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夜行便搭乗までの時間を利用して、マリーナ・ベイ・サンズの屋上からのシンガポールの夜景観賞です。(ウィキペディア、るるぶ・シンガポール)

2013春、インドネシア旅行記2(30/33):5月25日(2):シンガポール、マリーナ・ベイ・サンズからの夜景

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2013/05/21 - 2013/05/26

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旅人のくまさん

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夜行便搭乗までの時間を利用して、マリーナ・ベイ・サンズの屋上からのシンガポールの夜景観賞です。(ウィキペディア、るるぶ・シンガポール)

  • 夜景を眺めながら、シンガポールの歴史の紹介です。シンガポールに関する歴史的な記述で最も古いものは、3世紀の中国の文献の『Pu-luo-chung』とされます。シュリーヴィジャヤ王国の勢力下、その後7世紀頃には漁村テマセックとして知られ、複数の航路が合流するマレー半島の先端に位置する地理的条件も加わり、様々な国の船舶が寄港していたといわれます。起源には諸説あります。(同上)

    夜景を眺めながら、シンガポールの歴史の紹介です。シンガポールに関する歴史的な記述で最も古いものは、3世紀の中国の文献の『Pu-luo-chung』とされます。シュリーヴィジャヤ王国の勢力下、その後7世紀頃には漁村テマセックとして知られ、複数の航路が合流するマレー半島の先端に位置する地理的条件も加わり、様々な国の船舶が寄港していたといわれます。起源には諸説あります。(同上)

  • マジャパヒト王国の宮廷詩人だったプラパンチャが14世紀に書いた『王朝栄華物語』にマジャパヒト王国の服属国としテマセックの名は見られます。少なくとも14世紀まではこの名で呼称されていたようです。また、同時期に書かれた中国の旅行家・汪大淵による旅行記『島夷誌略』にも『海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた』ことなどが記されています。その後、14世紀末にはサンスクリット語で『ライオンの町』を意味する『シンガプーラ』という呼び名が定着し、現在の『シンガポール』の由来となりました。(同上)

    マジャパヒト王国の宮廷詩人だったプラパンチャが14世紀に書いた『王朝栄華物語』にマジャパヒト王国の服属国としテマセックの名は見られます。少なくとも14世紀まではこの名で呼称されていたようです。また、同時期に書かれた中国の旅行家・汪大淵による旅行記『島夷誌略』にも『海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた』ことなどが記されています。その後、14世紀末にはサンスクリット語で『ライオンの町』を意味する『シンガプーラ』という呼び名が定着し、現在の『シンガポール』の由来となりました。(同上)

  • 名称の変更が発生した理由には諸説あり、マジャパヒト王国の属国地の通称である説、『シンガ』は寄港を意味し、単に寄港地という一般名称であったとする説、シュリーヴィジャヤ王国の王子が動物をライオンと見間違えてつけたとする説などがありますが、シンガポールではスマトラより来訪したサン・ニラ・ウタマによって建設され、この名がつけられたとする説を通説としています。(同上)

    名称の変更が発生した理由には諸説あり、マジャパヒト王国の属国地の通称である説、『シンガ』は寄港を意味し、単に寄港地という一般名称であったとする説、シュリーヴィジャヤ王国の王子が動物をライオンと見間違えてつけたとする説などがありますが、シンガポールではスマトラより来訪したサン・ニラ・ウタマによって建設され、この名がつけられたとする説を通説としています。(同上)

  • マジャパヒト王国で内戦(パルグルグ戦争:Paregreg war)が起き、パレンバンの王子パレメスワラが内戦を逃れるために、マレー半島を転々としていました。パラメスワラがシンガプーラに逃れた時、アユタヤ王の女婿であるシンガプーラ王を殺害した事件をきっかけに、シンガプーラを含めたマレー半島の覇権を巡るマジャパヒト王国とシャムの間の争いが激化しました。パレメスワラは1402年、マラッカ王国を建国し、シンガプーラをその支配下に収めました。(同上)

    マジャパヒト王国で内戦(パルグルグ戦争:Paregreg war)が起き、パレンバンの王子パレメスワラが内戦を逃れるために、マレー半島を転々としていました。パラメスワラがシンガプーラに逃れた時、アユタヤ王の女婿であるシンガプーラ王を殺害した事件をきっかけに、シンガプーラを含めたマレー半島の覇権を巡るマジャパヒト王国とシャムの間の争いが激化しました。パレメスワラは1402年、マラッカ王国を建国し、シンガプーラをその支配下に収めました。(同上)

  • マラッカ王国は、1511年にポルトガルの侵攻を受け滅亡し、ポルトガル領マラッカが成立しました。マラッカ王国の一部の商人や王族は、シンガプーラへと移っていきました。しかしシンガプーラ自体も1513年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、マラッカ王国からの移住者を含む現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となりました。(同上)

    マラッカ王国は、1511年にポルトガルの侵攻を受け滅亡し、ポルトガル領マラッカが成立しました。マラッカ王国の一部の商人や王族は、シンガプーラへと移っていきました。しかしシンガプーラ自体も1513年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、マラッカ王国からの移住者を含む現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となりました。(同上)

  • 生き残ったマラッカ王国の王族は、ジョホール王国を建国しました。ポルトガルの侵略により壊滅し、その後荒廃したシンガプーラは、300年以上もの間歴史の表舞台から姿を消し、再び漁民と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となりました。(同上)

    生き残ったマラッカ王国の王族は、ジョホール王国を建国しました。ポルトガルの侵略により壊滅し、その後荒廃したシンガプーラは、300年以上もの間歴史の表舞台から姿を消し、再び漁民と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となりました。(同上)

  • 1641年、オランダとジョホール王国が協力してポルトガル領マラッカを攻撃し、オランダ領マラッカが成立し、マラッカ海峡の香辛料貿易はオランダが独占することになり、ポルトガルの覇権は終わりました。<br />1819年1月、人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たします。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けました。(同上)

    1641年、オランダとジョホール王国が協力してポルトガル領マラッカを攻撃し、オランダ領マラッカが成立し、マラッカ海峡の香辛料貿易はオランダが独占することになり、ポルトガルの覇権は終わりました。
    1819年1月、人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たします。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けました。(同上)

  • ラッフルズは、名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進めました。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めました。無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していきました。(同上)

    イチオシ

    ラッフルズは、名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進めました。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めました。無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していきました。(同上)

  • 既に所持していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに、1826年にシンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められました。イギリスの植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割に留まりませんでした。(同上)

    既に所持していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに、1826年にシンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められました。イギリスの植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割に留まりませんでした。(同上)

  • 背後に存在する同じくヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展しました。この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部)などから渡来しました。(同上)

    背後に存在する同じくヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展しました。この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部)などから渡来しました。(同上)

  • 渡来したのは中国だけでなく、インド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となりました。1869年スエズ運河が開通することにつれて、シンガポールは次第に東アジアとヨーロッパの貿易通路の中継港となりました。この優れた地理位置は、シンガポールに未曾有の繁栄をもたらしました。(同上)

    渡来したのは中国だけでなく、インド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となりました。1869年スエズ運河が開通することにつれて、シンガポールは次第に東アジアとヨーロッパの貿易通路の中継港となりました。この優れた地理位置は、シンガポールに未曾有の繁栄をもたらしました。(同上)

  • 1873年から1930年までの40年間に亘って、シンガポールの貿易額は八倍にも増えました。なお、1873年に日本の岩倉使節団がシンガポールに寄港しており、当時の様子が『米欧回覧実記』に記されています。海峡植民地政庁が郵便局業へ干渉したことに反発して、1876年シンガポール華僑が暴動を起こしています。(同上)<br />

    1873年から1930年までの40年間に亘って、シンガポールの貿易額は八倍にも増えました。なお、1873年に日本の岩倉使節団がシンガポールに寄港しており、当時の様子が『米欧回覧実記』に記されています。海峡植民地政庁が郵便局業へ干渉したことに反発して、1876年シンガポール華僑が暴動を起こしています。(同上)

  • シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きました。20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなりました。(同上)

    シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きました。20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなりました。(同上)

  • イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まり、弾圧しました。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、のちの初代首相リー・クアンユーです。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布、1948年3月20日、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加しました。(同上)

    イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まり、弾圧しました。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、のちの初代首相リー・クアンユーです。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布、1948年3月20日、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加しました。(同上)

  • イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していました。このため1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けました。1942年2月の『シンガポールの戦い』と呼ばれます。(同上)

    イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していました。このため1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けました。1942年2月の『シンガポールの戦い』と呼ばれます。(同上)

  • その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは『昭南島(しょうなんとう)』と改名されました。軍政下の行政組織として『昭南特別市』が設置され、初代市長には、日本人内務官僚が任命されました。その後日本から多くの官民が送られ、軍政が敷かれました。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために徴用されました。(同上)

    その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは『昭南島(しょうなんとう)』と改名されました。軍政下の行政組織として『昭南特別市』が設置され、初代市長には、日本人内務官僚が任命されました。その後日本から多くの官民が送られ、軍政が敷かれました。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために徴用されました。(同上)

  • また当時は日中戦争の最中でもあったため、中国系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の『布告』を発行し、反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を『知識人』、『抗日」といった基準で選別し、対象者を粛清しました。『シンガポール華僑粛清事件』と呼ばれます。(同上)

    また当時は日中戦争の最中でもあったため、中国系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の『布告』を発行し、反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を『知識人』、『抗日」といった基準で選別し、対象者を粛清しました。『シンガポール華僑粛清事件』と呼ばれます。(同上)

  • この事件は、戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償いを求める集会が、数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には『血債の塔』が建てられました。『血債』は、中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味とされます。(同上)

    この事件は、戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償いを求める集会が、数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には『血債の塔』が建てられました。『血債』は、中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味とされます。(同上)

  • 犠牲者数は資料の不足や事実関係の不透明から史料による差が大きく、日本政府の調査では6000人、華僑側では4万人であり、桜本富雄は10万人説を唱えています。 秦郁彦は、日本側では約5000人という説が多いとしています。シンガポール側では、許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では8600人余りとなっています。(同上)<br />〇桜本富雄(1933~):長野県小諸市生れの詩人で評論家、『空席通信』を発行。<br />〇秦郁彦(1932~):日本の歴史家で大蔵官僚。専門は日本近現代史、軍事史。

    犠牲者数は資料の不足や事実関係の不透明から史料による差が大きく、日本政府の調査では6000人、華僑側では4万人であり、桜本富雄は10万人説を唱えています。 秦郁彦は、日本側では約5000人という説が多いとしています。シンガポール側では、許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では8600人余りとなっています。(同上)
    〇桜本富雄(1933~):長野県小諸市生れの詩人で評論家、『空席通信』を発行。
    〇秦郁彦(1932~):日本の歴史家で大蔵官僚。専門は日本近現代史、軍事史。

  • フランスのボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだイタリア海軍が、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込みました。しかし、同年9月にイタリアが連合国に対して降伏したため、シンガポールに派遣されたイタリア海軍の潜水艦「コマンダンテ・カッペリーニ」と「ルイージ・トレッリ」が、大日本帝国海軍を経由してドイツ海軍に接収されました。1945年5月にドイツが降伏した後は、大日本帝国海軍に接収され「伊号第五百三潜水艦」、「伊号第五百四潜水艦」として終戦を迎えました。(同上)

    フランスのボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだイタリア海軍が、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込みました。しかし、同年9月にイタリアが連合国に対して降伏したため、シンガポールに派遣されたイタリア海軍の潜水艦「コマンダンテ・カッペリーニ」と「ルイージ・トレッリ」が、大日本帝国海軍を経由してドイツ海軍に接収されました。1945年5月にドイツが降伏した後は、大日本帝国海軍に接収され「伊号第五百三潜水艦」、「伊号第五百四潜水艦」として終戦を迎えました。(同上)

  • 1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまいました。しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国のイギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになりました。(同上)

    1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまいました。しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国のイギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになりました。(同上)

  • 第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれました。(同上)

    第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれました。(同上)

  • 1955年、リンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、立法議会25議席の選挙が行われ、10議席をとった労働戦線のデヴィッド・マーシャルが、シンガポール連盟党と連立し首席大臣に就任しました。1956年、ロンドンに赴き自治権獲得の交渉しましたが、不調に終わりました。1958年には外交と国防を除く自治権が与えられました。(同上)<br />

    1955年、リンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、立法議会25議席の選挙が行われ、10議席をとった労働戦線のデヴィッド・マーシャルが、シンガポール連盟党と連立し首席大臣に就任しました。1956年、ロンドンに赴き自治権獲得の交渉しましたが、不調に終わりました。1958年には外交と国防を除く自治権が与えられました。(同上)

  • その結果1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任しました。その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦を結成しました。(同上)<br />*写真は、ここからがマリーナベイ・サンズからの夜景の紹介です。

    その結果1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任しました。その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦を結成しました。(同上)
    *写真は、ここからがマリーナベイ・サンズからの夜景の紹介です。

  • しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化、1964年7月21日には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生、死傷者が出ました。(同上)

    イチオシ

    しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化、1964年7月21日には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生、死傷者が出ました。(同上)

  • 1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開され、関係が悪化しました。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。(同上)

    1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開され、関係が悪化しました。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。(同上)

  • 〇5・13事件:5月13日事件は、1969年5月10日に実施された総選挙を直接の原因とした、同年5月13日に発生したマレーシア史上最悪の民族衝突事件です。この暴動はほぼ1日で終息しましたが、銃撃や放火などによって暴動発生後の数日間で死者196人、負傷者439人の犠牲者を出す大惨事となりました。(同上)<br />*写真は、マリーナベイの周りの夜景です。

    〇5・13事件:5月13日事件は、1969年5月10日に実施された総選挙を直接の原因とした、同年5月13日に発生したマレーシア史上最悪の民族衝突事件です。この暴動はほぼ1日で終息しましたが、銃撃や放火などによって暴動発生後の数日間で死者196人、負傷者439人の犠牲者を出す大惨事となりました。(同上)
    *写真は、マリーナベイの周りの夜景です。

  • 近現代のシンガポールの略歴の紹介です<br />〇1819年 イギリス人のトーマス・ラッフルズがシンガポール上陸。ジョホール王国の許可を得て商館建設。<br />〇1824年 正式にイギリスの植民地となる。<br />〇1832年 海峡植民地の首都に定められる。(続く)

    近現代のシンガポールの略歴の紹介です
    〇1819年 イギリス人のトーマス・ラッフルズがシンガポール上陸。ジョホール王国の許可を得て商館建設。
    〇1824年 正式にイギリスの植民地となる。
    〇1832年 海峡植民地の首都に定められる。(続く)

  • 〇1942年 シンガポールの戦いを経て、1945年まで日本軍による占領。<br />〇1959年 イギリスより自治権の獲得。シンガポール自治州となる。<br />〇1963年 マレーシア独立。その1州として参加。<br />〇1965年 マレーシアより分離。シンガポール共和国として独立。(同上)<br />*写真は、カラフルにライトアップされた観覧車の光景です。

    イチオシ

    〇1942年 シンガポールの戦いを経て、1945年まで日本軍による占領。
    〇1959年 イギリスより自治権の獲得。シンガポール自治州となる。
    〇1963年 マレーシア独立。その1州として参加。
    〇1965年 マレーシアより分離。シンガポール共和国として独立。(同上)
    *写真は、カラフルにライトアップされた観覧車の光景です。

  • 1957年に『シンガポール市民権法』が成立し、18歳以上に選挙権が与えられました。投票は義務制です。1959年には初の普通選挙が行われ、この年の総選挙から理由なき棄権には罰金が科されることになりました。義務制は現在も継続しています。(同上)<br /><br />

    1957年に『シンガポール市民権法』が成立し、18歳以上に選挙権が与えられました。投票は義務制です。1959年には初の普通選挙が行われ、この年の総選挙から理由なき棄権には罰金が科されることになりました。義務制は現在も継続しています。(同上)

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