2013/12/14 - 2013/12/14
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魅々さん
12月14日は赤穂浪士が、吉良邸に討ち入った日ですね。
時は元禄15年(1702年)12月14日寅の刻(午前4時頃)、火事装束に身をかためた赤穂浪士47人が本所「吉良邸」に討ち入りました。
そして、本懐を遂げた浪士達は、隊列を整え、降り積もった雪を踏みしめながら、未明の江戸の街を縦断して泉岳寺まで歩き、旧主の墓前に吉良上野介の首を供えました。
その距離は約13kmあり、吉良邸引き揚げが卯の刻(午前6時)頃、泉岳寺到着は辰の刻(午前8時)頃といわれています。
毎年この日には、旅行各社がこの赤穂浪士が歩いた道をたどるツアーを企画しています。
今年、我が家では、父がこのツアーに申し込んでいましたが、このところの急な冷え込みで、腰痛が激しくなり、参加を断念!!!
父に替わって、私が急に参加することになりました。
写真は、途中の案内板にあった歌川国安作「忠臣蔵義士47士騎両国揃退図」です。
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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赤穂浪士が歩いた道、この日歩いた道の概略図です。
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ツアーの集合場所のJR「両国駅」です。
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両国駅のとなりには「両国国技館」がありました。
両国国技館 名所・史跡
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国技館の後ろには「江戸東京博物館」が見えました。
江戸東京博物館 美術館・博物館
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先ずは、「本所松坂町公園」です。(地図の①です)
本所松坂町公園 公園・植物園
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この日訪れた時は、地元の方々で「義士祭」の式典が行われているところでした。
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吉良邸跡の案内板には、
「この公園は吉良上野介義央の上屋敷跡で、その敷地は8,400平方米をしめる広大なものであった。
また、この公園は、昭和9年3月地元町内会の有志が、旧邸跡の一部を購入し史跡公園として東京市に寄付したもの」
と書かれたいました。本所松坂町公園 公園・植物園
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甘酒がふるまわれていました。
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「両国義士祭、吉良祭・元禄市」が、同時に行われ、公園の周りにはたくさんの露店が出て、多くの人々が押し寄せていました。
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ビルの前の「吉良邸正門跡」の案内板が立っていました。
吉良邸正門跡 名所・史跡
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葛飾北斎の「吉良邸討ち入り」の画です。
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案内板は次のように書かれています。
この辺りに吉良邸正門がありました。
元禄15年(1702年)12月14日、寅の刻(午前4時)、正門から大石内蔵助以下23名が用意した梯子で、邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。・・・・
まさに、ここが「赤穂浪士討ち入り」の火ぶたが切って落とされた所です。 -
ビルの前に、「前原伊助宅跡」の説明板がありました。
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説明板には次のように書かれていました。
前原伊助は、赤穂浪士47士の一人です。
最初は江戸急進派として、単独で別行動をとっていました。
初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くに「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。
その後、大石内蔵助と行動をともにしました。・・・・・ -
旧吉良邸は、回向院の門前にありました。(地図の②です)
赤穂浪士は、引き揚げにあたって、回向院を休息のために借りようとしましたが、住職はかかわりあいになるのを恐れて、門番の開門させなかったといわれています。
回向院は、明暦3年(1657年)のいわゆる「振袖火事」といわれる江戸の大火の死者を弔うために建てられたお寺で、その後火事や水死した無縁仏を供養してきました。回向院 寺・神社・教会
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江戸時代、お相撲はこの「回向院」で行われていました。
境内には、お相撲さんをまつる「回向院相撲関係石碑群 (力塚) 」がありました。回向院 寺・神社・教会
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写真中央が明暦大火の死者を弔うために建てられた「石造明暦大火横死者等供養塔」です。
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有名なのが「鼠小僧供養墓」です。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたたないようです。 -
現在は、削り取り用の、別の石が置かれたいます。
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隅田川の近くに「高札 赤穂浪士休息の地」がありました。
回向院での休息を断られた浪士たちが、休息をとった場所です。(地図の③)
案内板には地名が「広小路」と書かれていました。高札 赤穂浪士休息の地 名所・史跡
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ここの案内板に表紙の絵が描かれていました。また
浪士たちは休息の後、この近くの両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して泉岳寺に向かっています。
両国橋は大名たちの登場路になっているため、大名との無益な衝突を避けたためだったと書かれていました。両国橋 名所・史跡
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先の案内板に書かれていた、浪士たちが最初に渡った「一之橋」です。
地図の④です。一之橋 名所・史跡
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「一之橋」を渡る私たちです。
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一之橋を渡り、しばらく行くと芭蕉記念館の手前の隅田川沿いに「御船蔵跡」の高札がありました。
高札には、
このあたりから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。
4,890坪の広大な土地に大小14棟の船蔵が並んでいて、巨大な軍艦「安宅丸(あたけまる)」は船蔵の外に係留されたいました。・・・・
と書かれていました。 -
安宅丸です。
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道沿いに江東区芭蕉記念館(地図の⑤)がありました。
ここで、芭蕉に関する展示を見ました。芭蕉記念館 美術館・博物館
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芭蕉記念館を出発し、萬年橋を渡る前に右に折れ「芭蕉稲荷大明神」を訪れました。
境内のお社に並んで「深川芭蕉庵跡」の石碑がありました。
ここは、大正6年(1917年)9月の台風の高潮の後、「芭蕉遺愛の石の蛙」が出土し、東京都が「芭蕉翁古池の跡」と指定したところです。深川芭蕉庵跡 名所・史跡
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隅田川から、横に伸びる川にかかる「萬年橋」(地図の⑥)を渡りました。
萬年橋は江戸地図には「元番所のはし」として橋の記載があります。
小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていました。
船の航行を妨げないように橋脚を高くし、大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿を愛されたようです。 -
萬年橋の浮世絵です。
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萬年橋の上から見た風景で、先に見るのが隅田川です。
ここから、リバーサイドの遊歩道に降りました。 -
写真は地図の⑦の「清州橋」です。
清洲橋 名所・史跡
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「隅田川大橋」と、IBMのビルが見えてきました。
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振り返ると、清州橋の向こうに、スカイツリーが見えました。
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永代橋が見えてきました。(地図の⑧)
永代橋 名所・史跡
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江戸名所案内にある「永代橋」です。
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永代橋の近くの「ちくまみそ」のビルの前で甘酒がふるまわれていました。
(地図の⑨ -
ここには、「赤穂義士休息の碑」があり、それには
「ちくま味噌の初代作兵衛が、赤穂浪士の大高源吾と俳句の友で、泉岳寺に向かう赤穂浪士一行を、店内に招き、甘酒粥をふるまった」と書かれていました。
休息を断った回向院は男を下げ、甘酒をふるまった「ちくま味噌」の主人は男を上げたと、江戸っ子たちは評したといわれています。
父へのお土産に「元禄浪士 あま酒」を買いました。赤穂義士休息の碑 名所・史跡
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永代橋を渡りました。
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永代橋を渡ると、橋のたもとに「船員教育発祥の地記念碑 」がありました。
我が国の最初の船員教育は、明治初期にこの橋のたもとに係留した船を校舎として行われたようです。船員教育発祥の地記念碑 名所・史跡
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永代橋をわたり、越前堀児童公園でおトイレ休憩でした。
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そして、八丁堀(地図の⑩)に出ました。
写真はJR京葉線の地下の「八丁堀駅」の入口です。 -
やがて、「鉄砲洲稲荷神社」です。(地図の⑪)
鉄砲洲稲荷神社 寺・神社・教会
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背後に、富士塚がありました。
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やがて、「浅野内匠守邸跡」の大きな石碑がありました。
地図の⑫ -
説明板には、ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪が赤穂藩主浅野家との江戸上屋敷であったと書かれています。
この上屋敷の裏門は、泉岳寺の義士墓地の入口の門として残っています。 -
この石碑の背後にあった、聖路加国際病院です。
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すぐに「築地本願寺」(地図の⑬)に着きました。
浄土真宗本願寺派のお寺」です。
現在の建物は、昭和10年にインド様式で建てられました。
ここで、昼食にために、1時間自由時間で、各自昼食です。築地本願寺 寺・神社・教会
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このお寺には、赤穂義士の一人の間真六の「間新六供養塔」のがありました。
彼のお墓は泉岳寺にもありますが、泉岳寺は「モニュメント」で、本当のお墓はこちらとのことでした。間新六供養塔 名所・史跡
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各自昼食をとり、集合したところで、ガイドさんから、切腹の作法の説明がありました。
赤穂浪士は、討ち入りの後、10名づつくらいで、各大名にお預けとなり、切腹しました。
切腹は1人6分くらいで行われたようです。
その時、写真のように脇差を取ろうと腕を伸ばし、前かがみになったところで、首をはねられたようで、本当に「切腹」する時間はなかったとのことでした。
こうして、1時間で10人の切腹が済んだとでした。 -
築地本願寺を出発して「新橋演舞場」の前を通りました。
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次に、読売新聞の前を通りました。
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そして、広い綺麗な「昭和通り」に出ました。(地図の⑭)
昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路です。
当時東京市市長だった後藤新平氏は道幅を108メートルにしようとしましたが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成しました。 -
ここから、ビジネス街を通りました。
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レトロな建物がありました。
旧新橋停車場を再現した鉄道歴史展示室でした。旧新橋停車場 美術館・博物館
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汐留の再開発地域に入りました。
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ビルの谷間に、日本テレビと仙台市が作った「仙台藩上屋敷跡」の案内板がありました。(地図の⑮)
仙台藩上屋敷跡 名所・史跡
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案内板には
ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷の表門の遺構が発見された場所である、と説明されていました。
そして、赤穂浪士はここで、粥のもてなしを受けたと書かれていました。 -
ビルの谷間に「日比谷神社」がありました。
日比谷神社 寺・神社・教会
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道路は、昭和通りを過ぎて、国道15号線(第一京浜)になり、浜松町のあたりに来ました。
国道の右の奥に「芝大門」と呼ばれる「増上寺大門」が見えました。
その後ろに「東京タワー」も見えました。増上寺 寺・神社・教会
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15号線を南下していきます。
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田町の国道15号線から、国道1号線への入口となる地図の⑰の交差点「札の辻」です。
歩道橋には、箱根駅伝の交通規制の垂れ幕がつられていいました。 -
三田に入ってきました。
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ビル一面に「御田八幡神社」(みたはちまんじんじゃ)の看板が出ていました。(地図の⑱)
この建物の横の道の奥に社殿がありました。
この神社は、高田郡兵衛が討ち入り後の浪士に酒樽を出した神社といわれています。 -
やがて、道路の横に石垣がある盛り土がありました。地図の⑲
高輪大木戸跡です。高輪大木戸跡 名所・史跡
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案内板には、江戸の南に入口として、道幅約6間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。と書かれていました。
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道路から、品川の再開発地域が見えてきました。
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そして、午後4時、ゴールの泉岳寺(地図の⑳)の到着しました。
写真の奥に見えるのは「泉岳寺中門 」です。
こちらも「吉良邸」と同じく、義士祭が行われ、多くの人でにぎわっていました。
泉岳寺は1612(慶長17)年、徳川家康が、今川義元を弔うために建てたお寺です。泉岳寺 寺・神社・教会
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「泉岳寺中門」です。
泉岳寺 寺・神社・教会
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「泉岳寺山門」です。もうもうとお線香の煙が立ち込めていました。
泉岳寺 寺・神社・教会
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本堂前の参道には露店が並んでいました。
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本堂にお参りする人の列です。
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赤穂義士のお墓をお参りする人が列を作っていました。
2時間待ちとのことでした。
ここで、本日のツアーは解散になりました。
私は、この列には並ばずに家路に向かいました。
朝10時に、両国駅に集合してスタートして、午後4時に泉岳寺に着きました。
赤穂浪士のみなさんは、吉良邸での激闘の後、二時間で泉岳寺に着いたことになっています。私たちが1日かけて歩いた道を2時間で歩いたのですから、私たちの想像を絶する体力を持っていたのですね。
本当!昔の人は凄かったです。
私も思いがけず、楽しい経験をすることが出来ました。
父の腰痛に感謝です(笑)。
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