緻密な木造りというのも迫力を感じます。

  • 御社は、「みやしろ」。高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神である丹生明神と高野明神の分霊を高野山の守護神として、ここに祀ったもの。その拝殿である山王院を見下ろすような一段高い場所に建っていて、赤い鳥居と透かし塀もなかなか威厳を示しています。

    御社は、「みやしろ」。高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神である丹生明神と高野明神の分霊を高野山の守護神として、ここに祀ったもの。その拝殿である山王院を見下ろすような一段高い場所に建っていて、赤い鳥居と透かし塀もなかなか威厳を示しています。

  • 高野山の開創に際し、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神である丹生明神と高野明神の分霊を高野山の守護神として、御社(みやしろ)に祀りました。その御社の拝殿が、この山王院。 <br />建物は、安土桃山時代の文禄3年(1594年)に再建されたもの。細長い形とぐるりを囲む縁が優美な印象。安土桃山の時代背景もあるかもしれません。

    高野山の開創に際し、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神である丹生明神と高野明神の分霊を高野山の守護神として、御社(みやしろ)に祀りました。その御社の拝殿が、この山王院。
    建物は、安土桃山時代の文禄3年(1594年)に再建されたもの。細長い形とぐるりを囲む縁が優美な印象。安土桃山の時代背景もあるかもしれません。

  • 登天の松と杓子の芝は、六角経蔵の北側。<br />かつて、如法上人が臨終の際に、弥勒菩薩と縁を結び、この松から昇天したとされ、それで登天の松。その弟子も如法上人従い、昇天することを許される。その後に杓子が1つ落ちてきて、松の木の根元に芝が生えてきたという伝説。弟子と師の美しい物語として語られているのだそう。芝生の方は低木の広葉樹ですが、いずれにしても松とセットで楽しむ眺めです。

    登天の松と杓子の芝は、六角経蔵の北側。
    かつて、如法上人が臨終の際に、弥勒菩薩と縁を結び、この松から昇天したとされ、それで登天の松。その弟子も如法上人従い、昇天することを許される。その後に杓子が1つ落ちてきて、松の木の根元に芝が生えてきたという伝説。弟子と師の美しい物語として語られているのだそう。芝生の方は低木の広葉樹ですが、いずれにしても松とセットで楽しむ眺めです。

  • 六角経蔵は、鳥羽法皇の菩提を弔うため、その皇后の美福門院が建立した経蔵。<br />六角形の屋根を二層とする構造もさることながら、上部の屋根の裏側から真っ白な漆喰を塗り固めた意匠が印象的。美福門院といえば、保元・平治の乱の実質的な首謀者。崇徳天皇対近衛天皇や後白河院政対二条天皇親政の対立の構図は美福門院の意向から生まれたと言ってもいいくらい。インパクトある経蔵の姿と美福門院が私の中ではちょっと重なりました。<br />これで一周しましたね。

    六角経蔵は、鳥羽法皇の菩提を弔うため、その皇后の美福門院が建立した経蔵。
    六角形の屋根を二層とする構造もさることながら、上部の屋根の裏側から真っ白な漆喰を塗り固めた意匠が印象的。美福門院といえば、保元・平治の乱の実質的な首謀者。崇徳天皇対近衛天皇や後白河院政対二条天皇親政の対立の構図は美福門院の意向から生まれたと言ってもいいくらい。インパクトある経蔵の姿と美福門院が私の中ではちょっと重なりました。
    これで一周しましたね。

  • 最後の中門は、二層造りで朱色の楼門。鎌倉時代の建築様式であり、東西25m、南北15m、高さ16mの堂々たる構えです。<br />高野山の開創1200年を記念する事業として、天保14年(1843年)に再建されたものですが、平成に入ってから整備された四天王像も見どころ。多聞天像、持国天像、増長天像、広目天像が揃っています。<br />これで壇上伽藍はおしまいです。重要な建物もあり、個性的な建物もありではあるのですが、本来であれば、それらを集めた以上、全体として密教の世界観を表すべきものでしょうね。しかし、なかなかそうはなっていないのが正直な感想です。

    イチオシ

    最後の中門は、二層造りで朱色の楼門。鎌倉時代の建築様式であり、東西25m、南北15m、高さ16mの堂々たる構えです。
    高野山の開創1200年を記念する事業として、天保14年(1843年)に再建されたものですが、平成に入ってから整備された四天王像も見どころ。多聞天像、持国天像、増長天像、広目天像が揃っています。
    これで壇上伽藍はおしまいです。重要な建物もあり、個性的な建物もありではあるのですが、本来であれば、それらを集めた以上、全体として密教の世界観を表すべきものでしょうね。しかし、なかなかそうはなっていないのが正直な感想です。

  • 壇上伽藍を出て、これが二つ目に発見した町石です。高さがしっかりあって、草が蒸しても簡単に隠れることはありません。

    壇上伽藍を出て、これが二つ目に発見した町石です。高さがしっかりあって、草が蒸しても簡単に隠れることはありません。

  • ここから大門の方に向かいます。<br />その途中、これはさざ波。

    ここから大門の方に向かいます。
    その途中、これはさざ波。

  • 看板商品の酒饅頭をいただきました。ふっくら膨らませるために糀を絞って種にするんですが、その糀は足して足して続いているものだそう。時間が経つと固くなってしまうのが酒饅頭の難点ですとおっしゃっていました。その厚めの皮がポイントだと思います。

    看板商品の酒饅頭をいただきました。ふっくら膨らませるために糀を絞って種にするんですが、その糀は足して足して続いているものだそう。時間が経つと固くなってしまうのが酒饅頭の難点ですとおっしゃっていました。その厚めの皮がポイントだと思います。

  • ところで、高野山には高野七弁天というのがありまして。<br />湯屋谷弁天(ゆやにべんてん)、綱引弁天(つなひきべんてん)、尾先弁天(おさきべんてん)、圓山弁天(まるやまべんてん)、 首途弁天(かどでべんてん)、嶽弁天(だけべんてん)、祓川弁天(はらいかわべんてん)の七つ。ほとんどは高野山の中心市街地の辺りに点在していています。<br />大門への途中で、祓川弁天に気が付きました。西南院の向かいの児童公園の奥の階段を上った先。山の中腹に向かう赤い橋と二つの鳥居、その後ろに小さな社が見えて、それらが一直線に並んでいます。<br />ちょっと上りきるにはしんどそう。ただ、大通りからも全体がはっきり見えるので、それだけで良しとしました。

    ところで、高野山には高野七弁天というのがありまして。
    湯屋谷弁天(ゆやにべんてん)、綱引弁天(つなひきべんてん)、尾先弁天(おさきべんてん)、圓山弁天(まるやまべんてん)、 首途弁天(かどでべんてん)、嶽弁天(だけべんてん)、祓川弁天(はらいかわべんてん)の七つ。ほとんどは高野山の中心市街地の辺りに点在していています。
    大門への途中で、祓川弁天に気が付きました。西南院の向かいの児童公園の奥の階段を上った先。山の中腹に向かう赤い橋と二つの鳥居、その後ろに小さな社が見えて、それらが一直線に並んでいます。
    ちょっと上りきるにはしんどそう。ただ、大通りからも全体がはっきり見えるので、それだけで良しとしました。

  • 大門に到着。これは、そのそばの南峰堂本舗。大きく間口を広げたオープン形式なので気軽に入りやすい。<br />

    大門に到着。これは、そのそばの南峰堂本舗。大きく間口を広げたオープン形式なので気軽に入りやすい。

  • 酒饅頭をいただきました。ふっくらの皮もいいですが、特にこの餡子は艶がある系。垢抜けたおいしさがあると思います。

    酒饅頭をいただきました。ふっくらの皮もいいですが、特にこの餡子は艶がある系。垢抜けたおいしさがあると思います。

  • この大門は、高野山内への西の入り口。朱色の五間二階の楼門は、少し高い場所に建っていることもあって、その大きさがよく伝わります。現在の門は、江戸時代の元禄年間に建てられたもの。左右には仁王像が立っていてにらみを利かせています。

    この大門は、高野山内への西の入り口。朱色の五間二階の楼門は、少し高い場所に建っていることもあって、その大きさがよく伝わります。現在の門は、江戸時代の元禄年間に建てられたもの。左右には仁王像が立っていてにらみを利かせています。

  • 大門のところから、お助け地蔵に向かう道も女人道の一部。よく整備されているし、なだらかで意外に歩きやすい道だと思いました。<br />長屋門みたいな構えの建物の奥にお祭りしてありましたが、名前から想像していたのと違って、ピンクや赤の布でくるまれたかわいらしいお地蔵様じゃないですか。<br />なるほど。お助けというのは、一つだけ願い事を叶えてくれるという意味なんだそうです。

    大門のところから、お助け地蔵に向かう道も女人道の一部。よく整備されているし、なだらかで意外に歩きやすい道だと思いました。
    長屋門みたいな構えの建物の奥にお祭りしてありましたが、名前から想像していたのと違って、ピンクや赤の布でくるまれたかわいらしいお地蔵様じゃないですか。
    なるほど。お助けというのは、一つだけ願い事を叶えてくれるという意味なんだそうです。

  • これは九度山から高野山を結ぶ町石道。大門のところに下っていく道の入口と地図が立っていましたが、けもの道に毛が生えたくらいの難儀な道。杖がたくさん置いてあるのも、それをよく物語っています。ただ、直近の暴風雨の影響で閉鎖されていました。<br />さて、以上で高野山はおしまい。<br />大門からは、高野山駅までバスで帰ります。

    これは九度山から高野山を結ぶ町石道。大門のところに下っていく道の入口と地図が立っていましたが、けもの道に毛が生えたくらいの難儀な道。杖がたくさん置いてあるのも、それをよく物語っています。ただ、直近の暴風雨の影響で閉鎖されていました。
    さて、以上で高野山はおしまい。
    大門からは、高野山駅までバスで帰ります。

  • 高野山からは、橋本駅経由で再び九度山へ。時間がなければ九度山は諦めるつもりでしたが、高野山が時間通りに終えられたので、この辺りは計画通り。しかし、今日は東京に帰るので、時間はとってもタイトですけどね。<br />まことちゃん像は、橋本駅のすぐ前。橋本駅の乗り換え時間にちょこっと駅を出て確認してみました。作者の漫画家、楳図かずおは、高野山の出身だそう。強烈なキャラクターと高野山って、ちょっとギャップがありますけどね。なお、日付が表示していあるのは観光客へのサービスだと思います。

    高野山からは、橋本駅経由で再び九度山へ。時間がなければ九度山は諦めるつもりでしたが、高野山が時間通りに終えられたので、この辺りは計画通り。しかし、今日は東京に帰るので、時間はとってもタイトですけどね。
    まことちゃん像は、橋本駅のすぐ前。橋本駅の乗り換え時間にちょこっと駅を出て確認してみました。作者の漫画家、楳図かずおは、高野山の出身だそう。強烈なキャラクターと高野山って、ちょっとギャップがありますけどね。なお、日付が表示していあるのは観光客へのサービスだと思います。

  • 九度山に戻ってきて、最後は九度山を散策します。<br />真田のみちは、九度山駅から九度山市街に入り、九度山真田ミュージアムに向かう道。途中には、大阪城につながっているという伝説の真田古墳、真田親子が暮らしていた場所に建つ真田庵とか、真田に関係したスポットがいくつもあるんです。<br /><br />そんな中で、これは谷本萬寿堂。くどやま駅から市街に入ってすぐ。一見雑貨屋さんみたいな構えの和菓子屋さんです。

    九度山に戻ってきて、最後は九度山を散策します。
    真田のみちは、九度山駅から九度山市街に入り、九度山真田ミュージアムに向かう道。途中には、大阪城につながっているという伝説の真田古墳、真田親子が暮らしていた場所に建つ真田庵とか、真田に関係したスポットがいくつもあるんです。

    そんな中で、これは谷本萬寿堂。くどやま駅から市街に入ってすぐ。一見雑貨屋さんみたいな構えの和菓子屋さんです。

  • いただいたのは、「九度山しぐれ」。焼き菓子で栗饅頭のような白餡のお菓子なんですが、沁みるような甘さがいいですね。山道を歩いてきた旅人の疲れをいやすような味わいです。 

    いただいたのは、「九度山しぐれ」。焼き菓子で栗饅頭のような白餡のお菓子なんですが、沁みるような甘さがいいですね。山道を歩いてきた旅人の疲れをいやすような味わいです。 

  • 続いては対面石。盆栽みたいな松と並んで置かれた石には、詳しい説明板もありました。<br />説明によれば、弘法大師は弁財天への信仰が厚く、たびたび和泉の槇尾山に参詣していたのですが、吉野川の水が増水した時、弁財天が姿を現し「和泉の国まで参詣するのは大変だから、この九度山に遷して参ればいい」と告げたというのです。<br />弘法大師は、そのお告げにしたがって弁天を祀りますが、弁天とここで対面したということから対面石なのだそう。<br />ただ、それをどういう意味に受け止めればいいのか。現代人にとっては雲をつかむようなところがあって、微妙です。

    続いては対面石。盆栽みたいな松と並んで置かれた石には、詳しい説明板もありました。
    説明によれば、弘法大師は弁財天への信仰が厚く、たびたび和泉の槇尾山に参詣していたのですが、吉野川の水が増水した時、弁財天が姿を現し「和泉の国まで参詣するのは大変だから、この九度山に遷して参ればいい」と告げたというのです。
    弘法大師は、そのお告げにしたがって弁天を祀りますが、弁天とここで対面したということから対面石なのだそう。
    ただ、それをどういう意味に受け止めればいいのか。現代人にとっては雲をつかむようなところがあって、微妙です。

  • 真田古墳は、木の柵で大事に囲われた一角。<br />この穴の向こうは大坂城に続いていて、真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いたという伝説が残っていて、「真田の抜け穴」とも呼ばれるもの。ただ、実は、古墳時代後期に作られた横穴式石室をもつ円墳です。<br />それにしても、ここは九度山。何でも真田に結び付けたくなるのは分からないでもありません。

    真田古墳は、木の柵で大事に囲われた一角。
    この穴の向こうは大坂城に続いていて、真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いたという伝説が残っていて、「真田の抜け穴」とも呼ばれるもの。ただ、実は、古墳時代後期に作られた横穴式石室をもつ円墳です。
    それにしても、ここは九度山。何でも真田に結び付けたくなるのは分からないでもありません。

  • 少し進んで、真田庵。真田幸村父子の屋敷跡に建てられた善名称院というお寺です。<br />立派なシャチホコをいただいた山門を入って境内へ。

    少し進んで、真田庵。真田幸村父子の屋敷跡に建てられた善名称院というお寺です。
    立派なシャチホコをいただいた山門を入って境内へ。

  • しかし、藤だなとか、草が茂ったちょっと手入れが行き届いていないような庭とか。あんまりお寺という雰囲気ではないですね。雑然とした個人住宅のような感じで、ちょっとがっかりしました。資料館があるようでしたが、そっちを拝見すれば印象が変わったかもしれませんが。。<br />

    しかし、藤だなとか、草が茂ったちょっと手入れが行き届いていないような庭とか。あんまりお寺という雰囲気ではないですね。雑然とした個人住宅のような感じで、ちょっとがっかりしました。資料館があるようでしたが、そっちを拝見すれば印象が変わったかもしれませんが。。

  • そして、九度山真田ミュージアムは、九度山の観光スポットの中ではダントツ。真田昌幸、幸村、大助の真田三代の軌跡をたどる内容で必見の施設でしょう。

    そして、九度山真田ミュージアムは、九度山の観光スポットの中ではダントツ。真田昌幸、幸村、大助の真田三代の軌跡をたどる内容で必見の施設でしょう。

  • ビデオの方は時間がなくて見ませんでしたが、大坂冬の陣、夏の陣の両軍の動きを解説するグラフィック解説は妙に納得感がある。まったく一方的な戦いでもなかったことに少し救いを感じました。

    イチオシ

    ビデオの方は時間がなくて見ませんでしたが、大坂冬の陣、夏の陣の両軍の動きを解説するグラフィック解説は妙に納得感がある。まったく一方的な戦いでもなかったことに少し救いを感じました。

  • 戦国最強の称号を得た真田ですが、考えてみれば、そうはいっても武田信玄の武将の一人でしかない。信玄の軍団がいかに強かったのかも思わざるを得ないでしょう。

    戦国最強の称号を得た真田ですが、考えてみれば、そうはいっても武田信玄の武将の一人でしかない。信玄の軍団がいかに強かったのかも思わざるを得ないでしょう。

  • ここから九度山駅に帰りがてら。。 <br />米金の金時像は、古民家風の建物の前に設置された九度山焼の陶金太郎像。もう色はくすんでいますが、2mほどもある大きさで、その存在感は今でも健在。米金というのはお店の屋号のようですが、これを宣伝のためにでも使っていたのでしょうか。九度山がもっと賑やかだったころの名残りかなと思います。

    ここから九度山駅に帰りがてら。。 
    米金の金時像は、古民家風の建物の前に設置された九度山焼の陶金太郎像。もう色はくすんでいますが、2mほどもある大きさで、その存在感は今でも健在。米金というのはお店の屋号のようですが、これを宣伝のためにでも使っていたのでしょうか。九度山がもっと賑やかだったころの名残りかなと思います。

  • 遍照寺は、真田幸村が家族と住んでいた場所に建つお寺です。ただ、説明板も何もないし、山門を入ってもなんでもない境内。幸村に関係するようなものはほとんど見当たりませんでした。<br />なお、真田昌幸と幸村は九度山に押し込められましたが、別々に暮らしていたよう。幸村の家族が住んでいたのはこちらなのだそうです。

    遍照寺は、真田幸村が家族と住んでいた場所に建つお寺です。ただ、説明板も何もないし、山門を入ってもなんでもない境内。幸村に関係するようなものはほとんど見当たりませんでした。
    なお、真田昌幸と幸村は九度山に押し込められましたが、別々に暮らしていたよう。幸村の家族が住んでいたのはこちらなのだそうです。

  • そして、最後は遍照寺の向かい側の大石順教尼の記念館へ。 <br />展示は、ハッとするほど美しい筆致のかな文字とかの色紙など。しかし、それがなんと口にくわえた筆で書いたものだと知ると、ちょっと衝撃的。障害を乗り越えて、ここまでの芸術の高みに至ったのはすべての人に勇気を与えるもの。「世界中からお客さんがやってきます」ということでしたが、さもありなんという納得感がありました。<br />さて、最後はかなりの駆け足でしたが、以上で三日間の旅は終了。大阪経由で東京に帰ります。お疲れ様でした。

    そして、最後は遍照寺の向かい側の大石順教尼の記念館へ。 
    展示は、ハッとするほど美しい筆致のかな文字とかの色紙など。しかし、それがなんと口にくわえた筆で書いたものだと知ると、ちょっと衝撃的。障害を乗り越えて、ここまでの芸術の高みに至ったのはすべての人に勇気を与えるもの。「世界中からお客さんがやってきます」ということでしたが、さもありなんという納得感がありました。
    さて、最後はかなりの駆け足でしたが、以上で三日間の旅は終了。大阪経由で東京に帰ります。お疲れ様でした。

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