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ジャワ島にある世界文化遺産、ヒンドゥ教のブランバナン寺院の紹介です。古マタラム王国(717~929年)のバリトゥン王(在位:898~910年)の時代の建立とされます。(ウィキペディア、JTB・バリ・インドネシア)

2013春、インドネシア旅行記2(26/33):5月24日(7):ジャワ島、ブランバナン寺院、ヒンドゥ教寺院遺跡

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2013/05/21 - 2013/05/26

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旅人のくまさん

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ジャワ島にある世界文化遺産、ヒンドゥ教のブランバナン寺院の紹介です。古マタラム王国(717~929年)のバリトゥン王(在位:898~910年)の時代の建立とされます。(ウィキペディア、JTB・バリ・インドネシア)

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  • 世界遺産(文化)の標識の光景です。ブランバナン寺院を指した、『TAMAN WISTA CANDI PRANBANAN』の文字がありました。1989年の粘土表示がありましたが、『プランバナン寺院群(古マタラム王国)』として世界遺産に登録されたのは、1991年ですから、その前に設置されたインドネシア共和国の国内での遺跡指定のようです。サインは、第二代大統領のスハルトでした。

    世界遺産(文化)の標識の光景です。ブランバナン寺院を指した、『TAMAN WISTA CANDI PRANBANAN』の文字がありました。1989年の粘土表示がありましたが、『プランバナン寺院群(古マタラム王国)』として世界遺産に登録されたのは、1991年ですから、その前に設置されたインドネシア共和国の国内での遺跡指定のようです。サインは、第二代大統領のスハルトでした。

  • 現地ガイドさんが案内してくれたブランバナン寺院の事務所のような建物の光景です。こちらで、見学の時に必要な腰に巻くサロン(布)を借りました。改めて、ヒンドゥ教寺院の見学であることを認識させられました。日本も遺跡整備に技術協力しているようですが、立派な瓦葺の建物でした。

    現地ガイドさんが案内してくれたブランバナン寺院の事務所のような建物の光景です。こちらで、見学の時に必要な腰に巻くサロン(布)を借りました。改めて、ヒンドゥ教寺院の見学であることを認識させられました。日本も遺跡整備に技術協力しているようですが、立派な瓦葺の建物でした。

  • こちらの建物も、ブランバナン寺院に関連する建物のようでした。ジャワ島の伝統的な建物を模しているのかも知れませんが、二段になった屋根の形が、ダイナミックで、ユニークでしたが、一種の荘厳さも醸しているように感じました。造りは、完全な近代工法です。

    こちらの建物も、ブランバナン寺院に関連する建物のようでした。ジャワ島の伝統的な建物を模しているのかも知れませんが、二段になった屋根の形が、ダイナミックで、ユニークでしたが、一種の荘厳さも醸しているように感じました。造りは、完全な近代工法です。

  • 名前:『イエロー・トランペット』:推定<br />分類:ノウゼンカズラ科タベブイア属<br />分布:ブラジル原産。<br />その他:イペーや、イエロー・イペーの呼び名があります。

    名前:『イエロー・トランペット』:推定
    分類:ノウゼンカズラ科タベブイア属
    分布:ブラジル原産。
    その他:イペーや、イエロー・イペーの呼び名があります。

  • 名前:『サンタンカ(山丹花)』:推定<br />分類:アカネ科サンタンカ属<br />分布:東南アジア<br />その他:ネット情報でも、インドネシアの黄色のサンタンカと推定されていました。サンスクリット語の学名のイソクラは、シバ神のことのようです。

    名前:『サンタンカ(山丹花)』:推定
    分類:アカネ科サンタンカ属
    分布:東南アジア
    その他:ネット情報でも、インドネシアの黄色のサンタンカと推定されていました。サンスクリット語の学名のイソクラは、シバ神のことのようです。

  • 世界遺産の『プランバナン寺院群』は、インドネシアのジャワ島中部にある9世紀のヒンドゥ教寺院のプランバナン寺院を中心とした遺跡群です。地区名であるプランバナンは、ジョグジャカルタ特別州の州都ジョグジャカルタ市の東約17キロの、中部ジャワ州との境界に位置しています。(ウィキペディア)<br />*写真は、4枚並んだブランバナン寺院の説明看板の光景です。

    世界遺産の『プランバナン寺院群』は、インドネシアのジャワ島中部にある9世紀のヒンドゥ教寺院のプランバナン寺院を中心とした遺跡群です。地区名であるプランバナンは、ジョグジャカルタ特別州の州都ジョグジャカルタ市の東約17キロの、中部ジャワ州との境界に位置しています。(ウィキペディア)
    *写真は、4枚並んだブランバナン寺院の説明看板の光景です。

  • ヒンドゥ教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の『世界遺産(文化遺産)』に登録されていて、これらの寺院遺跡は、ジャワ語およびインドネシア語で『チャンディ(Candhi :尼)』として知られます。その中心となるプランバナン寺院は、インドネシア最大のヒンドゥ教寺院です。冒頭の表示プレートにも、その記載がありました。(同上)

    ヒンドゥ教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の『世界遺産(文化遺産)』に登録されていて、これらの寺院遺跡は、ジャワ語およびインドネシア語で『チャンディ(Candhi :尼)』として知られます。その中心となるプランバナン寺院は、インドネシア最大のヒンドゥ教寺院です。冒頭の表示プレートにも、その記載がありました。(同上)

  • プランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とする『トリムルティ(Trimurtii)』に捧げられました。ヒンドゥ教建築における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体の中にそびえ立つ、高さ47メートル の中央の祠堂建築により特徴づけられます。(同上)<br />*写真は、次第に大きく見えてきたピラミッド状の祠堂の光景です。

    イチオシ

    プランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とする『トリムルティ(Trimurtii)』に捧げられました。ヒンドゥ教建築における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体の中にそびえ立つ、高さ47メートル の中央の祠堂建築により特徴づけられます。(同上)
    *写真は、次第に大きく見えてきたピラミッド状の祠堂の光景です。

  • 寺院群のなかで中心的構造物であるプランバナン寺院は、『古マタラム王国(サンジャヤ王統:8~10世紀初頭)』の時代に建立されました。その後、16世紀の大地震で多くが崩壊し、その存在はほとんど忘れ去られていましたが、再発見の後、19世紀には発掘が始まり、20世紀になると遺跡の修復作業が開始されました。このプランバナン寺院は、インドネシア最大級であり、仏教遺跡のボロブドール寺院とともにジャワ建築の最高作の一つとされます。(同上)<br />*写真は、ピラミッド状の祠堂のズームアップ光景です。

    寺院群のなかで中心的構造物であるプランバナン寺院は、『古マタラム王国(サンジャヤ王統:8~10世紀初頭)』の時代に建立されました。その後、16世紀の大地震で多くが崩壊し、その存在はほとんど忘れ去られていましたが、再発見の後、19世紀には発掘が始まり、20世紀になると遺跡の修復作業が開始されました。このプランバナン寺院は、インドネシア最大級であり、仏教遺跡のボロブドール寺院とともにジャワ建築の最高作の一つとされます。(同上)
    *写真は、ピラミッド状の祠堂のズームアップ光景です。

  • プランバナン寺院は、古代ジャワ最大のヒンドゥ教寺院ですが、創建の年代については諸説あり、一定していません。その着工は8世紀末まで遡るとする説があり、この説によれば、プランバナン寺院は大乗仏教を奉ずるシャイレーンドラ朝のボロブドール寺院や地理的にプランバナン寺院に近い『セウ寺院(チャンディ・セウ:Candi Sewu)』と同時期になります。(同上)

    プランバナン寺院は、古代ジャワ最大のヒンドゥ教寺院ですが、創建の年代については諸説あり、一定していません。その着工は8世紀末まで遡るとする説があり、この説によれば、プランバナン寺院は大乗仏教を奉ずるシャイレーンドラ朝のボロブドール寺院や地理的にプランバナン寺院に近い『セウ寺院(チャンディ・セウ:Candi Sewu)』と同時期になります。(同上)

  • この説は、ヒンドー教を奉ずるサンジャヤ王統により造営されたことになり、ボロブドールと年代的に並行関係が成立します。後の時代とする説としては、プランバナン寺院を完成したとされる、『バリトゥン王(898~910年頃)』、または『ダクサ王(913~915年頃)』によって造営が開始されたとする説があります。(同上)<br />*写真は、満開だった真っ赤なチュリップの花です。

    この説は、ヒンドー教を奉ずるサンジャヤ王統により造営されたことになり、ボロブドールと年代的に並行関係が成立します。後の時代とする説としては、プランバナン寺院を完成したとされる、『バリトゥン王(898~910年頃)』、または『ダクサ王(913~915年頃)』によって造営が開始されたとする説があります。(同上)
    *写真は、満開だった真っ赤なチュリップの花です。

  • 碑文によれば、当初の建造物は9世紀中頃に完成したとされています。これはシャイレーンドラ朝のサマラトゥンガ王の王女プラモーダワルダニー(スリ・プラモダワルダニ)、別名ラクリヤン・サンジワナと婚姻関係を結んだサンジャヤ王統の第6代『ラカイ・ピカタン王(842年頃~856年)により着工が始まったとする年代にあたります。この説によれば、835~856年がその創建年代となります。(同上)<br />*写真は、繰り返して撮影した、祠堂のズームアップ光景です。

    イチオシ

    碑文によれば、当初の建造物は9世紀中頃に完成したとされています。これはシャイレーンドラ朝のサマラトゥンガ王の王女プラモーダワルダニー(スリ・プラモダワルダニ)、別名ラクリヤン・サンジワナと婚姻関係を結んだサンジャヤ王統の第6代『ラカイ・ピカタン王(842年頃~856年)により着工が始まったとする年代にあたります。この説によれば、835~856年がその創建年代となります。(同上)
    *写真は、繰り返して撮影した、祠堂のズームアップ光景です。

  • 刻文史料の解釈により、おそらくサンジャヤ王統は第2代『ラカイ・パナンカラン王(760~780年頃)』の時代より、仏教のシャイレーンドラ朝の支配のもとにありましたが、第6代『ピカタン王の時代に中部ジャワの支配権を回復したとされます。これによれば、巨大なヒンドゥ教寺院の建設は、マタラム王統がシャイレーンドラ朝勢力から自立したことを象徴する記念物の意味を有することとなります。(同上)

    刻文史料の解釈により、おそらくサンジャヤ王統は第2代『ラカイ・パナンカラン王(760~780年頃)』の時代より、仏教のシャイレーンドラ朝の支配のもとにありましたが、第6代『ピカタン王の時代に中部ジャワの支配権を回復したとされます。これによれば、巨大なヒンドゥ教寺院の建設は、マタラム王統がシャイレーンドラ朝勢力から自立したことを象徴する記念物の意味を有することとなります。(同上)

  • 西暦856年のシワグルハ碑文によれば、この寺院はシヴァ神(シワ、尼: Siwa)に捧げられました。当初はシワグルハ(シヴァの家)、またはシワラヤ(シヴァの地)と称されました。この碑文によれば、プランバナン寺院付近の川の流路を変える工事が、寺院の建設のうちに着手されました。(同上)

    西暦856年のシワグルハ碑文によれば、この寺院はシヴァ神(シワ、尼: Siwa)に捧げられました。当初はシワグルハ(シヴァの家)、またはシワラヤ(シヴァの地)と称されました。この碑文によれば、プランバナン寺院付近の川の流路を変える工事が、寺院の建設のうちに着手されました。(同上)

  • オパック川(英語版)として知られるこの川は、今日、プランバナン寺院の西側を南北に流れます。かつての川は、より東の寺苑内を流れていたものと考えられます。この造成において、プランバナン寺院の外壁の南北軸に流れる川は堰き止められ、かつての川の流路は寺院拡張による広い敷地を設けるために埋められ、後に小祠堂のプルワラ( Perwara)が並ぶ寺苑となりました。(同上)

    オパック川(英語版)として知られるこの川は、今日、プランバナン寺院の西側を南北に流れます。かつての川は、より東の寺苑内を流れていたものと考えられます。この造成において、プランバナン寺院の外壁の南北軸に流れる川は堰き止められ、かつての川の流路は寺院拡張による広い敷地を設けるために埋められ、後に小祠堂のプルワラ( Perwara)が並ぶ寺苑となりました。(同上)

  • プランバナン寺院の主祠堂中央の聖室(ガルバグリハ:Garbhagriha)に安置されるシヴァ像は、ピカタン王の肖像であるとされています。王の遺骨が台座の9メートル下に納められたと言われるほか、像は『バリトゥン(在位:898~910 年頃)』をかたどるもので、王の死後、自身を神格化する肖像としての役割を果たしたとされます。(同上)

    プランバナン寺院の主祠堂中央の聖室(ガルバグリハ:Garbhagriha)に安置されるシヴァ像は、ピカタン王の肖像であるとされています。王の遺骨が台座の9メートル下に納められたと言われるほか、像は『バリトゥン(在位:898~910 年頃)』をかたどるもので、王の死後、自身を神格化する肖像としての役割を果たしたとされます。(同上)

  • 寺苑は、ダクサ王や『トゥロドン王(919~921年頃)など、歴代のマタラム王により拡張され、主要な祠堂の周囲に何百基もの小祠堂が追加されました。そびえ立つ中央の主祠堂は高さ47メートルであり、広大な周壁に囲まれる240基の構造物からなる寺院複合体において、トリムルティのシヴァ祠堂は、当時、最も高く壮大なものでした。(同上)

    寺苑は、ダクサ王や『トゥロドン王(919~921年頃)など、歴代のマタラム王により拡張され、主要な祠堂の周囲に何百基もの小祠堂が追加されました。そびえ立つ中央の主祠堂は高さ47メートルであり、広大な周壁に囲まれる240基の構造物からなる寺院複合体において、トリムルティのシヴァ祠堂は、当時、最も高く壮大なものでした。(同上)

  • プランバナン寺院は、マタラム王国の王室寺院としての役割を果たし、宗教儀式や供犠のほとんどはここで行われました。王国の最盛期には、寺院の外壁内に何百人ものバラモンが弟子とともに住んでいたと推定されています。バラモン(brāhma?a:婆羅門)とは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥ教の司祭階級の総称です。(同上)

    プランバナン寺院は、マタラム王国の王室寺院としての役割を果たし、宗教儀式や供犠のほとんどはここで行われました。王国の最盛期には、寺院の外壁内に何百人ものバラモンが弟子とともに住んでいたと推定されています。バラモン(brāhma?a:婆羅門)とは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥ教の司祭階級の総称です。(同上)

  • 古マタラム王国の都の位置は不明ですが、都の中心地およびマタラムの王宮(クラトン)は、およそケウ平原(プランバナン平野)辺りだったと考えられています。平野部に突き出たラトゥボコ( Ratu Boko:Ratu Baka)の丘に残る、『ボコ遺跡(Candi Boko)』が9世紀後半頃の王宮の跡であるとされます。(同上)

    古マタラム王国の都の位置は不明ですが、都の中心地およびマタラムの王宮(クラトン)は、およそケウ平原(プランバナン平野)辺りだったと考えられています。平野部に突き出たラトゥボコ( Ratu Boko:Ratu Baka)の丘に残る、『ボコ遺跡(Candi Boko)』が9世紀後半頃の王宮の跡であるとされます。(同上)

  • 10世紀前半の(928~929年頃)に、都はイーシャーナ王朝・クディリ朝を創設した『ムプ・シンドク王(在位:929~948年頃)』により東ジャワに移されました。その遷都の理由には諸説ありますが、中部ジャワのプランバナンの北に位置するムラピ山の噴火や、宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられています。それによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していきました。(同上)

    10世紀前半の(928~929年頃)に、都はイーシャーナ王朝・クディリ朝を創設した『ムプ・シンドク王(在位:929~948年頃)』により東ジャワに移されました。その遷都の理由には諸説ありますが、中部ジャワのプランバナンの北に位置するムラピ山の噴火や、宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられています。それによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していきました。(同上)

  • 周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていましたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していませんでした。(同上)<br />*写真は、迫力を感じさせる寺院の彫刻の光景です。<br />

    周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていましたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していませんでした。(同上)
    *写真は、迫力を感じさせる寺院の彫刻の光景です。

  • 寺院群は1549年に発生した大地震により崩壊しました。寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなくなりましたが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元のジャワ人に知られていました。その遺構や彫像は、ロロ・ジョングラン伝説の主題や発想の源となりました。(同上)<br />*写真は、公園として整備されたプランバナン寺院周辺の光景です。

    寺院群は1549年に発生した大地震により崩壊しました。寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなくなりましたが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元のジャワ人に知られていました。その遺構や彫像は、ロロ・ジョングラン伝説の主題や発想の源となりました。(同上)
    *写真は、公園として整備されたプランバナン寺院周辺の光景です。

  • それにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えました。その王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意の伝説によれば、これらの寺院は『バンドゥン・ボンドウォソ(Bandung Bondowoso)』 のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたと伝わります。『バンドゥン・ボンドウォソ』は王女ロロ・ジョングランに 求婚しますが、王女は父親ボコ王を殺した男との結婚 を拒絶します。 しつこい求婚に対して王女は、男が一晩で1000基 のチャンディを建造することを条件に、結婚を承諾しました。(同上)

    それにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えました。その王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意の伝説によれば、これらの寺院は『バンドゥン・ボンドウォソ(Bandung Bondowoso)』 のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたと伝わります。『バンドゥン・ボンドウォソ』は王女ロロ・ジョングランに 求婚しますが、王女は父親ボコ王を殺した男との結婚 を拒絶します。 しつこい求婚に対して王女は、男が一晩で1000基 のチャンディを建造することを条件に、結婚を承諾しました。(同上)

  • プランバナン寺院の存在は、1733年、オランダ東インド会社の『ロンス (Cornelius Antonie Lons) により初めて報告されました。1755年のマタラム王国(新マタラム王国)分割の後、寺院の遺構とオパック川は、ジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の王家の境域を画定するために用いられ、ジョグジャカルタと中部ジャワ間の現在の境界として選定されました。(同上)

    プランバナン寺院の存在は、1733年、オランダ東インド会社の『ロンス (Cornelius Antonie Lons) により初めて報告されました。1755年のマタラム王国(新マタラム王国)分割の後、寺院の遺構とオパック川は、ジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の王家の境域を画定するために用いられ、ジョグジャカルタと中部ジャワ間の現在の境界として選定されました。(同上)

  • プランバナン寺院は、19世紀初頭に国際的に注目されるようになりました。1811年、短いオランダ領東インドのイギリスの占領時代に、スタンフォード・ラッフルズのもと、調査員だったコリン・マッケンジーが、たまたま寺院に行き当たりました。次いでラッフルズは遺跡の全面調査を命じています。その後、ラッフルズは、『ジャワ誌(The History of Java)』を1817年に発刊し、『それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え、多量のさまざまの種類の樹木や草で覆われている』、と述べています。(同上)

    プランバナン寺院は、19世紀初頭に国際的に注目されるようになりました。1811年、短いオランダ領東インドのイギリスの占領時代に、スタンフォード・ラッフルズのもと、調査員だったコリン・マッケンジーが、たまたま寺院に行き当たりました。次いでラッフルズは遺跡の全面調査を命じています。その後、ラッフルズは、『ジャワ誌(The History of Java)』を1817年に発刊し、『それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え、多量のさまざまの種類の樹木や草で覆われている』、と述べています。(同上)

  • また、ラッフルズは、『現在の荒廃した状態において、これらの尊い建物の』正確な計画図あるいはもとの配置とか大きさ、また数や形を得ることは非常に困難である』、とも記しています。<br />それらは数十年にわたって放置されたままでした。オランダ人居住者は装飾品として彫刻を持ち去り、また土地の住人らは建設資材にその礎石を使用していました。1885年より『アイゼルマン(Jan Willem IJzerman)』 が考古学的調査を開始しましたが、その緩慢な発掘により略奪を容易にしました。(同上)

    また、ラッフルズは、『現在の荒廃した状態において、これらの尊い建物の』正確な計画図あるいはもとの配置とか大きさ、また数や形を得ることは非常に困難である』、とも記しています。
    それらは数十年にわたって放置されたままでした。オランダ人居住者は装飾品として彫刻を持ち去り、また土地の住人らは建設資材にその礎石を使用していました。1885年より『アイゼルマン(Jan Willem IJzerman)』 が考古学的調査を開始しましたが、その緩慢な発掘により略奪を容易にしました。(同上)

  • 20世紀になって、ファン・エルプやドゥ・ハーン (De Haan) らによる研究がなされました。1918年にオランダ植民地政府はシヴァ祠堂の修復に着手し、1930年には相応の修復が開始されました。1937年よりオランダ領東インド考古局のもとで着工された本格的な修復工事は、その後、太平洋戦争による1943~1945年の日本の軍政期を経て継続されました。中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成しました。(同上)

    20世紀になって、ファン・エルプやドゥ・ハーン (De Haan) らによる研究がなされました。1918年にオランダ植民地政府はシヴァ祠堂の修復に着手し、1930年には相応の修復が開始されました。1937年よりオランダ領東インド考古局のもとで着工された本格的な修復工事は、その後、太平洋戦争による1943~1945年の日本の軍政期を経て継続されました。中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成しました。(同上)

  • 中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成しました。もとの石積みの多くは盗まれ、遠方の建築地で再利用されていたことから、修復はかなり妨げられました。インドネシア政府は寺院複合体の規模を考慮し、もとの石積みの少なくとも75パーセントが利用できる場合のみ寺院遺跡を再構するという決定をしました。(同上)

    中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成しました。もとの石積みの多くは盗まれ、遠方の建築地で再利用されていたことから、修復はかなり妨げられました。インドネシア政府は寺院複合体の規模を考慮し、もとの石積みの少なくとも75パーセントが利用できる場合のみ寺院遺跡を再構するという決定をしました。(同上)

  • 政府により、1977~1987年にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ)が修復され、1982~1991年にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ)が修復されました。その後、1991~1993年にかけて、ヴァーハナ(Wahana)のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ)、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ)が修復されました。修復の取り組みは今日もなお続いています。しかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみです。(同上)

    政府により、1977~1987年にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ)が修復され、1982~1991年にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ)が修復されました。その後、1991~1993年にかけて、ヴァーハナ(Wahana)のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ)、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ)が修復されました。修復の取り組みは今日もなお続いています。しかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみです。(同上)

  • 1990年代初頭、政府は寺院の近くにできた市場を移転させ、遺跡公園として周囲の村落や水田を再開発しました。公園は、南の幹線道路(ジョグジャカルタ~ソロ)からプランバナン寺院複合体の全体、ルンブン寺院(チャンディ・ルンブン)やブブラ寺院(チャンディ・ブブラ)の遺跡、さらに北側のセウ寺院を取り囲む広い地域に及んでいます。そして1991年、プランバナン寺院群としてユネスコの世界遺産に登録されました。1992年にインドネシア政府は「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社を国有有限責任企業 として設立しました。(同上)

    イチオシ

    1990年代初頭、政府は寺院の近くにできた市場を移転させ、遺跡公園として周囲の村落や水田を再開発しました。公園は、南の幹線道路(ジョグジャカルタ~ソロ)からプランバナン寺院複合体の全体、ルンブン寺院(チャンディ・ルンブン)やブブラ寺院(チャンディ・ブブラ)の遺跡、さらに北側のセウ寺院を取り囲む広い地域に及んでいます。そして1991年、プランバナン寺院群としてユネスコの世界遺産に登録されました。1992年にインドネシア政府は「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社を国有有限責任企業 として設立しました。(同上)

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