『高野山(和歌山県高野町)』は、平安時代・初期の僧で「真言宗」の開祖「空海」上人(諡号:弘法大師)が、標高1000メートル...
続きを読む前後の”外八葉・内八葉”の峰々が連なる山林に囲まれた標高800メートル程度の場所に蓮の花が開いたような形状で広がる東西方向に約5.5キロメートル・南北方向に約2.2キロメートルにおよぶ山上盆地となる現在の和歌山県北東部に位置するエリアを「真言密教」における修禅の根本道場にふさわしい場所として第52代「嵯峨天皇」に上奏し、816年(弘仁7年)に受け賜わった土地であり、山号を『高野山』として開創された日本仏教の聖地とされるエリアです。
また、平安時代・中期に編纂の「金剛峯寺建立修行縁起」によると804年(延暦23年)に第18次「遣唐使」留学僧の一員として「空海」上人が当時の中国王朝「唐」の都「長安(現:陝西省西安市)」の「青龍寺」において「密教」を学び約2年間におよぶ留学を終えて帰国の途につく折に”伽藍建立の地を示し給え”と念じて持っていた三鈷(仏具)を投げると現在の『高野山』の「壇上伽藍」壇上の地に落ちたとされ、帰国後に修禅の根本道場にふさわしい場所を求めて「空海」上人が和歌山県と奈良県の県境に位置する当時の大和国・宇智郡を訪ねたところ黒と白の二匹の犬を連れていた猟師姿の「狩場明神」と出会いその犬たちに導かれ険しい山中に入り奥に進むと次に古くからその山の主とされる「丹生都比売大神」と出会い「空海」上人に協力する旨が伝えられ、さらに奥に進むと忽然と幽邃な大地が出現し「唐」から帰国する直前に投げた三鈷が木に架かっているのを発見したことでこの地に修禅の根本道場を開創することを決意したと伝えられています。
そのほか『高野山』の開創に伴い「空海」上人は、「大日如来」の悟りの世界を仏や菩薩を配列した絵などで表現されている「胎蔵界曼荼羅」の世界を密教思想に基づいた建造物となる「壇上伽藍」をはじめ「中門・講堂(現:金堂)・僧房・大塔・西塔」などの伽藍配置で表現したとも伝えられています。
さらに「空海」上人が835年(承和2年)に「真言密教」の悟りを得るための修行として「高野山・奥之院」において入定した神聖な領域「弘法大師御廟」があり、入定してから86年後の921年(延喜21年)に「東寺真言宗」の総本山「東寺(教王護国寺)」(京都市南区)の長者「観賢」上人の上奏により、第60代「醍醐天皇」から「空海」上人に「弘法大師」の諡号が贈られたことを「空海」上人に報告するため「奥之院」の廟窟に「観賢」上人が入り廟窟内で生存しているような髪を伸ばした「空海」上人の禅定姿が伝えられたことで「空海」上人が”生き続け世の中の平和と人々の幸福を願っている”とされる「入定信仰」が生まれています。
現在では、『高野山』の中心となる「高野山真言宗」の総本山「金剛峯寺」など117寺院が存在する中で52寺院に宿坊施設が完備されており、「空海」上人が『高野山』開創時の最初に建造した修禅の根本道場「壇上伽藍」とともに「空海」上人が入定した神聖な領域「弘法大師御廟」のある「奥之院」が『高野山』における2代聖地として和歌山県の代表的な観光スポットとなっています。
2004年(平成16年)には、『高野山』の「真言密教」のほか「吉野・大掌」の「修験道」および「熊野三山」の「熊野信仰」を日本を代表する「紀伊山地」の霊場さらに総延長307.6キロメートルにおよぶ3系統6ルートの参詣道を含め”紀伊山地の霊場と参詣道”として「ユネスコ世界文化遺産」に登録されています。
今回は、和歌山市在住の方の案内で初めて『高野山』に立ち寄り、「中の橋 駐車場」から有名企業の供養塔などがあるエリアを通り途中から「奥之院」参道に合流するルートで「弘法大師御廟」を参拝したのち「金剛峯寺第2 駐車場」に移動し「金剛峯寺・本坊」を内拝して廻りましたが、『高野山』エリアに立ち寄ったのが平日の午後にもかかわらず観光目的と思われる自動車が多く今回利用した無料駐車場もほぼ満車状態で『高野山』が人気の高い観光スポットであることを実感しました。
短時間の滞在でしたが「弘法大師御廟」に向かう樹齢数百年の杉立木の中に歴史上の戦国武将や大名などの供養塔が建立されている「奥之院」参道を歩いていると現代社会から離れて1200年以上の時空を遡っているような不思議な感覚を覚え参拝することで心が洗われたような清々しい気分となりました。
さらに江戸時代末期の1863年(文久3年)に再建された「金剛峯寺・本坊」も建物内の「襖絵」や国内最大級の石庭「蟠龍庭」など見どころが多くお薦めできます。
機会があれば、今回足を運ぶことのできなかった「壇上伽藍」などのエリアも含めて時間を気にせずにゆっくりと『高野山』を散策してみたいと思います。
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投稿日:2022/09/11